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黒龍の戯れ①

 絶対領域を抜け、人間界への門をくぐったヴォラクシスの目の前に広がったのは、緑豊かな平原だった。


「これが……人間の世界か」


 リリアの記憶の中で見た風景とは違う。

 いや、彼女の記憶は病床に縛られた断片的なものばかりだった。家族の顔、優しかった友人、そして突然訪れた発病と絶望。なぜ彼女は治療を諦め、死を選んだのか。なぜ、わざわざ絶対領域まで来たのか。


「リリア……お前は何から逃げていた?」


 風が頬を撫でる。

 人間の感覚は繊細で、風の温度、草の匂い、遠くから聞こえる鳥の声――すべてが新鮮だった。


 地平線の向こうに、城壁が見えた。

 最初の人間の国だ。


 ヴォラクシスは黒い翼を広げ、一気に飛翔しようとした、その時。


「ひっ!」


 悲鳴が聞こえた。


 近くの草むらから、木の実を拾っていた少年が這い出し、震えながらヴォラクシスを見上げていた。


「ま、魔物……!」


 少年は顔面蒼白で、次の瞬間、国の方角へ全力で走り出した。


「魔物……?」


 ヴォラクシスは首を傾げた。

 確かに角と翼は龍の特徴だが、自分は人間の姿をしているはずだ。だが、リリアの記憶を辿れば理解できた。この世界では、角や翼を持つ者は悪魔か魔物とみなされる。


「面倒だな」


 そうこうしているうちに、城壁の門が開き、武装した兵士たちが馬に乗って駆けてくるのが見えた。


「そこにいるのは何者だ!」


 先頭の騎士が剣を抜き、叫ぶ。

 周囲を二十人ほどの兵士が取り囲んだ。槍、剣、弓矢、すべてがヴォラクシスに向けられている。


「魔界の者か! 国王陛下は魔物の侵入を一切許可しておられぬ!」


 ヴォラクシスは小さく溜息をついた。

 これくらいの人間、一瞬で全員消し炭にできる。だが、それでは旅は始まらない。


「待て。私は魔物ではない」


「嘘をつくな! その角と翼、どう見ても人間ではないぞ!」


 騎士の言葉に、兵士たちがざわめく。

 弓兵が矢をつがえ、魔法使いらしき者が詠唱を始めた。


 ヴォラクシスは面倒臭さに顔をしかめた。

 リリアの記憶にあった、人間社会の理不尽さと偏見。それを今、身をもって体験している。


「……仕方ない」


 ヴォラクシスは魔力を込めた。

 角と翼が光に包まれ、徐々に姿を消していく。擬態魔法――龍としての特徴を隠し、完全な人間の姿になる。


 ヴォラクシスがリリアの肉体を取り込んで龍人となった時、その姿はリリアの面影を色濃く残していた。

 長い漆黒の髪は腰まで届き、風になびくたびに夜空のように揺れる。顔立ちはリリアのもの――整った鼻筋、柔らかな唇、白磁のような肌。しかし、瞳だけは龍のもので、鋭い金色に輝いている。

