2-19 オトメールの邂逅(2)
side アンジェリカ
そこから一体どこをどう走って逃げたのか、分らない。
ただキリアンに引っ張られるがままに、人の多い港の外れで、無造作に積み置かれた木箱の隙間に隠れた。
建物は探されると逃げ場がない。ここならいざとなれば海に逃げ込める。そんなことをキリアンが言っていたが、アンジェリカには、“私は泳げない”という言葉を口にするだけの気力すら無かった。
それから長い間、『偽聖女アンジェリカが町に現れたらしい』『探せ』『リベルテ商会に連れていけ』と騒ぐ住民達が飛び交い、がしゃがしゃと鎧を鳴らしたこの港の騎士達まで巡回を始めたものだから、その場から動けなくなった。
「お前、どこぞの商会にまで恨まれているのかよ」
「……」
リベルテ商会――先ほども聞こえた気がしていたが、どうやら聞き間違えではなかったらしい。ヴィオレット派という名を聞いて誰もが最初に頭に過らせた商会の名だ。その名が今更出てきたところで驚きはしなかった。
ただ、どうしようもなく悔しいだけだ。
幸い隠れた場所が良かったようで、程なく近くの桟橋に一艘の大きな船が入ってきたようではあったが、仰々しい出迎えの声とは裏腹に町の人達はまったくこちらに近づいてくることは無かった。
キリアンは、多分外国の船が着いたんだろう、と言った。
「補給物資を積み込め!」
「急いで積め! トロトロしてるとメシ抜きだぞ!」
「げっ、それはひでぇっすよ、水夫長!」
「おーい、こっち、重たいやつやっから集まれー!」
しかし突如としてがやがやと周りが騒がしくなり始めたところで、「不味いな」とキリアンが眉をしかめた。
アンジェリカとしてはそんなことよりとにかくクロードの情報が欲しくて震えていたが、そんな様子を見るキリアンが益々顔を歪めて、「クソ不味いな」と言い直した。
分かってる……このままじゃダメだって。自分が探し回られているせいで動けないことも。
でもだったらどうしたらいいのか。クロードに何かあったらどうしよう。
負傷といっていた。傷は重いのか? 大丈夫なのか? 近衛軍が引かないといけないような状況だったなんて、そんなの……。
「……」
「……」
「……まぁっ?!」
突如、すぐ傍で降って聞こえた女の人の声に、ハッと顔を跳ね上げる。たちまち、キリアンが険しい顔で剣に手をかけパッとアンジェリカを庇った。そんな物々しい様子ながら、木箱と木箱の間からこちらを覗き込んだ女性は、ただ目をぱちぱちと瞬かせてから、再び「まぁっ」と頬に手を当てた。
なんという暢気な。
「恐れ入りますが、人を探しておりますッ! 凶悪犯に着き、念のため積み荷を調べさせていただきたく存じます!」
さらには何処からかそんな声まで聞こえてくる。
不味い……逃げようにも目の前には位の高そうな身なりの女性がいて、そのうち周りにがしゃがしゃと鎧の音が広がっていくのが聞こえた。逃げ場がない。
すかさず、舌打ちをしたキリアンがその女性を人質に取ろうと手を伸ばしかけたが、アンジェリカは慌てて「駄目ッ」とその腕をとっつ構えた。
何故、と言われても分からない。ただ咄嗟に、そうしないといけない気がしたのだ。
「恐れ入ります。そちらの確認も……」
すぐ、女性の真後ろからも声がした。そのことにキリアンも息をひそめ、身を縮める。
一度振り返った女性は、もう一度チラリとこちらを伺って、それから振り返って……コテリと首を傾けた。
「まぁまぁまぁ……これは一体、何事でしょうか。随分と物々しいこと。オトメールの港はいつもこんなに騒がしいのですか?」
「はっ……あの。お、恐れながら、少々込み入った事情がございまして……積み荷などに隠れて凶悪犯が貴船に御迷惑をおかけしてはいけません。どうか確認を……」
「嫌ですわぁ、物々しい。それに“積み荷の検査”だなんて……私が知らない間に法が変わったのかしらぁ?」
のんびりとした物言いながら、相手の兵士はなぜか妙にたじろいだ様子で、「と、とんでもございませんッ」と否定する。
「検査などとんでもございませんッ。ただ何分、実に凶悪な罪人でしてっ……」
「おい、何をしている、そこのお前!」
次いでどこからか、また別の男の人の声がし始める。遠くから聞いただけでも伝わるような、覇気のある声だ。
「あら、あなた」
「ッッ」
