吸血鬼
数え切れぬほどの人間が不自然なまでに長く伸びた牙を涎で光らせながらヴァイオラに襲いかかる。妖精族の侍である彼女は動ずることなく腰に帯びた愛刀「包国貞光」を抜き放ち、その二尺六寸八分の刀身を迷うことなく振りかざす。
ヴァイオラが剣を走らせるたびに何人もの敵が吹き飛んで行く。人間、ドワーフ、中には獣人も混じっている。様々な種族が老若男女問わずヴァイオラと、彼女が守る幼い少年を取り囲む。まるで別々の種族たちのはずの彼らだが、なぜか皆一様に同じような長い牙を口から伸ばし、ねばつくような涎を垂らしていた。
「怖くないか、少年」
ヴァイオラが落ち着いた涼やかな声で傍にしがみついている男の子に話しかける。少年は歯の根が合わぬのか、彼女の問いに返答することができずにガチガチと歯を鳴らすだけだった。
「無理もないか……では、私の背中から離れるなよ」
そう言うやヴァイオラは少年を背におぶると竜巻のような勢いで周囲の襲撃者たちを斬り伏せて回った。囲みを斬り開いて突破に成功すると、少年がヴァイオラの背越しに「あそこ!」と叫ぶ。地平線の向こうまで届きそうな墓石の並びのその奥に、朽ちかけた礼拝堂らしき姿が影となって映る。ヴァイオラは選択の余地もなくそこへ転がり込み、厚手の両開きの扉を乱暴に足で押し閉じると太いかんぬきをかけて襲撃者の侵入を阻止した。
「さて、一息ついたところで良いかな少年。この村で何があった?」
背中に張り付く少年をどうにか引き剥がしながらヴァイオラはことの顛末を尋ねる。彼女がこの村を通りかかったのは夜半過ぎであったが、その頃にはもうこの村ではあちこちから火の手が上がり、こんな時間にも関わらず大小様々な悲鳴が飛び交い、人々が逃げ惑っていた。混乱の中必死にしがみついて助けを求めてきた少年に事情を聞こうとした矢先にヴァイオラ自身も何者かの襲撃を受けた。
少年を庇いながらヴァイオラは鞘ごと包国の太刀を抜いて襲撃者を打ち払う。ゴキリと鈍い音が響いて吹き飛ぶ相手の姿を見てヴァイオラが逆に戸惑った。それほど力を入れたつもりはなかったが、相手に全く防御の意識がなかったのか、まるで抵抗なく衝撃を受け止めた首の骨は容易く折れてん人形のように地面に転がった。
見たところ女性のようだった。どこにでも見かけるようなありふれた前掛け姿の女は首の骨が折れたにも関わらず寝起きのようなゆったりとした動作で起き上がり、こちらに顔を向けた。少年はヒッと小さく声を上げ、ヴァイオラは目を見開いてその端正な顔を歪ませる。
女の口からは無数の牙が伸びていた。人間のものとは思えぬほど不自然に伸びたその牙から真っ赤な血が滴っているのが見える。自ら吐いたものか、それとも……
「おか、おかあさん……」
ヴァイオラにしがみついていた少年がガタガタと震えながら呟く。その声を聞いてか、牙の女は軋むような甲高い声を発しながら二人に向かって飛びかかってきた。恐怖ですくむ少年とは対照的にヴァイオラは武人らしく冷静に太刀を抜き、襲いかかってくる者を斬って捨てた。状況を見聞する間もなくヴァイオラは少年を抱えて走り出す。背後から感じる同様の殺気を鋭敏に感じ取った彼女はすぐさま行動に移し、少年を守りながらようやくここまで逃げ込んだと言う始末だった。
しかし、少年にもなんで村が突然このような凶事に見舞われたのか見当もつかなかった。この夜夜中だ、子供は寝ていて然るべきだからそれも致し方あるまい。ただ、少年は寝る前にいつもとは違う出来事が村にはあったという。
「あのね、お医者様が来たの」
少年が言うには王都に向かう途中の医者を名乗る男が前日の夜にこの村を訪れたのだという。医者は滞在中にご奉仕と称して村の住民たちの健康相談や簡単に治療など面倒を見てくれていたのだという。少年の母親もその医者の治療を受けて長年の持病だった腹痛持ちが軽くなったと喜んでいた。
「なるほどな。一つ聞くが、そのお医者様が診療を行なっていたのは昼か、夜か?」
ヴァイオラが少年を落ち着かせながら尋ねる。少年もようやく動揺かおさまったのか平静を取り戻し、首を傾げながら記憶を辿る。
「夜だったみたいだよ。そういえば今日は昼間はあの人の姿見なかったなあ」
なるほど、と言いながらヴァイオラは一人合点がいく。
