黒龍の戯れ③
宿『眠れる竜亭』の扉を開けた瞬間、店内の空気が変わった。
「……おや」
カウンターで酒を飲んでいた冒険者たちが、一斉にヴォルを見た。
「なんだ、あの美人……」
「冒険者か? いや、貴族の令嬢じゃないのか?」
「でも、子供抱いてるぞ……」
ざわめきが広がる。ヴォルは眉をひそめた。
何か変なことを言っただろうか。リリアの記憶を辿っても、宿に入って騒がれる理由が分からない。
「あ、あの……」
カウンターの奥から、若い女性店主が顔を出した。二十代後半くらいだろうか。エプロン姿で、人懐っこい笑顔を浮かべている。
「いらっしゃいませ! お部屋をお探しで?」
「ああ。一晩泊まりたい」
ヴォルの声は、中性的な美しさに合わせたように、低すぎず高すぎない不思議な音色だった。
女性店主は一瞬、ヴォルの顔を見つめて固まった。
「え、えっと……お一人ですか? あ、いえ、お子さんと二人?」
「そうだ」
「分かりました! お部屋、ご用意しますね!」
女性店主は慌てて鍵を取り出した。
「二階の角部屋が空いてます。一泊、銅貨二十枚です。食事付きなら銅貨三十枚ですが……」
「食事付きで」
ヴォルは懐から銅貨を取り出した。ロベルトが無理やり押し付けてくれた報酬だ。
「ありがとうございます! では、こちらへどうぞ!」
――――
案内された部屋は質素だが清潔だった。ベッドが一つ、小さなテーブルと椅子、窓からは街の景色が見える。
ヴォルはルナをベッドに寝かせた。小さな魔族の少女は、まだ眠り続けている。
「栄養が足りてないな……」
ヴォルは手を翳し、微量の生命魔力を注ぎ込んだ。これで数日は持つだろう。
コンコン、とドアがノックされた。
「お食事、お持ちしました!」
扉を開けると、女性店主がトレイを持って立っていた。スープ、パン、チーズ、そして肉料理。
「どうぞ、ごゆっくり。あ、お子さんの分も必要なら、言ってくださいね」
「ああ、ありがとう」
「いえいえ! それにしても……」
女性店主は遠慮がちにヴォルを見た。
「あの、失礼ですけど……あなた様、どちらからいらしたんですか? その美しさ、まるで絵画の中の妖精のようで……」
「……そうか?」
ヴォルは首を傾げた。自分の顔など、気にしたこともなかった。
「はい! 街中で評判になると思いますよ! ああ、でも変な輩に絡まれないように気をつけてくださいね。美人は損ですから」
女性店主はそう言い残して、部屋を出て行った。
ヴォルは鏡を見た。
そこに映っていたのは――確かにリリアの面影を持つ、美しい顔立ち。
「……これが、お前の顔か、リリア」
彼女は生前、自分の容姿をどう思っていただろう。リリアの記憶を辿ると、鏡を見る度に複雑な表情をしていた。
病に侵される前は、友人たちから「可愛い」と言われて照れていた。だが、病が進むにつれ、痩せ細り、血色を失い、鏡を見るのが辛くなっていった。
「お前は……自分の顔が嫌いだったのか」
心の中で問いかける。
答えは返ってこない。
だが、ヴォルは思った。
この顔で生きることは、リリアの人生を継ぐことでもある。
「なら、この顔を大事にしよう」
ヴォルは食事を始めた。
人間の食事――これも新鮮な体験だった。龍としては、魔力や生命力を直接取り込むことができた。だが、人間は違う。味わい、噛み砕き、飲み込む。
「……美味いのか、これは」
よく分からないが、リリアの記憶の中では「美味しい」と感じていた料理に似ている。
ベッドの上で、ルナが小さく身じろぎした。
「起きたか」
ルナはゆっくりと目を開けた。赤い瞳が、ぼんやりとヴォルを見つめる。
「……ここは……?」
「安全な場所だ。もう大丈夫」
ルナは自分を見下ろし、治癒された体に驚いた表情を見せた。
「傷が……治ってる」
「私が治した」
ルナはヴォルをじっと見つめた。
「あなた……誰?」
「ヴォルだ。お前を助けた」
「なんで……?」
「……さあな」
ヴォルは正直に答えられなかった。
なぜ助けたのか。自分でもよく分からない。
ただ、リリアの記憶の中にある「誰かを救いたい」という願いが、そうさせたのかもしれない。
「お前は……ルナだな」
「……うん」
ルナは体を起こし、警戒するようにヴォルを見た。
「私を……どうするの? 魔界に返すの?」
