黒龍の戯れ②
冒険者ギルドの扉は、思ったよりも重かった。
ヴォル――いや、ヴォラクシスは扉を押し開け、中に足を踏み入れた。
酒と汗と革の匂いが混ざり合った、生々しい空間。リリアの記憶にはなかった感覚だ。彼女は病に倒れる前、こういう場所には来たことがなかったのだろう。
「いらっしゃい、新人さんかい?」
カウンターの奥から、気さくな声が響いた。
受付嬢――三十代半ばと思われる、赤毛の女性が笑顔でヴォルを見た。名札には「マルタ」と書かれている。
「……冒険者登録をしたい」
ヴォルは簡潔に答えた。人間の社交辞令というものが、まだよく分からない。
「ああ、やっぱり新人さんだ。えーっと、名前は?」
「ヴォル」
「ヴォル……ね。苗字は?」
「ない」
マルタは少し眉をひそめたが、すぐに笑顔を取り戻した。
「まあ、珍しくはないかな。身寄りのない子も多いからね。年齢は?」
「……二十くらいだと思う」
実際には千年以上生きているが、今の姿は若い。リリアの記憶から判断すると、二十歳前後に見えるはずだ。
「思う、って。自分の年齢も分からないの?」
「記憶が曖昧でな」
適当な嘘をつく。マルタは同情したような顔をした。
「そっか……辛いことがあったんだね。まあ、ここには過去を捨てて来る人も多いから、深くは聞かないよ」
マルタは羊皮紙を取り出し、ペンを走らせ始めた。
「武器は使える?」
「……まあ」
実際には武器など必要ない。爪でも牙でも魔法でも、何でも使える。
「魔法は?」
「使える」
「へえ、魔法使いかあ。それなら需要は高いよ。で、どの属性?」
「全て」
マルタの手が止まった。
「……は?」
「火、水、風、土、光、闇。全て使える」
「ちょ、ちょっと待って」
マルタは困惑した表情でヴォルを見た。
「全属性使えるって……そんなの聞いたことないよ。普通は一つか二つが限界なんだけど」
「そうなのか」
まずい。人間の常識を理解していなかった。リリアは魔法使いではなかったので、その知識がない。
「えっと……もしかして、全属性をちょっとずつ使えるってこと? 威力は弱いけど多芸型、みたいな?」
ヴォルは少し考えて、頷いた。
「……そういうことにしておく」
「まあ、それなら分かるけど……」
マルタは書類に何かを書き込んだ。
「とりあえず、実技試験を受けてもらうね。冒険者は実力主義だから、嘘ついても意味ないよ」
「分かった」
「じゃあ、裏の訓練場に行って。試験官が待ってるから」
マルタに案内され、ヴォルはギルドの裏手にある訓練場へと向かった。
――――
訓練場は広い中庭になっており、そこには数人の冒険者たちが武器の手入れをしたり、模擬戦闘をしたりしていた。
「おい、新人か?」
声をかけてきたのは、傷だらけの顔をした大柄な男だった。筋骨隆々で、背中には大剣を背負っている。
「試験官のグレンだ。お前の実力を見させてもらう」
グレンはヴォルを値踏みするように見た。
「見たところ、ひょろっちい体だな。魔法使い志望か?」
「……そうだ」
「なら簡単だ。あそこの的に、お前の得意な魔法をぶつけろ。威力と制御力を見る」
グレンが指差した先には、木製の的が並んでいた。
「それだけか?」
「それだけだ。ただし、的を壊しすぎるな。修理費はお前持ちになるからな」
ヴォルは的を見た。ただの木の板だ。本気で魔法を撃てば、この訓練場ごと消し飛ぶだろう。
「……手加減すればいいんだな」
「ああ、制御が大事だ。冒険者は力だけじゃなく、仲間を巻き込まない技術も必要だからな」
ヴォルは手を伸ばし、的に向けた。
火の魔法が最も分かりやすいだろう。小さな火球を作り、的に向かって放つ。
火球は的の中心に命中し、小さく炎上した。
「……ほう」
グレンは少し驚いた表情を見せた。
「詠唱なしか。それに、制御も悪くない。もう一発、別の属性を撃ってみろ」
今度は水の魔法。水の矢を作り、炎上した的に向けて放つ。水矢が炎を消し、的は無傷で残った。
「おお……」
周囲で見ていた冒険者たちがざわめいた。
「無詠唱で二つの属性……しかも制御が正確だ」
「新人にしちゃ、やるじゃねえか」
グレンは腕を組み、真剣な顔でヴォルを見た。