「少年、落ち着いてよく私の話を聞きなさい。この村はもう魔の手に落ちた。ここは吸血鬼の餌場となってしまったようだ」
「き、きゅうけつ……」
「ここで朝まで待つ。そなたは日が登り次第近くの教会まで逃げてこのことを伝えなさい。教会ならば吸血鬼に対する備えもあろう。それまでは私がそなたを守る」
「で、でも……」
「良いな、決してここを動くなよ」
打ち捨てられた礼拝堂の、埃まみれのカビ臭い教壇の下に少年を隠し、ヴァイオラは周囲に警戒の目を巡らす。幸いにも聖域としての威光はいくらか残っていたようで連中も容易くは侵入できないでいるようだった。ヴァイオラは頭の中で状況を整理する。
どうやらこの村は通りすがりの吸血鬼によって住人はことごとく犠牲になったらしい。吸血鬼……ヴァンパイアともノスフェラトゥとも呼ばれる彼らは生き血を吸う高位の魔物だ。自我と高度な知能を持ち、動物に化けたり魔法を使ったりと様々な力で人間たちを襲って従わせる闇の軍勢の第一人者として知られている。
何よりも恐れられているその能力は、血を吸った相手もまた同じ吸血鬼になる、ということだ。信じられないことに彼らは敵を倒せば倒すだけ眷属を増やしていく。血を吸われた相手は自らも血を求める悪鬼へと変貌し、吸った者へ絶対の服従を強いられるのだ。その脅威ゆえに国も教会も吸血鬼を最大級の災厄と認定し、様々な対策を行なって撲滅に努めていた。魔物を使うとして有名な隣国ノルディアでさえ、吸血鬼は厳重な駆除対象とされている。
その甲斐もあってか近年では吸血鬼の存在を耳にすることも無くなった。が、どうやらかろうじて生き延びていたわずかな数の末裔が今もこうして闇に紛れて凶事に耽っていたのだろう。
状況は分かった。相手の正体が判明しているのであれば対処のしようはある。こと吸血鬼という存在に関してはその脅威度と同時に対策方法も古くから研究されており、彼らの苦手とするものは多く知れ渡っている。太陽の光、聖水、にんにく、聖なる印……
「ひとつもないではないか」
ヴァイオラがひとりツッコむ。仕方なしにヴァイオラは太刀を抜いて吸血鬼と化した村人たちの襲撃に備える。残っている吸血鬼はあと何人いるだろうか。幸いにも地方の外れにある村だ、たとえ吸血鬼が村の外に出たとしても隣の村にたどり着く前に朝が来て太陽の洗礼を受けることになるだろう。この一晩さえ凌ぎ切れば他にもうまく逃げ果せた村人が危難を知らせて早々に討伐隊がやって来るかもしれない。多少の楽観に帰結してヴァイオラは少し緊張を解く。とにかく、今目の前にある危難を凌ぎ切らねば先のことを考えても致し方ない。ヴァイオラは迫り来する邪悪な殺気にだけ全神経を集中させた。
「エルフか、エルフの匂いがするぞ。これはいい、妖精の血を飲むのは初めてだ。さぞ甘美な味がするだろうて」
重い樫の木のかんぬきを容易くへし折りながら何者かが歌でも歌うような軽やかさで呟くのが聞こえる。無造作に開かれた両開きの扉の向こうには、痩せた貧相な体格の男がニヤニヤとした笑みを浮かべながらこちらを見返していた。
「うん、うんうん。いいねえ、実にいい。エルフの体内に流れる精気、さぞかし良質なものであろう」
「オド……?」
ヴァイオラは眉を顰める。
「うんうん、無知な東のエルフにもわかりやすく教えてやろう。世界には二つの力がある。すなわち『大気』と『精気』だ。マナは世界を形作る力の総称、オドは命を司どる力の総称だ」
吸血鬼が生徒に授業を行う教師のような口ぶりで説明する。
「人も獣も、皆このマナの恩恵を受けて体内にオドを生成し、それを糧として生きている。我々永劫種は生命のオドを直接吸収することによって他の生命種よりもはるかに強く、長く生命を謳歌するのだ。わかったかな餌ども。わかったなら大人しく我が餌食となるがよい」
「お断りいたす」
ヴァイオラは問答無用に包国を振るって吸血鬼に打ちかかる。その神速の一撃に吸血鬼は避ける間も無く袈裟懸けにその一刀を食らった。
「ふむふむなるほど。で、それがどうしたと言うのだね?」
肩口から心臓にまで包国貞光の刃を食い込ませたまま吸血鬼が平然とした顔でヴァイオラに言ってのける。ヴァイオラも一瞬驚きの表情を見せるがすかさず太刀を引き抜いて後ずさる。吸血鬼の後ろからゾロゾロと彼に血を吸われ哀れな吸血鬼と化した村人たちが姿を現した。
