2-28 アンジェリカとの話(2)
「今から十日前。クロードの廃太子が宣言されたわ。それは耳に入っているかしら?」
「っ……はい」
その情報はヴァレンティンに、やはり飛竜便を用いて届けられた。
このような国家の大事に王太子の不在が続いたことで、ブランディーヌが派閥を率いて王に廃立を迫ったのだ。当然、王はこれを拒んだが、その上でブランディーヌ派は『期日までに王太子が現れなければ決断するように』と要求し、何をどうしたのか、王はそれを飲んだらしい。
事情は知らないが、そんな賭けのようなこと……馬鹿なことをしたものだ。結局、クロードは見つからず、王はブランディーヌ派に屈して、『国の大事に勝手に近衛を動かし今なお戻ってこない王太子』の廃立を宣言した。
おそらく今、ベルテセーヌの王城は緊迫していることだろう。
「多分この手紙はそれより前に書かれたものなのでしょう。私達ヴァレンティンは、これを“王太子”の正式な要請として受け取ったわ。まぁこんなものが無くても変わらないのだけれど。貴女をヴァレンティン大公家は正式に保護します」
「はい……それがクロード様の望みなら……」
覇気なく頷くのも仕方がない。だが間もなく、顔をあげたアンジェリカが身を入れて話を聞く姿勢を取ったものだから、それに合わせて話を続けた。
「そしてこれが今朝、届いたばかりの情報よ」
次いで渡した報告書は、今朝方、この城に届いたばかりの飛竜便だ。
「クロードはアンジェリカ暗殺事件偽装の黒幕として民間から告訴されたわ。もっとも、当人が行方知れずになっているままだけれど……これから国内では、“重要参考人”という扱いで捜索が本格化するでしょうね」
「っ……」
同時にアンジェリカも告訴されているが、それについては教会が異議を申し立ててうやむやになっていることも、報告書には書かれていた。
「クロード様の行方は、分かっていないんですか?」
「情報なしね。ヴァレンティンに手紙を寄越せたということは、少なくとも少し前までは“自分の意思で逃亡していた”ということになると思うのだけれど……正直、これから先は分からないわ」
「……捕らえられたとして、クロード様はどうなるんですか?」
「ひとまず王は告訴の取り下げに躍起になるでしょうけれど……それが無理だったとして、ブランディーヌ派の動きによっては最悪の事態になりかねないわ。一方で、国王はクロードを厳罰には処せないから、何としてでも守るでしょう。クロードを重罪に問うと王妃も連座は免れないし、そうなれば唯一の王位継承者になるザイード王子の王位継承も危うくなるからよ。国王自身の名誉としても、今のこの状況で“二度”も息子を重罪にすることも避けたいでしょう。だからわざと、“廃立”したのね」
「どういうことですか?」
「王太子の罪に対する世間の目は重いわ。けれどいち王子の罪であれば、王太子が罪を犯した時ほどに重くは裁かれない。個人の罪とすることで、王位継承権の剥奪とどこかの離宮への幽閉処分くらいに留めて、ザイードを立てるつもりなんじゃないかしら」
「そうですか……」
ほぅ、とあからさまに安堵の息を吐いたアンジェリカに、リディアーヌは思わず苦笑を浮かべてしまった。何となく分かっていたが、やはりアンジェリカは王太子という肩書きにはさして関心がないのだ。
クロードがどう思っているのかは知らないが、それだけ純粋にクロードを想えるアンジェリカのことを、理解し得ない一方、好ましく思わないはずがない。
「ただきちんと決着がつくまで、アンジェリカにはヴァレンティンに留まってもらうのがいいと思っているわ。すぐに駆け付けられないことはじれったいでしょうけれど……」
「はい……分かっています。私がベルテセーヌにいた方が、迷惑になるんですよね?」
「迷惑……というか。貴女は“聖女”に認められてしまっているから……多分、今ベルテセーヌに帰ったら、貴女に待っているのは“次の王太子の婚約者”という立場よ」
「えっ……」
さっと顔を青くしたアンジェリカに、リディアーヌは肩をすくめて見せた。
どうやら全く考えていなかったらしいが、リディアーヌの経験からすればまず間違いない。おそらくザイードか、あるいはセザールか、誰か他の王子の婚約者になる。少なくとも廃太子の許嫁のままではいられないだろう。
