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別府造船シリーズ スピンオフ作品集

走れ!別府鉄道

作者: 三田弾正

となりの山田様の『進め!別府造船所(仮) 』の二次小説です。

三田弾正の頭の中の怪物が書いてしまいました。


許可を快くしてくださった。となりの山田様ありがとうございます。

大正二年四月一日(1912)


国東半島の南端で別府湾を望む大分懸おおいたけん速見郡はやみぐん大神村おおがむら鐵道省てつどうしょう豊州本線ほうしゅうほんせん日出駅ひじえきを起点とし、港のある下深江に至る5.4kmの別府鉄道べっぷてつどうが開通した。


大神駅には老若男女が集まり旗を振りながら、鐵道省から払い下げられた220型蒸気機関車、愛称駒月あいしょう こまづき(1891年、英ダブス社製2-4-2 (1B1) 形タンク機、元関西鉄道もと かんさいてつどう 形式57・駒月こまづき57, 58 鐵道院220形)が同じく鐵道省から払い下げられた、元九州鐵道もと きゅうしゅうてつどうの二軸客車を連結して蒸気を上げている。


午前7時丁度に、眞行寺村長と大神鉄道社長に就任した来島雷蔵氏のテープカットにより、汽笛一声後、日出駅へ向け第一番列車が発車した。三両編成の客車には村の人々が鈴なりに乗り込んでいる。皆おらが村の新しい鐵道の開通を喜んでいる。


ホームの端では別府鐵道を引く原因を作った別府造船所社長子息来島義男が駒月がモクモクと黒煙と火の粉を煙突から吐き出しながら走っていくのを見て「やっぱ電化しないと駄目か」と独り言を呟いていたのであるが、村人の歓声と機関車の汽笛で掻き消されて誰にも聞こえなかった。





元々、明治四十四年(1911) 豊州本線が敷設された際、鐵道省の計画で大神村には鐵道線路を通すのにも係わらず駅の設置が計画されいなかった為、村としても鐵道省に何度も陳情を行い、地元大分出身の代議士にも伝手を頼ったのであるが梨の礫であった。


その為大神村は折角村内に鐵道路線が有るのに駅が無いという状態であり、大神の人々は南西へ3kmも離れた日出駅へ一時間近く掛け歩って行くしか手が無かった。


そんな折、降って湧いたかのように鐵道省豊州本線日出駅から別府造船所の有る下深江まで地元企業である別府造船所の資材運搬用専用線として鐵道が計画されている事が、別府造船所社長来島雷蔵の口から漏れたのは、社長の息子来島義男が進めていた5000噸級船渠新設の為の、土地取得などへの協力を求めて村長や村の有力者と頻繁に会合と言う宴会を行っていた最中であった。


「社長、5000噸級船渠とは、又凄い物を拵えるんじゃな」

「いやいや、息子が此からは必要だと言ってな」

「それにしても、此で益々村の発展に期待出来そうやな」


「それにしても、資材搬入はどうするんや?」

村長に話を振られた雷蔵氏が口を滑らした。

「心配ないだ。日出から専用線を引く予定だから」


その言葉を聞いた参加者の多くが口々に言い始める。

「雷蔵さん、それに客を乗せる訳には行かないだか?」

「そやそや、日出からなら、大神を通れるべ」


終いには村長や助役が頼んでくる始末。

「雷蔵さん、村の為に是非鐵道を大神に引いてくれないか?」

雷蔵としても村長や村の協力無くしては船渠の計画が頓挫しかねないので、『息子の義男に相談する』とその場は御茶を濁した。


その夜、その事の相談を受けた義男は最初『乗客数が足りないから赤字になるだけだから無理だ』と言っていたのであるが、宴会の翌日には村中に鐵道の建設の話が知れ渡り、大神村鐵道推進の筵旗まで沿道に掲げられる始末で、このまま突っぱねても船渠建設に悪影響が起きるとの重役会議での決定で資材運搬を目的とした専用鐵道から一般旅客も扱う地方鐵道へと計画が変更され、鐵道省に対して免許の変更を申請した。


