日常という名の試練
翌朝、ヴォルは鳥の鳴き声で目を覚ました。
人間の体は、龍の時とは違う。疲れを感じ、睡眠を必要とする。不便だが、これもまた新鮮な体験だった。
ベッドを見ると、ルナはまだ眠っていた。小さな体を丸め、安心したように寝息を立てている。
「……平和な顔だ」
ヴォルは静かに部屋を出て、一階の食堂へ向かった。
朝食の匂いが漂っている。パンを焼く香ばしい匂い、スープの湯気、ベーコンの焦げる音。
「あ、おはようございます!」
「よく眠れましたか?」
「ああ」
「朝食、すぐにお持ちしますね! あ、お子さんの分も?」
「頼む」
ヴォルはテーブルに座った。
食堂には既に何人かの冒険者が朝食を取っていた。そして、ヴォルが座った瞬間――
「……おい、昨日の美人だ」
「マジだ……朝から眼福だな」
「でも近づきがたいオーラがあるよな……」
ひそひそと囁き声が聞こえる。
ヴォルは眉をひそめた。人間は、なぜこんなにも他人の外見を気にするのだろう。リリアの記憶を辿っても、彼女は常に他人の視線を気にしていた。
「お待たせしました!」
女性店主が朝食を運んできた。焼きたてのパン、野菜スープ、目玉焼き、そしてベーコン。
「ゆっくりどうぞ!」
ヴォルが食べ始めると、扉が開く音がした。
「おはよう、ミラ!」
入ってきたのは、見覚えのある顔――昨日試験を担当したグレンだった。
「おう、グレンおじさん! いつもの?」
「ああ、頼む」
グレンは席を探し――ヴォルの姿を見つけて、少し驚いた表情を見せた。
「お前……昨日の新人か」
「ああ」
「こんな宿に泊まってたのか。いや、冒険者ギルドから紹介されたんだったな」
グレンはヴォルの向かいの席に座った。
「どうだ? 初日の依頼は無事に終わったか?」
「終わった。少女を見つけて、無事に返した」
「そうか、それは良かった」
グレンはスープを一口飲んでから、ヴォルをじっと見た。
「なあ、お前……本当に独学で魔法を学んだのか?」
「そうだ」
「嘘くせえな」
グレンは腕を組んだ。
「お前の魔法の制御、尋常じゃなかった。普通、独学であそこまでの精度は出せない」
「……そうなのか」
「ああ。まるで、何十年も修行した魔法使いみたいだった」
グレンは疑わしげな目でヴォルを見たが、すぐに笑った。
「まあ、いい。冒険者には過去を詮索しない不文律がある。お前が何者であろうと、実力があるなら問題ない」
「……ありがとう」
「ただし」
グレンは真剣な顔になった。
「お前みたいな美人は、変な奴に狙われやすい。気をつけろ」
「狙われる?」
「人攫いとか、貴族の道楽とか……この街は比較的安全だが、それでも危険はある」
グレンは立ち上がった。
「まあ、お前なら大丈夫だろうけどな。あの魔法の腕があれば」
グレンは食堂を出て行った。
ヴォルは一人、考え込んだ。
人間の社会は複雑だ。外見で判断され、力で測られ、立場で扱いが変わる。
龍として生きていた時は、そんなことを考える必要もなかった。ただ最強であり、誰もが恐れるだけだった。
「……面倒だな」
だが、これもまた人間を知るための経験だ。
ヴォルは朝食を終え、部屋に戻った。
――――
部屋に戻ると、ルナが目を覚ましていた。
「……おはよう」
小さな声で挨拶する。まだ警戒心が残っているようだ。
「おはよう。朝食を持ってきた」
ヴォルはトレイを置いた。
ルナは恐る恐るパンに手を伸ばし、一口齧った。
「……おいしい」
「そうか」
ルナは食べながら、ヴォルをちらちらと見ていた。
「……ねえ」
「何だ」
「あなた……本当に私を捨てないの?」
ヴォルはルナを見た。
その目には、深い不安と、小さな希望が混ざっていた。
「捨てない」
「なんで? 私、魔族だよ。役に立たないよ」
「役に立つ必要はない」
ヴォルはルナの隣に座った。
「私は今、旅をしている。世界を見て回るつもりだ。お前も一緒に来るか?」
「……いいの?」
「ああ」
ルナは涙を浮かべた。
「……うん。一緒に行く」
「決まりだ」
ヴォルは立ち上がった。
「なら、今日から私たちは旅の仲間だ」
「仲間……」
ルナは初めて、本当の笑顔を見せた。
――――
その日の午後、ヴォルは冒険者ギルドに向かった。
