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2-21 ヴァレンティンへ

side アンジェリカ

side リディアーヌ

 沖に泊まり翌朝出航するはずだった船は、そのまま夕暮れ時の中で出航した。

 夜の航行は危険だと聞いたけれど、「季節の変わり目の難しい潮目に挑戦できるなんて、腕が鳴るだろう、お前ら!」と叱咤激励した王子に、水夫達は少しも嫌な顔を見せることなく、「船体に穴が開いたらすんません!」「泳ぐ準備をしといてください!」などという冗談を言いながら、(いかり)を上げた。

 アンジェリカは泳げないので……船体に穴が開いたら困るのだけれど。

 だがそんな不穏な言葉とは裏腹に、船は迷うことなくとんでもない速さで夜闇を突き進み、やがて日が昇り始めた頃、最も難しいといわれる海域を抜け、間もなく下船準備の号令がかかった。


「まだ状況が分かりませんから、アンジェリカ様は私の侍女達と、少し遅れてお降りくださいませ」


 そう告げた妃殿下にお礼を申し上げながら、下船準備の邪魔にならぬようひっそりと待った。

 早く船を下りたい。早く、リディアーヌに会いたい。

 ヴァレンティンの首都はまだここから数日かかるらしく、それにアルテンの王子殿下はここで仕事もあるらしい。それを急かすわけにもいかない。

 そんな焦燥にかられる中、やがて妃殿下の筆頭の侍女であるらしいジャンナが、「そろそろ下船いたしましょう」と声をかけてくれた。そのジャンナが船に慣れないアンジェリカに手を貸してくれながら、タラップに足をかける。


 プラージュというらしいその港はオトメールに比べると規模の小さな港町だったけれど、ぎっしりと家がひしめく様子は船の上からでもその賑わいが感じられるようで、山際まで同じ色の屋根の街並みは美しく、奥には一際目を引く白いお城が(そび)えていた。

 たった半日足らず海を越えただけだというのに、雰囲気がまるで違う。

 これが、ヴァレンティン――まるで、おとぎの世界にでも来たかのような景色だった。

 そんな景色を眺めるのもほどほどに、導かれるままに不安定なタラップを一生懸命に降りて行く。

 無事に地面に足がついてほっとすると同時に、歩み寄ってきた王子の従者が「ジャンナ」と声をかけた。


「ヴァレンティンの公女殿下が、このプラージュにお出でになられている。あちらに……」


 そうカストルの視線を追いかけた先で、こちらを見てびっくりとしている女性の姿が目に入った。

 相も変わらず目を引く美しい立ち姿。日の光にきらめく銀色の髪と、シンプルだけれどアクセントの利いた上着をさらりと羽織った上品な出で立ちに、沢山の美しい人々に囲まれたその人――。


「ッ……」


 あふれ出しそうになる安堵の涙を必死にこらえながら、ふらふらと足を踏み出す。


「っ、リディアーヌ様ッ!」


 心に体が着いて行かないのか、走りたいのに足が(もつ)れる。

 不安定な足取りに、ジャンナ達が慌てて手を貸してくれたけれど、それもほどほどに必死に駆け出した。

 驚いたようにこちらに手を伸ばしてくれたその人に触れた瞬間、ドッと、すべての緊張感が解けたかのような心地がした。


「アンジェリカ?! 貴女、何をしているの?」

「リディアーヌ様っ、公女殿下っ! クロード様をっ。クロード様を、助けてくださいッ!」

「待って、アンジェリカ……一体、何がどうして……」


 戸惑うようにアンジェリカを支え、それから周囲を見渡したリディアーヌは、しかし間もなく一つの方向に視線を釘づけると、ふと息をひっ詰めさせた。

 するりするりとアンジェリカから手が解け、じっと一点を見つめた先で……この道中、ずっとただただ恐ろしく危険だったはずの男が、嗚咽をこぼしながら、地面に崩れ落ちるのを見た。


