2-27 アンジェリカとの話(1)
『親愛なる我が麗しの姫、リディアーヌ
秋が遠ざかり、段々と高かった空が落ち始めたこの季節、ヴァレンティンではもう雪が降っているのではないかと思うと、この手紙が果たして遅れずに届くのかと悩ましい。私は残念なことにヴァレンティンの地を見たことが無いけれど、山間のカレッジに降る雪を君は“懐かしい”と言っていたから、きっとあの時ともに見たような、さぞかし美しい光景なのだろう。ただ非常に残念なことに、私は寒いのが苦手だ。ザクセオンでは滅多に雪が降らないから。やはり君に会いに行くなら、春がいい』
この半年、何かと煩わしいことばかりが続いたけれど、毎月欠かさず送られてくるもう一人の友からの手紙は相も変わらず肩の力を抜かせてくれた。
同じ友人からの手紙でも、アルトゥールとのやり取りではこうはいかない。マクシミリアンとも小難しい話を手紙の中で交わすことはあるけれど、彼の他愛のない雑談と書きぶりは、まるで政争だ計略だなんてものとは無縁の雰囲気を醸し出す。
『ところが残念なことに、今年の春はヴァレンティン旅行ではなくクロイツェン旅行をすることになりそうだ。君の所にも届いたよね? 頭どころか腹の中まで真っ黒に染まった私達の悪友からの似合いもしない真っ白な封筒が。これが本物の招待状なのか、それとも私達を呼び付けて何かしでかそうとしているだけの悪戯なのか、ちょっと怖いよ。君の意見を聞いてみたい。
うちの連中は皆素直に信じたらしい。親父殿がしんみりした顔で“そうか、妥協されたのか”だなんて言っていたけど、どういう意味だろうね? ちなみに私は妥協なんて言葉は知らないから、安心してね。季節外れの発情期に暴れまわっている我らが子猫ちゃんと違って、私はいつまでも永遠に、一途に君を思っているから。
あ、プロポーズじゃないよ? 記念すべき百回目のプロポーズを劇的に演出するために、今ちょっと数を調整中なんだ。これはカウントしないでおいて』
まったく、何を言っているんだろう。
思わずクスクスと苦笑をこぼしたところで、「相変わらず、ザクセオンの公子様は姫様をお笑わせになる天才ですね」なんて言うマーサが、珍しい紅色の紅茶を置いた。いつもの黄金色の紅茶とも好んで飲んでいる春摘みやハーブティーとは随分と違う。
「世の中広しと雖も、クロイツェンの皇太子を“子猫ちゃん”だなんて言うのは私とミリムだけだと思うわ。ふふっ。プロポーズの数をカウントって、何を考えているのかしら?」
読み終えた一枚目を丁寧に後ろに捲っている内にも、マーサが紅茶の隣にミルクサーバーを置いた。リディアーヌは滅多にミルクティーにはしないのだけれど、こちらもまた何事だろうか?
「えーっと。マーサ? そのお茶はどうしたの?」
「ようやくですか?」
準備している間に何も突っ込まなかったことがマーサなりに気になっていたらしい。クスクスと笑いながらティースプーンを添えてお茶の支度を終えたマーサは、さらに紅茶の傍にコトンと可憐な装飾の茶葉の缶を置いた。
深いグリーンの塗色に瀟洒な文字が綴られ、金の茶葉が描かれた小さな缶だが、そういえばどこかで見覚えがある。
「もしかしてザクセオンから?」
「ええ。公子様から手紙と一緒に添えられて茶葉と蜂蜜が送られてまいりました。折角なので手紙のお供に。摘みたてのセカンドフラッシュのようです」
二番摘みは味わいが濃く渋みもある。冬の寒さに行動が停滞しがちな時には渋くて濃い紅茶が恋しくなるから、これは嬉しい贈り物だ。このヴァレンティンの軽くて爽やかな紅茶と違う深みのある味わいが中々癖になる。
「ミリムにしては珍しい贈り物ね。私の心労を察してくれているのかしら」
ミルクを注ぐと、紅茶の味わいはしっかり残っているのにまろやかになる。日頃は好まない飲み方だけれど、これはいい。
「マーサ、ミルクは温めたものがいいわ。それと蜂蜜も少し」
「かしこまりました。一緒に送っていただいたクローバーの蜂蜜が癖もなく、よく合うと思いますよ」
マーサが二杯目を準備してくれている間に、ヒラリヒラリと二枚目、三枚目に目を通した。
二枚目からは雑談ではなく、最近お互いに詳しくやり取りしている情報交換の類のものだった。リディアーヌの方からはベルテセーヌの様子を少し。マクシミリアンの方もクロイツェンの様子や、そのクロイツェンに現れたヴィオレット嬢のことなどを少し。
手紙の書きぶりからは、どうやらヴィオレットが意外にもクロイツェン皇室内に受け入れられている様子や、とりわけアルトゥールの生母でもある皇妃様が後ろ盾になっていることなどが書かれていた。貴重な情報だ。
それから、昨今クロイツェンでは“菓子パン”と“惣菜パン”なるものが城下で人気になっており、ザクセオンでも行商の者達がこぞって絶賛していることなどが書かれていた。これは多分、ヴィオレットが仕掛け人だろう。彼女はクロイツェンでもパンを焼いているらしい。
他にすることが無いのだろうか?
