3.最後の言葉
3.最後の言葉
ひとみは入院中、無菌室に隔離されていた。純は毎日のようにひとみを見舞った。病気が治ることを信じて。しかし、ひとみは自分の命がそう長くはないことを感じ取っていた。
「私、純君のお嫁さんになりたかったなあ…」
「何を言うんだ?病気が治ったらすぐに式を挙げよう。なんなら、先に籍を入れよう」
「ダメよ!ダメ。それは絶対にダメ。ねっ、ちゃんと直すから」
そうよ!諦めてはダメよね。私が諦めてしまったら、純くんに申し訳ない。今は彼の気持ちを受け止めて彼と同じ時間を精一杯生きていこう。たとえ、病気が治らなくてもそうすることで彼も救われるのではないだろうか…。
身寄りのない彼女には勤務している学校の校長の中谷が何かにつけ面倒を見てくれていた。純も何度か病室で行き合ったことがある。純が婚約者だということも中谷は承知していた。しかし、ひとみの容体が悪化し、意識がなくなると、彼は純をひとみの病室に近づけようとしなかった。
純はひとみの最期を看取ることが出来ないまま、最愛の婚約者を失ってしまった。
中谷は事務的な手続きを行い、知り合いの寺でひとみの亡骸を葬ってもらった。葬儀は行われなかった。喪主が居ないのだから仕方がないことなのだが。
純は婚約者の自分が葬儀を行うと言ったが、中谷はそれを許さなかった。その時、中谷が執拗に純を遠ざけようとしていたことに、純は不信感を抱いた。
純が理由を聞いても中谷は一切取り合わなかった。そうこうしているうちに、あっという間に時間だけが過ぎて行った。
春になり、純は中谷に呼び出された。
「すまなかったね。君には辛い思いをさせてしまった」
実は中谷は今年度定年を迎えていて、教育の現場から退くのだという。その前にやり残した仕事を片付けたいのだと純に告げた。
「もう、気にしていませんから」
「吉井君のことは忘れられたのかね?」
「はい」
純はきっぱりと言ったが、明らかにそうではないのだということが中谷には感じられた。
中谷は上着の内ポケットから白い封筒を取り出すと、それを純に渡した。
「彼女の最期の言葉だよ」
純は封筒を開け中の手紙を広げた。そこには確かにひとみの手で書かれた文字が綴られていた。
『純君ありがとう。私は幸せでした。けれど、私が死んでしまったら純くんは私のことは忘れて幸せになって下さい。』
純は読み終えるなり手紙を握りつぶした。
「嘘だ!ひとみがこんなことを言うはずがない」
純は中谷を睨みつけた。
「ひとみに何をした?お前、ひとみに何をしたんだ」
ひとみの病状が悪化してから、中谷は急に純がひとみに会うことを拒んできた。純は中谷が意図的にひとみに会わせないようにしていると感じていた。そのことにはきっと何かある。中谷は僕に何かを隠しているに違いない。
「何をたくらんでいる?」
「君は何か誤解しているようだね。その手紙の文字はどう見ても彼女のものだろう。それが彼女の意思であることに間違いはないんだよ。だから、君も彼女のことは忘れて早く誰かいい人を見つけて幸せになるべきだ。彼女もそれを望んでいるに違いないよ」
純は中谷の言葉には耳を貸さず、背を向けて歩き出した。背後から中谷が何かを叫んでいたが無視してその場を去った。
純は缶コーヒーのふたを開け一口すすった。冷え切った体に心地よいぬくもりが伝わってきた。
「なあ、何か伝えたいことがあるんだよな…」
ひとみがそこにいるのかどうかは判らないが、純はひとみに話しかけるようにつぶやいた。
どのくらいそこで待っただろうか…。すでに辺りにはだれもいなくなり、気温も下がってきた。純はマフラーを巻きなおし、携帯電話で時間を確認した。17:34。その時、純の携帯電話が鳴った。ディスプレイに表示された番号はひとみの電話番号だった。