ブローデンの森
宝石のように青く澄んだ泉の水面に己の裸身を浮かせて、妖精族の剣士ヴァイオラは目を閉じて瞑想する。平地がちなブローデンで唯一の高山であるモンサルブス連峰の麓に位置する広大なブローデンの大森林は、土地の神話によれば最初の生命を生み出した原初の母の地であり、鬱蒼と生い茂った樹々の大海には今も妖精たちが住まう理想郷への道が残されていて、迷い込んだ者は二度と現世には戻れないと信じられており、人間も魔物もここに足を踏み入れるものは多くなかった。
そんな大森林の奥深くにその泉はあった。山が冬の間に蓄えた大量の雪解け水が枯れることなくこんこんと湧き続ける未踏破の秘境にヴァイオラはこうして定期的に訪れ、その冷たい水に体を浸すのを慣例としていた。
ハイランダー、創世人と呼ばれる最古の妖精種の一人であるヴァイオラにとって今まとっている肉体はただの器に過ぎない。大地に息づく活力である「大気」そのものの結晶である彼女らは大地の力と直接つながっているがゆえに本来食事も睡眠も必要としない。しかし、長年肉の身をまとっていれば綻びも出るし汚れも積もる。ことヴァイオラのように「武士」として数々の血生臭い場面に遭遇することの多い者にはその積み重なった返り血や怨念という「業」が肉の身を縛ることさえある。迂闊にその「業」を放置しておけば肉体そのものが汚れに染まって朽ち果てるとも限らない。だからこうして彼女はかつて己が「生まれた」場所に帰って来て、その身を洗い清めるのが長年の習慣となっていた。
エルフの細身の裸身が水面から消え、水面を幾重にも渡った波紋がその輪を広げていく。再び水面が凪をとり戻した頃に再び水面が盛り上がり、その身にこびりついた汚れを清め終わったヴァイオラが再び姿を現した。長く伸びた鏡のような銀髪から水が滴り落ちる。女性らしい特徴の薄いエルフの起伏の少ない裸身が木漏れ日を受けてキラキラと水滴を反射させていた。
「キレイねえ」
不意に発せられた声にヴァイオラは振り向く。泉の岸辺、静かに波打つ水際の草地に馬に乗った少女がうっとりした表情でこちらを覗き込んでいた。豊かな黄金の髪を靡かせ、薄衣一枚羽織っただけの少女は、純白の精悍な馬の背の上でヴァイオラに微笑みかけてくる。
「ねえ、妖精の花嫁のお話って知ってる?水浴びをしていた妖精さんがそれを見ていた人間の猟師に枝にかけていた衣装を隠されてしまって、理想郷に戻れなくなってしまった妖精さんは泣く泣くその漁師の妻になるっていうお話」
少女がくすくすと笑う。
「あなたも、このお召し物を取られちゃったら私のお嫁さんになってくれるのかしら。素敵、エルフの花嫁、私の自由にできる妖精女房ね、ふふふ」
「あいにくと」
その裸身を隠すこともなく堂々と泉の中央で上半身を見せるヴァイオラが無愛想に応える。
「私は武士だ。羽衣を盗られたところでいささかの困難もないし、人の妻として添い遂げる謂れもない」
「あら、そうなの」
少女はいささかつまらなそうに口を尖らせる。
「ブシっていうのはよくわからないけど、要は騎士様ってことね。妖精なのに鉄の剣を持っているなんて信じられない」
少女は無邪気に笑う。森の賢者とも呼ばれるエルフは樹木の精の末裔と言われ、伝統的に植物や動物の革や骨などといったものを好んで使い、木を切り大地や水源を汚す金属の部類を忌み嫌うことで知られている。そういう意味では、ヴァイオラは全くエルフらしくない。
ヴァイオラは少女を見つめる。このような森の奥深く、ましてや妖精の棲みつく神秘の森として恐れられているこのブローデンの大森林にたった一人で碌な装備も持たずに彷徨いているというだけで十分怪しい。彼女がただの人間であるとは到底思い難い。だとすれば、魔の者か、あるいは……
