ありんこ裁判
登校中、足元から小さな声が聞こえた。
「……の……はや……に…………さい」
少年はしゃがみ込んで耳を澄ました。
「学校の裏の林に来て下さい」
そこには一匹のアリがいた。そのアリが言うには、「私はアリのベンゴと申します。授業が終わったら学校の裏の林に来て下さい」とのこと。
「林は危ないから入ってはいけないことになっているんだ。この間もあそこで木登りをして怒られたばかりなんだよ。先生に見つかったら大変だ」
そう答えると、ベンゴ君は腕組みをして何度も頷いた。
「大丈夫。安心して下さい。アリンコ裁判所は大人には決して見つかりません」
アリンコサイバンショ?
キンコンカンコン。スピーカーから流れる大きな音。授業の終わり。少年は急いで裏の林に向かった。
林の中は昼間だというのに薄暗く、その上、地面に落ち葉が積もっていて歩き辛い。少年は慎重に前に進んだ。
しばらく行くと、背の高い草に囲まれた、小さな広場に辿り着いた。約束の場所だ。そこには沢山のアリがいて、ガヤガヤと賑やかだった。
「よくぞ来てくれました」
人ごみ、ではなく、アリごみの中からベンゴ君が一歩前に出て、胸に手を当てながら一礼した。彼は顔を上げると、すぐ傍の椅子を示した。
「まあ、そこに腰を掛けて下さい」
その椅子は豆粒のように小さく、座れそうにない。
「おっと、腰を掛ける前に、これを掛けて下さい。これは虫メガネメガネです」
「虫メガネ?」
「いいえ。虫メガネメガネです。これを掛ければ、何でも大きく見えますよ」
言われた通りに分厚いレンズのメガネを掛けると、小さかったはずの椅子が突然大きくなった。これなら座れそうだ。
少年は早速椅子に腰を掛け、辺りを見回した。ベンゴ君の言うように何もかもが大きくなっていて、取り囲むアリ達の背丈は、アリとは思えない程、大きい。だいたい人間の大人くらいはある。しかも、姿が大きくなったら声まで大きくなったみたいで、ガヤガヤ、ドヤドヤ、うるさい。
「お静かに」
一匹のアリがみんなを叱りつけた。そのアリだけは台の上に座っていて、いかにも偉そうだ。叱られたアリ達は一斉に口を閉じた。
辺りが静かになると、偉そうなアリは小槌を叩いて音を鳴らした。トントン。そして咳払い。
「オホンッ。では、人間、前へ」
少年は自分が呼ばれたのだろうとは思ったが、自分が呼ばれたのではないかも知れないとも思い、何もしないで、じっとした。
するとベンゴ君が、「裁判長の前に行って下さい」と言って、少年の背中を突いた。仕方がないので、少年は裁判長と呼ばれる偉そうなアリの前に向かった。
「オホンッ。ただいまよりアリンコ裁判を始めます。まずはケンジ君、事件の説明をお願いします」
裁判長に促され、少年の右側に立つケンジ君というアリが話を始めた。
「在りし日の有明、少年はアリの木から飛び降り、アリのアントニオ君を尻で潰したのであります。アリのアントニオ君は怪我をして、アリ病院に有り金をはたいて入院中であります。これは、あり得ない犯行であり、アリである私は少年に罪が『有り』と考えるのであります」
拍手が起こった。でも、裁判長が咳払いをすると、再び辺りは静かになった。
「オホンッ。人間の少年。ケンジ君の説明に間違いはありませんか?」
「覚えていません」
ケンジ君が目を細めて少年のことを指差す。
「では、アリバイはありますか? ありませんね? あり得るはずがありません。多くのアリがありありと在りし日のことを見ていたのでありますから」
ケンジ君は、『アリ』という言葉をとても強く発音する。少年は、そればかりが気になって話の内容が全然頭に入らなかった。
ぼんやりとしていると、再びベンゴ君が少年の背中を突いた。
「ケンジ君は、アリらしいアリ派のアリで『アリ』ばかり言うアリなのです。その為、何を言っているのか分かり難くないですか? しかし大丈夫。お任せ下さい。ここは一先ず、木から落ちたことだけは認めましょう。良いですね?」
少年からしてみれば、ベンゴ君の言うことも分からなかった。でも、彼が自信に満ちた様子なので、引き続き言われた通りにすることにした。
「この間、確かに僕は木から落ちて尻もちをつきました。でも、そこにアリがいたかどうかは知らないです」
それを聞いたケンジ君が反論をする。
