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1-1 白い紙鳩

 一年前。

 帝暦六三〇年、晩春――。


 そろそろ夏を迎える北の果ての大公国の、ひときわ高い塔の上の小さな部屋で、一人の姫がクルリクルリとペンを回していた。

 少し前に浸したインクは紙に文字を綴る前に乾いてしまって、しかし次のインクを吸わせるにはまだ記すべき文字が思い浮かばない。

 夏知らせの強い風が、いっそ良い言葉のアイデアの一つも運んできてくれたらよいのだけれど、これほどにひらめかないのは、先ほどその良い言葉を鳩にして飛ばしてしまった報いなのか。

 高く(そび)える青灰色の岩肌。城を包む天鵞絨(びろうど)の森。ひんやりと心地よく肌を撫でた風が、ひゅうと音を奏でて空に渦巻き、開けた盆地に流れ出てゆく。黒い翼と赤い尾の飛竜が山と山の狭間を翔けると、大きく羽ばたいた風に煽られ、金青色の花びらが舞い、遠く、この塔屋にまで甘い芳香を運んできた。

 この美しい情景と美しい風に、美しい言葉を乗せた白い紙鳩を飛ばしてみたくなったのは仕方のないことだと思う。


「姫様。どちらにおいでですか、リディアーヌ姫様」


 やがて一際甲高い風の音の中に交じりはじめた聞き馴染んだ声に、ゆるゆると沈む日の光の色に似た黄金色の瞳を持ちあげ、用をなしていないペンを置いた。そんなに時間が経っていただろうか。


「マーサ、ここよ」


 軽く呟いただけだったが、うちの優秀な侍女はすぐにもこの小さな塔屋の階段から顔を出した。え、聞こえたの? マーサさん怖い。


「こちらにおいででしたか、姫様。まぁ、またそのような格好で。もうすぐ夏とはいえ、お寒くございましょう」


 言葉では気を使いながらも、開け放たれていた窓は閉められ、サイドテーブルの紙束がテキパキと整理され、インクの蓋も閉ざされて、あっという間に帰り支度が整えられてしまった。


「はいはい、わかったわ。寒い寒い」

「ではお部屋にお戻りになった方が宜しいですね」


 つまり当主不在のこの家の事務が滞っているので、早急に戻ってくるよう、誰かに指示されてきたってことだ。あぁ、寒い寒い。


「姫様、こちらの便箋(びんせん)はお送りするものでしょうか?」

「……あぁ」


 机の上の便箋にはいくつかの文字が(つづ)られていて、しかし乾ききったペンの下敷きという粗雑な扱いを受けている様子に、マーサも対処を悩んだらしい。


「返事に困っていてね。気が向いたら書き直すから、それは捨てておいて」

「宜しいのですか? 速達で届きましたし、お急ぎのお手紙だったのでは?」

「良いも何も……」


 ゆったりとソファを立ち上がると、もう一方の封筒の上に開いていた便箋を手に取った。

 白くて硬い封筒。綺麗な箔押しの装飾が施され、花の柄があしらわれた上品な素材。切られた封蝋(ふうろう)は最も高価な紫紺の蝋で、一際豪華な封の紋章には銀粉が混り、ほのかに花の香りが漂う便箋には品の良い青みを含んだインクで流れるように美しい文字が綴られている。

 ただその内容ときたら……。


『親愛なる我が姫リディアーヌ。

 今日は記念すべき九十回目のプロポーズの手紙を送るよ。君からつれない返事を八十九回受け取ったけれど、報われない恋も百回願えば叶うそうだから、君とこんなやり取りができるのももうあと十回ということだね。待ち焦がれて浮き足立っている僕には何の苦もない十回だけれど……もしかしたら今日にでも、了承の返事を書きたくなるんじゃないかな? そうなんじゃないかな? そうに違いない。

 まずはとっておきのブルーインキを準備すると良い。便箋は柔らかで混じりけのない純白にしよう。紋章の入ったものがいい。香りを焚き込める必要はないよ。封の中には君の住まう美しきドゥネージュの森の緑の風が閉じ込めてあるだろうから。

 ところでリディ。僕達は何しろ昵懇の仲だから、僕には君の事が手に取るようにわかるんだ。この手紙を手にした君は今頃、きっとその麗しい面差しをさらに麗しくほころばせ、そしてきっと……』