『私もトゥーリには“本気で結婚するのか?”と問うたけれど、“冗談で国中に招待状を出すわけないだろう”と罵られた。腑に落ちないよ。まぁ、友人としてはどんな軽口を叩けても、公人としては苦情を言うわけにもいかない。ただ君と四年ぶりに会えるのだと思うと、クロイツェン旅行も悪くない』
あぁ、そうか。そう言われると、そうだな。
『リディ。雪が解け、ベルブラウの花が咲き始めた頃にまた会おう。夏知らせより深い色の青と、君の瞳のように輝く金の刺繍で――』
これは遠回しなエスコートの誘いだ。
一国の皇太子の婚儀に参列するとなると、立場は大公代理。国賓として招待に預かることになる。だから本来であれば自国の中からそれにふさわしいだけのパートナーを連れて行くべきなのだろうけれど……相変わらず、マクシミリアンは悪戯心に抜かりが無い。
「マーサ、雪が深くない日を選んで、ラ・フロレゾンのマダムとトレゾール・デ・フィのチーフを呼んでちょうだい。マダムには最も質のいい絹とありったけの金と緑の刺繍糸を。トレの方は透明度と色味の強いエメラルドをすべて持ってくるよう伝えてちょうだい」
「緑の刺繍糸にエメラルドですか?」
マーサは首を傾げつつもさっとメモを取ると、「正装用でございますよね?」と問うたので、それに頷いた。
正直、アルトゥールの婚儀に参列するかどうかはかなり迷っていた。選帝侯家としては誰かを送らないという選択肢はないのだが、国同士の関係としては、せいぜい使者にアセルマン候かその子息辺りを遣わせばいい関係だ。
ただ招待状には是非リディアーヌにと名指しされていたし、仮にも友人として知られている以上、行かないというのも周辺に入らぬ噂を立ててしまう。だからこその迷いだったのだが、マクシミリアンのおかげで行く決心も着いたというものだ。
だが行くとなると、“大公代理”という、国主の代理としての出席だ。選帝侯家の直系として用いるべき正装の象徴色は紫紺。大公本人ではないので、少し格を落とした色合いの青紫になる。
典礼用の綬やマントは新調せずとも揃っているし、身に着けるべき宝飾類も、およそ大公家に代々伝わる象徴石で作られたものがある。私的な場ではなく公的な場なので、用いるのはそれら古い品でいいのだ。ただ謁見や婚姻のお披露目はそれでいいとして、前夜祭などにはまた別の、それ相応の品を揃えねばならない。
だが緑の糸と緑の宝石というのはマーサには不思議だったようだ。選帝侯家の色でもなくヴァレンティン家の色でもなく、それにプラチナの髪と琥珀色の瞳のリディアーヌの色でもない。ヴァレンティンのカラーとして青味の強いブルーグリーンはよく用いられるが、濃い緑というイメージではないのだろう。当然だ。緑はマクシミリアンの瞳の色である。こんなもので揃えていった日には、アルトゥールがどんな顔をするか。
ふふふ……おかげさまで消極的だったクロイツェン旅行が少し楽しみになった。
「さて……あとの問題は、ヴィオレット嬢のことだけれど……」
そして昨今どんどんと集まってきているベルテセーヌの情報について、それをどうアンジェリカに話せばいいのか。
それを考えながら読み終えたマクシミリアンの手紙を丁寧に封筒に戻したところで、折よくコンコンと扉を叩く音がした。ちょうど、呼び寄せていたアンジェリカがやって来たらしい。
アンジェリカはあれからしばらく、微熱に寝込んでいた。思いのほか気苦労を重ねたことと、慣れない環境がかさんでしまったのだろう。
熱が下がってからもできる限り養生させ、しばらくは情報にも触れさせずにいた。アンジェリカにつけてあるメイド長補佐のベレニーからは、時折心配そうにしたりベルテセーヌの婚約者が気になっている様子を見せていたことの報告を受けているが、ヴァレンティンでの平和で穏やかな生活に絆されたのか、癇癪的な様子はないと聞く。
とはいえいつまでも黙っているわけにもいかない。新たにつかんだ情報を手に、いい加減色々と話をせねばならないとは思っていたのだ。
なのでベレニーに様子を見計らって、執務室に連れてきて欲しいことを頼んでいた。
今まではクロイツェン側にアンジェリカがヴァレンティンにいることを知られぬよう最大限気を使っていたから、アンジェリカもフォレ・ドゥネージュ城にやってきて以来、まだ一度も後宮の公女宮周辺には出たことが無かったはずだ。