「お前……どこで魔法を学んだ?」
「独学だ」
「独学で、この精度か……」
グレンは少し考え込んだ後、ため息をついた。
「まあいい。合格だ。お前は冒険者として登録できる」
「そうか」
「ただし、ランクはGからだ。実績を積めば上がる。文句はないな?」
「ない」
グレンはマルタに向かって手を振った。
「マルタ! こいつは合格だ! 登録してやってくれ!」
――――
ギルドのカウンターに戻ると、マルタが冒険者証を準備していた。
「はい、これがあなたの冒険者証。大事にしてね」
手渡されたのは、金属製の小さなプレート。そこには名前とランクが刻まれていた。
ヴォル/ランクG
「ランクGは新人ランク。簡単な依頼しか受けられないけど、頑張って実績を積めばすぐに上がるよ」
「分かった」
「それと、宿は決まってる?」
「いや」
「なら、ギルドの近くに安宿があるから紹介するよ。冒険者割引もあるし」
マルタは地図を取り出し、場所を指差した。
「『眠れる竜亭』って宿。名前は大げさだけど、清潔で飯も美味いよ」
「眠れる竜……」
何とも皮肉な名前だ。ヴォルは苦笑した。
「ありがとう」
「どういたしまして。あ、そうだ」
マルタは依頼書の束を取り出した。
「時間があるなら、簡単な依頼を受けてみる? 初心者向けのやつ」
「どんな依頼だ?」
「えーっと……薬草採集、荷物運び、魔物退治……あ、これなんかどう?」
マルタが差し出した依頼書には、こう書かれていた。
【依頼】行方不明の少女捜索
依頼主:商人ロベルト
報酬:銀貨50枚
内容:娘のエマ(12歳)が三日前から行方不明。森の近くで目撃情報あり。捜索と保護を依頼する。
ヴォルは依頼書を見つめた。
少女の捜索――リリアにも妹がいた。彼女の記憶の中で、妹は優しい笑顔でリリアを支えていた。
「……この依頼を受ける」
「本当? でも、これGランクには少し難しいかも……」
「構わない」
マルタは少し心配そうだったが、依頼書にハンコを押した。
「分かった。でも、無理はしないでね。危険を感じたら、すぐに戻ってきて」
「ああ」
ヴォルは依頼書を受け取り、ギルドを後にした。
――――
依頼主の商人ロベルトの家は、街の裕福な地区にあった。大きな邸宅で、庭には手入れされた花壇が広がっている。
門を叩くと、執事らしき老人が出てきた。
「どちら様で?」
「冒険者ギルドから来た。娘さんの捜索依頼を受けた」
執事は安堵した表情を見せた。
「ああ、ありがとうございます! どうぞ、中へ」
案内された応接間には、疲れ果てた表情の中年男性が座っていた。商人ロベルトだ。
「あなたが冒険者の……?」
ロベルトはヴォルを見て、少し不安そうな顔をした。
「随分と若いが……大丈夫なのか?」
「大丈夫だ。娘さんについて、詳しく聞かせてほしい」
ロベルトは深く息を吐いた。
「エマは……私の一人娘です。三日前の朝、『友達と遊びに行く』と言って家を出たきり、戻ってきません」
「友達とは?」
「近所の子供たちです。だが、彼らに聞いたところ、エマは現れなかったと……」
ロベルトは震える手で顔を覆った。
「街の衛兵にも捜索を頼みましたが……何の手がかりも見つかっていません。ただ、街の北にある森で、エマに似た少女を見たという目撃情報が一件だけ……」
「北の森か」
「はい。ですが、あの森には魔物が出ると言われています。まさか、エマが一人で森に入ったとは思えないのですが……」
ロベルトは祈るような目でヴォルを見た。
「どうか……どうか、娘を見つけてください。お願いします」
ヴォルは頷いた。
リリアの記憶の中にある、家族への愛。ロベルトの目には、それと同じものが見えた。
「必ず見つける」
「本当ですか……!」
「ああ。約束する」
ヴォルは立ち上がり、北の森へ向かった。
――――
街を出て、北へ歩くこと一時間。
深い森が広がっていた。木々は鬱蒼と茂り、日光を遮っている。
ヴォルは森の入口で立ち止まり、魔力を探知した。
「……魔物の気配がある。それも、かなり強い」
普通の人間なら、ここに入るだけで命の危険がある。
なぜ少女は、こんな場所に?
