出発の朝
翌朝、ヴォルとルナは宿を出る準備をしていた。
「本当に行っちゃうんですか……?」
女性店主のミラが寂しそうに言った。
「ええ。世話になった」
「こちらこそ! ヴォルさんみたいな素敵なお客さん、初めてでした!」
ミラは涙目になりながら、包みを差し出した。
「これ、お弁当です。旅の途中で食べてください」
「……ありがとう」
ヴォルは包みを受け取った。人間の親切心――リリアの記憶の中にもあった、温かな感情。
「ルナちゃんも、元気でね!」
「うん! ありがとう、ミラさん!」
ルナは嬉しそうに手を振った。
二人が宿を出ると、外には予想外の人だかりができていた。
「あ、ヴォルさんだ!」
「本当に旅に出るんだ……」
街の人々が集まっている。商人、冒険者、子供たち。
「ヴォルさん!」
人混みをかき分けて、マルタが駆けてきた。
「聞きました! 南へ旅に出るって!」
「ああ」
「そんな……まだこの街に来て二週間なのに……」
マルタは悲しそうな顔をした。
「私、ヴォルさんともっと話したかったのに……」
「また戻ってくる」
「本当ですか?」
「ああ。約束する」
マルタは笑顔を取り戻した。
「なら、待ってます! 必ず帰ってきてくださいね!」
「分かった」
グレンも姿を見せた。
「おい、ヴォル」
「グレン」
「これを持っていけ」
グレンは小さな袋を差し出した。中には薬草や包帯が入っている。
「旅は何があるか分からん。備えあれば憂いなしだ」
「……ありがとう」
グレンは照れくさそうに頭を掻いた。
「まあ、お前ならどこへ行っても大丈夫だろうけどな。それと……」
グレンはルナを見た。
「その子を、ちゃんと守ってやれよ」
「無論だ」
ルナはグレンに頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「おう、元気でな」
街の人々が次々と声をかけてくる。
「ヴォルさん、気をつけて!」
「また戻ってきてね!」
「ルナちゃんも元気で!」
ヴォルは少し驚いていた。
たった二週間。この街にいたのは、たった二週間だった。
だが、人々は自分を覚えていてくれた。温かく見送ってくれている。
これが、人間の絆というものか。
「……では、行ってくる」
ヴォルはルナの手を引き、街の南門へ向かった。
人々の歓声が、背中を押してくれた。
――――
街を出て、南への街道を歩く。
緩やかな丘陵地帯が続き、道の両脇には麦畑が広がっている。
「ねえ、ヴォル」
ルナが歩きながら聞いてきた。
「リリアって人の故郷に行くんだよね?」
「ああ」
「リリアって……どんな人だったの?」
ヴォルは少し考えてから、答えた。
「……強い人だった」
「強い?」
「ああ。病に侵され、死を目前にしても、自分の意志で最期を選んだ」
ヴォルはリリアの記憶を辿った。
「家族を愛し、友を大切にし、人を救いたいと願っていた。だが、病がその全てを奪った」
「……悲しい人生だったんだね」
「いや」
ヴォルは首を横に振った。
「短い人生だったが、幸せだったと思う。リリアの記憶には、たくさんの笑顔が残っている」
「そっか……」
ルナは少し考え込んだ。
「私も……いつか、そんな風に思えるかな。自分の人生、幸せだったって」
ヴォルはルナの頭を撫でた。
「お前はまだ始まったばかりだ。これから、たくさんの幸せを見つければいい」
「うん!」
ルナは元気よく頷いた。
――――
昼過ぎ、二人は街道沿いの小さな村に立ち寄った。
「宿村」という名の、旅人が休息に使う村だ。
村の入口には古い井戸があり、そこで数人の村人が水を汲んでいた。
「あら、旅の方?」
中年の女性が声をかけてきた。
「ええ。少し休憩させてもらえますか?」
「もちろんよ! あそこの酒場で休んでいって。美味しい料理が食べられるわよ」
「ありがとうございます」
ヴォルとルナは酒場へ向かった。
酒場の中は薄暗く、数人の旅人が食事をしていた。
「いらっしゃい!」
カウンターから、太った店主が声をかけてきた。
「お嬢さん、何を食べる?」
「この子と二人分、何かお勧めを」
「おう! なら、この村自慢のシチューとパンだな!」
店主は厨房へ引っ込んだ。
ヴォルとルナはテーブルに座った。
「ねえ、ヴォル」
ルナが小声で聞いてきた。
「私、角と翼、隠してるけど……ばれないかな?」
「大丈夫だ。私が隠蔽魔法をかけている」
ヴォルはルナに変装魔法をかけていた。完全に人間の子供に見える。
「でも……もしばれたら、私……」
「心配するな。もし何かあれば、私が守る」
ルナは安心したように頷いた。
その時、酒場の扉が開いた。
入ってきたのは、三人組の男たち。
荒くれ者の風貌で、腰には剣を差している。
「おい、酒だ!」
男たちは乱暴にテーブルに座った。
店主が慌てて酒を運んでくる。
「へへ、この村もそろそろ終わりだな」
一人の男が下品に笑った。
「魔界の連中が国境を越えてくるって話だぜ」
「マジかよ。黒龍が消えたから、魔族どもが調子に乗ってんのか」
「ああ。もう人間界は終わりだ。俺たちも早く金を貯めて、遠くへ逃げねえとな」
男たちの会話に、店内の空気が重くなった。
ヴォルは眉をひそめた。
魔界が動き始めている?