うちの侍女達が見繕ってくれたのであろうリディアーヌのおさがりのドレスに綺麗に髪を結われた格好で、それでいて少しそわそわと周りを物珍しそうにやってきたのは当然のことであった。
しかしそれにしても……ドレスがあまり似合っていないな。
悪くはないが、リディアーヌにしてもうちの侍女達にしても落ち着いた意匠の恰好を好むので、寸胴で子供体形のアンジェリカが着るとのっぺりと地味に見える。
アンジェリカにはもう少しフリルやレースの多い立体感のあるドレスが似合いそうだ。
「マーサ、マダムを呼ぶ時、一緒にアンジェリカの物も揃えさせるのはどうかしら?」
「そうですね。まだ長くいらっしゃることになりそうですから」
そうマーサが頷いたところで、アンジェリカが少しオドオドと、「お呼びと伺いました」と礼を尽くした。
いつも王女宮で朝食を。時折夕食も一緒にしているから、久しぶりな感じはしない。今朝は仕事が多くて執務室で簡単に朝食を済ませたため顔を合せなかったが、昨日の朝ぶりである。
「ここまで来てもらって有難う、アンジェリカ。城の表を歩くのは初めてだったでしょう?」
「はい。雰囲気はあまり変わりませんけれど……このお城、本当に広いんですね。リディアーヌ様の執務室はそれでもまだかなり後宮に近い、内城の奥の方だと聞きましたが」
「そうよ。山肌に張り付くように建ててあるから、階段が多くて時間もかかるのよね」
ベルテセーヌの王城は小高い平地にあって、横に広い。フォレ・ドゥネージュ城はぱっと見ベルテセーヌほど広くないのに、縦に広いせいで、歩くと隣の建物がより遠く感じるのだ。ただその代わり、建物と建物の行き来が制限されていて、奥への人の出入りを監視しやすい。アンジェリカを隠しておくにはちょうどいい。
「こちらで半月ほど過ごしたけれど、少しは慣れたかしら?」
「はい。皆良くしてくれます。ベレニーも」
そう視線を向けた先で、年若いメイド長補佐の少女がニコッと微笑んだ。
この城では侍女や侍従が貴族階級から登用されるのに対し、メイドや下仕えは平民から登用されることが多い。ただしメイド長とメイド長を補佐する数人だけは下級貴族階層だ。あくまでも客人であるアンジェリカに自分の侍女を付けるわけにはいかなかったので、貴族階層出身のメイドであるベレニーにアンジェリカを任せていたのだ。
ベレニーは公女府のメイド長であるネイロス男爵夫人の娘で、同じくメイド長補佐を務めている姉のアメリーが結婚したのを機に、姉が今後出産などで休職する際、仕事を肩代わりできるようにと期待され、今年からこの王女宮で働き始めたばかりの男爵令嬢である。
年は十七で、アンジェリカの一つ上。まだ多少仕事に不安な所はあるものの、明るくて気立ての良い性格だから、仲良くなれたようだ。
「ここに来る前に、ベレニーから少し話を聞きました。その……クロード様が、行方不明になっている、って」
先だってベレニーには簡単に話しておくよう頼んでいた。すでに一度話を聞いてから、この午前中、頭を整理していたのだろう。思いのほかアンジェリカが落ち着いた様子であったことに安堵した。
「ええ。それから、色々と情報収集をしていたのだけれど……」
そう言いながら、マーサが持ってきてくれた手紙を銀盤から受け取り、そのままアンジェリカへと差し出した。
「これは?」
「そのクロード殿下から、昨日付で送られてきた手紙よ」
「ッ!」
急いで手に取りアンジェリカが手紙を開く間、ベレニーの姉のアメリーがお茶の準備を整えてくれたので、マーサにハーブティーを頼んだ。リディアーヌはつい先ほど存分に紅茶を楽しんだばかりなので、これはどちらかというとアンジェリカのためのお茶である。
その内、手紙を読み終えたらしいアンジェリカはふるふると手紙を置いて、それからゆっくりと掌で顔を覆って肩を震わせた。
手紙と言っても、それはごくごく短い走り書きだ。それはアンジェリカではなくヴァレンティン家に宛てたもので、ただただどうかアンジェリカをヴァレンティン家で保護してほしい旨が書かれていた。おそらく逃亡する最中、誰かからアンジェリカがヴァレンティンで保護されていることを聞き、急いでしたため送ったものなのだろう。
実際、クロードからの手紙はつい昨日に届いたばかりだが、ヴァレンティンにはそれよりも早く、クロードがどうなったのかの情報が届いていた。
「今から十日前。クロードの廃太子が宣言されたわ。それは耳に入っているかしら?」
「っ……」