「……便箋の続きが破られているようですが」

「“紙鳩(かみばと)にして窓の外へ飛ばしているに違いない”と書いてあったから、その通り、鳩を折って窓の外に飛ばして差し上げたわ。ちょうど良い風が吹いていたものだから」

「姫様!!」


 マーサは慌てて窓から外を覗き込んだけれど、高い場所にあるこの塔屋から、斜面に聳える広大な城内に散らばった便箋が見つかるはずもない。


「どなたかが目にしてしまったらどうなさるんですか!」


 ふむ。仮にも殿下という敬称で呼ばれる相手の手紙を破って折り紙にしたことは問題ないらしい。


「平気よ。ちゃんと目は通したけれど、速達である意味が微塵も理解できないくらい、いつもの雑談しか書いてなかったわ」

「そういう問題ではございませんよ、姫様。ただでさえ城内ではひっきりなしに届く姫様宛の“紫紺”の封のお手紙に、噂が絶えませんのに」

「そうなの? でもミリムからの手紙なんて、いつものことじゃない」

「ザクセオンの公子殿下が姫様のご友人であることは皆承知しておりますが、姫様ももう十九。とうにご婚礼の適齢でございますもの」

「だからこそよ。その気ならとっとと結婚しているわ。そうではないから、ただ無為に手紙を交わすのではないかしら?」


 この内容を見てそう仰るのですか? と苦笑するマーサは、かろうじて残っていた便箋を再び丁寧に封筒に納めた。

 マーサはそういうけれど、リディアーヌにとってみればやはり彼は友人だ。ただの友人ではなく特別な友人ではあるけれど、それ以上でもそれ以下でもない。


「この帝国でただ五家しか存在しない紫紺の封を用いることのできる選帝候家。中でも一際ご台頭なされている“(せい)鹿(ろく)”からのお手紙です。“(せい)(ろう)”の当家とは文句の付けどころのないご良縁でございますし、そのお方が卒業以来浮名の一つも流さずに、毎月欠かさず、時には月に二度も三度も熱心にこのようなお手紙を下さるのですよ。浮いた話題の欠片も出てこない当家唯一の姫君の意中のお方なのではと、噂も捗るというものでございます」

「けれどミリムはその“青鹿”の跡取り。いかに家の釣り合いがよくとも、婿にはもらえない。その話はもう随分と前にしたでしょう?」

「姫様がお嫁に行くという方法もあるではございませんか」

「あらマーサ、本気で言っているの?」


 そう苦笑しながら塔屋の階段を下りて行くと、そわそわと走り回っていた文官達がたちまち目を輝かせて飛んできた。


「姫様、お探しいたしました。すぐにご相談したき議がございます!」

「先にこちらにお目を通していただきたい! 急ぎ返答せねばなりません!」

「お待ちくださいッ、こちらは三日前から待っておるんですぞ! そろそろ大公殿下がお戻りになりますから、出迎え、祝宴、儀式の事など、今日にでもお決めいただかねば!」


 わっと群がったおじ様方に、護衛を務めてくれているエリオットが彼等を押しとどめた。その様子にマーサもため息を吐く。

 そう。今なお、リディアーヌがお嫁に行くという選択肢は、この国には無い。


「私がお嫁に行くのは、良い年をしてなお独り身でフラフラなさっている叔父様がご結婚なされて跡継ぎを儲けられた時か、フレデリクが立派に成人して領地の仕事をこなせるようになってからね。その時、私は一体いくつなのかしら」

「よ、嫁ですとっ?! いけません、姫様! 我らが公女殿下には婿を! 是非、婿を取っていただきたい!」

「公女様が外に出られては、誰がこの領地を支えて下さるのでしょうか!」

「反対です。断固、反対でございます! 歴史ある家門を滅ぼすおつもりですか?!」


 ほら、これだもの。


「私も、お嫁に行くつもりはなくってよ。だから貴方達も、ミリム……ザクセオンのマクシミリアン公子と私の関係を疑う噂を聞いたら、笑って否定してちょうだい」


 そうひらひらと手を振ってあしらったリディアーヌに、彼等は一様に困ったような複雑そうな顔を見合わせたけれど、やがて一人が頷いたのを機に、皆も頷いた。

 彼等が抱いているのは、このままだと行き遅れになりかねないリディアーヌへの罪悪感だろうか。それとも安堵なのだろうか。いずれにしても、リディアーヌはこの愛おしい国を離れるつもりはない。