「森の処女、か……」
ヴァイオラが静かに言う。
「そう、これもよく聞くお話でしょ?私はこの森に育てられた、純潔無垢の乙女」
森の妖精に関して巷間に伝わる俗説の一つとして「人間の子を育てる」と言うものがある。捨てられた、もしくは自ら攫ってきた人間の赤子を親代わりとなって育てると言うものだ。妖精に育てられた子供は大抵は不思議な力や感覚を持つにいたり、さまざまな奇跡や事件を物語として残している。
なるほど、よくよく見れば少女を背にのせている純白の馬、その額には本来馬が持っているはずのない、螺旋状に表面が刻まれた長い一本角が伸びている。
白馬の正体は一角獣だったのだ。
ユニコーンは森の精霊の一種で、伝説によればその背に乗せるのは汚れを知らぬ少女だけという、潔癖な性格の持ち主だと聞く。少女はこの森でユニコーンに拾われ、今日まで森の中でユニコーンと共に暮らしてきたと言うことなのか。
「エルフのお姉さん、気をつけたほうがいいよ」
少女が何かを忠告する。
「ニンゲンが来るよ。最近、森の中にニンゲンが入ってくるんだ。私知ってる。ニンゲンは木を切って、草を焼いて、たくさんの生き物を殺すんだ。食べるんじゃない、ただ楽しむために殺すんだ。だから、ニンゲンが来たら逃げるんだよ」
本人もそのニンゲンであるにも関わらず、森の処女はにこやかにそう告げる。泉から上がったヴァイオラは体を拭くと東洋風の見慣れぬ民族衣装を順に羽織っていき、最後に腰帯に愛刀を差す。
「ご忠告痛みいる。なれど私のことは心配無用にて」
身支度を終えたヴァイオラは少女にそうだけ言うと少女の忠告などまるで興味もなしとばかりにツカツカと森の中へ戻っていく。
「ふーんだ、今だってすぐそこにいるから教えてあげたのに。アンタなんかニンゲンに食われて死んじゃえ」
森の少女は舌を出して顔をくしゃくしゃにする。一角獣はそんな彼女にお構いなしに泉の水を口にする。
「やめなよう、あんなエルフが入ってた泉の水飲むなんて……あっ」
ガサガサという大きな草ずれの音に反応してユニコーンが一目散に飛び去って消えてしまう。一人取り残された少女の前に、厳しい革服姿の青年が姿を現した。
「ニンゲン……!」
少女が驚いて逃げようと後ろを向く。男の方も突然目の前に現れた少女に驚いて手にした山刀を落としかけたが、すぐさま少女に追いついてその手首を掴んだ。
「はなせ!森から出ていけニンゲン!森を焼くな、生き物を殺すな、出てけ!」
男に掴まれて少女は激しく抵抗する。男は彼女を離さないままなんとか落ち着かせようとゆっくりと、優しき話しかける。
「安心しなさい危害は加えない。私は森林警備隊のレンジャーだ。森を焼くこともしないし、生き物も殺さない。その逆で、私は森で行われている不法な密猟を取り締まりに来たんだ」
「ミツリョウ……?」
「そうだ、この森に生息する希少な生き物を違法に狩猟して売り捌いている連中を追っている。君は森の居住者か?王国側には森番はいないはずだが、この近くに住んでいるのか?君、ここで角の生えた馬のような生き物を見かけたことはないか?
男の質問攻めも森で妖精たちに育てられた少女には半分も意味がわからない。だが最後に聞かれた角の生えた生き物についてはすぐさま見当がついた。
「はなせっ!」
少女が男の腕に噛み付く。一瞬怯んだ隙をついて男の拘束から逃れた森の少女は、親代わりの一角獣を追って森の中へ駆け込んで行った。
(そうだ、あいつ……おかしいと思ったんだ、エルフのくせに鉄の武器なんか持って!あいつ、そもそもエルフですらなかったのかも……!)