「言ったであろう、誰よりも強く、長命だと。刃物で切ろうが火で焼こうが私には通じぬ。私は全ての生物の頂点に立つ者。お前らありとあらゆる生物は我が食糧として飼われているに過ぎぬ。はーはっはっは。ほら笑えものども」
吸血鬼に命じられて後ろの村人たちも表情を変えぬまま笑い声だけを上げる。完全に吸血鬼の意に従うだけの人形に変えさせられた彼らは、皆一様に長く伸びた牙を震わせる。
「さて、死なぬ体とは、難儀なものよな」
「そうではないぞ。私の恐怖も老いの苦悩もなく、ただひたすらに生の享楽にふける。これ以上の幸福など他にあろうか」
高らかに笑う吸血鬼の首をヴァイオラは容赦なく跳ね飛ばす。その勢いのままエルフの侍は手にした太刀を存分に振るって待ち構えていた村人たちを一切の躊躇なく叩き切って回った。杖をついた老婆を、腹を膨らませた新婦を、老いも若きも分け隔てなくヴァイオラはその全てを斬った。
暴風雨のような粛清の喧騒が鎮まり、息を荒げたヴァイオラが悪魔のような形相で虚空を睨みつける。生首だけになった最初の吸血鬼が動けぬ頭をなんとか逃がそうと切り離された胴体を操ってその手に取り上げようと試みる。そのうではヴァイオラによって叩き斬られ、吸血鬼の頭は再び床の上に落ちる。
「いてっ」
気の抜けた叫び声をあげなが男は顔を顰めたが、その頭もヴァイオラの太刀の一振りで容赦なく叩き潰され、熟れた果実のように弾けて四散した。
「死なぬと言ったが、どこまで切り刻んでも同じ事が言えるか?毛か、毫か?かまわぬ、そなたが『殺してくれ』と願い出るまでいくらでも細かく切り刻んでやろう」
砕け散った肉片はもう何も反応しなかった。生命の頂点と豪語していた吸血鬼もここまで細切れにされてしまっては「生きている」と主張するのは無理があったと見える。
「さて……」
吸血鬼の消滅を確かめてようやく太刀を収めたヴァイオラは少年の安否を確かめるために奥の教壇へと振り向いた。
その瞬間、ヴァイオラの腹部に何かが差し込まれるような感覚とともに激痛が走る。
「……!」
油断したつもりはなかった。周囲に殺気を纏った気配は感じられない。だのに、今ヴァイオラの目の前には錆びた鉄杭を深々と突き刺した少年が濁りのない瞳でヴァイオラに微笑みかけた。
「ありがとうお姉ちゃん。おかげで僕もご馳走にありつけるよ」
「お前、は……」
「あー、あのお医者さんね。僕が血を吸って色々教えてあげたらすっかり全部信じ込んで、自分が生物の王だ、吸血鬼だーって言い出して面白かったなあ。お母さんも、やめて、やめてって泣きながら僕から逃げるんだ。ひどいよねえかわいい息子に対して」
「どういう、ことだ……」
「別にぃ。僕が先に吸われたってだけのこと。誰に吸われたのかもう忘れちゃった。でもね。その人が言ったの『好きにしていいのよ』って」
「そいつ、は……」
「だか僕、お姉さんの血、吸うね。美味しいんでしょう、すごいんでしょうエルフのお姉さん。言ってたよあの人が。たくさん吸いなさい、彼女がチリになるまで、一滴残さず吸ってあげなさいって」
「やめろ、やめ……」
ヴァイオラの制止も聞かず、少年は彼女の首元に齧り付いた。長く伸びた牙がヴァイオラの細い首元に食い込み、その精気を吸う。ヴァイオラの顔が苦悶に歪む。逆に少年の顔は恍惚として蕩け、やがてその全身が燐光を放ってくる。
「すごい、すごいよお姉さん、力が湧き上がってくる。熱い、体が熱いよ……」
少年、の姿をした吸血鬼はひび割れた全身から漏れ出てくる光を見て初めて表情を変える。
「おかしい、おかしいよ。これ、精気じゃない。この熱いの、この痛み、これはまるで……」
吸血鬼の姿がボロボロと崩れかけていく。
「大気、そのものじゃない……か」
ヴァイオラが少年の頭を引き剥がし、教壇に叩きつける。崩れかけて頭だけを残した少年が完全に消滅する前に最後の言葉をつぶやいた。
「創世人……最古の、エル、フ……」
「……」
消滅した吸血鬼の残骸をヴァイオラが静かに見つめる。吸血鬼に齧られた首筋にはもう牙の痕もなく元の美しい素肌を取り戻している。ハイランダー、とうの昔に忘れ去られた神世の種族の呼び名を耳にしてもなおヴァイオラの心にはいささかの郷愁もなく、そのまま無言で彼女は礼拝堂を後にし、昇りかけた朝日を頼りに自分が進むべき街道をと戻って行った。