「聖女なんて肩書き、何の役にも立たなかったのにっ……こんなことならっ」
いらなかった、と言いかけた言葉をぎゅっと飲み込んだアンジェリカに、「ええ、そうよね」とリディアーヌもつい同意してしまった。その気持ちは他でもない、リディアーヌが一番よく分かる。
「本音を言えば、貴女をベルテセーヌに返して、貴女という聖女を得た次の王位継承者が円滑に決まることの方が、私達にとっては都合がいいわ。でも貴女はそんなの、望まないのでしょう? そんな非情なことを言うつもりはないわ」
「……あの。都合がいいという理由を聞いてもいいですか?」
ヴァレンティンに来てからこの方、アンジェリカは随分と勉強熱心であるとベレニーから聞いていた。それは多分、こういう所なのだろう。学ぶ意欲のある者は、嫌いじゃない。
「クロード殿下の廃太子でヴィオレット派の暴動自体は少しは落ち着いたようだけれど、この状況で聖女である貴女が行方不明になっているとなると、国王の面目は丸つぶれよ。今の所ヴァレンティンに逃げていることまでは知られていないでしょうけれど、ずっと隠し続けるのは無理だし、そうなればいずれ国王は、“二度も聖女に逃げられた王”になるわ。今でも大打撃を受けているのに、それは益々の権威の失墜につながるでしょうね。それに“一度目”の時点でもヴァレンティン家はベルテセーヌ王室に恨まれているのよ。二度目となると、両国の関係の悪化は免れないわ。それはこれまで過剰なほどベルテセーヌ内部の平定に尽力してきた私にとっても、すべての苦労を蔑ろにされかねない不本意なことよ」
「あ……」
「そうなれば王家傍流達と深い関係を築いてきたブランディーヌ夫人が益々勢いを付けかねないわ。こちらとしてもブランディーヌ夫人とは因縁があるから、極力夫人には力を与えたくないのよ。だからうちが保護していた聖女アンジェリカが現国王の息子の誰かと再び許嫁になってシャルルの王統を安定させてくれると、それだけで両家の関係強化とブランディーヌ夫人への牽制になってちょうどいいわ」
「なるほど……ちょっと自分のこととしては想像はできませんが、客観的に考えるとそうかもしれません」
「ただこの辺はセザールも考えていないことは無いでしょう。自分で種を振りまいたのだから、自分でどうにかしてくれるといいのだけれど……」
そう口にしながらも頭をよぎったのは、セザールが頼ろうとしていた二人の元王子のことだった。生憎と、その二人についてはまだ何も情報が入ってきていない。教区長は確かにリュシアンを“訪ねただけ”であったようだし、動きが無いのは当然だ。
一方のジュードの方はどうなっているのだろうか。国内の暴動が沈静化しているあたり、あるいは何か起きているのかもしれないが、生憎とヴァレンティンからではそこまで知ることが出来ないのが口惜しい。
「それでアンジェリカ。貴女に聞きたかったのだけれど、貴女はクロードの弟のザイード王子のことをどのくらいご存じ?」
「ザイード王子ですか? まぁ……あまり兄弟仲がいい兄弟ではなかったですから、私も詳しくは。あ、でも外見はクロード様にそっくりですよ」
うん。外見の情報は……正直、いらない。
「えーっと。性格は?」
「まぁ、まだ子供ですから……」
苦い顔のアンジェリカに、何となく察しは着いた。兄との折り合いがあまり良くなく、おそらくアンジェリカに対してもこんな顔をさせるくらい小生意気だったのだろう。期待が持てるようには思えない。
「そう……」
こうなると、ベルテセーヌで次の王位継承権争いが起きるのはもはや明確だろう。
ザイードなのか。セザール……というのは中々に考え難いが、彼は本来それがかなう立場だ。そういう可能性もある。ただセザールは自分よりも、自分の兄達を引きずり出すだろう。あるいはブランディーヌが他の誰かを擁立してくるか。いずれにせよ、ベルテセーヌは今頃、クロイツェンの皇太子の慶事なんかには構っていられないことだろう。
「それから今一番懸念されるのが、これよ」
続いて机に置いたのは、アルトゥールから届いた婚儀への招待状だ。
何よりも煌びやかな封書と手紙。そしてそこに綴られていたヴィオレットの名前にみるみる目を見開いたアンジェリカは、ぎゅっと拳を握って、口を引き結んだようだった。