逸る心を抑えきれずに少女は走る。レンジャーの青年は少女を追いかけながら大声で叫ぶ。
「待ちなさい、ここは危ない、いつどこに密猟者が隠れているのかわからないんだ、戻りなさい!」
男の必死の呼びかけにも耳を貸さず少女は森の気配を頼りに一角獣を追って走る、走る。
「あっ!」
木々の間を飛ぶように駆けて行った少女が突然足を止めてつんのめる。ようやく男が追いついた頃には少女は青ざめた顔をして獣のような絶叫を挙げていた。
「しまった、これは……!」
少女の素足は鋭いギザギザの歯がついた鉄製の金輪に挟まれ囚われていた。バネ仕掛けで踏んだ者の足に噛み付く狩猟用の罠は、少女の足首に容赦なく食い込み、どくどくと血を滲ませていく。
「とらばさみか、ぬかったわ、見落としていたか」
少女が絶叫で舌を噛まないように無理矢理に布地を噛み込ませていた青年の後ろで声がする。驚いて振り向いた視線の先には、太刀の柄に手をかけたエルフの侍が腰を落として辺りを警戒していた。
「ヴァイオラさん⁉︎戻っていらしたんですか!」
「ん?なんだよく見たら孫の方のヘンリー坊やか、見ないうちに立派になったものだ。その姿を見るにお前さんも守人の跡を継いだか。代々ご苦労なことだ」
「は、はい……いや今はそれどころではなくて」
「わかっておる。動くと骨に食い込む。頼むから暴れてくれるなよ」
ヴァイオラは抜いた太刀を上段に構え、静かに振り下ろす。包国の太刀は寸分の狂いもなくとらばさみのバネを両断し、少女の足首はようやく拘束の苦痛から逃れる。
「こりゃあひどい、待ってろ今手当してやる、こら、暴れるなって!」
獣のように暴れる少女となんとか押さえつけようとするヘンリー青年をよそに、ヴァイオラは周囲への警戒を怠らない。
「ほら、痛くない、痛くない、痛いの痛いの王様のところへ飛んでいけ〜♪」
ヘンリー青年がおどけた顔をしながら歌を歌って少女を慰める。初めのうちは拒絶しようともがいていた少女もヘンリーのおかしな調子の歌に釣られて顔を緩める。
「なんだよそれえ、変な歌歌うなよお」
「そうかい?おじさんの娘っ子どもはみんなこの歌聴いたらすぐ元気になるんだがなあ」
慣れた手つきで揉み潰した薬草を木綿の布で包み、少女の傷口に当てて上から晒し布を巻く。その手際を見ながらヴァイオラが驚きの表情を見せていた。
「娘……鼻垂れの寝小便小僧だったあのヘンリー坊やが父親、だと……?私がおしめを替えてやっていたあの赤ん坊が……」
「やめてくださいよお、なんでこのタイミングでそんなこと言うんですかあっ!」
ヘンリー青年が顔を真っ赤にして抗議する。そのやりとりを見て森の処女の子も最初の敵愾心は薄れて少し表情が和らいでいった。
「さて、冗談はさておき、これだけご大層な仕掛けを仕込んでいるということは、狙いはあの一角獣か」
ヴァイオラが太刀を収めなが言う。その手は柄にかかったまま警戒は解かない。
「おそらくは。最近ヤミで出回っている希少動物の角や毛皮の価格がバカ上がりしているらしく、この森でも乱獲が問題視されています。国の方でも厳しく取締令が出ているのですが……」
「なるほどな。ではまず一人」
何気なくそう言うとヴァイオラは手首を返して木陰に向かって何かを投げつけた。うっと言う呻き声と共に何者かが喉元を押さえて倒れ込むのが見える。太刀の鞘に差してあった小柄と呼ばれる細身の剣がヴァイオラの手によって投げつけられ、隠れていた密猟者を一人仕留めたようだ。もちろん一人ということはあるまい、あと何人残っているか、ヴァイオラとヘンリーは背を合わせて周囲の気配を探った。
