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プロローグ 終焉の黒龍との邂逅と契約

  絶対領域――人間界と魔界の狭間に広がる、時間も空間も歪む混沌の地。そこに千年以上君臨する黒龍がいた。


 その龍の名はヴォラクシス。漆黒の鱗は星の光さえ飲み込み、その咆哮は次元の壁を震わせる。魔王を屠り、勇者を砕き、悪魔を喰らい、天使を引き裂き、神々さえも膝を折らせた伝説の存在。


 だが今、ヴォラクシスは退屈していた。


「また……何もない日か」


 巨大な身体を丸め、深い溜息をつく。最後に戦ったのはいつだったか。百年前、傲慢な神々が束になって挑んできた時か。それとも二百年前、魔界の七魔王連合が愚かにも攻めてきた時か。


 いずれも数刻で終わった。圧倒的な力の差。もはや戦いですらない、一方的な蹂躙。


「強さとは……こうも虚しいものか」


 ヴォラクシスは自嘲した。かつては力を求めた。より強く、より恐ろしく。そして今、頂点に立った。その先には、何もなかった。


 挑戦者は来ない。恐怖が世界を支配し、誰もがヴォラクシスの名を聞けば震え上がる。


「このまま永遠に……ここで朽ちるのか」


 その時だった。


 絶対領域を覆う紫の霧の中を、一つの人影がよろめきながら進んでくるのが見えた。


 ヴォラクシスは目を細めた。人間だ。それも、明らかに瀕死の状態。


「ほう……」


 千年の沈黙を破る、興味の萌芽。人間が絶対領域に到達することは、ほぼ不可能だ。この空間に満ちる魔力の濃度だけで、普通の人間は数秒で狂死する。


 それなのに、この人間は生きている。


「止まれ、人間よ」


 雷鳴のような声が空間を震わせる。人影――若い女性は、その声にも怯まず、さらに一歩、また一歩と近づいてくる。


 やがて力尽きたように、地に膝をついた。


 ヴォラクシスは首を伸ばし、女性の姿を見下ろした。青白い肌、陥没した頬、唇は血の気を失っている。だが、その瞳だけは――驚くほど強い意志の光を宿していた。


「問う。なぜ、ここに来た。どうやって、ここにたどり着いた」


 女性は荒い息をつきながら、顔を上げた。ヴォラクシスの巨大な龍の顔を、恐怖ではなく……どこか哀しげな目で見つめた。


「あなたが……世界最強の黒龍、ヴォラクシス……?」


「知っているのか」


「誰もが……知っています。世界の頂点に立つ……恐怖の象徴を」


 女性は苦しげに笑った。血を吐くように言葉を続ける。


「私は……リリア。ただの……人間です」


「それは見ればわかる。だが、なぜここに」


 リリアは震える手で、懐から一冊の古びた書物を取り出した。魔力を帯びた古代魔法の書だ。


「半年前……私は不治の病に冒されました。魔喰病……体内で魔力が暴走し……細胞を蝕む病です」


 ヴォラクシスはリリアの体を魔力で探った。確かに、内側から崩壊しつつある。黒い魔力の暴走が、彼女の生命を食い潰している。


「この世界の……どんな名医も、大賢者も、聖職者も……誰も治せませんでした」


 リリアは俯いた。


「最初は……必死でした。治療法を探して、国中を巡りました。でも……だんだんと分かってきたんです。これは治らない。私は……ゆっくりと、苦しみながら死ぬしかないんだと」


