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1-2 公女と公子

「姉上」


 書類をめくりつつ、高官達に囲まれて本城の執務室に戻ると、応接用のソファで天使が出迎えてくれた。

 ぱっと華やかに微笑んだ少年の名はフレデリク。兄エドゥアールのたった一人の忘れ形見だ。

 ふわふわとしたプラチナの髪はリディアーヌともお揃いだけれど、大きなブルーグリーンの瞳は兄の面影を思い出させる。この顔こそが、この城一番の癒しである。


「デリク、いつこちらに? 留守にしていてごめんなさいね」

「いいえ、いい子で待っていました」


 きっと後ろに控えている公子府の侍女長に、いい子で待っていましょうね、とでも言われたのだろう。余りの可愛らしさに、つい全員揃って頬を緩ませてしまった。


養父上(ちちうえ)からお手紙があったと聞いて参ったのですが……お忙しかったですよね?」

「そんなことないわ。この世に私が貴方以上に優先するものなんて一つもなくってよ」


 こちらにいらっしゃいと執務席に向かいながら手招きをしたリディアーヌに、フレデリクはまだチラチラっと高官達の様子を窺っていたけれど、彼等が好々爺(こうこうや)とした面差しで頷くのを見ると、「少しだけ、姉上を貸して下さいね」と言って駆け寄ってきた。

 うちの子、ちょっと可愛過ぎるのではなかろうか。

 そんな可愛い弟……正確には甥なのだが、大公の同じ養子女という意味で義理の弟にあたるフレデリクを膝の上に抱き上げると、机に置いたままにしていた手紙を持たせた。

 養父から届いた手紙だ。それをフレデリクの大きな瞳が一生懸命に追う。


「姉上、この単語はなんでしょう? ヴ……?」

「ヴェ・ゼ。皇帝陛下と教皇聖下に関する事柄を指す際の略語よ。私的な手紙でよく使うわ。こちらのクルはクロイツェン王国」

「ではこのユー……グは」

「ヴァレンティンの東にある北方諸国群のことね。内皇庁と教皇庁、クロイツェンとの会談に引き止められているから予定より遅れたけれど、もうすぐ北方諸国領に入る、と。手紙が届いたのは昨日だから、早ければもう十日ほどで戻っていらっしゃるかしら」

「私もお出迎えのお手伝いをします!」


 久しぶりに養父が帰ってくるのが嬉しいのだろう。いつもよりも弾んだ声色が、責任感にあふれている。

 しかし……お手伝い。そうか、お手伝いか。

 フレデリクも今年七歳。リディアーヌが最初にこの国の叔父のもとに引き取られたのは六歳の頃のことで、環境に慣れない内は、ずっと兄の後ろをついてまわっていた。ただ生憎と年の離れた兄は当時寄宿学校に在籍中で一緒にいられない時間が多く、兄がいないと部屋に閉じこもってふさぎ込んだりしたものである。

 するとそれを見た叔父がある日、兄が帰って来た時に驚かせてあげようといって簡単な仕事を任せてくれたことがあった。お庭の見回りと、選んだお花を広間に飾る仕事というままごとみたいな仕事だったけれど、大人のように扱われたことが嬉しくてとても張り切ったのを覚えている。それが、リディアーヌがこの国に打ち解ける大きな契機にもなった。


 フレデリクは早熟だ。物心つく前に両親とも失っており、父親代わりの大叔父ジェラールと母親代わりの叔母リディアーヌがいるとはいえ、どちらも忙しく領内の仕事にばかり時間を費やしているから、きっと寂しい思いをしていることだろう。

 ならばその寂しさを紛らわせるためにも、仕事を任せてみるのは良いかもしれない。


「フレデリク。先程ベロム大臣に、お養父(とう)様のお出迎えの手配をお任せしたところなの。デリクもお手伝いしませんか?」


 ぱっと持ち上がった瞳が、見事にキラキラと輝いている。この反応はまるで兄に構ってもらえたことが嬉しかった時の昔のリディアーヌの反応だ。よく似ていて、つい頬が緩んでしまう。


「ベロム大臣。何かデリクにもできるようなお仕事を任せていただける? 私も昔、似たようなことをしたことが有るわ。エベール伯爵夫人が詳しいから、お伺いしてみて」

「かしこまりました、姫様。フレデリク様は我々よりも大公殿下のお好みにお詳しいでしょうから、饗宴の飾りつけなどお手伝いいただけるととても助かります。いかがですかな? 公子様」