「いや」
「じゃあ……殺すの?」
「殺さない」
ヴォルはスープをルナの前に置いた。
「腹が減っているだろう。食べろ」
ルナは困惑した表情でスープを見た。
「……なんで優しくするの? 私、魔族だよ。人間の敵だよ」
「知っている」
「じゃあ、なんで……」
ヴォルはルナの頭に手を置いた。
「お前はまだ子供だ。敵も味方もない」
ルナの目から涙が溢れた。
「……わかんない。わかんないよ。みんな、私のこと嫌ってた。魔界でも、人間界でも……」
「なぜだ」
「私……弱いから。魔法も使えないし、戦えないし……だから、いらない子だって」
ルナは泣きながら続けた。
「お母さんも、お父さんも……私を捨てた。『役立たず』だって……」
ヴォルは黙ってルナの頭を撫でた。
リリアの記憶が蘇る。彼女も、病に倒れた時、「役立たず」だと自分を責めていた。
「ルナ」
「……なに?」
「お前は役立たずではない」
「でも……」
「役に立つかどうかなど、どうでもいい。お前は生きている。それだけで十分だ」
ルナは驚いた表情でヴォルを見上げた。
「……本当に?」
「ああ」
ヴォルはスープをルナの手に持たせた。
「さあ、食べろ。そして生きろ。それが今、お前がすべきことだ」
ルナは震える手でスプーンを持ち、スープを口に運んだ。
温かいスープが喉を通る。
そして――初めて、安心して泣くことができた。
「……おいしい」
「そうか」
ヴォルは窓の外を見た。
夕日が街を赤く染めている。
リリアが見たかった景色。
「リリア……私は今、お前の代わりに生きている」
心の中で呟く。
「だから……お前が成し遂げられなかったこと、私が成し遂げてやる」
夜が訪れる。
宿の一階からは、冒険者たちの笑い声が聞こえてくる。
ヴォルは、ルナが眠るのを見届けてから、静かに窓辺に座った。
「さて……明日からどうするか」
龍人として生きる日々。
人間として過ごす時間。
まだ始まったばかりの、長い旅路。
だが、不思議と――退屈ではなかった。
---
幕間:噂の広がり
その夜、『眠れる竜亭』の一階では、冒険者たちが盛り上がっていた。
「なあ、見たか? あの美人」
「見た見た! あんな美人、この街で見たことねえぞ」
「女か? 男か? どっちなんだ?」
「分かんねえ。でも、どっちでもいいくらい綺麗だった」
「冒険者らしいぜ。今日、ギルドで登録してたって」
「マジかよ! あんな美人が冒険者だなんて……」
酒場の片隅で、一人の男がその会話を聞いていた。
フードを深く被った、怪しげな男。
「……美人の冒険者、か」
男はグラスを傾け、小さく笑った。
「面白い。報告する価値がありそうだ」
男は静かに席を立ち、夜の闇に消えていった。
――――
一方、王城では――
「報告します。黒龍ヴォラクシスの失踪について、新たな情報が入りました」
謁見の間で、老将軍がエドワード三世に報告していた。
「何か分かったのか」
「いえ……むしろ、謎が深まりました」
老将軍は資料を広げた。
「魔界、天界、そして周辺諸国……すべてが黒龍の行方を探していますが、誰も見つけられていません。まるで、この世界から消えたかのように……」
「消えた……?」
エドワード三世は顎に手を当てた。
「それとも……姿を変えたのか?」
「姿を変える?」
「黒龍ほどの力があれば、擬態魔法くらい造作もないだろう。もし、何らかの理由で姿を隠しているとしたら……」
老将軍は息を呑んだ。
「まさか……人間に化けているとでも?」
「可能性の話だ」
エドワード三世は窓の外を見た。
「いずれにせよ、黒龍の失踪は世界の均衡を崩す。各国の動きを注視しろ。そして……」
国王は鋭い目で老将軍を見た。
「もし黒龍が人間界にいるとしたら、何をしようとしているのか……それを考えろ」
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誰も知らない。
世界最強の黒龍が、今、小さな宿で魔族の子供を見守りながら、人間としての生活を始めていることを。
そして、その美しい外見が、やがて予想外の波紋を呼ぶことになるとは――。
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