黒い森
少年がその少女を見たのは、峠を下る街道のちょうど底辺りでのことだった。緩やかな丘陵が延々と広がるこのウィンストンシャーの村にはかつて北方から押し寄せる魔族や蛮族に対抗するために南の大帝国が築いた長城の名残として街道と交わるように地平線の彼方まで石が列を成して伸びている。その街道にかかる石の一つに、彼女は行儀良く膝をそろえて座り、背筋を伸ばして祈るように目を閉じていた。
午後の放牧を終えて愛犬と共に羊たちを小屋に帰した羊飼いの少年は、見知らぬ女性の存在に驚き、かつその女性がただならぬ雰囲気を纏わせていることに気づいた。
陽の光を満遍なく反射する鏡のような銀髪、長く尖った耳、透き通るような純白の肌。妖精族と呼ばれる長命の精霊種を初めて目の当たりにした少年は、その美しさにただただ見惚れるばかりだった。
不思議な衣装を着ている。この辺りではとんと見かけることのない東洋風の民族衣装だ。西の果てに住まうというエルフの少女が遥か遠く、交易も断絶した東の衣装を身に纏っているというのもまた奇妙な話だった。エルフの少女は少年に気付いていないのか、目を瞑ったまま姿勢を崩さない。
道の途中でぼうっとエルフに見惚れて立ち止まっていた少年を置き去りにして愛犬はトコトコと歩を進め、やがて少女の元に辿り着く。犬は少女を見つめて吠えるが、なぜか途中で吠えるのをやめ、不思議そうに何度も小首を傾げている。
少年の目にも一瞬彼女の姿が薄らいで霧のように消えたように見えた。驚いて目を擦りながらもう一度彼女の座っていた石の列を見やる。エルフの少女は変わらずそこに座っており、先ほどと変わらぬ居住まいを見せており、その足元にいつの間にか愛犬がゴロリと横になって安心し切った顔で寝そべっていた。
「あ、あの……」
少年は思い切って声をかけてみる。まるで目の前にいる少女が夢か幻で、今にも消えてしまうのではないかというあらぬ想像を掻き立てられながら、少年は返事を待つ。
エルフの少女が、初めて目を開けて静かに少年を見返した。
「あの、ここで何をやってるんですか……」
羊飼いの少年はオドオドとした表情で尋ねる。足元の犬は太平楽を決め込んで腹を見せて彼女に甘えているようだ。これではどちらが飼い主かわからない。
「身体を休めておる。少々身体を痛めておってな、すぐ立ち去るゆえお気遣い無用」
少女は陶器の笛が奏でるような柔らかな美声で答えた。その古風な言い回しと異国風の佇まいが少年にはもの珍しく、初めて出会う異種族の少女に心をときめかせていた。
「どこか痛むのかい?旅の方?」
少年は好奇心を抑えきれず矢継ぎ早に質問を重ねていく。エルフの少女はその全てに応えることなく、ただ
「森を抜けて来た」
とだけ説明した。
「えっ!」
少年は驚きを隠せない。なだらかな丘陵の続くその向こう、遠く生い茂る『黒い森』は禁忌の森として母親からも村の人たちからも立ち入ることを固く禁じられていた土地だった。鬱蒼と茂った草木で道は塞がれ昼なお暗い未踏破の森は、古くから魔物などこの世ならざるものたちの住まう世界であり、近づく人間はことごとく引き摺り込まれ、悪魔のいけにえとされて生きたまま五体を引き裂かれて食べられてしまうのだという。子供の頃に寝物語に母親にそう言い聞かされて「言うこと聞かない子は森に捨てちゃうよ」と脅かされた少年は、その夜怖くて眠れかった思い出を持つほど、村の者にとっては避けて通る土地だった。
少女はその「森」からやって来たと言う。少年は思わず緊張して後ずさる。人の立ち入らない森から出てきた異種族の少女、言われてみればその腰にはゆるく反った長剣のようなものを携えている。あるいは人間を森に引き摺り込み、生贄としてその剣で生きたまま五体を……
「わんっ」
少年の愛犬が遠慮なしに少女の膝に乗ってその顔をペロペロと舐め始める。牧羊犬として飼われている犬だ。その身柄は大きく体重も重い。細身の少女は大型犬にのしかかられまるで包み込まれるようにその姿は犬の巨体に覆い隠されてしまった。
「少年、非常に申し訳ないが」
犬の蹂躙にも動ずることなく少女が変わらぬ古風な喋り口で少年に話しかける。