「はい、頑張ります! 宜しくお願いします!」


 ぴょんと飛び降りて丁寧に頭を下げたフレデリクには、臣下である大臣の方がたじたじと戸惑ってしまっていた。

 これはいかん。少々謙虚に育て過ぎてしまったようだ。

 フレデリクが生まれたばかりの頃は、まだ叔父が結婚してちゃんとして跡継ぎを儲ける可能性が十分にあったから、リディアーヌも、いつでも叔父の実子に後継の座を譲れるようにとフレデリクを謙虚に育てたのだ。

 だがどうしたことか……叔父はいい年をして、いまだに結婚もしていない。いっそお酒で羽目を外して庶子でも何でもいいからこさえてくれ、と臣下達が画策したこともあったのだが、羽目を外すどころか食前酒の一杯でぶっ倒れる叔父は間違いを起こす余地すら与えてくれなかった。

 どうしてそれほどに身持ちが固いのかは知らないが、もう四十三歳。まだまだ男盛りとはいえ周囲もさすがに諦めムードで、しかもその叔父がことのほか養子女を可愛がって、跡継ぎなら彼らがいるだろうと公言して(はばか)らないせいか、皆もフレデリクに期待を寄せるようになっている。

 そろそろ腹を据えて、ちゃんと跡継ぎらしい人物に育て方を改めた方がいいかもしれない。この子のためにも。


「フレデリク。貴方は大公家の継嗣なのだから、今少し主らしく振舞いなさい」

「けいし、ですか?」

「国主の子が安易に臣下に頭を下げてはいけません。大臣の方が困ってしまっているでしょう? ただ宜しく頼む、と、そうお願いすればいいわ」

「分かりました。あの……では。ベロム大臣。宜しく指導を、頼……みます」


 ちょっと控えめな表現ではあったけれど、きちんと背を伸ばして要求したフレデリクに、ベロムの方もリディアーヌの意図を察したのだろう。先程よりも丁寧に、きちんと膝をついて主君に対する礼を取ると、「公子殿下へのご指導の栄誉を頂き感謝します」と丁寧な返答をした。

 フレデリクはまだ少し戸惑っているようだけれど、いずれ慣れるだろう。


「貴方は貴方のお父様と違って、他人のことを慮れる優しい子ね、フレデリク」


 ふわふわとした髪を撫でながら、つい感傷的になってしまったのは致し方がない。兄のことを思い出すと、いつもこんな気持ちになる。


「私の“父様”ですか?」


 ただ、クルリとこちらを振り返って関心を見せた瞳には、失言を後悔した。

 フレデリクは父を知らない。この幼い少年にとっての父とは養いの父である大叔父のことで、むしろ実の父のことは皆が硬く口を噤んでいる隠すべきことでもあるから、一体どれほど実の父のことを知っているのかも、リディアーヌは知らない。

 それを教えるべきなのか……それも、分からない。


「私の父は、姉上のお兄様なのですよね?」


 だが思いがけずフレデリクが何ともないような顔でそんなことを言ったものだから、驚いて言葉を詰まらせた。

 自分の知らぬうちにも、フレデリクは学び、知り、それでいて誰にもそれを話すことなく受け入れていたのだろうか。自分こそが、フレデリクの感情を共有してあげるべきだったのに、情けない。


「ええ……私の大好きな、とても大好きなお兄様だったわ」

「姉上の大好きな方なら、とってもお優しい方だったはずなのに……」


 他人のことを(おもんばか)れないひどい人なんですか? なんていうものだから、思わず兄のことを知る臣下達と一緒になって、くくっ、と笑いがこみ上げてしまった。

 優しい? あぁ、優しかった。それこそリディアーヌに対しては、甘やかしすぎなのではというほどに優しい人だった。だが如何(いかん)せん、兄は根っからの“王子様”でもあった。