ルナは部屋に残してきた。魔族の子供を連れ歩けば、騒ぎになる。
ギルドに入ると、マルタが手を振った。
「ヴォルさん! おはよう……じゃなくて、こんにちは!」
「ああ」
「昨日の依頼、大成功だったって聞いたよ! ロベルトさんから感謝状が届いてる!」
マルタは嬉しそうに羊皮紙を見せた。
「これで実績がついたから、次はもう少し難しい依頼も受けられるよ!」
「分かった」
「今日は何か依頼を受けていく?」
ヴォルは依頼掲示板を見た。
様々な依頼が貼られている。魔物退治、護衛、採集、配達……
その中で、一つの依頼が目に留まった。
【緊急依頼】街道の盗賊討伐
依頼主:商人組合
報酬:金貨三枚
内容:街道に盗賊団が出没。商人たちが襲われている。討伐または追い払うこと。ランクC以上推奨。
「これは……」
「あ、それは無理だよ」
マルタが慌てて言った。
「ヴォルさんはまだGランクだから、C以上推奨の依頼は受けられないの」
「なぜだ」
「だって危険だもん! 盗賊団は十人以上いるって話だし、中には魔法使いもいるって……」
「問題ない」
ヴォルは依頼書を取った。
「私がやる」
「ちょ、ちょっと待って! 本気で言ってるの!?」
「本気だ」
マルタは困った顔をした。
「でも……規則で……」
「規則を破ったら、どうなる?」
「えっと……依頼失敗したら、ペナルティが……でも、成功したら……」
マルタは少し考えてから、諦めたように溜息をついた。
「……分かった。でも、絶対に無理はしないでね。危なくなったら、すぐに逃げること!」
「承知した」
ヴォルは依頼書を持って、ギルドを出た。
マルタは心配そうにその背中を見送った。
「……大丈夫かな、あの人」
――――
街道は、街から北へ一時間ほど歩いた場所にある。
商人たちの主要ルートで、普段なら安全な道だ。
だが、最近は盗賊が出るようになったという。
ヴォルは街道を歩きながら、周囲の気配を探った。
「……十五人。森の中に潜んでいるな」
普通の人間には気づけない距離だが、ヴォルの魔力探知には簡単だ。
そして――
「止まれ!」
予想通り、森から盗賊たちが飛び出してきた。
武装した男たち。剣、斧、弓を持ち、ヴォルを囲む。
「へへ、今日の獲物は……お?」
盗賊のリーダーらしき男が、ヴォルを見て目を見開いた。
「なんだ、この美人は……!」
「おい、こりゃあ当たりだぜ!」
「金目のものは少なそうだが……こんな美人、貴族に売れば大金になる!」
盗賊たちは下品な笑い声を上げた。
ヴォルは静かに彼らを見渡した。
「お前たちが、街道を荒らしている盗賊か」
「そうだ。で、お前は誰だ? 冒険者か?」
リーダーが剣を抜いた。
「悪いが、ここを通りたきゃ金を置いてけ。あ、いや……お前は商品だな。大人しく縄に繋がれろ」
盗賊たちが一斉に武器を構える。
ヴォルは溜息をついた。
「……交渉の余地はないのか」
「ねえよ! おい、捕まえろ!」
盗賊たちが一斉に襲いかかってきた。
ヴォルは――動かなかった。
ただ、手を伸ばし、静かに呟いた。
「眠れ」
その瞬間。
盗賊たち全員が、糸が切れたように地面に倒れた。
意識を刈り取る魔法。殺さず、傷つけず、ただ眠らせる。
「……簡単だったな」
ヴォルは倒れた盗賊たちを見下ろした。
本当なら、一瞬で消し炭にすることもできた。だが、それでは人間らしくない。
リリアの記憶の中にあった、冒険者の流儀――必要以上に殺さない。
「さて、どうするか」
ヴォルは盗賊たちを縄で縛り、街へ連れて帰ることにした。
――――
夕方、ヴォルが盗賊団全員を引き連れて街に戻ると――
ギルドは大騒ぎになった。
「嘘だろ……!?」
「盗賊団を全員捕まえた!?」
「しかも一人で!?」
マルタは目を丸くして、ヴォルを見た。
「ヴォルさん……あなた、本当に何者なの……?」
「ただの冒険者だ」
「ただの冒険者が、C推奨の依頼を一人で達成するわけないでしょ……!」
だが、事実は事実だ。
街の衛兵たちが盗賊たちを連行し、商人組合の代表者がヴォルに金貨を手渡した。
「素晴らしい! あなたのおかげで、街道が安全になります!」
「礼には及ばない」
ヴォルはギルドを出ようとした。