 中性的な美しさ。女性とも男性とも取れる、儚くも凛とした容貌。


 光が消えた時、そこには黒髪の人間が立っていた。

 鋭い金色の瞳以外は、普通の人間と変わらない。


 兵士たちは困惑した表情で顔を見合わせた。


「今のは……幻覚か?」


「いや、確かに角と翼があった……」


 先頭の騎士が馬から降り、慎重にヴォラクシスに近づいた。


「お前……何者だ?」


「ただの旅人だ。ヴォラクス……いや、ヴォルと名乗っておこう」


 名を短縮した。人間らしい名前だ。


 騎士はヴォルを上から下まで見渡した。

 武器は持っていない。服装も質素だ。だが、その目には何か底知れぬものがある。


「旅人が角と翼を生やすものか」


「魔法の類だ。旅芸人の余興でな」


 嘘だが、人間は簡単に騙せる。

 案の定、騎士は半信半疑ながらも剣を下ろした。


「……怪しいが、今は魔物の報告が多い。念のため、国に入るなら身元保証人が必要だ。持っているか?」


「いや」


「ならば冒険者ギルドで登録しろ。それが出来ないなら入国は許可できん」


 騎士は踵を返し、部下たちに合図した。

 兵士たちは警戒しながらも、国へと引き返していく。


 ヴォルは渋々、城壁の門へと歩き始めた。

 角と翼を隠した姿は、ひどく窮屈で不快だった。


「人間とは……面倒な生き物だ」


 だが、心のどこかで少し楽しくもあった。

 これが人間の世界。リリアが生きた世界。


 門をくぐると、石畳の街が広がっていた。

 市場では商人たちが声を張り上げ、子供たちが路地を走り回り、生活の匂いが満ちている。


 龍として見下ろしていた世界とは、まるで違う景色だった。


「冒険者ギルド……か」


 ヴォルは人混みの中を歩きながら、リリアの記憶を辿った。

 彼女の故郷はどこだったのか。なぜ病を治そうとしなかったのか。

 その答えを探す旅が、今始まったばかりだった。


――――


幕間:崩れゆく均衡


 一方、その頃――


 魔界の玉座の間では、緊急会議が開かれていた。


 現魔王アザゼルは、王座に深く座り、額を押さえていた。


「黒龍ヴォラクシスの反応が……消えた?」


「はい、魔王様。三日前から、絶対領域にあった黒龍の魔力反応が完全に途絶えております」


 報告したのは、魔界四天王の一人、紫炎の魔将グラムだ。


 玉座の間には、魔界の重鎮たちが集まっていた。

 全員が困惑と恐怖の表情を浮かべている。


「まさか……誰かが黒龍を?」


「バカな! あの黒龍を倒せる存在など、この世界には存在しない!」


 ざわめきが広がる。


 アザゼルは深く溜息をついた。

 彼は三代前の魔王の時代に、若き日のヴォラクシスに挑み、完膚なきまでに叩きのめされた過去を持つ。

 あれから三百年、二度と龍に逆らわないと誓い、魔界の秩序を保ってきた。


「黒龍が消えた……ということは……」


「人間界との均衡が崩れるということです」


 グラムの言葉に、一同が息を呑んだ。


 この世界には暗黙の了解があった。

 黒龍ヴォラクシスという、誰も勝てない絶対的な力。

 それが世界の天井となり、人間界も魔界も、天界も、無謀な戦争や侵略を抑止してきた。


 なぜなら、世界の均衡を乱す者は、ヴォラクシスに滅ぼされるからだ。


「魔王様……これは、機会では?」


 若い悪魔貴族の一人が進み出た。


「黒龍が消えた今、我々は人間界を侵略できます。天界とも対等に渡り合える!」


「黙れ、愚か者!」


 アザゼルが一喝した。


「黒龍が本当に死んだという証拠はない。もし生きていて、我々が愚かな真似をすれば……次は魔界そのものが消滅する」


 玉座の間が静まり返る。


「しかし……」


 グラムが言葉を続けた。


「人間界も、天界も、同じことを考えているでしょう。黒龍の不在を確認し、次の行動に移る。放置すれば、いずれ戦争が起こります」


 アザゼルは重々しく頷いた。


「全軍に警戒態勢を敷け。そして……黒龍の行方を探せ。生死を問わず、あの龍に何が起きたのかを知る必要がある」


――――


 同じ頃、天界――


 純白の神殿で、大天使ミカエルは報告書を読みながら、苦い表情を浮かべていた。


「黒龍ヴォラクシス……失踪」


 周囲には、十二翼を持つ熾天使たちが居並んでいる。


「ミカエル様、これは神の思し召しでは?」


 若い天使の一人が言った。


「黒龍という、世界の癌が消えたのです。今こそ、魔界を浄化し、人間界に真の秩序をもたらす時!」


「愚かな」


 ミカエルは冷たく言い放った。


「黒龍は癌ではない。世界の楔だ。あの龍がいたからこそ、我々も、魔界も、無謀な戦いを避けてきた」


 ミカエルは千年前、神々の命を受けて黒龍討伐に向かったことがある。

 結果は惨敗。神界最強の武器も、神の加護も、すべてが無意味だった。

 あの日、ミカエルは悟った。黒龍は殺せない。ならば、共存するしかない。


「黒龍が消えた今……世界は混沌に向かう」


「では、どうすれば……」


「まずは情報を集めろ。人間界に諜報員を送れ。魔界の動きを監視しろ。そして……」


 ミカエルは窓の外、遥か下界を見下ろした。


「黒龍が本当に死んだのか、それとも……何か別の理由で姿を消したのか。

 それを突き止めるまで、我々は動くな」


――――


 そして、人間界――


 フェリシア王国の王城では、国王エドワード三世が、集まった将軍たちと円卓を囲んでいた。


「黒龍の反応消失……これは魔法学院からの報告か?」


「はい、陛下。観測魔法陣が、絶対領域からの龍の魔力を検知できなくなったと」


 老将軍が答えた。


 エドワード三世は顎に手を当てた。

 黒龍――それは人間界にとって、恐怖であると同時に、守護者でもあった。世界の均衡を保つ、動かぬ山。


「魔界が動く可能性は?」


「高いかと。そして……天界も」


 若い将軍が地図を広げた。


「陛下、この機に乗じて、周辺国も領土拡大を狙ってくるでしょう。

 黒龍の抑止力が消えた今、各国は力による支配を目論むはずです」


「……軍備を整えよ。だが、先制攻撃は禁じる」


 エドワード三世は立ち上がった。


「黒龍ヴォラクシス。あの龍は気まぐれだったが、秩序は守った。

 もし本当に死んだのなら……我々は未曾有の戦乱の時代を迎える」


 王の言葉に、誰も反論できなかった。


――――


 世界中が、黒龍の失踪に気づき始めていた。


 千年続いた均衡は、音を立てて崩れようとしている。


 まるで巨大な蟻塚をつついたように、世界は慌ただしく動き出した。


 そして誰も知らない。


 その混沌の引き金を引いた黒龍が、今、一人の人間として、小さな国の冒険者ギルドの扉を開けようとしていることを。


「さて……人間の社会とやらを、学ぶとするか」


 ヴォルは扉を押し開けた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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