「デリクは、私とお兄様がお隣のベルテセーヌの出身であることは聞いているのかしら?」

「あの……聞いてはいけない話でしたか? この間、城内の噂を聞いて先生に尋ねてしまったのです……」


 あぁ、なるほど。それで父のことを知ったのだろうか。それから、義理の姉のことも。


「いいえ。城外には秘密にされている話だから、それは気を付けなければならないけれど、他でもない貴方自身のことなのよ。聞いて悪いだなんてことは決してないわ」

「マドリック先生にも外では口にしないよう言われました」


 ふむ。フレデリクの先生は叔父の補佐も担っているアセルマン家の長男だったか。いい指導をしてくれているようで何よりだ。


「両親を早くに亡くした私達兄妹は、王位継承絡みの問題があって、母の弟であったこのヴァレンティンの大公に引き取られたの。養子女として」

「えーっと……姉上が養父上をたまに“叔父様”と呼ぶのは、そのせいなのですね」


 ふむ。できるだけ外では“お養父様”と呼ぶように気を付けているが、私的な場では昔のままつい叔父と呼ぶことが多い。思えば、フレデリクは幼い頃からそれを疑問に思いつつ、それでいてなおリディアーヌにどうして叔父なのかを問うことは一度もしなかったのだ。

 気になっていただろうに。だがもっとなんでも聞いてくれたらと思うと同時に、過去の話は今なおリディアーヌがどう気持ちに決着を付ければいいのか迷い続けていて、うまく話せる気がしない。フレデリクはきっとそんなリディアーヌの表情に、敏感に配慮をしてきたのだろう。

 なんというできた子だろう。お姉ちゃんはちょっと、胸が痛む。


「私がこの家に引き取られた時は六歳でまだ幼かったけれど、お兄様は十三歳で、それまでずっとベルテセーヌで王太子として育っていたの。身内にはとても優しい人だったけれど、でも根っからの王子様だったから、臣下達にはさぞかし生意気に見えたことでしょうね。思い返してみると、私も相当だったと思うわ」


 くすくすと笑って見せたら、「あぁいうのは生意気ではなく威厳と申すのですよ」とベロム大臣がフォローした。他でもないそのベロムこそが、大公様の養子の王子様っぷりに最も翻弄された張本人である。


「でも本当にのびやかで、穏やかな人だったわ。他人の気持ちには疎かったけれど、私の表情には敏感だったわね。亡くなったお父様とお母様の分まで、私のことを守らないと、って。そう、気負っていたのね」

「私の父は、姉上を守れたのですか?」


 純粋たる質問に、何ら含みがないことは分かっている。分かっていても、その問いにはリディアーヌも言葉が詰まってしまった。


「あの……ごめんなさい。聞いてはいけませんでしたか?」


 兄と同じで敏感に表情を読み取ったフレデリクの優しさが、いっそ心苦しい。

 だんだんと記憶にある兄の姿に似てきたその頬を一つ撫でながら、苦々しく微笑んだ。

 あぁ……兄が生きていたならば。フレデリクにこんな遠慮ばかりさせずに、のびやかに育ててくれたであろうに。


「いいえ、守ってくれたわ」

「でも姉上はベルテセーヌに“りゃくだつ”されて、ひどい目にあわされたのですよね?」

「ハァ……貴方の先生を褒めてあげたかったのに、急にその気が失せてしまったわ」

「あっ、違います! これは昔、養父上が言っていたのを聞いてしまったのです」


 なるほど、叔父様か。ふぅん、叔父様か……。


「略奪ではないわ。正式な国と国との交渉のもと、“嫁いだ”のよ」

「とついだ?」


 キョトンとしているのは、今のリディアーヌが“未婚”だからであろう。フレデリクの記憶において、リディアーヌが誰かの夫人であった記憶は微塵としてないはずだ。

 それはそのはずで、その“結婚”は半年と持たずに崩壊している。フレデリクが生まれるよりも前に。


「嫁いだといっても十やそこらだったから、結婚の意味もよくわかっていない、おままごとみたいなものだったけれど」

「えーっと、姉上が結婚なさっていたのなら、私には“義兄(あに)”がいることになるんですね。ん? でも本当のお父様の義弟だから、叔父ですか?」


 フレデリクにとっては、自分にもまだ知らない近しい身内がいたらしいという、興味と感心にひかれての何気ない言葉だったのだろう。

 だがその言葉を決して受け入れられないリディアーヌの表情はただ険しくなり、それはリディアーヌばかりではなく、この執務室にいるすべての者達にも見受けられたものだったため、フレデリクはすぐに目を瞬かせて固く口を引き結んだ。


