水車
コトン、コトン、とリズミカルな響きが旅人の耳に届く。この地方にしては珍しい雨に見舞われた旅のエルフは、いっときの雨宿り先を求めて家屋を探し、ようやく川沿いに建つこの粉挽き小屋に辿り着いた。
「御免、いずれかおられるか。一時雨しのぎに庇をお借りしたい」
見た目に反して落ち着いた古風な物言いをする旅の女性は、なるほど見ればその身に纏っている衣装も何処かの民族衣装らしき見なれぬ風体であった。頭からかぶるチュニックとは違い、布を後ろから羽織って前にできる合わせ目を帯で結ぶ様式は、ここより東の地方でよく見受けられるものだ。
旅人が声をかけても誰も応えない。仕方なしに彼女は玄関のわずかな庇に身を寄せて降り頻る雨から身を守る。水車小屋は遠目で見ていたよりもずっと大きく、小川の流れに比べてやや過剰なまでに大げさな作り見える。人の背の倍はあろうかという羽根車は、小川のささやかな流れを汲み取りながら力強く回っている。さらさらと降りしきる霧雨が旅人の量の裾を濡らしていく。
ふと、旅人は視線を感じてチラと横目を向く。粉挽き小屋の窓がいつの間にか半開きになっており、その奥から赤髪の巻毛をボサボサに伸ばした幼女が大きな眼でじっとこちらをのぞいている。目を合わせた旅人は物言わず軽く会釈する。幼女は瞬きもせずじっと旅人を見つめながら乳歯の抜けたばかりの口を大きく広げて言った。
「おねえさん、ようせい?」
目を輝かせた幼女の問いかけに旅人はいささか返答に迷う。確かに旅人の容貌は人間とはいささか趣を異にしていた。細身の長身、鏡のように光り輝く銀髪、そして野鹿のように長く尖った耳。
旅人は妖精族と呼ばれる神秘の異人だった。
「おっ母がお話ししてくれたやつだ!弓がじょうずで、まほうを使ってお空をとぶ、森のけんじゃ!」
空を飛んだことは無い。旅人はそう言いかけてかすかに苦笑する。確かに自分は遠き理想郷より迷い出た古の種族の末裔だが、もはや肉の身に囚われ妖精としての奇蹟も多くは失われた。今となってはちょっぴり人間より寿命が長い程度の存在にすぎない自分に、幼女がまるでおとぎ話に登場する精霊騎士でも見るかのような眼差しを向けてくるのが心苦しかった。
窓の雨戸がバタンと音を立てて閉じる。続いて屋内をドタドタと駆ける音が旅人の立つ玄関にまで近づいて来ると、勢いよく扉が開かれ、先ほどの赤毛の幼女が旅人に向かって飛びついてきた。
「きしさま。ようせいのきしさま!」
無邪気に抱きつく幼女を抱っこしながらエルフの旅人が尋ねる。
「ご両親はおられぬのか?一言ご挨拶をいたしたいのだが」
「ゴリョーシン?」
幼女がきょとんとした顔を見せる。
「ああ、お父上……おっとうはいますか?」
エルフが喋り慣れぬ今風の物言いで再び尋ねる。
「おっ父、川上に行った!雨で川の水がぞうすいしないかしんぱいだから見に行った!おっかあいない、もういない」
「……左様か。扉を開けてくれたと言うことは、中で雨宿りしてもよいと言うことでよろしいか」
「よろしい!」
幼女が旅人の真似をして厳しげにそう答えると、大きな口を開けて笑う。娘に案内された旅人は小屋の中で重々しく回る巨大な石臼を見る。川の流れを利用して羽根車を回し、その動力で石臼を回して穀物を挽く。幼女の親御さんはこの水車小屋の番人で、地元の農家から預かった収穫物を脱穀したり粉にしたりするのが生業なのだろう。
旅人は雨に濡れた外套を脱ぎ、近くにあった椅子に腰掛ける。幼女は警戒することもなく彼女の膝の上に乗り、母親が作ってくれたであろう端切れを縫い合わせてこしらえた人形を大事そうに抱えている。
「ようせいさん、お名前は?」
赤毛の幼女が真っ直ぐに見上げながら旅人を見つめる。
「ヴァイオラ。菫御前という意味だ。私にはいささか不似合いであるがな」
旅人が少し顔をしかめて名乗る。どうやら彼女は自分の名前をあまり好んではいないらしい。