「おい、店主!」
一人の男が店主を呼びつけた。
「この村、金目のものはどこにあるんだ?」
「え……?」
「とぼけんじゃねえ! どうせ魔族に襲われるなら、俺たちが先に頂いとく!」
男たちは剣を抜いた。
店内の旅人たちが悲鳴を上げる。
「や、やめてください……!」
店主が懇願するが、男たちは聞く耳を持たない。
「おい、あの美人も頂いていくぜ」
一人の男がヴォルを指差した。
「へへ、こんな美人、貴族に売れば大金になる」
男たちがヴォルに近づいてくる。
ルナが怯えた表情でヴォルにしがみついた。
「ヴォル……」
「大丈夫だ」
ヴォルは静かに立ち上がった。
「お前たち、やめておけ」
「あん? 何様のつもりだ?」
男の一人がヴォルの肩を掴もうとした。
その瞬間――
男の体が吹き飛んだ。
壁に叩きつけられ、気絶する。
「な、何だ!?」
残りの二人が驚愕する。
ヴォルは何もしていない。ただ、少しだけ魔力を放出しただけだ。
「警告はした。次は容赦しない」
ヴォルの金色の瞳が、鋭く光った。
その眼光だけで、男たちは恐怖に震えた。
「ひ、ひいっ……!」
男たちは仲間を引きずって、酒場から逃げ出した。
店内が静まり返る。
「あ、ありがとうございます……!」
店主が深々と頭を下げた。
「命の恩人です!」
「気にするな」
ヴォルは席に戻った。
だが、心の中では別のことを考えていた。
魔界が動き始めている。
黒龍が消えたことで、均衡が崩れた。
「……やはり、そうなったか」
自分が絶対領域を離れたことで、世界は変わり始めている。
だが、今は引き返すつもりはない。
リリアとの約束。彼女の人生を知る旅。
それを優先する。
「ヴォル……?」
ルナが心配そうに見上げてきた。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
ヴォルは微笑んだ。
「さあ、食事にしよう」
――――
夕方、二人は村を出て、さらに南へ向かった。
日が暮れる頃、街道沿いで野営することにした。
ヴォルは簡単に火を起こし、ミラからもらった弁当を開いた。
「わあ……美味しそう!」
ルナは目を輝かせた。
サンドイッチ、果物、そして小さなケーキまで入っている。
「ミラさん、優しいね」
「ああ」
二人は食事を始めた。
火の温もり、星空、静かな夜。
「ねえ、ヴォル」
ルナが聞いてきた。
「あなたは……本当は、すごく強いんだよね?」
「……何故そう思う?」
「だって、さっきの悪い人たち、ヴォルが何もしてないのに飛んでったもん」
ルナは不思議そうに首を傾げた。
「私には見えなかったけど……何かしたんでしょ?」
「少しだけ魔力を放出しただけだ」
「魔力を……?」
「ああ。それだけで、あの程度の人間は吹き飛ぶ」
ルナは驚いた表情を見せた。
「じゃあ、ヴォルって……もしかして、すごく偉い人?」
「偉くはない」
ヴォルは星空を見上げた。
「ただ……長く生きているだけだ」
「長く……?」
「ああ。お前が想像するよりも、ずっと長く」
ルナは少し考えてから、小さく笑った。
「よく分かんないけど……でも、ヴォルは優しいから、好き」
「……そうか」
ヴォルは少しだけ、心が温かくなった。
リリアも、こんな風に誰かを好きだと言っていたのだろうか。
「さあ、寝ろ。明日も早い」
「うん!」
ルナは毛布にくるまり、すぐに眠りについた。
ヴォルは火を見つめながら、考え込んだ。
魔界が動き始めている。
天界も、人間界も、きっと同じだろう。