「フレデリク。彼は貴方の義兄ではないし、もう私の夫でもないわ。理由は……」


 今でも思い出しただけで気持ちが悪くなる。

 兄にとっては敵地にも等しいベルテセーヌの王宮に、それでも兄はリディアーヌのために足を踏み入れた。そして、命を落としたのだ。

 もうすぐ、子供が生まれる――そう、リディアーヌに告げに来た兄を。


「理由は、私の嫁いだ相手が、貴方の実の父……私の最愛のお兄様を殺した犯人として、処罰されたからよ」


 どうしてリディアーヌが言葉に詰まったのか、すぐに察したのだろう。硬く表情をこわばらせたフレデリクは、そのショックに茫然としていたようだった。

 だがリディアーヌが過去の感傷から気持ちを切り替えるよりも早く、ピョン、と膝に手をついてこちらをのぞき込んできたフレデリクは、何の話も聞かなかったかのように(ほが)らかに微笑んで見せた。


「私の大好きな姉上にそんな顔をさせるだなんて、ひどい人ですね。でも私は姉上が側にいてくれて嬉しいですから、その人にちょっとだけ感謝します。だって、姉上をヴァレンティンに返してくださったんですから」

「まぁ……フレデリクったら」


 慰めの言葉なのだろう。けれど確かに、あの事件がなければ、今頃リディアーヌはどうなっていたのか。ベルテセーヌ王室という所の恐怖を知り尽くした今、それは想像するだけでも恐ろしいものだ。何ならとっくにリディアーヌはあの王室で死んでいたかもしれない。兄は毒からだけではなく、リディアーヌの人生をも救ってくれた人なのだ。

 自らの、命を対価として――。


「愛しているわ、フレデリク。私の大切な、大好きなお兄様の忘れ形見」

「私も姉上が大好きです」


 申し訳なさと、強い後悔。それがフレデリクに抱いてきた感情の一部であることは間違いなくて、けれど一体どうしてこんなにもいい子に育ってくれたのか。

 それはきっと兄ではなく、兄が選んだ人……フレデリクの母のおかげに違いない。

 もう少し気持ちが片付いたら、フレデリクにも話してあげよう。命を懸けて、失ってしまった愛しい人の忘れ形見を絶対に生みたいのだと、そう微笑んでいた義姉(あね)の話を。

 そんな話をしている内にも、大臣達がリディアーヌに裁可を求める順番決めも、書類の整理も終わったらしい。皆が落ち着いて順番待ちをしていることに気が付くと、フレデリクはすぐにピョンとリディアーヌから遠ざかって、可愛らしい一礼をした。


「お忙しいのに、お時間をいただいて有難うございます、姉上」

「いいのよ、デリク。貴方のいる時間は私にとっての癒しです」

「でもあんまりいると、皆に嫌われてしまいます」


 そう振り返ったフレデリクには大臣達の方がタジタジになって「そんなことはありません!」と言ったけれど、「冗談ですよ」なんて笑いながら彼らをあしらってみせる様子は……うん? なんだか、ちょっとお兄様の面影を思い出すような気もする。


「それでは失礼します」

「デリク、夕飯は一緒に食べましょう。それまでに仕事は片付けるわ」

「では私もそれまでに宿題を終わらせますね!」


 あぁ……最後の最後まで癒された。

 だがフレデリクが去ってしまえば、本日の癒しタイムは終了である。たちまちピリッといつもの執務室の雰囲気に戻ったところで、残っていた高官達がいつにない真剣な眼差しでリディアーヌを見た。


「公子様は、大変敏くいらっしゃいますね」

「ええ……敏すぎて。いい子過ぎて、少し不安なくらいだわ」

「まるで昔の姫様を見ているかのようです」


 一際遠慮のない物言いをするのは、政務を司る議政府の長であり筆頭政務補佐官でもあるアセルマン侯である。遠縁とはいえヴァレンティン大公家とも血縁があり、叔父もリディアーヌも最も頼りとしている人物だ。フレデリクの家庭教師をしているマドリックの父でもある。


「私のはいい子なのではなくて、そうせねばならないという義務感だっただけよ。それにこの通り。すぐにいい子はやめたでしょう?」

「さて……」

「フレデリクの場合は素のようだけれど、どうしたものかしら。もう少し公子らしく接していれば、(わが)(まま)も覚えてくれるかしらね」

「そういえば姫様。公子様の教育方針を改めることになさったのですね?」

「先に相談すべきだったかしら? でも叔父様のご様子は相変わらずだもの」

「大公様には今後もご直系は望めそうにございませんからな。私もいずれはご相談したく思っておりましたが……お伺いしたいのは“公女殿下”、貴女様のことでございますよ」


 さて、困ったわねとわざとらしく首を傾げてみせる。

 叔父は女性関係に奥手すぎるとはいえ、それ以外は健康かつ有能なよき国主だ。フレデリクが立派に育つまで充分にこの国と選帝侯としての立場を守ってくれることだろう。

 ただ如何せん、その大公は遠縁こそいるものの近縁にあたる親戚がおらず、いざという時に大公代理を勤められる人材が年若いリディアーヌしかいない。臣下達の中に、リディアーヌが早いところ身を固めて正式な大公家の跡継ぎとなってくれることを求める動きがあることは、リディアーヌ自身もよく存じているところだった。