どうやら女性の夫らしい。ツカツカと歩み寄って来る足音が軽快で、加えてじゃらじゃらと何やら沢山の金属音が混じっている。武器……というよりは、宝飾品の音だろうか。
「おいおい、ちょっと目を離した隙に、こりゃ何事だ?」
「私はこれから船に積まれる荷物を見ていただけなのですけれど……なんでもこちらの殿方が、私と一緒に荷物を御覧になりたいそうなの。いいかしら? あなた」
「は? いい訳あるか!」
だ、だろうね……いや、これはご夫人の言葉が巧みなだけだろうか。
「ご、誤解でございますッ。我々はただいま凶悪犯を追っておりましてっ、よもや積み荷になど潜んでいては大変だとッ」
「ほぅ? それがうちの可愛い奥さんを口説いた方便か?」
「とんでもございませんッ!」
たちまち震え上がった兵士の声がか細くなっていく。
よく分らないが……何やらいい方向に行っている気がする。
「奥様、大丈夫でございますか?」
「お一人で出歩かれませんよう……」
兵士と男の人の声が遠ざかった代わりに、ザワザワと女性が集まってきた。木箱の影に、見たことのない繊細な柄のレースがよぎり、沢山の宝飾音がする。
そういえば先ほどの女性は、あまり見たことのないような顔立ちをしていた。キリアンはこの場所の近く泊まった船を外国の船だと言ったが、もしやその外国の人達なのだろうか。言われてみると、言葉に少し南部訛りを感じる。
「ジャンナ、日差しが強くなってきたわ。ベールをもう二三枚、持ってきてちょうだい」
「は。ベール、ですか?」
問い返した女性の声に、木箱の隙間を隠していた女性が再びチラリと振り返った。その隙間から、一人の女性の視線がよぎり、すぐにはっとしたように目を瞬かせた。
「……奥様……」
「ベールじゃ小さすぎるかしら?」
「……かしこまりました。積み荷がずれて落ちたりしたら危険ですから、どうぞそこからお動きになりませんように」
「はぁい。待ってるわ」
ヒラヒラと手を振る女性に、いつしか、周りに広がっていたこの町の兵士達のざわめきが聞こえなくなっている。一体この短時間に何があったのだろうか。
そうしてじっとしていると、すぐにも先ほどのジャンナと言われた女性が戻ってきた。彼女は積み荷の隙間にその布をぎゅっと押し込めると、別の布を大きく広げた。
「どうぞ、奥様」
「有難う、ジャンナ」
そうゆったりと頭にベールを被かせる女性がチラリとこちらを伺った瞬間、はっとしたキリアンが木箱の隙間に詰め込まれた布を引っ張った。
色鮮やかな刺繍がびっしりと縁を彩る、見たことのないどこかの国の民族衣装だ。
アンジェリカには着方が分からなかったけれど、何故かキリアンはすぐにそれを広げるとズボリとアンジェリカの頭から被せ、自分もまた大きな布を広げて袖を通し、前衣を合わせて布で縛った。次いで投げてよこされた布に、あわあわと慌てふためきつつ布を広げる。
するといつの間にか木箱を一つずらして隙間に入ってきた日に焼けた色合いの肌の女性が、こうすればいいのよと教えるかのように布をアンジェリカの頭にかぶせ、肩に巻き付けさせた。なるほど。彼女達と同じような格好だ。
「あ、あの……」
「お伺いします。貴女方は、奥様方に害を為す方々でしょうか」
「っ、いいえ! まさか!」
咄嗟に答えたアンジェリカの威勢が良かったのだろうか。少し驚いた顔をした女性はニコリと微笑むと、「大丈夫です。こちらに」とアンジェリカに手を差し伸べた。
どうすべきかとチラリと隣を伺ったら、手慣れた様子で頭に布を巻き付けていたキリアンがコクリと頷いたので、そのまま手を借りて立ち上がる。
今更ながら全身の傷が痛んでよろめいてしまったけれど、それを女性は丁寧に支えて、庇いながら木箱の隙間から連れ出してくれた。
「奥様、“レーダ”が荷物に足を取られて怪我をしてしまいましたわ」
「まぁ! 姿が見えないと思ったら、何をしていたのかしら、このお転婆さんは」
「ご、ごめんなさっ……」
多分演技か何かなのだろうけれど、咄嗟に謝りそうになったアンジェリカに、周りの皆がクスクスと笑った。あぁ、恥ずかしいッ……。
「あぁ、もう煩わしいッ。分かった分かったっ、そんなに心配なら調べろ! ただし、まだ地上にある荷物だけだ。船の上は“治外法権”。立ち入りは許さんからな!」
