「あなたが悪役令嬢でないと困る」と自称ヒロインに付きまとわれました
レイティア・フォン・アルヴェインは、前世の記憶があることを除けば、ごく普通の令嬢だった。
娘思いの両親のもとで育ち、礼儀作法に音楽、歴史、語学、領地経営の初歩まで、一通りの教育を受けてきた。
十歳の時には、公爵家の子息であるエドガー・ヴァレントンとの婚約も整っている。
初めて顔を合わせた時から、エドガーは驚くほど穏やかな人だった。
学園へ入学する少し前、ヴァレントン家の庭園でお茶をしていた時のことだ。
「学園には特別枠もあるのでしたわよね。平民の方も入学できると」
そう尋ねると、向かいに座るエドガーは微笑んだ。
「そうです。才覚のある者を、身分だけで閉め出さないためですよ」
「では、きっと色々な方がいらっしゃるのですね」
エドガーは頷いた後、少しだけ真面目な顔でレイティアを見た。
「誰と仲良くするかは自由です。けれど、無理をして誰にでも合わせる必要はありません」
「ふふ。入学前からそんなに心配してくださるのですか?」
「心配もします。貴女は少し、人に遠慮しすぎるところがありますから」
レイティアは肩をすくめ、それから小さく笑った。
優しい婚約者に大切にされ、家族にも恵まれている。
学園に入ってからも、きっと友人たちと穏やかで楽しい日々を送れるのだろうと、そう思っていた。
――本当に、そう思っていたのだ。
入学して、数日後の放課後。
「ちょっと来なさいよ」
背後からかけられた声に、レイティアは足を止めた。
振り返ると、そこにはクラスメイトの少女が立っていた。
平民の特別枠で入学してきたミナだ。
別に、話しかけられること自体はおかしくない。
学園では身分に一定の隔たりはあっても、同じ教室で学ぶ以上、会話の機会くらいある。
だが彼女の口調には、妙な圧があった。
「何かご用でしょうか」
「ここじゃ話しにくいの。来て」
クラスメイトに呼ばれて無視するのもどうかと思い、レイティアは彼女についていった。
連れて行かれたのは、人気のない校舎裏だった。
そこでミナは、唐突に言った。
「話が違うんだけど」
「……はい?」
「もっと嫌な感じで絡んでくるはずでしょう。なんでそんな普通にしてるのよ」
「何のことでしょうか……」
「あなた、悪役令嬢でしょ。わたし、この世界のヒロインなの。ここ、乙女ゲームの世界なんだから」
冗談を言っている気配は、欠片もなかった。
「困るんだけど。あなたが悪役をやってくれないと」
「そんなことを言われましても……」
「ちゃんと私に絡んできなさいよ。あなたが動かないと話が進まないの」
「……それは、物語の話でしょう」
そう返した途端、ミナは呆れたようにため息をついた。
「だったら何? このまま何もしないで、私だけ困れっていうの?」
「そんなことを言われましても……」
「そうやって都合の悪いことだけ見ないふりするの、感じ悪いよね」
ぞわり、と背筋に寒気が走った。
レイティアはその時初めて、“話の通じない人”を目の前にした。
「あなたが認めたくないだけでしょ。自分が悪役令嬢だって」
レイティアはそれ以上その言葉を聞かず、踵を返した。
「ちょ、待ちなさいよ!」
背後から呼び止める声が飛ぶ。
けれど振り返らず、そのままその場を離れた。
翌日から、妙な視線が増えた。
廊下を歩けば、ひそひそと囁かれる。
テラスでお茶を飲んでいても、誰かがこちらを見て、気まずそうに目を逸らす。
耳に入ってきたのは、こんな言葉ばかりだった。
『話しかけただけなのに冷たくされたらしい』
『困っていたのに助けてもらえなかったとか』
『やっぱりあの方、感じが悪いのでは』
無視したのは事実だった。
けれど、あの会話をそのまま話したところで、誰が信じるだろう。
「レイティア」
昼休みに、声をかけてきたのはエドガーだった。
彼は眉を寄せ、レイティアの顔を覗き込む。
「顔色がよくない。何かあった?」
「……大丈夫ですわ」
「大丈夫な顔には見えないよ」
胸が痛くなった。
彼に迷惑をかけたくない。
けれど、公爵家の子息の婚約者である自分が、平民の一生徒にここまで振り回されて、黙っていてよいのかとも思った。
数日後の昼休み。
中庭で友人たちと話していたレイティアのもとへ、例の彼女――ミナが近づいてきた。
「レイティア様」
わざとらしいほど明るい声だった。
レイティアは振り向いた。
「どうしましたか?」
「ああ、よかった。皆さんの前では無視なさらないんですね」
その言い方で、周りにいた何人かの視線がこちらへ向いている。
レイティアは小さく息を整えた。
「わたくしがどうして避けているか、ご存じですか?」
「……え? わたし、ただお話ししたかっただけですけど。避けられる理由なんて、こちらが知りたいくらいです」
「わたくしのことを『感じが悪い』『冷たい』と触れ回っておられる方に、どうしてわたくしが親しくお話しする必要が?」