 だがそれはそう単純に受け入れていい話ではない。


「皆の意見は存じているつもりよ。私はこの国が好きだし、この土地に骨を埋めるつもりだから、早くどこぞへ嫁げと言われないことは幸いだと思っているわ。でも私は私のこと以上にフレデリクが可愛いの。貴方だって、もしお兄様が生きていらしたなら私になんて見向きもしなかったでしょう?」

「姫様がとてもご聡明でいらっしゃることは、その亡きエドゥアール殿下こそが最もご自慢気でいらっしゃいましたよ」


 そう頬を緩めて懐かしんでくれるアセルマンにリディアーヌも少し頬を緩めたけれど、すぐにきりっと顔を引き締めた。


「それに、私の身の上は複雑だわ。少なくとも今の皇帝陛下の治世中、私が表舞台に出ることはできない。この国を支える一助であることを許していただいているだけでも陛下にとっては温情なのよ。だから皆もそのつもりで、フレデリクをしっかりと育ててあげてちょうだい」

「公女殿下のご意志、承りました。何、姫様をこのようにご立派に育てたこの爺にお任せください。姫様に並ぶ逸材へと育てて御覧に入れましょう」

「貴方に育てられた覚えは……あ、あるけれど。なくってよ、じぃ」


 否定したかったのだが、どうにも出来かねた。そんなしまらない返答に、ククと笑いをかみ殺したアセルマンは、「とはいえ今はまだ姫様に頼るほかございません」と、机に書類を積み上げた。

 まったく、容赦の欠片もない。叔父が結婚できずにいるのは、この爺の容赦のない仕事漬けのせいで、出会いを求める暇もなかったせいなのではないだろうか?


「これ以上大公家の跡取りが先細りしないよう、フレデリクには早いところ婚約者を決めてしまたいわ」

「その前に姫様のお相手では? お嫁に行かれては困りますが、婿ならいつでも歓迎でございますよ。そこら辺からでも良いので早く見繕っていただきたいものです」

「それは、貴方のとても優秀で、でもいい年して結婚もせずに“そこら辺”にいる、あちらのご子息のことかしら?」


 そうちらりと机の書類をえり分けている自分の部下に目をやると、ふと顔を上げた男性が遺憾であると言わんばかりの無表情でアセルマン侯を見た。

 フィリック・エヴァウト・アセルマン。アセルマン候がリディアーヌに宛がった優秀な側近文官であり、候の末息子だ。出自、家柄、経歴共に申し分のない婿がねであるが、過去に一度として彼とはそういう雰囲気になったことはない。アセルマン候もその気はないようで、この振りには肩をすくめた。


身贔屓(みびいき)無しにも良くできた子です。姫様のご政務をお手伝いする文官としてお役に立てるのではと側近に推薦しましたが、残念ながら姫様と並び立つには見劣りいたしましょう。少なくとも、“殿下”に適うようなお相手でなければ……」


 先ほどの“そこら辺”とは打って変わった本音に、リディアーヌも肩をすくめた。


「私の厄介で優秀な友人達が納得するような人材がいるのであれば、いつでも喜んで婿にお迎えするのだけれど」

「現七王家筆頭クロイツェン皇国の皇太子殿下や、帝国を支える五選帝候家の中でも当家と類して繁栄目覚ましいザクセオン大公家の公子殿下に比肩(ひけん)しうるう人物など、どこを探せば見つかるのでしょう。何故、姫様への求婚者は何故にこうも悩ましい方ばかりなのか。我らが大公家は、何やらよからぬ呪いでも(こうむ)っているのではございませんか?」

「奇遇ね、私も同じことを思っていたわ。できれば、早々にご自分でお相手を見つけた上に、お相手を結婚前に妊娠させてしまったお兄様の血筋がフレデリクに継承されているといいのだけれど」

「まったくです」


 取りあえずこの書類の負担を減らすためにも……フレデリクには早く成長してもらいたいものである。






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