どうやらこの町の騎士はまだいたらしい。遠くから聞こえてきた声に、「感謝します!」と叫んだ兵士達が一斉にがちゃがちゃと広がり始めた。
「あらいけない」
そう呟く夫人は、振り返った男性にチラチラと手を振る。
この夫人も妙に気品に溢れた立ち姿だが、こちらを見た男性の方は、見た瞬間からキリアンが息をひっ詰める様な圧倒的な存在感だった。
恰好自体はひどくラフで、よれよれのシャツとブーツインのズボンに幅広の鮮やかな色の広帯をぐるぐると巻き、それに袖のない長い上着をひっかけただけの姿だ。ただ頭に巻く布や帯には沢山の金銀の装飾品やひときわ目立つ剣などが帯刀されていて、何より編みこまれた長い髪とその隙間からこちらを見やった鋭い眼差し、鍛え抜かれた肢体がドキリとするほどに威圧的だった。
自分達はもしや、とんでもない人物に頼ったのではないか。
「カレーナ、乗船していろ。王国の連中、確認しないと気が済まないらしい」
「まぁまぁ。何事でしょう」
「それで……」
歩み寄ってきた男は、チラリと深くベールを被るこちらを伺った。やはり怪しまれているのか。
「ん? どうした。体調が悪いのか?」
「侍女のレーダが荷に躓いて怪我をしてしまったようなのです」
「そりゃいかん。早く手当てしてやれ。そこの水夫」
水夫? あ、キリアンのことか。
「はっ」
「奥さんたちを船に乗せろ。ついでに船の連中に、面倒ごとが終わるまで船から降りるなと伝えておけ」
「かしこまりました。奥様、そちらの侍女に手を貸して宜しいでしょうか」
「ええ、お願い。タラップは揺れるけれど、大丈夫かしら?」
「レーダ様、歩けますか?」
「え、ええ……有難う、ございます」
どうしてキリアンはそうも平然と演技できるのだろうか。信じられない。
しかも口調が少し南部訛りに聞こえる。何故だ。
そのおかげなのか、あるいは小麦色の肌の中にあって“奥様”とやらが白い肌をしているおかげか、同じ白い肌のアンジェリカにチラリと遠目でこちらを見る兵士はいたが、詰め寄って来る兵士はいなかった。
そのまま奥様の侍女達に守られ、キリアンの手を借りながら桟橋に向かい、船の前に立つ。
なんて綺麗な、大きな船……それに沖合には護衛船と思われる船が数隻泊まっていて、何より帆の上に掲げられた大きな旗が、これでもかという存在感を放っている。
「あ、あの……お、奥様……私達」
「ひとまず安心してお乗りなさい。この船は“アルテン王家”の船ですから、船に乗りさえすればオトメールの兵は上がって来れませんからね」
「ッ……」
アルテン? と首を傾げたアンジェリカと違い、支えてくれていたキリアンの方はぎゅっと手に力がこもったようだった。
王家、と言ったか。けれどアンジェリカが知っている七王家の中にアルテンなんていう国は無い。だったら南西諸国のどこかの属国だとか。いや、だとしたら七王国の一つであるベルテセーヌの正規兵がこれほど気弱なはずもない。だとしたら……。
「外国の……」
「ええ。この西大陸の南沖にある国ですよ。私達はこの港を出て、ヴァレンティン大公国に向かう所なの」
思いがけない名前にはっと顔を上げたところで、キリアンにぎゅっと手を引かれた。
そ、そうか。まだはっきりと味方と分かったわけでもないのに、あまり安易にこちらの情報を漏らしてはいけないんだ。
だがそんな口の軽そうなアンジェリカの様子を見てなお、奥様はただ穏やかに微笑むだけで、それ以上何を聞くでもなく船の上まで導くと、「まずは怪我の手当てを」と、港からは見えず、けれどいつでも逃げ出せそうな船室の影に連れて行ってくれた。
多分な配慮をしてくれていることは、アンジェリカにも分かった。
それにホッとしたアンジェリカとは違い、キリアンの方は物陰に入るや否や、その場にザッと片膝をつき、深い礼を尽くした。その様子にアンジェリカも我に返ったが、礼を尽くすタイミングはどうやら逸してしまったらしい。
「この度は誰とも知らぬ我々を助けていただき、感謝いたします――“殿下”」
「まぁまぁ。どうやらいい所の若様だったようね」
「とんでもございません……すでに無頼になり果てた卑賎の身です。ただ……」
チラリとアンジェリカを見たキリアンに、はっとアンジェリカは居住まいを糺した。どうしよう。名乗っていいのか。それとも誤魔化すべきなのか……。
「アンジェリカ嬢。“恩人”です」
