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2-16 誘拐と逃亡(3)

side アンジェリカ

「目が覚められたか」


 ふとした教区長の言葉に、慌てて辺りを見回した。

 いつの間にか、小さな窓の外が明るくなっている。

 何てことか。一生懸命考えこんでいるつもりがいつの間にか寝ていたらしい。しかも夢うつつの中でもずっと考え込んでいたようだ。少しも休んだ気がしない。


「アンジェリカ様、鍵を引き上げて、見つからない場所にお隠し下さい」

「あ、そうですねっ」


 すっかり忘れていた。急いで水桶に歩み寄り、引き揚げた鍵に首飾りの鎖を通す。今まで通り首にかけたのでは見つかりやすいだろうから、こそこそと足腿の靴下のガーターに括りつけた。鍵自体も落ちないよう、靴下に挟み込んでおく。流石にこんなところを探られはしないだろう。


「水の様子は随分と落ち着きましたね。教区長様もどうぞ」


 ごくごくと水を飲んで、教区長にもコップに注いだ水を差しだす。

 桶の中の水自体随分と減ったが、それに加えて聖水としての効能もすでに落ちているように思う。それでもこれだけで随分と空腹は満たされたし、気分も悪くない。

 折角なので教区長の足に巻いたハンカチを一度解き、もう一度桶の水で綺麗にしてから巻き直して差し上げた。

 傷口はまだ深く見えるが、随分と綺麗になっている。聖水さまさまである。

 とはいえ、一体これからどれほどここに閉じ込められるともしれない。もう水もほとんど残っていない。まさこのままドライアップ、なんてこと……。


 ただそれはいらない心配だったようで、やがて小屋に残っていたらしい村長の息子がバンと乱暴に扉を開けると、水桶を一つと、今にもカビがはえてきそうな固いパンを二つ投げてよこした。

 食べ物を与えられるのは意外だったが、「短い命だ。せいぜい死なないようにするといい」などと言って、アンジェリカが手を伸ばそうとした先でわざわざパンを踏みつけて行った。

 あのクソ野郎……。


 ただ幸いにして、どれほど言葉で詰られようがささやかな暴力を振るわれようが、夜になればこそこそと聖水を作って癒すことが出来た。ただのまやかしだったかもしれないが、少なくともそのおかげで三日、耐えきることが出来た。


 とはいえ、一体アルナルディ正司教は何処にいるのだろうか。まだ現れやしない。

 そう思っていたのはアンジェリカだけではなかったようで、三日目には小屋の外で神父が声を荒げながら、「正司教様はどこにいらっしゃるのだ!」「まだ連絡が取れないのか!」と誰かを叱り飛ばしている声が聞こえてきた。

 どうしたことか。黒幕なはずの正司教がいなくなったと?


「教区長様……」

「何かあったようですな。まぁ……アルナルディ正司教の動きは、私も監視させておりましたから」

「……そういえば今更ですけれど、教区長様ともあろう御方が行方不明になって、騒ぎにならないはずがありませんよね?」

「王太子殿下のご婚約者様が襲われ、行方をくらましておいでなこともしかり、ですな」

「あー……その。それは、どうでしょう……」


 言葉は濁したが、教区長は事情を知らぬながらも淡々と、「いつかは誰かから伝わるものです」と言った。そうならいいけれど……。

 だからもしかしたらという淡い期待も抱いたのだが、神父の喚き声が無くなったかと思いきや、バンッと部屋の扉を開け放って姿を見せた黒づくめの男には、もれなくアンジェリカも息をひっ詰めた。あれ以来姿を見せていなかったのに……いつの間にか、キリアンなる男が戻っていたらしい。


「残念なお知らせだ。雇用主の一人が聖騎士団に捕まったらしくてな」


 聖騎士団……教会所属の騎士のことだ。教会関連の不正の摘発や取り締まり、異端審問などを行っている準聖職者であり、教会の秩序を守る者達である。

 記憶が正しければ、ベルテセーヌの聖騎士の大半がアルナルディの支配下にあった気がするのだが……。


「そういえば、ご本山からのご使者がいらっしゃる頃でしたな」

「白々しい。相変わらずだな、ロマネーリ大司教」

「貴殿の方は、随分と愚かになったようですね、マグキリアン・ペステロープ」

「ペステ、ロープ?」

「……」


 男は沈黙を選んだようだが、視線を見る限りバレていないつもりだったのだろう。いや、むしろどうして教区長様はその男を知っているのだろうか。

 それに、アンジェリカはペステロープという姓に心当たりがある。そういう名の知り合いがいるという意味ではなく、その名前に対する聞き覚えだ。

 確か、学院の歴史の授業で習ったのだ。先王クリストフ二世陛下の暗殺という大罪によって一族郎党、老人から子供、系譜に連なる悉くが処刑された悪名高き一族。かつてペステロープ侯爵家といわれた、ベルテセーヌでも屈指の元名門――。