「キリィ……どうして貴方が……」


 この公女が、一体どれほどにアンジェリカを助けてくれるのかは分からない。

 アンジェリカはただただ無遠慮に懇願したけれど、その胸の奥底では、あんなベルテセーヌの暗雲に苦しめられてきた公女に、いまさら厚顔無恥な願い事などできようはずもないことの自覚があった。だから本当は、アンジェリカがヴァレンティンの地を踏むなど、おこがましいにもほどがあるのだ。


 ただそれでも……それでも、このことだけは。

 マグキリアン・ペステロープをこの場所に連れてきたことについてだけは……きっと、少しも後悔しないだろう。



  ◇◇◇



 リディアーヌは、その突然の思いがけない状況に、言葉が思い浮かばない、という状況を経験した。

 一体どうしてアンジェリカがこんなところにいて、しかもアルテンの船に乗って現れるのか。それにも驚いたのだが、それよりも彼らが連れてきたもう一人の人物にこそ、言葉を無くしてしまった。

 マグキリアン・ペステロープ――かつて父が暗殺され母が毒に倒れた時、国王暗殺と国家転覆の罪をかけられ、一族郎党悉くが処刑台に送られたペステロープ家の嫡男。リディアーヌよりも六つ年上で、兄の一つ年下。当時のペステロープ宰相の嫡男とあって、兄の側近候補としてよく登城もしていた幼馴染だ。


 父が亡くなった時も、彼はリディアーヌ達と一緒にいた。いつものようにお城の庭のお気に入りのガゼボで、彼と彼の一つ下の妹のキリエッタと、四人でお茶をしている最中、帝都から戻る途中の両親が襲撃を受けたとの報告を受けたのだ。

 幼かったリディアーヌは、あの頃のことを、体に刻み込まれた恐怖心以外にほとんど覚えていない。ただ兄や、ペステロープ家の兄妹がずっと一緒にいてくれたことだけは覚えている。そしてそれから一日と待たず、父の訃報と、そして“ペステロープ家の一斉捕縛”の報を受けたのだ。


 ペステロープ家の兄妹を匿ったのは、兄エドゥアールの判断だった。

 リディアーヌにはよく分らなかったれど、きっと兄はそれが有り得ないことを信じていて、彼らを守るための“友としての判断”をしたのだろう。その兄に言われるままに、リディアーヌが教区長を頼り、彼らを匿ってもらった。彼らは髪を染め、名を変え、教会の孤児に扮して、やがてリディアーヌと兄がヴァレンティン家に引き取られることになった時、共にヴァレンティンへと亡命した。

 ペステロープ家の取り潰しと、一族郎党、縁のある者から外戚に至るまで、その悉くが処刑されたなどという非情な報告は、ヴァレンティンで聞いた。そしてそれを主導したシャルル三世とオリオール侯爵家が、行方不明になっているペステロープ家の嫡男と嫡女を探していることも。


『私達の傍にいたら駄目だ。いつバレるとも知れないし、それに二人はきっと、私達のために命を懸ける。私達はすでに、ペステロープ家に償いきれないほどの悲劇を負わせてしまっているのに……』


 両親の死からこの方、必死に虚勢を張ってリディアーヌを守らんと己を律してきた兄が、ただ一度だけリディアーヌに聞かせた震える声には、嘆きと怒りと、そして己を責めるようなどうしようもない悔しさが込められていた。

 今の自分に、彼らを守れる力はない――そのことを知り、必死に折れそうな矜持を握りしめていたのだろう。

 それから間もなくして、『絶対にお傍を離れません』と言っていた二人は大公ジェラールにほとんど強引に説得させられ、皇帝直轄領リンテンへと送られた。大公家と馴染みの深いルゼノール家に頼んで彼らの養父母を探してもらい、その後リンテンの隣、ソレイユ自治国の商家に引き取られたと聞いている。


 その後リディアーヌはベルテセーヌに戻ることになり、兄は皇立学校を卒業して正式に大公家の公子となった。その頃には先王クリストフ二世暗殺の黒幕はフォンクラーク王であったというのが周知の事実になっていたけれど、ベルテセーヌ国内では相変わらず、フォンクラークの手先としてペステロープ家が実行犯となったという認識のままだった。