キリアンの言葉に、ますますはっとした。そうだ。嘘はつけない。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。この度は私からも、危ない所を助けていただいたことを感謝申し上げます。私はベルテセーヌ王国エメローラ伯爵家の長女アンジェリカ・レティル・エメローラと申します」
どこまで話していいのか分からず最低限の自己紹介をしたところで、さっとキリアンが言葉を引き継いだ。
「恐れながら、アンジェリカ嬢はご婚約者がこの町の暴徒鎮圧の最中に負傷されたことを聞き馳せ参じたのですが、生憎と町中はご婚約者様の“元許嫁”を擁護している暴徒らが威をむさぼっていたようで、追われておりました」
こ、この男っ……その“暴徒”を扇動する側だったくせに、よくものうのうと。
しかも嘘でもなく、しかしまったく真実というわけでもなく、平然と作り話をしやがる。
「まぁまぁっ、情熱的ですこと。でもお名前を聞いて、大体のことは察せましたわ。そう。貴女が聖女アンジェリカ様」
そう言った夫人は、たおやかに胸に手を当てドレスを摘まみ、この揺れる船の上でも身じろぎ一つなく美しい礼を取った。思わず、わぁっと見惚れてしまうような所作だ。
「お初にお目にかかります、エメローラ伯爵令嬢。私はカリーナ・ド・アルテン。アルテン王国第三王子妃でございます。先ほどの殿方は私の夫のイグラーノ殿下。この船は、アルテンの“王国船”ですわ」
「妃、妃殿下っ……」
まさかの王族当人だ。慌てて姿勢を深くしようとしたアンジェリカに、「子供がそんなに気を遣う物ではありませんよ」と手を取られた。
先ほどから随分と子供扱いをされている気がする。少しこそばゆい。
「カリーナ。カリーナ?」
その内、先ほどの男性……どうやら第三王子殿下その人らしい声がしてきた。そればかりかどんどんと船の上が騒がしくなり始めている。
「あなた、こちらですわ」
「こんなところで何をしているんだ? 夕日が眩しいだろう」
「この子達が船室は怖がるかと思って」
「お前……“この子達”って。多分、“この子”って年じゃないと思うぞ。北の連中はみな童顔だからな」
「えっ」
思わず驚きの声を上げてしまったアンジェリカに、チラと王子殿下の視線が向いた。それからすぐに、王子殿下とは思えないような屈託ない顔で「ハハッ」と笑い声をあげる。
「いや、お嬢ちゃんは見た目通りお嬢ちゃんみたいだなっ」
「失礼ですわ、あなた。こちら、ベルテセーヌの王太子殿下のご婚約者でいらっしゃるアンジェリカ様だそうです」
「は?」
「それから……あぁ、貴方のお名前を聞いていませんでしたね」
「失礼しました。キリアンと申します。家名はありません」
「いや、待て待てっ。王太子の婚約者だと? お前、何を平然とっ」
「私の見る目は確かでございましたね。ささ、褒めてくださいませ、旦那様」
「おう、よくやった。って、そうじゃねぇだろ!」
ノリのいい旦那様だ。
だがどうやらアンジェリカの身分を聞いても船から投げ出すつもりはないらしい。マジかぁと頭を搔いた王子殿下は、少し顔を伏せて考え込んだ後、「まぁ、放り出すわけにはいかんか」と仰った。
「アンジェリカ嬢……と、呼んでいいのか?」
「っ、はい。どうぞ好きにお呼びください」
「取って食いやしないから、そう脅えなさんな。取り合えず貴殿が次期王太子妃殿下であらせられるなら、こんな場所で雑談というわけにもいかない。ひとまずこの町の兵や代官に突き出すつもりはないゆえ、安心して船室に着いてきてもらいたいが、如何か」
若干口調まで改めて、大の大人がきちんと礼儀を尽くしてくれているのだと分かると、アンジェリカも自然と背筋が伸びた。どうしよう。自分はまだ外交の経験もなく、こんな状況でどう対処したらいいのかを知らないのだ。
だがそんなアンジェリカに、キリアンがトンと背中を押した。
これは多分、受け入れていいという合図だ。
「は、はい……」
だからそう頼りなく頷いたところで、「なるほどっ。砕けた感じの方がお嬢ちゃんにはよさそうだな」と王子殿下が呟いた。その言葉に妃殿下が「あなたったら」とため息を吐いたけれど、アンジェリカとしてはその方がかなり有難い。
ほっと息を吐くものだから、妃殿下もそれ以上は言わず、「そうね、気楽にしてくださいませ」とアンジェリカの手を引いてくれた。




