2-20 オトメールの邂逅(3)
side アンジェリカ
大きな船なだけあって、船室も思っていたより広々としていた。
扉は小さかったけれど、廊下を突き進んだ先、船尾に当たるであろう場所にぎっしりと窓ガラスがはめ込まれた広い部屋があり、壁際にソファーと、簡易なテーブルが並んでいた。そこに、案内されるがままに腰かける。
どうやらキリアンはまだ警戒しているのか、座りはせず、アンジェリカの近くに立ち控えた。誘拐犯が、まるで従者の真似事である。
「どうやらまだこういうことには不慣れなようだから、砕けた感じでいいか? アンジェリカ嬢」
「はいっ。そうしていただけると助かります……」
カタコトとどこからか慌ただしい物音が続き、波のざわめきとわずかな揺れが、妙に落ち着かない。アンジェリカは、こんなに大きな船に乗ったのは生まれて初めてなのだ。
「それで。君達は“うちの積み荷”の傍で、何をしていたんだ?」
「な、何もっ!」
泥棒にでも間違えられたのかと慌てて首を振ったアンジェリカに、もれなくキリアンが睨みを利かせた。
「アンジェリカ嬢……慌てたら余計に怪しい」
「あ、そうか……そうですね。あの、すみません。どこの荷だとかはまったく知らず……」
上手く説明できずにいるアンジェリカをチラリと見下ろしたキリアンが、「卑賎の身ながら、私が説明しても宜しいでしょうか、殿下」と口を開いた。
「許す」
威圧的に答える明らかに上位者な物言いには、アンジェリカまで緊張してしまいそうだった。
「当国の王太子殿下は、昨年の冬の終わりにオリオール侯爵家のヴィオレット嬢との婚約を解消し、聖痕の現れたアンジェリカ嬢と婚約いたしました。しかしヴィオレット嬢は国内で名声があり、昨今、ベルテセーヌでは“ヴィオレット派”という集団が王太子殿下を糾弾する声を挙げ、騒動になっております」
「あぁ、ある程度は聞いている。まさかオトメールまでその騒動が伸びているとは思わなかったがな」
「アンジェリカ嬢はこの問題に対処するため、南方におられるとあるお方に援助を頼もうとしていたそうです。しかし使者を派遣して程なく、暴徒に襲われ攫われておりました」
「していたそうです、というと?」
「私はアンジェリカ嬢の従者というわけではありません。ただ偶然行き合い、偶然同行しているだけの道連れでございます。私の目的地はヴァレンティンで、目的地を南とされているアンジェリカ嬢とは元々別です」
「ほぅ」
キリアンめ……抜け抜けとっ。
「アンジェリカ嬢は暴徒に捕らわれていたところを自ら逃げ出したのです。私とはその途中で行き合い、アンジェリカ嬢と同行していた方と私が昔馴染みであった縁があり、私がここまでご案内してきました」
ですよね? というキリアンの言葉に、非常に物申したい気持ちではあったものの、「そのとおりです……」と答えた。
「アンジェリカ嬢……そのような言い方をされると、私が嘘を申しているかのようなのですが」
「うっ」
だって嘘じゃない!