ヴォルは森の奥へと進んだ。足跡を追う必要はない。魔力の流れを読めば、異質な存在はすぐに分かる。
そして――見つけた。
森の奥、小さな洞窟の前に、少女が座っていた。
金色の髪、青い瞳。依頼書の絵と同じ顔だ。
「エマか?」
少女は驚いて顔を上げた。
「だ、誰……?」
「冒険者だ。父親に頼まれて、お前を探しに来た」
エマは一瞬、安堵した表情を見せたが、すぐに首を横に振った。
「だめ……帰れない」
「なぜだ」
「だって……」
エマは洞窟を指差した。
「この中に……友達がいるの」
ヴォルは眉をひそめた。洞窟の中から、微かに魔力を感じる。
「友達?」
「うん。三日前、森で怪我してる子を見つけて……助けたの。でも、その子、人間じゃなくて……」
エマは不安そうに続けた。
「角が生えてて……魔物なのかもしれない。でも、とっても優しくて……」
ヴォルの表情が変わった。
角を持つ子供。
「案内しろ」
「え? で、でも……」
「大丈夫だ」
ヴォルはエマの手を取り、洞窟の中へ入った。
そして、奥に見えたものに――ヴォルは息を呑んだ。
そこにいたのは、小さな子供だった。
いや、子供の姿をした魔族。
頭には小さな角が二本生えており、背中には未発達の翼がある。全身に傷を負い、弱々しく横たわっていた。
「この子が……?」
「うん。見つけた時、血だらけで……放っておけなくて」
エマは魔族の子供の額を優しく拭いた。
「名前はルナって言うの。魔界から逃げてきたって……」
ヴォルは魔族の子供――ルナを見つめた。
確かに魔族だ。だが、まだ幼い。おそらく五、六歳程度。
「なぜ、魔界から?」
「分からない……ルナは何も話してくれないの。ただ……『怖い』って、ずっと泣いてた」
ヴォルはルナの傷を見た。これは――
「戦闘の傷ではない。虐待の痕だ」
「虐待……?」
「魔族の社会は厳しい。弱い者は淘汰される。この子はおそらく……捨てられたのだろう」
ヴォルはルナに手を伸ばした。魔力で傷を探る。
内臓に損傷はないが、衰弱が激しい。食事も水分も足りていない。
「このままでは……死ぬぞ」
「そんな……!」
エマは泣きそうになった。
「でも、私……どうすればいいか分からなくて。ルナを街に連れて行ったら、きっと殺されちゃう。だから、ここで看病してたんだけど……」
ヴォルは考えた。
魔族の子供。人間の街では受け入れられない。魔界に返せば、また虐待される。
だが――
リリアの記憶が蘇る。
彼女が最期に望んだこと。家族への感謝。そして、誰かを助けたいという願い。
「……仕方ない」
ヴォルはルナを抱き上げた。
「えっ?」
「この子は私が引き取る」
「本当に……?」
「ああ。だが、お前は街に帰れ。父親が心配している」
「でも、ルナは……」
「心配するな」
ヴォルはルナに治癒魔法をかけた。傷が塞がり、呼吸が安定していく。
「私が責任を持つ」
エマは驚いた表情でヴォルを見た。
「あなた……誰なの?」
「ただの冒険者だ」
嘘だった。だが、今はそれでいい。
「さあ、帰るぞ」
ヴォルはルナを抱えたまま、エマの手を引いて森を出た。
――――
街に戻ると、ロベルトは涙を流してエマを抱きしめた。
「エマ……! 無事だったのか……!」
「ごめんなさい、お父さん……」
「謝らなくていい。無事で、本当に良かった……」
ロベルトはヴォルに向かって深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。命の恩人です。報酬は……いえ、報酬の倍、いや三倍お支払いします」
「いらない」
「え?」
「約束通り、娘を見つけた。それで十分だ」
ヴォルはルナを抱えたまま、その場を去ろうとした。
「待ってください! せめて名前を……」
「ヴォルだ」
それだけ言い残し、ヴォルは街へと戻った。
腕の中のルナは、安らかに眠っている。
「さて……困ったな」
ヴォルは苦笑した。
旅の初日から、魔族の子供を拾うことになるとは。
だが、不思議と嫌な気分ではなかった。
リリアが生前、望んでいたこと。誰かを救うこと。
「リリア……これで良かったのか?」
心の中で問いかける。
答えは返ってこない。
だが、胸の奥で、小さく温かいものが灯った気がした。
「まあ、いい。行き当たりばったりというのも、悪くない」
ヴォルは宿『眠れる竜亭』へと向かった。
こうして、世界最強の黒龍の旅は、予想外の出会いとともに始まったのだった。
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