「それはあり得ません。在りし日、アリの木ではアリ集会があり、アリ達の姿があり余る程ありました。知らない? その発言は嘘であります」
「裁判長」
そう言って、ベンゴ君がしなやかに右手をあげた。
「裁判長、少年が嘘をついたという証拠はどこにありますでしょうか。ケンジ君はアリ感情に流されているとしか思えません」
「異議あり! 私が感情的でありますか? そんなことはありません。私は怪我をしたアリありという事実ありと言っているだけであります」
「アントニオ君が怪我をしたのは事実でしょう。しかし、これは犯行ではなく、事故です。少年は悪くありません」
「罪が無いと言い切るのでありますか? 君の方こそ人間側の感情に流されているのではありませんか? よろしい。そういうことでありましたら、こちらにも考えがあります」
そこまで言うと、ケンジ君は手をあげて裁判長にお願いをした。
「証アリを呼んでも宜しいでありますか?」
裁判長が頷く。ケンジ君は指を鳴らし、数匹のアリに指示を出した。しばらくすると、証人、ではなく、証アリがケンジ君の後ろから現れ、簡単な自己紹介を始めた。そのアリは、アントニオ君と交際中のアリで、アンリという名前とのこと。
「あれは、アリ集会の直後、アントニオとアリの木の下で話をしていた時のことです。私は集会に参加していなかったので、彼からどのような話し合いがあったか教えて貰っていました。『食べ物が足りない』彼はそう言いました。加えて、『誰かが遠くまでエサを探しに行かなければいけないんだ』と、思い詰めた面持ちで呟きました。私は、まさか、と思いました。案の定、彼の口から出た次の言葉は『俺が行くことにした』というものでした。私が俯くと、彼はこう言ったのです。『食べ物を探し終えて帰ってきたら、俺と一緒にならないか』と。その時、突然空が暗くなりました。見上げると、そこには少年の尻がありました。私は思わず目を閉じました。『危ない!』アントニオの大きな声が聞こえたのを覚えています」
アンリさんはそこで言葉を詰まらせた。今にも泣き出しそうな表情だった。それでも、彼女は話を続けた。
「目を開けると、そこには大怪我をしたアントニオの姿がありました。彼は私の方に両腕を伸ばした姿勢で倒れていました。私は無傷でした。彼は私を守る為に柔らかな土の上に私を突き飛ばしたのだと、察しました。なぜこんなことに、そう思いながら上を見ると、そこには尻をはたく少年の姿があったのです」
そこまで聞くと、ケンジ君は目頭を押さえながら質問を始めた。
「少年は何か言ったでありますか?」
「少年は私達を見下ろし、『あーあ』と、吐き捨てるように言いました」
「その時、どう思ったでありますか?」
「少年を許すことは出来ないと思いました」
「ありがとうございます」
アンリさんはケンジ君に手を取られ、後ろの席に戻った。
「これでも少年に罪が無いとお思いでありますか? 否、罪は『有り』であります」
そう言われても、少年は本当にアリを潰した覚えはなかった。そんな気持ちを汲み取ったのか、ベンゴ君がみんなに向かって大きな声を出した。
「皆さん、先程も言ったように今回のことは事故です。もちろんアントニオ君並びにアンリさん、そして私達アリ全てにとって悲しい出来事でした。しかし、それとこれとは話が別です。少年は木から落ちただけで、アリに怪我を負わせたつもりはないのです」
「アンリさんの話にありました通り、少年はアントニオ君を見て『あーあ』と零したでありますが?」
ケンジ君がベンゴ君に意地悪そうに尋ねた。それに対し、ベンゴ君は笑顔で答えた。
「では、少年本人に聞いてみましょう」
ベンゴ君は少年の目の前を行ったり来たりしながら、ゆっくりと質問を始めた。
「君は怪我をしたアリを見ましたか?」
「いいえ、見ていません」
「『あーあ』と言いましたか?」
「良く覚えていません。ただ、尻から落ちたので、失敗した、とは思いました」
「落ちたことに対して、『あーあ』と言った可能性があるということですね?」
その時、ケンジ君が勢い良く手をあげた。
「裁判長。犯人は言い逃れをするに決まっているであります」
それを聞いてベンゴ君は頷いた。
「なるほど、一理ある。しかし私は、少年の話だけで罪が無いと決め付けている訳ではないです。ケンジ君、あなたはアリ集会に参加しましたか?」