「い、色々と思う所はあるんですっ。ええ、でも私をオトメールまで連れてきてくれたのは確かにキリアンです。ついでにキリアンに彼の事情を伺い、ヴァレンティンに行くことを勧めたのも私ですっ」
こう言えば怪しさは無いだろう。勝手に情報を漏らしたわけだが、キリアンからも特に睨まれはしなかったし、王子殿下側も「なるほど」と少しは納得してくださったようだった。
「このまま私は北へ。アンジェリカ嬢はご一緒におられた聖職者の方と南へ行くはずでした。しかしアンジェリカ嬢は自力で抜け出したとはいえ一度は誘拐されていた身。これを聞いたらしい王太子殿下が一人先走り……ここまで近衛を率いて来られてしまったようです」
そこは隠す気もないらしい。ギリッと憎しみを込めたような口調で告げたキリアンに、「苦労しているな……」と、王子殿下が同情するような声で呟いた。
「なるほど。郊外で暴動が起きていると聞いたが、それか。さしずめアンジェリカ嬢も噂を聞きつけて飛び込んできたが、そのせいで町中では聖女探しの騒動が起きてしまったと」
「貴国にもご迷惑をおかけしました」
「何、大したことではないさ。しかしうちの奥さんの慧眼には恐れ入ったな。カリーナ、よくもまぁすぐに保護しようと思ったな」
「慧眼だなんて。私は脅える子供達を見つけて、少々手を差し伸べただけですよ」
そのやり取りに、どうやらこの王子殿下がヴィオレット派などまったく取り合っていない方であることが見て取れた。まさに、妃殿下の機転のおかげである。
「ただどうしたものか……見ての通り、この船は“王国船”だ。つまり、船自体が一種の治外法権で、船の中まで検査されることは無い。積み荷とて本来は検査される謂れなどないのだが……まぁこの件については後ほど、オトメールの代官、ひいては国に対して抗議文を送らせてもらうとして」
アンジェリカも冷や汗をかかされたので、オトメールの代官を庇うつもりは毛頭ない。国に対しては……ちょっとだけ、手加減していただけたら有難いけれど。
「我々としては他国の王室騒動に巻き込まれるわけにはいかないし、介入する気もない。そしてそれが原因で無礼を働かれた以上、今宵はオトメールには滞在せず、沖に船を停泊させ、船中泊とする指示を出した」
「まぁ、そうですの? だから慌ただしくなっているのですね」
「悪いな、カリーナ。報告が遅くなった。こっちとしてもあのような態度を取られた以上、オトメールが安全と判断できない、と主張する必要があるからな。陸地でゆっくりと休ませてやれなくてすまない」
「構いませんわよ。私も“海の女”でございます」
「その代わり積み荷は余すことなく積んでいくぞ。代官の寄越した侘びの品とやらもしっかり貰っていこう」
「まぁ。それは“得”をしましたね」
なんて逞しい王族……ちょっと呆気に取られてしまった。
「でだ、アンジェリカ嬢。こうなった手前、今更そなたらを“下ろす”というのは不味いんだが」
「あ……」
しまった。そりゃあそうだ。多分オトメール側もじっくりは探せないこの船を警戒くらいしているはずだし、そこからのこのこ陸地に戻る人などいれば明らかに目立つ。だったら夜陰に紛れて小舟を出してもらうか……いいや。この辺りは船底の深い大型専用の港だ。夜の暗闇の中、小船を出して、延々小舟が付けられそうな漁村まで漕いでいく技術はアンジェリカには無い。
せめてキリアンがいれば、と隣を見たが、キリアンの目的地はヴァレンティンなのだ。彼としてはこのまま安全な船でヴァレンティンに行きたいのではなかろうか。
「あ、あの……せめて連絡っ、連絡は出来ませんかっ? 実は、私達が逃げる時に庇ってくださった司教様が心配で……それに、クロード様がッ……」
思い出すと、再び不安が募ってきた。クロードの怪我の具合はどうのか。ちゃん逃げられたのか。お兄様はどうしたのか。
「失礼します。殿下、宜しいでしょうか」
そこに、ゴンゴンと扉を叩いた音が、アンジェリカの言葉を遮った。
王子殿下は少しそれを気遣う様子を見せたが、アンジェリカが黙りこくったのを見ると「入れ」と促した。現れたのは、水夫より少し立派な刺繍のベストを羽織った男性だ。
「どうした、カストル。準備が済むには早すぎるが?」
「それが、ベルテセーヌ兵に囲まれた高位の聖職者と思われる方が、アルテンの王族にご挨拶申し上げ、航海の安全に祝福を申し上げたいと参っております。いかがしましょう」