 だがそんな話、リディアーヌは微塵も信じていなかった。

 父の腹心として宰相の職を任されていたペステロープ侯爵。母ととても親しかった侯爵夫人。彼らがいなくなって最も得をした人物が誰なのか――ただ当時のリディアーヌにそれらを調べ告発するような力は無く、そして何ら手も打てぬままに、今度は兄を失った。


 その後、ヴァレンティンに帰り“リディアーヌ王女を殺す”決断をしたリディアーヌに、王女の葬式を提案したのは叔父だった。リディアーヌ王女が死んでいないことに勘付いている人は多い。だがそこに少しでも多くの真実味を持たせるために、大公家はエドゥアールと共に王女の葬送を行ったのだ。

 実のところ、リディアーヌはペステロープ家の兄妹が葬儀に駆け付け、遠くからそれを見守っていたことを知っていた。知っていながら真実を明かすことは無く、ただただ埋葬されてゆく二つの棺に号泣し地面に崩れ落ちる彼らに何も言えないまま、口を噤んでいた。彼らこそが、本当にリディアーヌ王女が死んだのだということを証明するための大切な証人の一人だったのだ。


 それがどうして……まさかこんな形で再会するだなんて。

 もし再び出会ったとしても、他人のふりをするつもりだった。そうできると、思っていた。

 だがリディアーヌを見た瞬間、かつて葬儀の場で見かけた少年のように、嗚咽をこぼして打ちひしがれたその人に、嘘は言えなかった。

 リディアーヌに出来たのは、彼らに対して重ねてしまった罪の意識に、自分を責めることだけである。


  ***


「落ち着いた? キリィ……」


 カタコトと揺れる馬車に、目を真っ赤に腫らして沈黙する男性が、今なお固く口を引き結んでいる。

 隣でハラハラとキリアンを窺っているアンジェリカは、彼とどういう関係なのだろう。そもそも何故アンジェリカがここにいるのかすら、まだよく分っていない。

 船を下りた瞬間からのアンジェリカの様子を見ても、彼女もまたリディアーヌに言いたいことが沢山あるはずなのに、どうやらキリアンにそれを譲っているらしい。一体二人に何があったのだろうか。


「落ち着くはずが、ありません……どうして……何故ですか、“王女殿下”」

「キリィ……“王女”は死んだわ」

「リディアーヌ様!」

「死んだのよ。貴方が見た通り。あの葬儀の夜、兄と共に、並んで埋葬されたわ」

「ッ……」


 オロオロとするアンジェリカに、こんな話を聞かせていいものかと少し困惑してしまう。だが見た限り、どうやらアンジェリカもキリアンの正体については知っているらしい。知っていながら……シャルルの息子の許嫁と、ペステロープ家の最後の子が一緒にいるだなんて。


「私達は献花の際、確かに棺の中に亡骸があるのを見ました。どちらも、私達が良く知っている銀の髪で……それに王女殿下のご遺体の指には、ご印章も……」

「棺に眠っていたのは、ちょうど同じ頃に城下の孤児院で亡くなった女の子よ。毒で亡くなった遺体は無残だから……顔も肌も、すべて布で隠されていた。その代わりに人目を引いたのが髪なのでしょうけれど、貴方が見た髪はどちらもお兄様の髪よ。お兄様は当時、髪を伸ばしていらしたの。だからその遺髪を半分切って、偽りの王女の遺体の横に添えたわ」