「すてき!ほんとうにおとぎ話のようせいのきしさまのお名前なのね、かっこいい!」
「ああ、私の名もその妖精の騎士の伝説にあやかってつけられたものだ」
古の時代、この地方が南の帝国と北の蛮族との板挟みになって圧政に苦しんでいた頃、民衆を率いて初めての独立した統一王朝を築いたという初代国王と彼に従う英雄豪傑の伝説はこの国に住むものならば一度ならず耳にしたことがあるはずだ。その伝説の一人の名を名乗る気恥ずかしさに旅人は再び顔をしかめる。
「お話し、ようせいさんのお話しきかせて!お腰のものはなあに?どうしてようせいさんはお耳がそんなに長いの?」
幼女が矢継ぎ早に質問を繰り返してくる。旅人……妖精族の少女ヴァイオラはそんな彼女の質問攻めを嫌がることもなく誠実に一つ一つ説明してやる。ヴァイオラの膝にしがみつきながら幼女は目を輝かせてさらにお話をねだる。
不意に石臼からパキッと何かが弾けるような音が響く。挽いていた小麦の中に小石でも混ざっていたのか、砕ききれぬ混ざり物を巻き込んだ石臼がその勢いに任せて異物を弾き飛ばし、その礫が膝の上の幼女の顔目掛けて飛びかかる。
刹那、再び何かが弾ける音が鳴り響き、少女を襲った小石はあらぬ方向に弾け飛んで土壁にめり込んだ。少女はそのことに気づ来もせずに相変わらずヴァイオラにお話の続きをねだっている。エルフの旅人は先ほど飛んできた小石を弾き返した腰の長剣の柄を静かに下ろし、何事もなかったように少女の相手を続けていた。
ヴァイオラの耳がピクリと反応する。エルフの聴覚は人間より遠くのかすかな響きも余さず捉える。彼女はこの小屋に近づいて来る成人男性の足音を聞き分け、同時にその足取りに殺気が籠っていることも察知した。ヴァイオラは少女を膝から下ろし、彼女を玄関から遠ざけるように庇いながら腰に下げた長剣に手をかける。
壊れそうな勢いで玄関の扉が開く。姿を見せた肉厚な大男は、中にいる二人を睨みつけながら、雨でぐしょ濡れになった衣服の雫を振り散らしながら手にした鋤を構える。
「おっとう!」
ヴァイオラの後ろに隠れていた赤毛の幼女が男の姿を見るやヴァイオラの静止も聞かずに男に飛びつく。男はなおもヴァイオラに警戒しながら娘を庇い、鋤の歯を旅人に向ける。
「よそ者が何の用だ、徴税人でもない者が勝手に小屋に入るな、出て行けっ!」
見知らぬ者に対する警戒、という以上に殺気だった様子で粉挽き小屋の主人らしき男ががなりたてる。水車の粉挽きという職人は、通常近所の農家から依頼を受けて収穫した作物を脱穀したり小麦粉を挽いたりするのが生業だ。その手数料として収穫した作物の幾分かを貰い受けるわけだが、自分で作付けをすれわけでもなく自分たちの上前をはねる彼らを農家の連中は激しく嫌っている。ここの主人もご多聞に漏れず周囲から疎まれ、その反動としてこのように攻撃的な態度を見せているとしても無理なからぬことではある。
だが、それを見越しても男の振る舞いは尋常のものではなかった。
「おっ父、ちがうんだよう、あたいがようせいさんを入れてあげたの。あたいのおきゃくさんなんだよう」
幼女が必死になってヴァイオラを庇ってくれている。そこで小屋主はようやく目の前にいる旅人がエルフの少女であることに気がついた。
「エルフだと?も、森の魔女め、やはり……!」
「ご主人、何を怯える」
椅子に座したままエルフの旅人は静かに声を発する。目の先に据えられた鋤の歯にもまるで意に介さない。
「な、何を……」
男はそこで初めて動揺を見せる。
「ご主人、ここは良い水車小屋だ。こんなに細い川のわずかな水流で実に良く働く。いささか働きすぎに見えるほどにな」
「!」
小家主の目が大きく見開かれる。
「いや、実に働き者の水車だ。こんな季節にも、まるで、自分で動いているように見えるほどにな」
男が無言でエルフの少女に向かって鋤を突き立てる。幼女の悲鳴が小屋うちにこだました。