「聖職者?」
チラリとアンジェリカを見やった視線に、アンジェリカもはっとして身を浮かせた。
「アルテンは敬虔なベザリウス教徒国だ。願ってもないことで、断る理由はないな。だがベルテセーヌ兵の立ち入りはお断りだ。つい先ほど無礼を働かれたばかりだからな」
「ではそのように告げてまいります」
「甲板で面会する」
そう席を立つ王子殿下は、「船室の廊下から見て、知り合いなら知らせてくれ」とアンジェリカに指示した。なんと気の利く王子なのか。
その王子が出ていくや否や、妃殿下は「もう少し丁寧に偽装しましょう」といって、乱暴に被いていたベールを整え、髪を綺麗に押し込めて、さらに綺麗な髪飾りをあしらってくれた。こうすると、周りにいる侍女達とも遜色なく見える。
そんな妃殿下に連れられて、船室に通ずる廊下の中から僅かに扉を開けて甲板を伺う。ちょうどよろよろとタラップを上ってきた人物が、辛そうに足を撫でながら、「お手数をおかけしてすみませんな。年でして」などと言った。
間違いない。ロマネーリ教区長様だ。
いつもの厳かなストラやローブではなく、一介の司教クラスの恰好をしている。先ほどまでとは打って変わった綺麗な格好になっているから、おそらく町中で民達を引き止めてくださった後、教会できちんと身を整えたのだろう。
アンジェリカがほっとした様子を見せると、妃殿下がすぐにコクリと頷いて侍女を差し遣わした。その侍女が、「妃殿下もお会いしたいと仰っておいでです」と促す。教区長は首を傾げたようだが、すぐに王子殿下が教区長を連れて船室の方へとやってきた。
「教区長様! よかった、ご無事でっ」
「っ、アンジェリカ様?!」
どうやら教区長の方は、まさかアンジェリカが乗っているとは思っていなかったらしい。思わず抱き着いたアンジェリカにひとしきり困惑した後、すぐにほっと吐息を吐いた。
「神に感謝申し上げます。まさか、このようなお方を見かけたら助けて欲しいなどと頼みたく出向いた先で、当のご本人に会おうとは……」
「ま、待て待て。教区長様だと?」
あ、しまった。
すっかり困惑している王子殿下に、ロマネーリは改めて王族に対しての、決して過分なわけではない自然な礼を尽くした。
「先ほどは司教などと名乗り、失礼を致しました、アルテン第三王子殿下。私はベザリウス教会ベルテセーヌ教区長にして大司教の職位を拝命しております、ロマネーリと申します」
「なんてこった……あ、いや。これはこちらこそ失礼を致した、ロマネーリ大司教閣下。どうやら目的の人物に会えたようで何よりだ。あまり時間は無いが、奥にこられよ」
そう促され元の船室に戻ってきたところで、よそ様の船であることなど忘れ、「とにかく座ってください」とアンジェリカはロマネーリを椅子に促した。まだ足の怪我は完治していないのだ。
「教区長様、ご無事で何よりでした」
「私のことは心配いりません。それよりアンジェリカ様こそ……よくぞご無事で。まさかアルテンの御座船にいらっしゃるとは思いにもよりませんでしたが」
「教区長様こそ。何故?」
「あれからアンジェリカ様の行方も分からず。とにかく事の次第をお知らせせねばと急ぎ事情をしたため、無礼を承知ながら、アルテンの王子殿下に、ヴァレンティン大公殿下への親書をお頼みするつもりで参りました」
「ヴァレンティンの……大公様?」
なぜ? と首を傾げたアンジェリカに、「こちらの王子殿下は、大公殿下の既知であらせられます」というものだから驚いた。
「良く存じていらっしゃるな、大司教様」
「大公殿下と王子殿下が寄宿学校にご在学の頃、私は一年ほど、修練で聖都ベザの本山に籍を置いておりました。色々と、お噂は聞こえておりましたので」
「なんとっ。そうか」
不思議な巡りあわせよ、と感心している王子殿下はさておき、アンジェリカは急ぎ、「クロード様の情報はありませんかっ?!」と問うた。まずは何よりも、それである。
「ご安心を、アンジェリカ様。幸いお怪我は軽く、合流した聖騎士団がお諫めして軍を引かせたというのが顛末のようでございます。実はあの後、町中に潜入しておられたらしいアンジェリカ様のお兄君にお会いできたのです。卿もエメローラ領での事件を耳にしてアンジェリカ様の行方を追わせていたようでございます。なので私からひとまず、アンジェリカ様のご無事をお伝えさせていただきました」