 同時に、時折手紙をくれる友人達の他に伴侶に相応しいと思えるような優秀な人材にも出会ったことがない。行き遅れているのは、優秀過ぎる友人達のせいで相手に求める基準が高くなりすぎているせいに違いない。


「とはいえ、叔父様にも困ったものね。私よりも叔父様の結婚相手を探す方が先ではないのかしら?」

「それはもう、昔から幾度となくうるさく言ってまいりましたとも。しかしあの方は……」


 ハァ、とさらにため息を吐く典礼公室関係の責任者であるベロム大臣に、「貴方にも苦労をかけているわね」と声をかけつつ、彼が手にしていた書類を取り上げた。

 帝国議会のため帝都に出かけている叔父がそろそろ帰ってくる時期である。その出迎えと帰国後の行事諸々の段取りに関する書類だ。これは例年通りのことなので、手順もできている。問題ない。


「この案で承認しましょう。ただ今年はベルブラウの花が豊作のようだから、広間の装飾には城の森ではなく城下から調達したものを用いてちょうだい。例年通りの額で買い上げるように」


 そう指示した瞬間、吹き抜けの透廊を強い風が駆け抜け、一斉に花びらをまき散らした。その美しい光景に、皆が一瞬足を止める。

 夏に舞う深い青みを帯びた色の花が、ベルブラウの花だ。春には雪灰色の淡い色をしているが、気温の上昇と共に色を変え、程よい季節になると真っ青に染まって舞い散る。そのため夏知らせの花ともいわれている。

 あぁ……そろそろあの花を砂糖漬けにした花茶が作られ始める季節だ。今年も一番よくできたものを、最近手紙の途絶えがちな黒髪の友人の元に送ろう。他愛もない恨み言を添えて。


「えーっと。その他の差配はいつも通り、ベロム大臣がお願い。明日の午後にエベール伯爵夫人をお招きしているから、侍女長と引き合わせて、例年通り協力を仰ぐように。晩餐会は侍従長に任せてあるから、あとのことは侍府と打ち合わせてちょうだい」

「かしこまりました」

「それから次は……」


 私です。私の方です! と言わんばかりに目を輝かせる高官達をざっと一瞥していると、後ろでおどおどとしていた青年に目が止まった。周囲からは浮いた、警備兵の恰好の年若い青年だ。


「アルノワ卿、どうしたの?」


 ばっと一気に振り返った高官達にびくりと肩を跳ね上げたアルノワは、彼らを差し置いて発言するのは気まずい、といった様子だったが、城内奥向きの警備を担う班長の一人がこんなところにいるというのは変な話だ。急ぎの件に違いないから速やかに報告をしていただきたいと思う。


「構わないわ、言ってちょうだい」

「それでは……お、恐れながら……」


 委縮しながら高官達の間を分け入って来たアルノワ卿は、そのいたたまれなさ以上に恐縮した様子で、プルプルと震える手に乗せた白い紙を、ゆっくりと差し出した。

 はて? 何だろう。何だか見覚えが……。


「先ほど下の練兵場に……そ、その。このような“紙鳩”が、飛んでまいりまして……」


「「あ」」


 マーサと被った呟き声に、ぱっと目が合う。


「……姫様」

「……」


 かぁぁぁ、と顔を真っ赤にしたうら若き青年は、どうやら紙鳩を広げて中を読んでしまったらしい。よその公子様からうちの公女様へと送られた、熱烈な“恋文”を。


「アルノワ卿。これはただの言葉の戯れよ。真に受ける必要はなくてよ」

「じ、自分は何も見ておりませんッ!」

「宜しいわ。ちなみにあと三枚ほど落ちているはずだから、貴方の班で捜索してちょうだい。速やかに。けれど決して中は見ないように」

「かしこまりました!」

「……姫様」


 マーサの吐いた深い深いため息に関しては、聞こえなかったふりをしておいた。






紙鳩:折り紙。紙飛行機ではない。

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