「エディ殿下……エドゥアール殿下はっ?!」

「……お兄様は亡くなられたわ。私と違って、嘘偽りなく」

「っ……」


「葬儀の後で墓所に持ち込まれた棺は葬儀の時の棺とは別物よ。埋葬された王女の棺には、王女時代の思い出の品とお兄様の遺髪だけが入っていたわ」

「それでも……貴女だけでも、生きていてくださった。なのにどうして……どうして教えて、下さらなかったのですか?」

「貴方達が信じること……それが、王女の死を真相付けた。私達はそれを、利用したの」

「ッ……じゃあ……私達がいるとっ」

「知っていたわ。私達のために泣いて、憤ってくれた貴方達を、私は他でもない大公の隣で、王子女の従妹であり義妹である“リディアーヌ公女”として、見ていたわ」

「ッ……」


 葬儀において、女子は深い黒のベールを(かず)く。だから彼らも気が付かなかったのだろう。良く見知った顔の王女が、すぐ近くで、喪主の隣で自分の埋葬を見つめていたなんて。


「それからしばらくは、ヴァレンティン家の者に貴方達を見張らせていたわ。案の定、貴方ときたら仇を討とうとベルテセーヌに密入国しようとしたり、ヴァレンティン領でこそこそ調べ物をしたり……本当に手を焼いたのよ」

「……当たり前では、ありませんか……」

「だからどうしようもなくて、“エッタ”に真実を漏らしたわ」

「……は?」

「だから、エッタに……貴方の妹のキリエッタに、“リディアーヌは生きていて、ただ静かに公女として新しい人生を生きることを望んでいる”と伝えてもらったわ」


 可哀想なくらいに驚嘆して、黙り込んでしまったキリアンに、隣でアンジェリカがおろおろと様子を窺った。

 キリアンも、まさか最も信頼する実の妹にまで騙されていたいうのは信じられないのだろう。だが事情を聞いた聡明なキリエッタはすぐに、『私が兄を止めることを、殿下はお望みなんですね』と理解してくれたと聞いている。

 それからもしばらくは監視を続けていたけれど、キリエッタのおかげでキリアンも少しは落ち着いた。そして四年ほど前だったか、キリエッタが養子に入っていた商家の分家の子と恋仲になり、婚約したことを聞いた。これできっと落ち着くだろうと、彼らへの監視は止めさせたのだ。


「なのにこんな形で貴方に再会するだなんて……どうして貴方がベルテセーヌにいたの?」

「……」


 黙りこくるキリアンに、おろおろとしていたアンジェリカが口を開きかけては噤み、また開きかけては困ったように眉尻を垂らした。

 これは何やら、良からぬ事情な気がしてならない。

 だがそんなキリアンからの返答を聞くより早く、馬車は城門をくぐり、代官所となっている建物の前で停まった。

 本来なら賓客であるアルテンの王子夫妻を自ら迎賓館に案内した後、晩餐に招く予定だったのだが、イグラーノが気を使ってくれて夫妻は代官である伯爵に任せ、リディアーヌはこの二人を本城に連れて行くことになっていた。とはいえ、先触れもなかった急な客より公女が優先すべきはアルテンの王子夫妻だ。ずっと彼らに構っているわけにもいかない。


「すぐに色々と話を聞きたいところだけれど、私がここにいるのは公女として、アルテンの王族をもてなし、仕事の話をするためよ。すぐに貴方達のための時間は取れないわ」

「あ……」


 アンジェリカは不安そうな顔をしたけれど、こればかりは仕方がない。

 遠慮して伯爵の馬車に同車していたフィリックが馬車の扉を開けて手を差し伸べるのに合わせて、リディアーヌは早々と馬車を下りた。


「取り合えず、アンジェリカ嬢……見たところ怪我もしているようだし、二人はこのまま奥の本城に連れて行かせるわ。大公家の私的な空間よ」

「……あ、あの……私……」

「大丈夫よ、アンジェリカ。ここは“ヴァレンティン”。私はヴァレンティンにおいて、誰一人として私の客人に危害を加えさせないわ」


 そうぎゅっと外から手を握ったリディアーヌに、ようやくアンジェリカもほっと肩の力を抜いたようだった。


「ハンナ、二人をお願い。晩餐の前に一度本城に戻るわ。二人はとにかく、今日は良く休んで。話は明日、時間を取って、きちんと伺います」

「……有難うございます。公女殿下」


 そう呟いたアンジェリカに一つ頷いて、自分の侍女に任せ、二人の乗る馬車を見送った。






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