こうして、専用線計画は、一般の乗客も乗せる事に変更され、それに因って計画の一部変更が行われ、当初は日出駅を出た後、金井田川をスパン80mの鐵橋で渡った後、そのまま川崎、平原、新貝、上深江を経て下深江へ至る全長4.5kmの建設予定が、川崎、大峰、大神、堤、上深江を経て下深江へ至る5.56kmに変更された。


専用線から一般営業線に変更になった為、駅も作られる事となり、日出駅ひじ えき豊後川崎駅ぶんごかわさき えき大峰駅おおみね えき大神駅おおが えき堤駅つつみ えき上深江駅かみふかえ えき下深江駅しもふかえ えき造船所前ぞうせんじょまえの八駅が儲けられる事となり。駅建設用地については鐵道建設を喜ぶ、地元の地主達から無償で寄付され、建設費の圧縮に功績した。


鐵道の建設地形はなだらかなのであるが、唯一大神から堤へ向かう地点に勾配があり勾配を避けるとしたら実に1.5km程の迂回となる為、当鐵道唯一である200mの大神隧道おおが ずいどうを建設したが、この建設費は村と地元の地主達が折半した。


こうして、明治四十五年四月(1912)に起工式を行い早速建設に入った。当鐵道の建設用地の殆どは地元地主が無償或いは安価で売却してくれた為に、一番金が掛かったのが自社造船所で見よう見まねで製作した為に、失敗の連続をした金井田川橋梁で有った事は笑えぬ事実であるが、村中の協力により一年後の大正二年四月(1913)に開通の運びとなった。


別府鐵道は省線日出駅の南側に駅舎と共に二線式島式ホームを配置し、省線との間に貨物ホームと連絡線を設置し貨物の行き来を行えるようにしてある。豊後川崎、大峰、堤、上深江は交換施設のないホーム一面の駅である。村の中心に設けられた大神駅は二面四線の旅客ホームに貨物ホームや車輌の留置線が儲けられていた。最大の施設は造船所横に作られた下深江で旅客ホームは島式のホームであるが、その横にはヤードが作られたうえ車輌のメンテナンスを行う車輌工場も設けられていた。


鐵道が出来た事で、別府造船所への資材運搬は今まで以上に容易になり、船渠建設の準備にも大いに役に立ち、鐵道完成の五ヶ月後の大正二年八月(1913)工事を始め、非常に速いスピードで船渠の建設が進み、十一ヶ月後の大正三年六月(1914)第一次世界大戦前夜に完成した。


完成時には大分県下で随一の造船船渠として有名となり、県内外から見学者が溢れる程であった。又別府温泉に来た観光客も物珍しさから見学に来て、別府鐵道と大神村へ恩恵を与えたのである。


一時期は無用の長物ではと噂された5000噸船渠は完成の年に勃発した第一次世界大戦における船舶需要の高騰に因り休む間もなく安土丸型貨物船を中心に数十隻を建造し、義男氏の先見の明が実証された。


別府鐵道は大正十四年四月(1925)に、別府造船発電所の余剰電気を持って直流1500Vで電化された。やはり明治以来の旧式蒸気のメンテナンス上の問題や、地元の特産品である蜜柑の運搬等で貨物量も増えてきた事、煤煙、火の粉などの問題から、当初は新型蒸気の購入という話になりかけたが、当時別府鐵道社長となっていた来島義男氏の鶴の一声で電化が決まった。


更に大神駅より分岐し大神村真那井を経て国東半島の内陸を進み、杵築町の対岸の東村三川まで10.1kmの真那井線まない せんの建設も決定し二年後の昭和二年九月(1927)に開通し、地元の名産蜜柑の運び出しなどで大いに賑わう事になった。