「そう、お兄様はご無事だったのね。良かった……良かったわ……」
「マリシアン卿は王太子殿下と合流されておいでだそうです。本来ならば、このままアンジェリカ様も殿下の元にお連れする所なのですが……」
「ええ、すぐにっ」
「残念ながら、できません。私の行動もおそらくこの町のヴィオレット派に監視されておりますし、誤魔化してこの船から下ろすのは無理でしょう」
「そんな……」
「それに、この数日で王都の状況はさらに一変してしまったようです。もやは貴女様が表に出るのは危険すぎます。お兄君様も、どうか貴女を安全な場所に匿って欲しいと仰っておいでです」
かといって安全な場所なんて、今更どこにあるというのだろうか。それに船を下りれないとなると、なおさらだ。
「ですから提案なのですが。このままどうか、アンジェリカ様もヴァレンティンに向かい、身を潜めていただきたいのです」
「そんなっ! 状況が変わったなら尚更、私は何としてでもクロード様の傍にッ」
「アンジェリカ様。貴女に万が一があったら、その時点でクロード殿下は失脚なさるのです。貴女が自分の御身を守っていただくこと……それが何よりも、クロード殿下のためになることをお忘れなきよう。その上で、ヴァレンティンほどに安全な場所はございません」
「ッ……でも……」
何とか反論し自分も尽力したいのだが、生憎とアンジェリカの頭では何一ついい案が思い浮かばなかった。
マリシアンは、クロードと合流した以上、また傍に仕えることを許されているのかもしれない。そんなマリシアンに我儘は言えない。兄はどうやらアンジェリカの無事が確認でき次第、予定通りに南に向かうつもりらしい。だったらいっそアンジェリカも一緒に南に向かうのはどうか。
「貴女様は何処に行こうと目立ちます」
ただその意見はもれなく教区長に却下された。
確かにそうだ。兄に迷惑をかけるし、それに目立つアンジェリカがジュードを探しに行ったら、当のジュードに逃げられるかもしれない。いや。むしろアンジェリカがベルテセーヌを離れてしまえば、ジュードにアンジェリカを守ってもらう必要もない。兄がジュード探しをする必要はなくなるし、ジュードを頼ることがクロードにとって好ましくないという前提を考えても、それは悪いことではない。
だがアンジェリカが我が身を張って黒幕をおびき出そうという作戦はどうなるのか。
確かにキリアンはこちらに引き込めたが、彼は黒幕に繋がっている複数の中の一人でしかない。これでは全く足りない。
「アンジェリカ様……ヴァレンティンへ行っていただきたいというのは、何も御身の安全の為ばかりではございません。おそらく、最も身近にあって最も聡明なる助言者はリディアーヌ公女殿下であらせられます。貴女様には私が大公殿下に宛ててしたためた親書を持って、正式にヴァレンティン大公に面会していただきたいのです。貴女様であれば、直接大公殿下や公女殿下にお会いになることが出来るはず」
「でも……無遠慮に頼るだなんて……」
「ダリエル卿から、セザール様のご提案でジュード殿下をお頼りになるつもりだったと聞きました。では公女殿下をお頼りになることに、何の躊躇いがございましょうや」
「っ……」
そんなの、躊躇いだらけだ。
だがベルテセーヌという国や現国王に思う所があるのはリディアーヌもジュードも同じはず。なのによく知らないからという理由だけでジュードを利用しようとしていたのは、アンジェリカだ。どうして、リディアーヌを頼れないなどと勝手なことが言えようか。
少なくとも、その努力をしない理由は無い。
「でも教区長様……私だけそんな安全な場所で、安全な任務……」
「……」
きゅっと一度口を引き結んだ教区長は、間もなく、「でしたら」と言葉を続けながら顔をあげた。
「でしたら一つ。聖女の名の元に、書類を一通書いてはいただけないでしょうか。私が公的に、とある罪人を訪ねることを許可するものを。それを手に、私は“青の館”を訪ねたく思います」
青の館……そうだ。確か前にも出てきた言葉だ。
「青の館には……誰が、いるんですか?」
「リュシアン殿下が、いらせられます」
「ッ……」
