同性が好きになれない、同性しか好きになれない
私は、女が嫌いだ。そう言うと人は言う。「君も女の子じゃないか」
では、人は自分と同じものを、もっと言うならば自分自身を、好きでいなければいけないのか。ならば、なぜ争いが起こるのか。人が戦う相手は自分と同じ「人」ではないか。同じ「生物」ではないか。
女のどこが嫌いかと言われるといくつも答えが出る。しかし、それは肉体的特徴ではない。よって、全ての女が総じて持つ特徴ではない。
しかし、少なくとも私が今まで出会った女の大半はその特徴を持っていた。
例えば、自虐風自慢だ。「私、太ってるから」と言う女に効果的なダイエット方法を教えた場合、その女は機嫌を損ねる。なぜなら、彼女が求めているのは「そんなことないよ。細いよ」と言う否定と賛美の言葉なのだ。
もしくは、女同士の褒め合いだ。もし一人の女が相手の女に「可愛い」と言った場合、相手の女の答えの大半は「ありがとう」ではない。「そんなことないよ。あなたの方が可愛いよ」が彼女達にとっての正解なのだ。そして、これは長々と続く。
脳の仕組みや心理学などは、私には分からない。ただ、私はこれまでの経験の範囲で女が嫌いであるという結論を出した。
しかし、ここで問題が発生する。人生において、極端に異性の多い職場や学校に行かない限り、異性との付き合いより同性との付き合いが多いのだ。そして、女と触れ合う機会が増え、また女嫌いが酷くなるのだ。
ここで一つだけ言っておきたいのだが、私は女性アレルギーではない。全ての女が嫌いなわけでもない。ただ、女の特徴としてありがちな部分を嫌うので、女の大半が嫌いなだけだ。よって、私の友人には古くからの者を含めても圧倒的に女が多い。
しかし、私のこの考えは理解されない。女にとって、自分を嫌う可能性の高い私は、敵でしかないのだ。だから女は「女嫌い=男好き」という烙印を私に押す。そして、私が男とも気まずくなり、うまくいかないように画策するのだ。そして、それはしばしば成功し、しばしば失敗する。しかし、その度に確実に私の女嫌いは酷くなるのだ。
そうやって年をとった私にとって、今更自分の考え方を変えるのはとても難しい。
と、私は目の前の女に長々とした持論を述べた。女は、ぽかんとした顔をしながら、それでも私が期待した不快な表情は見せなかった。
「つまり…私があなたの嫌う女の特徴を持っていなければ良いのね?」
女はにっこりと笑いながら私の目を見つめた。
私は、こういう女が一番嫌いだ。私が女嫌いだと知っても、「でも、私は大丈夫でしょう?」という根拠のない自信を持っている。
「そうですね」
私は視線で語ることにした。口角を引き上げるものの、目は笑わない。これで、少しは彼女も分かるだろう。彼女の意見を私は受け入れるつもりなどない、と。
だが、彼女は変わらず笑う。
「だって、私があなたに向ける好意は他の女とは違うもの」
そうだ。彼女が私に向ける情は友愛ではなく「恋慕」。
「あなたを愛してる。他の女がどんなに敵意を向けようと、その比にならない愛をあなたに捧ぐわ」
微笑んだまま、彼女はその目を真剣なものへと変えた。ぞっとすると同時になぜか心だけが引き寄せられた。
私はきっと、あなたに落とされた。