「待って!」
マルタが呼び止めた。
「あなたのランク……上げます。Gランクから、一気にCランクへ!」
「……そうか」
「それと……」
マルタは真剣な顔でヴォルを見た。
「もしよければ、教えてください。あなたの目的は何ですか?」
「目的?」
「だって……こんな強さがあるなら、もっと大きな街で有名な冒険者になれるのに。なんでこんな辺境の街に?」
ヴォルは少し考えた。
「……探しているものがある」
「探しているもの?」
「ああ。ある人間の、足跡をな」
ヴォルはそれだけ言って、宿へ戻った。
マルタは不思議そうに、その背中を見送った。
「足跡……?」
――――
宿に戻ると、ルナが窓辺で外を眺めていた。
「ただいま」
「……おかえり」
ルナは振り返り、ヴォルの無傷な姿を見て安心した表情を見せた。
「怪我は……?」
「ない。簡単な仕事だった」
ヴォルは金貨をテーブルに置いた。
「これで、しばらくは宿代と食費に困らない」
「……ヴォル」
「何だ」
「私も……何か役に立ちたい」
ルナは俯いた。
「ずっと部屋にいるだけじゃ……申し訳なくて」
ヴォルはルナの頭に手を置いた。
「焦るな。お前はまだ回復途中だ」
「でも……」
「それに」
ヴォルは窓の外を見た。
「私は旅をしているんだ。目的は、リリアという人間の足跡を辿ること」
「リリア……?」
「ああ。お前も、いずれその話をしよう。だが、今は……」
ヴォルは微笑んだ。
「一緒にいてくれるだけでいい」
ルナは涙を浮かべて、こくりと頷いた。
――――
その夜、街では噂が広がっていた。
「美しき冒険者、一人で盗賊団を壊滅」
「中性的な美貌と圧倒的な力を持つ謎の魔法使い」
「その名はヴォル」
酒場で、商店で、路地裏で。
人々はヴォルの話題で持ちきりだった。
そして――その噂は、やがて街の外へと広がっていく。
王都へ。
貴族たちへ。
そして……魔界と天界へ。
---
幕間:動き出す影
魔界、玉座の間。
「報告します、魔王様」
紫炎の魔将グラムが、一枚の羊皮紙を差し出した。
「人間界の辺境の街で、興味深い冒険者が現れたとの情報です」
「冒険者? それがどうした」
魔王アザゼルは興味なさげに答えた。
「その冒険者……中性的な美貌を持ち、圧倒的な魔法の力を持つと。そして……」
グラムは声を潜めた。
「魔族の子供を匿っているとの情報も」
アザゼルの目が鋭くなった。
「魔族の子供を?」
「はい。詳細は不明ですが……もしかすると、何か関係があるかもしれません」
「……調べろ。その冒険者の正体を」
「御意」
――――
天界、神殿。
「ミカエル様、報告があります」
若い天使が、書簡を差し出した。
「人間界で、異常な魔力反応が観測されました。一人の人間から、莫大な魔力が……」
「どこだ」
「辺境の小さな街です。ただ……」
天使は困惑した表情を浮かべた。
「その魔力の質が……黒龍に似ているのです」
ミカエルは立ち上がった。
「……まさか」
「ですが、あり得ません。黒龍が人間に化けるなど……」
「いや」
ミカエルは窓の外を見た。
「黒龍ほどの存在なら、不可能はない」
「では……」
「監視しろ。だが、近づくな。もし本当に黒龍なら……下手に刺激すれば、世界が終わる」
――――
そして、王都。
エドワード三世は、諜報員からの報告書を読んでいた。
「……ヴォル、か」
「はい、陛下。この冒険者の力は尋常ではありません。もしかすると……」
「黒龍、か」
老将軍が呟いた。
「ですが、なぜ人間に化ける必要が?」
「さあな」
エドワード三世は報告書を閉じた。
「だが、もし黒龍なら……我々にできることは何もない。刺激せず、静観するだけだ」
「しかし……」
「もし黒龍でないなら、それはそれで脅威だ。人間でありながら、あれほどの力を持つとは」
国王は深く息を吐いた。
「いずれにせよ……世界は変わり始めている」
――――
誰も知らない。
世界最強の黒龍が、今、小さな宿で魔族の子供と穏やかな夜を過ごしていることを。
そして、その旅が――世界の運命を大きく変えることになるとは。
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