エルフの端正な顔を貫いたかと思われた鋤は彼女にわずかな動作で見事に躱され、虚しく大麦の入った麻袋の山に突き刺さった。
「ご主人、そなた悪魔と契約したな。水車を回す働き手として悪魔を召喚し、血の代価でもって使役したか。何を捧げた?さしずめまずはその子の母親を捧げたか、餌が尽きて今度は娘御の命を供物にくれてやるつもりか!」
「ちがう!そ、そんなことはせぬ、ただ、一日にわずかな純潔な精気を分け与えるだけで事足りる!」
「笑止な……あれはただ待っているに過ぎぬ」
「な、何を?」
「言わずもがな、食べ頃に育つのをだ!」
エルフが言い放った瞬間、小屋いっぱいに地響きのような軋み声が唸る。ギギギと不快な音を立てて水車がその回転速度を早め、石臼が目にも止まら似ような速さで踊り出す。ヴァイオラを目掛けて無数の礫が石臼から撃ち出される。恐ろしい速度で放たれた小石が小屋の中を跳ね回り、木戸や作業台を打ち破り、堆く積み上げられた麻袋に穴を穿ち中から小麦の粒が滝となって流れ落ちる。
四方八方から飛び散る小石を舞うように躱しながらエルフは再び腰に佩いた長剣に手をかける。ガリっという鈍い音と共に真正面から尖った黒曜石の破片が螺旋を描くように回転しながらヴァイオラめがけて撃ち出される。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在……前!」
裂帛の気合いと共にエルフが剣を走らせる。抜き打ちざまに斬った黒曜石が真っ二つになって左右に飛び散る。目にも止まらぬ速度で振り抜かれた彼女の剣は、浅い反りの片刃をギラリと輝かせながら水平に構えられる。
「やめ、やろおおおおおおっ!」
小屋の主人の絶叫も虚しく、ヴァイオラは構えた剣を水車が回す複雑な組み合わせの歯車たちの中に突き刺した。素焼きの陶器を素手で引っ掻いたような耳障りな叫び声が響き、歯車の中から黒光りする粘液がまるで意思を持つかのように動き、悶える。
ヴァイオラは高く結われた長髪を振り翳しながら容赦なく二度目の突きをその不定形のなにかに食らわせた。青白い燐光を発しながら生きた油のような存在は静かに燃え尽き、黒い炭の細かな粒子となって霧散した。働き手を失った水車はもはや小川の水流だけではその重い羽根車を回すには能わず、ただ沈黙を続けるだけだった。
「ああ、なんてことだ……せっかく、せっかくうまく行っていたというのに……」
膝をついた粉挽き小屋の主人が絶望に青ざめた顔で打ち震える。
「もうこれでは頼まれた分の粉挽きはできない……よくも、よくもやってくれたなこの魔女め!ほんのちょっと娘の精気をくれてやるだけでアレは満足してたんだ、それを、それを……!」
懐から懐紙を一枚抜いて刃を拭うと、エルフの旅人は男の叫びに耳を傾けることもなく静かにその片刃の長剣を鞘に収めた。
「なぜだ、なぜこんな余計なことをする!ほっといてくれれば誰も不幸になんかならなかった、何故だ!」
「ひとえに、主命ゆえ」
ヴァイオラは冷ややかに瞼を閉じてそう答える。
「しゅ、主命だと……ただそうと命じられただけでわしらの生活を、わしらの暮らしを踏み躙ったと言うのか!出て行け、出て行けこの魔女め!エルフの疫病神、呪われるがいい、薄汚い、お前こそ、お前おこそ魔物そのものじゃないか……っ!」
男の罵倒は止まらない。ヴァイオラは何も言わずに一礼すると、入ってきた玄関を潜って小屋の外に出た。
「ようせいのきしさま、もういっちゃうの……?」
事情の飲み込めぬ幼女が父親の錯乱ぶりに戸惑い怯えながらヴァイオラに問うた。
「私は、妖精でもなければ騎士でもないよ」
ヴァイオラは膝をついて幼女の視線の高さにまで腰を下ろし、静かに語る。
「私は、ただの『武士』なのだから」
そう告げると、エルフの武士ヴァイオラはもう振り返ることもなく、次の目的地を目指して長い旅路に戻って行った。