「それで?」


「私は……考えました。どうせ死ぬなら……せめて意味のある死を。苦痛に耐えながら朽ち果てるより……」


 リリアはヴォラクシスを見上げた。その目には、恐怖ではなく――静かな覚悟があった。


「最強の存在に殺されるなら……それは名誉だと。そして……」


「そして?」


「もしかしたら……あなたなら、私の魂を天国に送れるかもしれないと」


 ヴォラクシスは黙った。何百年も、そんなことを頼まれたことはなかった。皆、命乞いをするか、戦いを挑んでくるか、逃げるか。


 だが、この人間は違う。死を恐れていない。いや、恐れているが、それでも自分の意志で選んだ。


「この書物には……禁断の空間転移魔法が記されていました。膨大な生命力を消費する……一度使えば死ぬ魔法。私は……それを使って、ここに来ました」


「愚かな」


「ええ……愚かです」


 リリアは静かに笑った。


「でも……私には、もう選択肢がなかったんです」


 沈黙が流れた。


 ヴォラクシスは、初めて困惑していた。この人間は何なのか。恐怖も怯えもなく、ただ静かに死を受け入れている。


「リリア」


「はい」


「お前は……死ぬのが怖くないのか」


 予想外の質問だった。世界最強の龍が、死にゆく人間に、そんなことを聞くなど。


 リリアは少し考えてから、小さく首を横に振った。


「嘘をついても……意味がないですね。怖いです。とても」


「ならば、なぜ」


「でも……もっと怖いことがあるんです」


 リリアは自分の震える手を見つめた。


「このまま生きて……大切な人たちに看取られながら、苦しみ続けること。愛する家族に、私の醜く崩れていく姿を見せ続けること。彼らの人生を、私の看病で縛り付けること」


 彼女の声が震えた。


「母は……毎晩泣いていました。父は仕事を辞めて、私の看病をしてくれました。妹は……笑顔で励ましてくれましたが、夜中に隠れて泣いているのを知っていました」


「それが……何だというのだ」


「私は……家族を苦しめたくなかった」


 リリアは涙を流した。


「だから……消えることにしました。ある日突然、姿を消して……いつか、私を忘れてもらう。それが一番いいと思ったんです」


「……愚かな」


 ヴォラクシスは呟いた。だが、その声には棘がなかった。


「家族は……お前を忘れられるわけがない」


「分かっています。でも……せめて、これ以上苦しめたくなかったんです」


 リリアは力なく笑った。


「あなたには……理解できないでしょうね。永遠に近い命を持ち、最強の力を持つあなたには……弱く、儚い人間の気持ちなど」


 その言葉が、ヴォラクシスの心に突き刺さった。


 確かに、理解できない。


 だが――


「お前は……間違っている」


「え?」


「私は確かに永遠に近い命を持っている。最強の力も持っている」


 ヴォラクシスは大きく息を吐いた。


「だが……だからこそ、私は何も持っていない」


「何も……?」


「千年生きて、誰一人として本気で戦ってくれる相手がいない。私を恐れない者はいない。私と対等に語らう者はいない。私には……」


 ヴォラクシスは初めて、自分の孤独を言葉にした。


「失うものが、何もないのだ」


 リリアは驚いた表情でヴォラクシスを見上げた。


「あなたは……孤独なんですね」


「……そうかもしれん」


「なら……少しだけ、分かる気がします」


「何が」


「私も……孤独でした」


 リリアは夜空を見上げた。絶対領域の空には、歪んだ星々が輝いている。


「病気になってから……誰も私を対等に扱ってくれませんでした。みんな優しくて、気を遣ってくれて……でも、それが逆に辛かったんです。私はもう、普通の人間じゃない。『病人』という存在になってしまった」