「君もアリ集会の場にいたではありませんか」
「そうです。一緒に参加していました。あの時、どんな話がありましたか?」
「食べ物がありませんという話であります」
「その通り。私達は食べ物がなくて困っていました。それを救ってくれたのが少年です。少年はあの日、私達にクッキーや飴玉などを沢山与えてくれました。お陰で私達の生活は潤いました。困っているアリを助ける、そんな優しい彼がアリにわざと怪我を負わせますでしょうか?」
「あの、それは……」
少年が口を挟もうとすると、ベンゴ君は少年の顔の前に手を広げた。
「私達に対して優しさを持っている彼が、私達を傷付ける訳がないです。今回のことは事故に決まっています」
「異議あり! それとアリ潰し事件とは関係ありません」
そう反論したのは、もちろんケンジ君。
「やれやれベンゴ君。お菓子ありがとうの件とアリ潰しの件は別件であります。第一、あのお菓子は罪滅ぼしの為のものだったのではありませんか? それを考えると、少年は犯行の自覚ありと言えるではありませんか」
「いえ、それは……」
再び口を挟もうとしたが、今度はケンジ君の視線に言葉を遮られてしまった。
「ベンゴ君、どうでありますか?」
「分かりました。では、あれが事故であるということを証明する為、あの日の再現をしてみましょう。裁判長、よろしいですか?」
裁判長は頷いた。ベンゴ君はこうなることを予想していたらしく、手際よく準備を進め、あっという間にあの日と同じ舞台を作り上げた。
「これは、アリの木の一六〇分の一の模型です。早速、登って貰いましょう」
少年は目の前に置かれたコブだらけの木を見上げ、唾を飲み込んだ。そして、目の高さの位置にある窪みに手を掛けた。指先から伝わってくる感触は、まるで本物のあの時の木のようだ。
ベンゴ君が少年に話し掛けた。
「君はなぜ木に登ろうとしたのですか?」
「花が上の方に咲いていたので、もっと近くで見ようと思ったんです」
「花とは、あの花ですね?」
ベンゴ君は模型の木に添えられた小さな赤い花を手で示した。
「そうです。本物と全く同じです」
「では、あの日と全く同じ気持ちで、全く同じ位置まで登って下さい」
少年は断りたいと思った。でも、その場にいるアリ達がじっと見ているので、仕方なく黙々と登り続けた。
やがて鼻先に赤い花が触れる程の位置に辿り着き、少年は動きを止めた。あの日はこの辺りまで登ったはずだ。
「そこまで登ったのですね?」
ベンゴ君が言った。
「はい」
少年は短く返事をした。
「では、そこから落ちて下さい」
「え?」
「その位置から、尻もちをついて下さい」
「嫌です」
「再現をする為です。早く落ちて下さい」
「嫌だ。そんなことをしたら痛い」
「君の為です。我慢しましょう」
「そんな、無茶苦茶だ」
ベンゴ君と少年とのやり取りを見て、その場にいるアリ達が笑った。中でもケンジ君の笑い声は一際大きかった。
「ハッハッハッ、再現どころではありませんな」
ベンゴ君は何も言い返さない。ケンジ君は益々嫌味を言う。
「ご覧なさい。このように人間は有り体に言えば自分勝手であります。これで分かったでありましょう、少年に罪が『有り』でありますことが」
「いいえ、少年に罪は有りません」
ベンゴ君は、腕組みをしながらハッキリとした口調で言った。
「皆さん、見て分かる通り、木の上からわざと落ちるなどということは出来ないのです。つまり、全ては事故だったのです」
辺りはしんと静まり返った。
「あの、もう降りても良いですか?」
ベンゴ君とケンジ君は黙ったまま睨み合っている。
他のアリ達もその二匹の様子を、息を殺して窺っている。
「ベンゴ君」
初めに口を開いたのはケンジ君だった。
「仮に少年は木から落ちただけでありましても、先程も言ったでありますが、在りし日、アリの木にはあり余る程のアリの姿があり、木から落ちればどういう事態があり得るか想像できたのではありませんか? しかし少年は木に登ったのであります。また、怪我をしたアリありという事実がありましたのに、少年は何もしなかったのであります。これは十分に罪が『有り』と言えるのではありませんか?」
「少年が、『アリがそこにいたかどうか知らない』と言ったのをお忘れですか?」