電化に際して、この当時アメリカ企業ボールドウィン社製のA形台車の模倣が日本全国で行われていた為、別府造船所傘下の神戸製鋼所でもボールドウィンA形台車二十台ほどが模倣製作された。その後この台車は、KB-10型(神戸・別府10型台車)として一般にも販売され、他の会社の品より安価であった為に各地の中小私鐵に採用される事になった。


車輌の基本的なアウトラインは社長来島義男氏が行い、技術主任の宮部俊之氏が細評設計を担当し、当時として非常に斬新な正面大型二枚窓でノーシル、ノーヘッダー、張り上げ屋根の半流線型片開き二枚扉式全溶接車体を自社造船所で製作した。流石に主電動機は自社で開発は不可能で、三菱電気で開発されたばかりのMB-146-A 主電動機出力 93.3kW (125HP)を購入したが、その他艤装品は船舶用のストック品を流用するという、造船所ならではの方法で製作された。


この電車はデハ100型と命名され六両が作成された。試験走行では最高速度は85km/hを発揮し、日出~大神間を僅か三分で走破してしまい、村人から韋駄天の愛称を付けられる事に成ったが、別府鐵道では過分な性能であったが、如何せん初めて製作した電車という事で気合が籠もった作品になっていた。  


同時にメインの貨物輸送用に電気機関車ED10型も自社工場で四両が製作された。この車輌もデハ100型とよく似た正面二枚窓のスタイルで、当時の電気機関車の様な前面に乗降扉がありデッキで乗り降りする姿ではなく、側面に乗降扉を配置するという斬新なスタイルで完成当時はデハ100型と共に一世を風靡する事に成った。


此により、デハ100型のスタイルが、当時の日本に大流行する事となり、各鐵道会社が類似の車輌を増備する事となった。デハ100型の成功により別府造船所は、鐵道車両部門に参入する事になり、造船不況期にもかかわらずコンスタントな経営が行われ、昭和二年(1927)開業した小田原急行鐵道などにデハ100型の発展型を供給する事になった。


因みに昭和十一年(1936)に鐵道省が製作したモハ52000型は、デハ100型とよく似たスタイルで完成した事は有名な話であるが、鐵道省はあくまで自己研究の結果だと言い張った事は古い鐵道ファンの間では語りぐさとなっている。


別府造船所がその後も興生を極め、戦前の日本最大級の豪華客船阿蘇丸を建造するまでになる。別府鐵道は造船所への資材運搬、工員輸送、特産品の出荷、大神村民の足として“府電ふでん”の愛称で親しまれる事になる。



デハ100型 史実の80湘南型の16m型ショーティー車、二枚扉の近郊型車体。諸元は車体長 16,240 mm 車体幅 2,615 mm 車体高 3,710 mm HB式抵抗制御 塗装は斬新な緑と蜜柑色のツートンカラーで湘南電車そっくり。


ED10型  出力や台車は違うが、外見は定山渓鉄道ED500形電気機関車にそっくり。


ナマズと言われたモハ52型が湘南タイプで爆誕w


大神線

日出駅→830m豊後川崎駅→1050m大峰駅→1330m大神駅→770m堤駅→580m上深江駅→670m下深江駅→330m造船所前


真那井線

大神駅→1200m秋貞駅→1100m真那井駅→1450m豊後八代駅→1150m年田駅→1000m豊後熊野駅→1300m尾本駅→1900m片野駅→1000m三川駅

実際に出来たら、過剰投資も甚だしいんですけどね。

デモンストレーション路線としては最適かも。




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― 新着の感想 ―
[一言] 大分「懸」→大分「縣」 旧字体は似てる字が多いので、仕方ない。
[良い点] 車体名やらマニアックでとてもいいですね! 現代風車体をWW2前から運用というのがこれまたチートらしくてとてもいいですね 楽しく読ませてもらいました。
[一言]  戦前の早い段階で湘南電車となれば、日本の電車製造技術は飛躍的にアップするでしょうね。  なにせ、戦前段階ですでに現代の電車線の基礎が確立されていましたから。  ちなみに電車技術の発展は…
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