「できれば、この犬をどうにかしてもらえぬだろうか」
今更ながらに事態を察した少年は慌てて愛犬を少女から引き剥がす。すっかり犬の涎まみれになった少女はそれでも居住まいを見出すこともなく静かに懐から手拭き用の端切れ布を取り出して顔を拭く。
「す、す、す、すみませええんっ」
少年が取り乱しながらエルフの少女に謝る。少女はそれでも穏やかな佇まいのままその場を動かない。
「かたじけない。実は仔細あって肋が折れているようでな。それゆえ身体を動かすことができずにこうして身を休めていたのだ。申し訳ないが今しばらくここで休ませていただく」
エルフの少女はそう告げると、先ほどと変わらぬ静けさで再び目を瞑った。
「全く、猫だの鳥だの連れて帰ってくるのはしょっちゅうだけどさ、エルフの娘さんを連れてくるのは初めてだね。全く、何でもかんでも拾ってくるんじゃないよこのバカ息子」
そう言いながら年配の女性が羊飼いの少年の頭をこづく。
「しかしまあ、こんな別嬪さんが一人で旅なんか危ないったらないじゃないかさ。どんな事情があるのか知らないけど早いとこ一度お家にお帰んなさいよ、親御さんだって心配してるだろ」
そう言っておかみさんは豪快に笑う。
「ほれ恥ずかしがってないで早くお脱ぎ、あーもうこんなにくたびれて、ついでに洗濯しといてやるから脱いだ脱いだ。あーこら、お前は向こう行ってな、レディの玉のお肌を覗き見するんじゃないよクソガキ」
母親が少年の襟首を掴んで隣室へぽおんと放り出す。エルフの少女は半ば強引に上着を脱がされて細くしなやかな上半身をさらす。右の脇の下にかけて赤く腫れ上がった痕が浮かび上がっている。
「あーあーひどいもんだ。なんだいね崖から落ちでもしたのかい。ちょっと待ってな膏薬貼っときゃ腫れも引くだろうさ」
母親が台所の籠をさらって目当てのものを探そうと中身をぶちまける。
「ご母堂、お気遣いなく。手前はエルフゆえこの程度の傷は自然と治りまする。高価なお薬をいただくまでも……」
「なーに言ってんだい、困ったときはお互い様ってさあ。ほらよっ」
そう言いながらおかみさんは豪快にビターンと音を立てて彼女の傷口に薬草のエキスを染み込ませた布を当てて固定させる。
「ひいいいいいいっ!」
ほとんど表情を変えることのないエルフの少女が、膏薬の冷たさと肋に響いた痛みで珍しい声をあげる。
「はいおしまい。なーに気にするこたあないさね。うちの旦那も良く兵役で怪我して帰って来ちゃあこうして手当したやったもんさ」
おかみさんは恰幅の良い身体をゆすってケラケラと笑う。どうやら少年の父親は農閑期に都で兵役に駆り出されるものと見える。大きな戦こそ近年起きてはいないものの、国境を巡る国家同士の小競り合いやどこからともなく現れては狼藉を働く魔物への対応は後をたたず、こうした寒村の住民にまで兵役と言う名目で労働力として肉体労働を強いられるのは世の常だった。
「で、ヴァイオラちゃんだっけ?まーたお姫さんみたいな名前しちゃってさ。もう日も暮れちまったし、夜に『黒い森』の側を通るってのも縁起が悪いやね、せっかくだから一晩休んでおいき、無理に歩くと肋に響くしね」
「いや、そこまでご好意に甘えるわけには……」
「気にしない気にしない。なんだったら朝の水汲みでも手伝ってくれりゃそれでトントンさね。うちに客が来るのも珍しいし、それがエルフのお姫さんってえんなら孫の代までの語り草ってもんだ。袖擦り合うも他生の縁ってね。あははこりゃ旦那の口癖なんだけどね」
「……かえすがえすも、かたじけない」
エルフの少女は姿勢よく深々と頭を垂れた。
三人で食卓を囲む。キャベツと豆の塩茹でと麦粥ささやかな食事であったが、ヴァイオラはありがたく頂戴し、親子も久方ぶりの客との団欒に会話が弾み、その雰囲気を読んだのか愛犬までもがはしゃいで彼女の足元で嬉しそうに跳ね回っていた。
ご主人のベッドを提供されたがそれだけは固辞し、馬小屋のうず高く積まれた敷き藁に身体を預けて休んでいたヴァイオラが静かに目を開ける。彼女が馬小屋の外の景色をながめる。新月の夜半に目に留まるものも無かったが、エルフの視覚は遠い暗闇のその向こうから、なにかがやってくる気配を察知した。