「それは、ありもしない嘘であります。アリの姿はありありとありました。気付かない訳がありません」
ベンゴ君は溜め息をついた。
「仕方ない。では皆さん、このアリの木の模型にもっと近付いて下さい」
ケンジ君とその部下、アンリさん、裁判長が、一箇所に集まった。
「一体、何をするのでありますか?」
ケンジ君の言葉を無視し、ベンゴ君はただ木の模型の根元を指差した。
「な、なんだってぇ!」
「こ、これは!」
「い、いつの間に!」
その場にいるアリ達が一斉に驚きの声をあげた。ベンゴ君の示した所には、とても小さなアリの模型が幾つも置いてあったのだ。
「これは、一六〇分の一のアリの模型です。木の模型を準備した時に一緒に置いておきました。良く見ると分かる通り、幹にも地面にも設置してあります。しかし、こんなに近くにいながら誰もその存在には気が付きませんでした」
「それは、少年に注意がいっていたからであります」
「それを言うなら、少年は当時、花に見入っていました。同じことです。もうお分かりでしょう? あれは事故だったのです」
誰も反論してこないことを確認し、ベンゴ君は言った。
「裁判長。判決を」
長い沈黙の後、ケンジ君が悔しそうにベンゴ君に話し掛けた。
「君は、怪我アリありでも、罪が『無し』と言い張るのでありますか」
「『有り』か『無し』かで言えば、『無し』と言うしかないです」
「な、ならば、『有り』か『有り』で言えば、どうだと言うのでありますか」
「『有り』『有り』ならば、『有り』に決まっているではないですか。『有り』しか選択肢はないのですから。苦し紛れにも程がある。『無し』『無し』で言えば、ケンジ君、あなただって、『無し』を選ぶでしょう?」
「ならば、『有り』か『無し』か、それとも『アリ』で言ったら、君は何を選ぶのでありますか!」
何が何だか分からない。きっとベンゴ君は鼻で笑ってやり過ごすだろう。そう思いながらベンゴ君の横顔を見ると、意外にも、彼は顎に手を当てて唸っていた。
「うーん。『有り』『無し』『アリ』で言えば、『アリ』です。私達はアリだから……」
「その通り!」
ケンジ君が叫んだ。
「『ここにアリあり』であります!」
アリの間でのことわざか何からしく、裁判長まで同じ言葉を呟いた。
「ここにアリあり」
周りにいるアリ達も同じことを言い始めた。
「ここにアリあり」
「ゆえにアリあり」
「ここにアリあり」
「ゆえにアリあり」
あっと言う間に大合唱。ケンジ君が指揮者を気取り、両手をブンブンと振り回す。
「ちょっと待って下さい」
少年は言った。みんなが少年に注目する。
「皆さんがアリだということは最初から分かっていたことではないですか。僕は人間で、皆さんと考え方もルールも違います。ただ、僕のしたことで誰かが悲しい思いをしたのならば悲しいと思いますし、嬉しい思いをしたのならば嬉しいとは思います。でも、僕自身はあなた達に何かをした覚えはありません。怪我をさせたつもりもないですし、実は、お菓子を与えたつもりもありません。あれは木から落ちた時に落としてしまっただけなんです。アリと人間は別々に生きています。たまたま関わりがあった時に起こったことは、ついているかついていないかという話ではないですか。それをどちらかのルールで良いか悪いかを決めるなんてことは、出来ないと思うんです」
少年が話を終えると、誰かが叫んだ。
「裁判長。少年はアリンコ裁判を馬鹿にしているであります!」
「裁判長。今すぐ判決をするであります!」
「裁判長。罰を与えるであります!」
アリアリ。アリアリ。みんなの声を聞いて裁判長は咳払いをした。
「オホンッ。判決。アリ地獄の刑に処す」
歓声が起きた。同時に少年は数匹のアリに取り押さえられ、後ろを向かされた。
見ると、アリの群れの中心が割れ、一本の道が出来ていた。その道の向こう側は砂地で、そこにはすり鉢状の大きな穴があった。
「突き落とすであります!」
それは、ベンゴ君の声だった。
アリ達に押され、穴が近付いてくる。足元の砂がサラサラと崩れていく。
もう駄目だ、そう思った時、少年の顔からメガネが落ちた。
気が付くと、少年は林の中に倒れていた。少年は立ち上がり、体についた砂を払った。ふと小さなアリ達の姿が見えた。アリ達は逃げるように遠ざかり、やがて暗闇の中に姿を消した。