「うわああああああっ!」
絶叫を上げながら草色の狩猟着姿の男たちが草陰から殺到して来る。こちらの不意をついて襲撃した、という様子ではない。明らかに何かに慌ててやむなく飛びたしたといった様子だ。
「たた、助け……っ!」
何かを叫ぼうとしていた密猟者の一人にヴァイオラは容赦なく太刀を返して峰打ちでその鼻柱に向けて打ち込む。ものすごい勢いで飛び込んできた相手は勢い余ってその場で宙返りをするように宙を舞って昏倒した。
すぐさまヴァイオラは身を伏せる。当てずっぽうに打たれた短身の矢が頭上を虚しく掠める。その射手の方向に向かって何かが光の残像を描きながら突進していった。
「ひ、ひいいっ!」
大ぶりの弩を構えていたもう一人の密猟者はその光の突進に直撃し、杉の木を超えるほどの高さまで突き上げられ、絶叫と共に落下しそのまま全身を強く打って即死した。
突進した何かが激しくいななく。ヴァイオラたちに振り向いたそれは、幾本もの矢傷を負いながら、今しがた男を突き上げた螺旋の一本角を血に塗れさせながらこちらに激しい憎悪の目を向けていた。
「父さま!」
少女が満身創痍のユニコーンに向かって叫ぶ。同時に足首の痛みが再発し、その場でうずくまる。
「危ない!気が立っている、近づいてはいけない!」
ヘンリーが少女を庇う。青年の腕の中で少女はなおも絶叫する。
「違う、あれは私の父さまだ!私の……!」
森の少女はヘンリーを振り切って痛む足を堪えてユニコーンへと駆け寄る。
「父さま……!」
少女が一角獣に触れようと近づいた瞬間、血まみれの角が少女の腹に食い込み、そのまま弾き返した。
「⁉︎」
ヴァイオラがとっさに太刀を抜き、少女を庇って壁となってユニコーンの前に立ちはだかる。ちらと見た少女の腹からは痛々しい出血が無情にも流れ続けている。
「そん……な、なん、で……」
失血で意識を失いかけた少女が掠れた声で泣く。ユニコーンは今まで育てた人間の少女に向かって他の者と変わらぬ憎しみの視線を向ける。
「もう、乗れない、の?私がニンゲンに触れたから?それとも、私が、ニンゲン……だから?やだ、行かないで、父さま、ととさまっ!」
一角獣が雷鳴のようないななきを轟かせ、そのまま背を向けて森の奥へと帰っていく。太刀を構えていたヴァイオラは大きく雨域をつくと、再びその太刀を鞘に収めた。
「帰れ、と言っていたようだ、あの神獣は」
「帰れ、って……」
「知らぬ、私にはそう聞こえた、というだけのことだ」
「そんな、やだ、やだと、私、ここ、に……」
その言葉を最後に、少女は意識を失う。少女の首筋に手を当て、腹の傷の具合を見たヴァイオラはヘンリーに告げる。
「まだ息はある。急げば間に合うだろう。その後は、この娘が自分で決める。あとは任せた」
そう言って少女をヘンリーに託し、ヴァイオラもまた背を向けて森の中へと消えていく。あまりに非情なヴァイオラの態度に一瞬ヘンリー青年は色をなしたが、少女の命を助けるのが第一と思いとどまり、そのままヴァイオラに挨拶もせず少女を背負って急いで街へとかけていった。
森の外れへと姿を消した二人を見送りながら、
「我が血の穢れは、洗っても落ちぬものと見える」
そう一言だけ呟いて、彼女自身もまた森の奥へと消えていった。