それは、かつてあの公女の夫であって、公女の兄を殺した罪に問われた方だ。どうしても教区長はよりにもよってそんな人の名を挙げたのか。それはいくら何でも、有り得ないことだ。
「教区長様ッ」
「聞けばアンジェリカ様はお兄君に、ジュード殿下の免罪を認める一筆を下されたとか。無論、連座ではなく罪に問われたご当人であるリュシアン殿下に、それと同じ、つまり解放などの過ぎたる免罪符をいただくようお願いする気はございません。ただ、会うことを許していただきたいだけでございます」
「でもそれでは、クロード様がッ」
「ええ。クロード様にとっては決して好ましいことではございません。しかしブランディーヌ夫人とヴィオレット嬢のお二人から国民の目を引き離すのに、これ以上のこともございません。ジュード殿下が許され、リュシアン殿下が面会を受けること……それはクロード殿下と関係深いヴィオレット派にとっての大きな刺激になります。アンジェリカ様……貴女を囮にせずとも、大きな動きが起きるはずです」
「……っ」
そうか。ヴィオレット派とやらの裏には、アルナルディ正司教がいた。ということは、聖別の儀でその正司教と共謀していたブランディーヌ夫人もいるはずだ。そしてそのブランディーヌというのは、かつて娘がクロード王太子の許嫁となったことで頭角を突き抜けさせた人物の代表格みたいな人だ。娘が婚約破棄されたことで、反クロード派という意味でも筆頭格にある人物である。
なのに今この瞬間、聖女アンジェリカのお墨付きを持った教区長が、クロードの前に王太子であった人物の所に現れたらどうか。きっと人々はすぐに、ヴィオレットの冤罪がどうのこうのなんていう話より、かつての廃太子の冤罪事件の方に関心を移すのではないか。
「そんなことをして……うまく、いくのですか?」
「私はただ、新しい噂を広げるだけです。そして大きな動きが起きたとして、それはダリエル卿がお連れになるであろうジュード殿下が鎮めてくださるはずです。貴女様の一筆が、それを引き起こすのですから、充分な助力です。そして同時に、その事実により貴女様が他でもないヴィオレット派の標的になり得ます。だからこそ、安全なヴァレンティンにいていただきたいのです」
本当は嫌だ。今すぐにでもクロードのもとに飛んで行きたい。この困難を、ちゃんと一緒に乗り越えたい。
だが教区長の言う事も確かだった。ちゃんと助力もできていて、それでいて安全な場所にいなければならない。それこそが、彼らにとって動きやすい状況を作る。それでも一人安全な場所で待つだなんてやるせない。やるせないけれど……でも。
「教区長様……」
「どうか。どうかご無事に、ヴァレンティンへ行かれますよう。ご理解ください」
追い打つようにそうはっきりと口にされては、もう、否と言うことはできなかった。そんなことを言っても、ただの我儘になってしまいそうで。
「話はついたか? すまないが、あまり長く閣下を引き止めておくことは出来ない」
その言葉に、まだ戸惑いの方が多くあったものの、アンジェリカは震える声で、「紙とペンをお借りできませんか」と請うた。
文字を綴る手はトロトロと重たく、しかし書き上げるや否やさっとそれを取り上げた教区長は、「確かにお預かりしました」と頷くと、すぐにも踵を返した。
「ッ、教区長様ッ」
チラリと振り返った、少し前まで苦手だった人……でも今は、その人の安全を心から祈らずにいられない。
「どうか、ご無理をなさらないで……きちんと、手当も受けてくださいね。一人安穏と安全な場所で待つ私が、これ以上の罪悪感を抱えなくていいようにッ」
「はい。かしこまりました――聖女様」
そう恭しく頭を下げたロマネーリが、王子殿下に連れられて船室を出て行く。
これで良いのか。本当にこれで良かったのか。
けれどここから下りるすべはなく、必死に波をかき分けてクロードのもとに駆け付けられるような胆力も持ち合わせていない。
あれほどに強くならねばと思っていたのに……結局私はまた、誰かに言われるがままに言われた通りのことをこなすだけになってしまった。
「アンジェリカ様。誰かを信じて待つこともまた、戦いですよ」
「……ッ……は、い」
妃殿下の慰めに、涙をのみ込んで頷いた。
泣いては駄目だ。泣いてただ慰められるような甘い夢に浸るのは、今この時も戦っている人達に失礼だから。
この涙はまだ、とっておこう。