ミナは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
だが、すぐに困ったように眉尻を下げる。
「わたしは嘘なんて言ってません。そう感じたから、そう言っただけです」
「では、なぜそのようにお感じになった相手に、こうして何度も話しかけるのですか?」
「誤解かもしれないと思ったからです。わたしは、ちゃんとお話しようとしただけです」
ああ、駄目だ、とレイティアは思った。
この人はどう話しても、自分が“可哀想な側”に立てるように話を変える。
ミナは困ったように眉を下げた。
「……レイティア様は、最初からわたしのことがお嫌いだったのではありませんか?」
レイティアは静かに彼女を見返した。
「――もう結構です」
ミナが目を瞬く。
「これ以上、わたくしに話しかけないでくださいませ」
周囲の空気がざわめくのを感じたが、レイティアは振り返らなかった。
そのまま、その場を離れた。
その後もしばらく、ミナはしおらしい顔で周囲に訴えて回った。
『ただ話したかっただけなのに、あんなふうに突き放されてしまって』
『そこまで嫌われるようなことをしましたか?』
『わたしが平民だからでしょうか』
初めのうちは、それに同情する者もいた。
けれど、それも長くは続かなかった。
『また?』
『本当に嫌なら、近づかなければいいのでは』
『自分から行っては泣いているように見えるけれど』
そう思う者が、少しずつ増えていった。
そしてついに、ミナはレイティアではなく、エドガーのほうへ近づいた。
放課後、エドガーと一緒に馬車へ向かっていた時のことだ。
ミナが突然前に出てきた。
「エドガー様」
エドガーが足を止める。
レイティアは思わず目を見開いた。
「何でしょう」
エドガーは穏やかに問い返した。
ミナは今にも泣きそうな顔で言う。
「レイティア様には何度も誤解ですとお伝えしたのですが、避けられてしまって……。ご婚約者様なら、お話を聞いてくださるかと思って……」
レイティアの指先が冷たくなる。
だが、エドガーは顔色一つ変えなかった。
「彼女があなたを避けるのには、理由があるのでしょう」
「やっぱり……わたしが平民だからではありませんか?」
「それを差し置いて、身分の話にすり替えるのは感心しません」
ミナの顔がこわばった。
エドガーは淡々と続ける。
「彼女があなたとの接触を望んでいない以上、なお接触を図るのは礼を失しています」
「……申し訳ありません」
「以後、私の婚約者へ私的に接触することは控えていただきたい」
丁寧な声色だが、はっきりとした拒絶だった。
ミナは頭を下げた。
だが、上げた顔の目の底にくすぶるものを、レイティアは見逃さなかった。
案の定、そのあとから彼女は陰で別の言い方を始めた。
『ご婚約者様にまで、まるで近づくなと言われてしまって』
『平民が話しかけること自体、迷惑だったのかもしれません』
『公爵家の方々には、わたしみたいな人間は目障りなんでしょうね』
けれど、もうさすがに周囲も理解していた。
さらに彼女は、『平民には、貴族の方がもう少しお優しくするべきではないか』と言うようになり、学園の生徒たちはじわじわと彼女から離れていった。
ある日の昼休み、テラスにて。
レイティアが席に着くと、近くの席にいた女子生徒たちの話が耳に入った。
「ミナさん、今度は同じ特別枠の方々に泣きついておられたのでしょう?」
「ええ。でも、あちらでも同じことを繰り返しているそうですわ」
「それで、特別枠の方々にも距離を置かれているのですわね」
エドガーが向かいの席から穏やかに言った。
「少しは落ち着いたようでよかった」
「……エドガー様」
レイティアは少し迷ってから口を開いた。
「信じてくださって、ありがとうございました」
エドガーは一瞬きょとんとしたあと、困ったように笑った。
「何年の付き合いだと思っているのですか。頼ってくださってもよかったのに」
「自分で何とかしなければと思っておりましたの。いずれ、公爵夫人になる身ですもの」
エドガーはやわらかく頷いた。
「ええ。貴女は立派でしたよ。感情に流されず、言うべきことを言って、離れるべき相手から、きちんと離れた」
「……そうでしょうか」
「公爵夫人らしい振る舞いでした」
その言葉に、レイティアは目を瞬いた。
エドガーの眼差しは、ただまっすぐに彼女を認めていた。
「頼もしい婚約者を持てて、私は幸運ですね」
レイティアは思わず笑ってしまった。
「それは、わたくしの台詞ですわ」
「では、おあいこですね」
婚約者の穏やかな微笑みを見つめながら、レイティアはようやく、心から安堵の息をついた。
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