3-11 ファーストコンタクト
「あっ……」
謁見室に向かう長い階段から、慌てるように下りて来る少女が一人。
サイドを編み込んだ肩下ほどの長さの淡いブロンドに、淡い紫色の瞳。
一瞬皇妃様の侍女が呼び止めに来たのかと勘違いしてしまったのは、その恰好があまりにも“姫君の恰好”とは違っていたからだ。清楚といえば聞こえはいいが、その生地が上等でなければ、エプロンを忘れたメイドか何かに見間違えたことだろう。
あぁ、なるほど……確かに“そっくり”ではないけれど、どことなく既視感を感じる。他でもない、鏡の中で見る自分の姿への既視感だ。顔立ちも髪型も似ているということはないのだが、色合い……あるいは背格好。いや、ただの漠然とした雰囲気のようなものだろうか? 確かに、十五、六歳頃の自分はこんな感じだったかもしれない。
「姫様……」
「ヴィオレット嬢ね」
最後に見かけたのは八年半前。あの時はまだ母親の影にすっぽり隠れるくらいの小さな子供だったが、確かにあの頃の面影がある。
つい先ほど、アルトゥールに皇太子妃を常識知らずにしないために会わないといったばかりなのに……何故こうなったのか。できる事ならば、ここで顔は合わせたくない。
皇太子妃と言われて信じらえるような格好でもなければ、侍女もいない。だから多少無礼な扱いをしたところで咎められる謂れもない。むしろ不躾に声を漏らして公女を呼び止めた相手に相応しく、パサリと開いた扇子で口元を覆って無視すると、そのまま踵を返した。
「あっ。ま、待って……」
何か聞こえたが、聞こえぬふりをする。正式な場でもないのに、このような場所で呼び止め合っていい関係ではないはずだ。
だがそう扉に向かい足を踏み出そうとしたところで、「待ってください、“王女殿下”!」というヴィオレットの言葉に、再びキュッと足が止まることになってしまった。
思わず振り返ってしまったのは失敗だった。無視してしまえば簡単だったのに。
「お呼び止めして申し訳ございません。ですがどうしてもお会いしたくて声をかけてしまったのです。どうかご無礼をお許しください……“王女殿下”」
握っていた扇子の骨が一本、思わずこもった指の力に、音を立てて割れた。
今この子は……何と、言っただろうか。王女? 聞き間違いか?
いや……リディアーヌのなかでブワリと巻き起こった黒い感情。この耳は今間違いなく、その言葉を聞きとめた。
「どこのどなたとお間違えなのか知らないけれど。本来であればまだ城の外にいるはずの皇太子殿下の婚約者が、皇王陛下への謁見に来た国賓を私的に呼び止めるのは褒められた行為ではないわよ。見なかったことにするから、もうお行きくださいな」
引っ掛かりはするが、下手に突っ込むより、知らぬ存ぜぬでいた方がいい。そうあしらって再び踵を返そうとしたが、「ご無礼は承知の上なのです!」という言葉が再びリディアーヌに足を止めさせた。
承知しているならしないで欲しいものである。
まったく……アルトゥールは何をしているのだ。花嫁の管理が成っていない。
「私、少しだけでもお話を聞いていただきたくて。あの、殿下には小さな頃にお目にかかったことがあるのですが、覚えていらっしゃいませんか?」
ヴィオレット……やっぱりだ。この子は“知っている”。八年半前に会ったきりのリディアーヌを覚えている。
だがだとしたら、アルトゥールはどっちだ。彼はヴィオレットから聞いているのか? いないのか?
どうする。どうしたらいい。探りを入れて余計な情報を漏らすわけにはいかない。だがこのまま黙っておいたとして、いつヴィオレットから情報が洩れるとも限らない。
「姫様……私は存じていないのですが。殿下のご婚約者とご面識がありましたか?」
さも自然であるかのような体で声を掛けてきたフィリックの言葉に、はっと顔をあげた。こちらを見る淡々と落ち着いた視線が、リディアーヌに冷静な思考を促しているかのようだった。
そうだ。焦る必要はない。もしも知られているとして、こっちはいつも通り。ただしらを切ればいいだけだ。
「いいえ、初対面だと思うのだけれど」
「いえ、王女殿下とは以前……」
「ねぇ……貴女が私を“王女”と呼ぶのは、クロイツェン風の“嫌み”なのかしら? 到着早々、大した洗礼ね」
「え?」
びっくりしたような顔のヴィオレットに、一つ息を吐いて見せた。このすみれ姫のことを、賢いだの優秀だのと評したのは一体どこの誰なのだろうか。驚きである。
「ッ、ご、誤解ですッ! 私はただ心から王女殿下にっ」
だがその微塵も配慮のない大きな声が、「王女?」という疑問符を浮かべた言葉を呟きながら、厄介な皇子様を引き寄せてしまった。最悪の状況だ。
だが、あっ、と顔を跳ね上げたヴィオレットが気まずそうに顔をそらすのを見ると、どうやら彼女はアルトゥールに“リディアーヌ王女”のことを話していないことが察せられた。
何故ヴィオレットがそれを話していないのかは不審極まりないところだが、それでも誓約が守られていることは不幸中の幸いだ。おそらく、ベルテセーヌ王室で“リディアーヌ王女の死”という神への誓約が結ばれた時、ヴィオレットもその中にいたのだ。彼女は神に誓って、他人に王女の生存を漏らすことが出来ない。少なくとも彼女が信仰心を持っている限りは、そういうことになる。
「トゥーリ、城の管理が成ってないわよ」