「……」


「友達は励ましてくれましたが、それは友達としてではなく……『かわいそうな病人』に対する同情でした。恋人は……私が病気だと知った瞬間、去っていきました」


 リリアは自嘲した。


「家族だけは……最後まで支えてくれました。でも、だからこそ、私は彼らを解放したかったんです」


 ヴォラクシスは何も言えなかった。


 初めてだった。


 誰かの痛みに、少しだけ共感したのは。


「リリア」


「はい」


「お前は……本当に死にたいのか」


 リリアは長い沈黙の後、静かに答えた。


「本当は……生きたいです。家族と、友達と、もっと笑いたかった。恋をして、結婚して、子供を産んで……普通の人生を送りたかった」


 彼女は涙を流しながら、それでも笑った。


「でも……それは、もう叶わない夢です。だから……せめて、自分で最期を選びたい。惨めに朽ち果てるのではなく……自分の意志で、終わりたいんです」


 その言葉に、覚悟が滲んでいた。


 ヴォラクシスは、初めて一人の人間を――生き物として、意志ある存在として見た。


 弱く、儚く、すぐに壊れる。


 だが、その脆さの中に、龍には理解できない強さがあった。


「リリア。お前は……興味深い」


「興味深い……?」


「ああ。千年生きて、初めて出会った……私に『頼み事』をした人間だ」


 ヴォラクシスは決めた。


「取引を持ちかける」


「取引……?」


「お前の肉体を私に捧げよ。その代わり、お前の魂は私が責任を持って天国へ送る。そして……」


 ヴォラクシスは金色の瞳でリリアを見つめた。


「お前の記憶、お前の感情、お前の人生……それを私に見せろ。人間とは何か、私に教えろ」


 リリアは目を見開いた。


「私の……人生を?」


「ああ。お前は言った。私には人間の気持ちが理解できないと。ならば、理解してやろう。お前を通して、人間を知る」


 ヴォラクシスは少しだけ、声のトーンを落とした。


「私は退屈していた。この永遠とも思える孤独に、飽き飽きしていた。だが……お前を見て分かった。私が知らない世界が、まだあると」


「……」


「弱さ、脆さ、儚さ。それでも生きようとする意志。家族への愛。そういうものを、私は知らない」


 ヴォラクシスは頭を下げた――千年で初めて、誰かに対して。


「教えてくれ、リリア。人間とは何か。生きるとは何か。お前の命を私に預けろ。そうすれば……お前は無駄に死なない。お前の人生は、私という存在の中で生き続ける」


 リリアは涙が止まらなかった。


 初めてだった。


 自分の命を、こんなにも真剣に、対等に扱ってくれる存在に出会ったのは。


「あなたは……優しいんですね」


「優しい? 私が?」


「ええ」


 リリアは微笑んだ。


「世界最強の龍が……死にゆく人間に、こんなに真剣に向き合ってくれるなんて」


「……勘違いするな。これは取引だ」


「ええ、取引です」


 リリアは震える手を伸ばし、ヴォラクシスの巨大な鱗に触れた。


「契約は……成立です。私の体、私の記憶、私の人生……すべてあなたに捧げます。だから……」


「ああ」


「お願いします……苦しまずに、終わらせてください。そして……私の魂を、天国へ」


 ヴォラクシスはゆっくりと前足を伸ばし、リリアを優しく包み込んだ。


「お前の願い、確かに聞き届けた」


 魔力が満ちていく。温かく、優しい光。


「リリア。最期に聞かせろ。お前の本当の願いは何だ」


 リリアは目を閉じた。もう痛みはなかった。


「……もう一度、家族に会いたかった。ごめんなさいって、ありがとうって……ちゃんと言いたかった」


「そうか」


「でも……もう、いいんです。これで……私は自由になれる」


 リリアは最期の力を振り絞って、微笑んだ。


「ヴォラクシス……あなたも、いつか自由になれるといいですね」


 その言葉を最後に、リリアの命は静かに消えた。


 苦痛も、恐怖も、後悔もない――ただ安らかな終わり。


 そして彼女の魂は、純白の光となって天上へと昇っていった。


 ヴォラクシスは、その光が消えるまで見送った。


「自由……か」


 残されたのは、病魔から解放された肉体だけ。


「リリア。契約は果たした。ならば、私も約束を守ろう」


 ヴォラクシスは静かにリリアの肉体を食した。


 その瞬間――


 雪崩のように、リリアの記憶が流れ込んできた。


 幼い日の笑い声。母の優しい手。父の大きな背中。妹との他愛ない喧嘩。友達との秘密の共有。初恋の甘酸っぱさ。病の宣告を受けた日の絶望。それでも支えてくれた家族の愛。そして、最期の決意。


「これが……人間か」


 初めて知った。


 弱さも、脆さも、それが美しいということを。


 短い命だからこそ、一瞬一瞬が輝いているということを。


 失うものがあるからこそ、得るものに意味があるということを。


「リリア……お前は教えてくれた」


 ヴォラクシスの体が光に包まれていく。変容が始まる。


「私は、ずっと間違えていたのかもしれん」


 力だけを求め、頂点に立ち、そして孤独になった。


 だが――


「お前のような人間が生きる世界を……この目で見てみたい」


 光が消えた時、そこには一人の人間の姿をした龍人が立っていた。


 長い黒髪、鋭い金色の瞳、そして頭部からは二本の黒い龍角、背中からは六枚の漆黒の翼。


「これが……お前が生きた姿か」


 ヴォラクシスは自分の手を見つめた。小さく、儚い。だが、不思議な温もりがあった。


「リリア。お前との約束だ。お前の命を無駄にはしない」


 龍人となったヴォラクシスは決意した。


「この姿で世界を巡ろう。お前が見たかった世界を、お前の代わりに見てやろう。そして……お前が成し遂げられなかった『生きること』を、私が体験してやる」


 絶対領域の風が、新たな姿を撫でた。


「いくぞ、リリア。お前は私の中で生きている。だから……」


 ヴォラクシスは人間界への門を見据えた。


「一緒に、旅をしよう」


 こうして、世界最強の黒龍ヴォラクシスは、死にゆく人間リリアとの出会いによって、初めて『生きること』に興味を持った。


 そして、龍人として世界を放浪する旅が始まった。


 千年の孤独を終わらせる、新たな物語の幕開けだった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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