悔しいとか悲しいとかよりは、怒りに近いような顔だ。
「クロイツエンの皇太子殿下、って……クロード様より、偉いんですか?」
アンジェリカの疑問には、どう答えればいいのか分からずに首を傾げた。
偉い? そういう比べ方をしたことが無かったので、困ってしまう。
「えーっと。偉い? というのは? えーっと」
意味が分からない。そんなリディアーヌの様子に、控えていたアメリーがそっとソファーの背に身を寄せたので、発言を許すべく頷いて見せる。
「おそらくアンジェリカ様がお聞きになりたいのは、皇太子殿下がベルテセーヌの王太子殿下を罰せる人物なのか、というようなことではないかと……」
そんなはずないじゃない、と思ったのだが、アンジェリカの様子を見て、どうやら彼女にはそれが分からないのだという事が察せられた。なるほど。自分とはそもそもの知識が違っているのだ。
「あぁ。いいえ、アンジェリカ。そうではないわ。貴女も学校で、帝国制度については学んだでしょう? 七王家に序列はないし、皇帝を輩出しているからといってその国が特別なわけではないわ。まぁ皇帝が融通を利かせてくれるという意味で優遇はされるけれど、表向き、七王家に上下関係はない。だからクロイツェンが皇国と呼ばれ、王太子が皇太子と呼ばれていたとしても、王太子と皇太子に上下はないし、どちらが偉い、偉くないなんてものもないわ。勿論、一方的に裁く権利もない。王族を裁く権利を持っているのは皇帝陛下だけよ」
「ふぅ……そうなのですね」
「ただクロードに婚約破棄された令嬢が、今最も次期皇帝に近いと言われているアルトゥール皇太子と結婚するという状況については、明らかにクロードに分が悪い状況よ」
「それは分かります……」
「クロードの廃太子には、もしかしたらヴィオレットが皇太子妃になる前に、クロイツェンとの揉め事の種となる憂えを取り除いておきたかったという意味合いもあるかもしれないわね。そういう意味では国王の英断だわ」
「……ヴィオレット様……また彼女が、邪魔をするんですね」
「その様子だと、ヴィオレット嬢とは腹に一物ありそうな人物のようね」
「一物どころか、二物も三物も……」
言いかけたところで、ふとアンジェリカが顔を上げ、パチリと目を瞬かせた。
「あの。もしかして、リディアーヌ様は私にそれを問いたくて呼んだんですか?」
「“それも”よ。貴女、私の出した手紙に返事を寄越さなかったでしょう? 貴女には随分と前に、ヴィオレット嬢の人柄について教えて欲しいと尋ねていたはずなのだけれど?」
「あ!」
今更思い出したといった様子のアンジェリカに、思わず苦笑をこぼしてしまった。相変わらず、礼儀が成っていない上にのんびりとした子だ。でもそれが不思議と嫌じゃない。
「すみませんっ、私。すっかり忘れてっ。あ、でも返事を書けなかったのは故意のことじゃないんです! 手紙が届いてすぐ、国王陛下に取り上げられてしまって」
「何ですって?」
思いがけない言葉に、詳しく説明を求める。
「手紙を開いた時、近くにクロード様の王子宮に仕えている侍従がいたんです。私は何ともなしに侍女と世間話でもするつもりで、クロード様宛てとセザール様宛ての手紙が同封されているわ、って口にして。そしたら突然『聖女様が見てはいけない内容かもしれませんから一応先にお伺いを』だなんて言って、手紙を封筒ごと取られたんです。その時はすぐに返してもらえると思っていたんですが、全然返してもらえなくて。王城を離れる直前、ようやくセザール様が取り返してくれたものを受け取りました。まさか国王陛下の手元にあったなんて知らなくて」
「はぁ、なんてこと……」
頭を抱えたのはリディアーヌばかりではなく、会話を耳に入れていたマーサもため息を吐いた。侍女としても、主にそんな失態をかかせようものならば……なんて考えてしまったのかもしれない。
「アンジェリカ。どうして私がクロードやセザールに直接手紙を出すのではなく、貴女への手紙に同封したのか。考えなかったの?」
「え? いや、それは変だなとは思いましたけれど……」
それだけ私がリディアーヌ様と仲良くなったからだと……なんて恥ずかし気に言うアンジェリカに、再び頭を抱えた。