「あれだけ斬ったが、まだ足りぬか……」
ヴァイオラは嘆息しながら手元に置いた太刀を握る。この東洋で鍛えられた片刃の長剣で、ヴァイオラはあの「黒い森」に住まっていた幾百もの魔霊を斬って斬って斬りまくった。かつて北の皇国軍が置き土産として残していった魔霊の巣、数十年経っても消えることなく土地を呪い続ける彼らを鎮めるため、ヴァイオラはその大元と対峙した。激戦の末にようやく斬って捨てたものの自らも深傷を負い、折悪しく夜も明けて魔霊どもは現実世界と幽冥との端境に逃げ隠れた。再戦を期して傷を癒していたヴァイオラの前に時を置かずして復讐に参ったということか。
ヴァイオラは静かに歩みを進める。例の峠の底に並ぶ長城の遺跡群の石列にまで来た頃には例の魔霊の群れは目と鼻の先にまで差し迫っていた。
ヴァイオラが抜き打ちに太刀を振る。その一の太刀で先頭の魔領が吹き飛ぶ。続いて二の太刀、三の太刀と刃を振るうたびに邪悪な影は消し炭となって夜の闇に同化していく。
しかし、斬っても斬っても魔霊は消えることなく次々と湧き出してくる。昨夜魔霊の大元たる「巣」は屠った。これ以上魔霊が増えることはないはずだ。この数百年のうちに溜まりに溜まった邪念、無念がどれほどの数の魔霊を生み出していたのか、痛む脇腹に顔を顰めつつヴァイオラは果てのつかぬ戦闘に没頭する。このまま朝が来るまでにヴァイオラが全ての魔霊を斬り伏せるか、あるいは力尽きるか、万全の体調とはいいがたいヴァイオラにとっては不利な賭けとなった。
(戦場において常に五体満足で臨めるものと思うなよ、とは師匠の教えであったな。未熟なり、未だ木鶏たりえず、か……)
魔物斬りに長じた剣の達人たるヴァイオラもさすがに息が上がってきた。このままでは世が明けるまでに全てを斬って落とすのは難しい。とはいえまた明日の夜に持ち越すのも……ヴァイオラの思考に焦りが混じり始める。
一瞬の気の緩みだった。太刀を握る手が僅かに力を抜いた瞬間を見計らって魔霊が勢いよく襲いかかり、ヴァイオラの太刀を叩き落とす。
「しまっ……!」
落とした太刀に拘泥せずヴァイオラは腰に差した直刀の脇差に手をかける。その手際も間に合わずヴァイオラに魔霊が殺到した。
無念、一瞬敗北を覚悟したヴァイオラだったが、予想された魔霊の襲撃が来ない。ヴァイオラは目の前の魔霊に突き刺さった無数の矢羽を見る。
その隙をついてヴァイオラはすかさず太刀を拾い、足止めされた魔霊を逆袈裟に斬り上げる。二刀を構えたまま距離を取ったヴァイオラは矢が飛んできたであろう場所に向けて振り向く。
兵士がいた。身につけている装備も手にした得物もバラバラな時代の兵士たちがそれぞれ弓を射、石を投げ、長槍で突貫する。いつの間に、どこから湧いてきたのか、兵士たちは臆することなく勇敢に魔霊たちに立ち向かっていった。
ヴァイオラはようやく気づいた。あの森に入る前から気になっていた、なぜこの村は魔霊たちの襲撃を受けていないのかという、その疑問の答えを得た。
古代に作られた、魔物の侵略から土地を守るために建てられた遺跡、あの長城跡は生きているのだ。
生きて、今もなお歴代の兵士の霊たちと共に北から押し寄せる魔物どもと戦い続けている。今もなお、一夜も休むことなく。
亡霊の兵士たちの援護を受けてヴァイオラは斬って斬って斬りまくった。数刻に及ぶ激戦の果て、ようやくヴァイオラが太刀を鞘に収めた頃にはもう地平線の彼方にうっすらと朝日の兆しが見え始めていた。
「ご助力、感謝いたし申す」
陽の光を浴びて一人また一人と消えていく亡霊たちに向かってヴァイオラは感謝を述べる。
「いいってことよ、袖擦り合うも他生の縁ってな」
亡霊の誰かが言った言葉にヴァイオラはハッと目を見開いて顔を上げる。無人となった牧草地は陽の光に照らされた朝露を反射させて地平線の向こうまで眩しくその身を輝かせていた。
朝の水汲みに早起きした少年が愛犬と共にヴァイオラの名を呼びながらこちらに向かって走ってくる。エルフの武士は、少年の父親が帰ってきていることを告げてやるべきか否か迷いながら少年の方へと歩いていった。