「……すまない、リディ。事故が起きたようだ」
「はぁ?」
明らかに故意だろうに、しれっと流そうとしやがって。
生憎と今はこのドロドロと胸の中につっかえる感情に、友人と言葉遊びを楽しんであげる余裕が存在していない。
「手順を違えたことは俺から詫びる。ヴィオレットは随分と君に会いたがっていたのに、俺だけ会ってしまったから、叱れないんだ。ちょっと目こぼししてくれ」
「目こぼしって……」
あら、どうして貴方のために? なんて張り付けた笑みを浮かべたところで、こんな顔に慣れ親しんでいる友人には効果がなかったらしい。逆にこそばそうに苦笑されてしまった。はぁ。
「ヴィオレット、皇王陛下に謁見に参った国賓を留め置くのは体裁が悪い。もういいいか?」
「はい……大切なお客様に失礼を働いてしまいました。申し訳ありません」
この様子は、仲睦まじそう、と評していいのか。正直、アルトゥールの取り繕ったような対外的な顔が気持ち悪い。
さっさと去ってしまいたいところであるが……なにやら、腹が立ってきたな。少しくらいは嫌味を返したっていいんじゃないだろうか。
「トゥーリ、こんなことで私に時間を割くよりも、もっと他にヴィオレット嬢を紹介すべき相手がいるんじゃないかしら?」
「君達以外に礼儀を冒してまで俺が取り込まねばならない人物が他にいるとでも?」
変なことを言うんだな、なんて言うこの遠慮の欠片もない友人を一度思い切り殴ってみたいのだが、その機会が中々訪れないことを心から残念に思っている。
「例えば、セザール王子とか? 私にも“すぐに会いたい”だなんてお誘いが来ていたわよ」
だから代わりにとっておきの名前をあげてみたところ、案の定、アルトゥールが眉をしかめてくれたけれど、対するヴィオレットはなぜかキョトンと首を傾げただけだった。
なんだその、まるでもうベルテセーヌなんて全く無関係ですみたいな顔は。縁を絶つなら絶つでもいいが、その顔は無恥が過ぎやしないだろうか。
「じゃあ。非公式な対面はお互い不本意でしょうし、私はもう失礼するわ」
ただこれ以上は到底話していたい気になどならなかったので、早々と退席を切り出すことにした。
ヴィオレットはまだ何か言わんと口を開きかけていたようだったが、「あぁ、また後で」というアルトゥールの言葉に遮られたのをいいことに、リディアーヌは今度こそ踵を返した。
***
「気が立っておいですか? 姫様」
馬車に乗り込むなりそうフィリックは言ったけれど、その問いには即答しかねた。
これは、気が立っているのだろうか? それとも気が滅入っている方だろうか?
「よく分からないけれど。気分が悪いことだけは確かね」
「それは仕方がありません」
「どう思う? フィリック。以前多少かかわりはあったとはいえ、私にとってヴィオレット嬢は先ほどがほとんどファーストコンタクトよ。わざわざ礼儀を冒してまで私に会いに来たのは何故? 私をわざとらしく“王女”と呼ぶだなんて……どんな意図だと思う?」
「判断材料が足りませんが、少なくとも敵意は感じませんでした。“知っている”ことは間違いありませんが、それを皇太子殿下に話されているという様子もありません。勿論、演技の可能性もありますが」
「私にもそう見えたわ」
だとしたら“王女”というのは、うっかり口をついて出た言葉なのだろうか?
親の罪に子は関係ない。そうは思っているけれど……やはり、気分のいいものではない。
「ふぅ……やっぱり駄目ね。オリオールの娘に、あれほどわざとらしく“王女”と呼ばれるだなんて……吐き気がするわ……」
いや、冗談ではなく。リアルに気分が悪い。
そんなリディアーヌの青い顔に気が付いたらしいフィリックが、「失礼します」と席を立つと、周囲にたっぷりとクッションを重ね置いてくれた。そこにどっさりと倒れ込むと、多少楽になった。
だがズキズキと頭が痛んで目が眩む。
「馬車を止めますか?」
「必要ないわ。ただちょっと、気力という気力が逃げ出した状態よ……」
「無理もありません」
そう呟いたフィリックは気を利かせたのか、それから馬車が迎賓館前に着くまで、何も言わずに休息を与えてくれた。
馬車が着く頃には多少マシになっていたが、それでも顔色は悪かったので、馬車から下りるのに手を貸しながら、マーサがとても心配してくれた。
ただ、今後の予定をキャンセルすることはできない。ヴァレンティン家に声をかける貴顕が多いことを誇示するのは、家の立場として、また選帝侯家として必須だ。滞在中は少しでも多く、ヴァレンティンがどれほどの影響力を保持しているのかをクロイツェンに見せつけておかねばならない。
「大丈夫でございますか? 姫様」
「いっそ心の底から腹を立てて憎んでしまえば楽かしら?」
「一体、何がおありに?!」
事情を知らないマーサがびっくりと瞬きしたところで、「何でもないわ」と誤魔化した。
体調が悪いのは気分が悪いせいだ。精神的なことだから、問題はない。この程度で駄目になるような、半端な生き方はしていないのだから。
「できる事なら、昼食くらいはゆっくり気楽に取りたいものね」
「ザクセオンの公子殿下にでもお声がけしますか?」
「……」
どうしてそこでマクシミリアンなのよ。なんて言葉が喉から出かかったけれど、結局その言葉が口からこぼれることは無かった。
なんてことだろう。否定、できないだなんて。