この子、驚くほど“王侯のマナー”というやつを知らないのだ。
「いいこと、アンジェリカ。貴人の元に届く手紙には、三種類があるわ。一つ目は、家令や侍女長などが検閲して、主の目にかけるまでもないと廃棄する手紙。二つ目は、検閲した上で主のもとに届けられる手紙。そして三つ目が、家令や侍女長などが目にするには恐れ多い相手からの手紙。これは誰の目にも触れていない状態で、直接主に届けられるわ」
「え、えーっと……」
「国や家によって色々と違いはあるでしょうけれど……たとえば私の場合、城に手紙が届いた時点で郵鳥局がある程度がふるい落として、可となったものを公女府の府長が確認して振り分けるわ。知人や友人、貴族や仕事関連からの私的な手紙は、内容が主が目にして不愉快なものでないか、不必要なものでないかなどが確認されて、もし問題があるようなら主には届けず、場合によってはこういう不適切な手紙があったということが主である私と、それから城主である大公に知らされることもあるわ。そういう“下読み”があるのが一般的なのよ」
「そうなんですか? でもリディアーヌ様の手紙は、封の閉じた状態で私の手元に届きましたよ?」
「それが三つ目の特別な相手の場合ね。私の場合は私と同等の立場にあたる七王家五選帝侯家の直系以上からの手紙はすべて封を切らずに私に届くわ。家令や侍女が先に読むには失礼な相手だからよ。その他、下読みしないよう私が指示を出している人物なんかも何人かいるわ。情報を融通させている馴染みの商人であったり、親しい友人であったりね」
「あ、なるほど……」
「それでも場合によっては検閲される可能性があるから、手紙をやり取りする際にはその書きぶりが大事なの。ただの“貴女の友人リディアーヌより”という手紙と、“ヴァレンティン公女リディアーヌより”という手紙では、ランクが違う。前者の場合は下読みされる可能性があるけれど、後者であればほぼ確実に下読みされないまま相手の手元に届くわ。例外は“家長”であるお養父様だけね。家長には家に届いた手紙のすべてを検閲する権利が有るから」
「知りませんでした……そういう気を使わないと駄目なんですね」
「ええ。だから私も貴女に宛てて、王太子の許嫁であるエメローラ伯爵令嬢ではなく、“聖女アンジェリカ”宛ての手紙を出したわ。こうすることでベルテセーヌ王室ではなく、教会経由で手紙が貴女の手に届く。そして聖女は教会において教皇に匹敵する地位だから……」
「確実に下読みされない状態で私の手元に届く!」
「そうよ。だったら、もう分かったわね」
「っ……ベルテセーヌの王室に知られないよう、クロード様とセザール様へ手紙を出したかった?」
「その通り。ヴァレンティン公女から王子に宛てた手紙の場合、ヴァレンティン公女の正体を知っている国王は必ず検閲するはずよ。国王は王子公女より上の身分だし、家長としての権限もある。政治的な関係やバランスも関係あるから、検閲は阻めないわ。でも私は、シャルルに手紙の内容を伝えたくなかったのよ。でもそのシャルルも、“聖女への手紙”は勝手に奪えない」
「っ……すみません。私の迂闊な発言のせいで……」
「まぁいいわ。王子宮に国王のスパイがいたのはクロードの失策だし、それに見せたくなかったというのはただの意地悪だから。でもそのせいで返事が無かったのだとしたら、それは不手際だったと言わざるを得ないわね」
「……」
しゅんと小さくなったアンジェリカには、「これで次からは大丈夫ね」と慰めておいた。
「それで、私が聞きたかったのはヴィオレット嬢のことなのだけれど。一応、ベルテセーヌに留学経験のある子達からも話は聞いているけれど、あまり細かいことまでは知らないから、実際に一番近くでヴィオレット嬢とクロードのことを見ていた貴女から聞けないかと思っていたの」
「そういう事でしたら何でも。私も最近のヴィオレット様しか知りませんけれど……でも、一応、“変わる前”と“変わった後”の両方を知っています」
「変わる前と、変わった後?」
いきなりおかしな言葉が出てきた。そのことに首を傾げていると、アンジェリカは一つ神妙な顔をしてから、「むしろ、私も誰かの意見を聞いてみたいと思っていたんです」と背筋を伸ばした。