黒龍の不在は、世界を混沌へと導く。
「……だが、今は」
ヴォルはルナの寝顔を見た。
「この旅を続けよう。リリアとの約束を果たすまでは」
星が静かに輝いている。
長い旅路の、まだ始まりに過ぎない。
――――
幕間:魔界の動乱
魔界、国境要塞。
「報告! 人間界との国境付近で、人間の集落を確認!」
魔族の斥候が叫んだ。
要塞の指揮官、紅蓮の魔将バルトスは、地図を睨んでいた。
「人間界……黒龍が消えた今、侵攻の好機か」
「しかし、バルトス様」
副官が進み出た。
「魔王様は、まだ侵攻の許可を出しておりません」
「分かっている。だが……」
バルトスは拳を握りしめた。
「黒龍の不在を確認したのは事実。この機を逃せば、次はいつになるか分からん」
「ですが……」
「偵察だけだ。本格的な侵攻ではない」
バルトスは部下に命じた。
「斥候部隊を編成しろ。人間界の戦力を探る」
「御意!」
――――
一方、人間界。
フェリシア王国の国境要塞では、緊張が高まっていた。
「報告します! 魔界側の魔力反応が増加しています!」
魔法使いが叫んだ。
要塞の守備隊長、ロイ・ヴァンバーグは顔をしかめた。
「やはり来たか……」
「隊長、どうしますか?」
「王都に報告だ。至急、援軍を要請しろ」
「はっ!」
ロイは城壁の上から、国境の向こうを睨んだ。
「黒龍ヴォラクシス……お前が消えたせいで、世界は狂い始めた」
彼は剣を握りしめた。
「だが……我々は人間だ。龍の力に頼らず、自分たちの手で国を守る」
――――
天界、神殿。
大天使ミカエルは、天界の長老たちと会議をしていた。
「報告によれば、魔界が動き始めたとのこと」
長老の一人が述べた。
「このまま放置すれば、人間界は魔界に飲み込まれるでしょう」
「ならば、我々が介入すべきでは?」
別の長老が言った。
「人間を守り、魔界を討つ。それが天界の使命」
だが、ミカエルは首を横に振った。
「いや。今動くべきではない」
「なぜです、ミカエル様!」
「黒龍の行方が分からないからだ」
ミカエルは厳しい表情で続けた。
「もし黒龍がまだ生きていて、我々が勝手に動けば……黒龍の怒りを買う。それは天界の滅亡を意味する」
長老たちは黙り込んだ。
「まずは、黒龍の行方を突き止めよ。それまでは静観する」
「……御意」
――――
そして、王都。
エドワード三世は、諜報員からの報告を聞いていた。
「陛下、例の冒険者、ヴォルが南へ向かったとの情報です」
「南……?」
「はい。緑風の村の方角へ」
エドワード三世は地図を見た。
「緑風の村……何かあるのか?」
「詳細は不明ですが……その村は、数年前に魔喰病の患者が出た場所です」
「魔喰病……」
国王は考え込んだ。
「ヴォルという冒険者と、魔喰病に何か関係が?」
「分かりません。ですが――」
諜報員は続けた。
「ヴォルの力は尋常ではありません。もし、黒龍ヴォラクシスが人間に化けているとしたら……」
「その可能性は捨てきれないな」
エドワード三世は立ち上がった。
「ヴォルを監視し続けろ。だが、絶対に手を出すな。もし本当に黒龍なら……我々に勝ち目はない」
「御意」
――――
世界が動き始めている。
魔界、天界、人間界。
全てが、黒龍の不在に反応している。
だが、当の黒龍は――
小さな焚き火の前で、魔族の少女と共に、静かな夜を過ごしていた。
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