「え……? でも、ペステロープ家は……全員」

「アンジェリカ様、間違いではありません。当時、ペステロープ家の系譜から名を消された子供が二人、連座を免れておるのです。その一人が、あの男です」

「でも神父はあの人を、“皇国の犬”って……」


 その言葉に、教区長はピクリと眉をひそめた。


「お喋りな捕虜共だな。だが今さら俺が誰だか知られたところで関係ない。どうせすぐにあの世に……」


 しゅらりと剣が抜かれると同時に、わぁと騒がしくなった表の喧騒に、キリアンの視線がそちらを向いた。多分、これが最初で最後の隙だ。


「今っ! 教区長様、走って!」


 すぐ真後ろの壁にドンと体当たりしたアンジェリカに、はっとキリアンの顔がこちらを向く。この三日こつこつと壁板を削っていたのだ。すぐに板はベリベリと倒れこみ、タイミングよく教区長がキリアンに向かって水桶を投げつけた。

 そんなアグレッシブな聖職者だとは思っていなかったのでアンジェリカも驚いたのだが、効果は覿面で、腕を掲げて水桶を受け止めたキリアンの目が離れている内に、アンジェリカは教区長の手を引っ張って砕けた壁板の隙間から飛び出した。


 いつの間にか表の喧騒が大きくなっている。何かあったのだろうか。

 足に怪我をしている教区長は勿論、アンジェリカは足枷もされているから走りにくい。だが幸い、小柄な二人が抜け出せるだけの大きさしか壊していない壁板から、体格のいいキリアンがすぐに追いかけてくることはできなかったようだ。

 その隙に窓から確認していた厩に駆け込み、一頭を引き出して飛び乗った。

 裸馬だから乗りにくいし、びっくりした顔で戸惑っている教区長様はアンジェリカに引っ張り上げられたものの、おどおどと困惑している。そんな教区長の腕をがっしりと握り、馬の腹を蹴った。


「クソッ。貴様らっ!」


 キリアンの声がしたが、振り返ってあげる謂れはない。一目散に深い森の方面に馬を駆けさせた。


「あ、アンジェリカ様……」


 戸惑う教区長に、「舌を噛まないように」と忠告して、どんどんと先に進んだ。今はとにかく、このマズリエ子爵領を出てしまいたい。だが生憎と方角が分からない。

 とにかく深い森を分け入り突き進み、やがて馬の呼吸が荒くなり、池が見えてきたところで馬の足を止めさせた。

 ふぅ……乗馬なんて、何年ぶりだろう。思ったよりも乗れた自分にびっくりした。


「なんという、無茶をなさる……」

「壁板を外していたのは教区長様も見ていらしたではありませんか。(うまや)の場所も、教区長様が確認して下さっていたんですから、もしものことは考えていたのですよね?」

「だからと言って、よもやご淑女が裸馬に飛び乗るとは思いますまい」

「教区長様、私はまだ貴族になって四年なんです。少なくともそれまで十二年間は、騎士爵という過去の称号に(すが)りついていただけの祖母に、田舎の農村で、平民に混じって育てられていたんですよ」

「……」

「こんなちゃんとした馬に乗ったのは初めてですけれど、荷運び用の馬で乗馬の訓練は受けました。祖母は王様がどうこうとか伯爵家がどうこうより、“騎士爵”に執着していましたから」


 騎士爵というのは一代限りの最下級貴族位だが、およそ武勲があって初めて授かる爵位だ。ヴィヨー家はすでに三代続けて騎士爵位を貰っていた騎士の家。祖母はアンジェリカにも、最低限の剣や乗馬の手ほどきをしていた。

 どちらもちっとも興味が無かったから、特に剣なんて今では扱えたものではないけれど、馬に乗るくらいならできるのだ。


「でもクロード様には秘密にしてください。私、クロード様の前ではか弱い普通の淑女でいたいんです」


 池の水に手を浸しながら告げると、少し沈黙した教区長が間もなく、「かしこまりました、聖女様」と答えた。

 もしかしたら……聖女と呼ばれたのは、初めてかもしれない。


「それで。これからどうなさるおつもりですか?」

「……」


 うぅ……どうしたことか。アンジェリカはこれまで主体的に行動したことがほとんどないから、どうすればいいのかと聞かれてすぐに思い浮かべることが出来ない。

 エメローラ領に帰るなんて論外だし、せいぜい、お兄様に助けを求めるくらいなのだが、そのお兄様が今どこにいるのかも分からない。それでも兄の後を追うのが、一番確実かもしれない。


「教区長様……王都やエメローラ領は危険です。取り合えず、オトメールに向かいましょう。お兄様達がそこに向かっているはずなんです」

「オトメール? 確かに、ここからならばほど近い都市ですが……ただ、この山を越えねばなりません」

「大丈夫です。私は山歩きにも慣れていますから」


 そう肩をすくめたところで、「なるほど」と教区長様も頷いた。


「馬の通った痕は見つかりやすいから、本当は歩いた方がいいんですが……」


 ただ教区長の怪我が気になる。それにアンジェリカの足枷も、山歩きには不自由過ぎる。まぁ、馬に乗るにも膝を折って乗らないといけないので不便なのだが、自力で歩くよりはましかもしれない。


「やっぱり馬で行きましょう。その代わり、追いつかれないように急いだほうがいいです。休みなく行くことになりますが」

「私は大丈夫です。参りましょう」


 そう逞しく立ち上がる教区長は、不自由な足のままヒョイと裸馬に飛び乗るアンジェリカをジィっと見たかと思うと、「やれやれ、私の目はとんだ節穴でしたな」などと言いながら、先ほどよりは慣れた様子で後ろに乗った。

 てっきり素人かと思っていたが、おそらく多少は乗馬の経験があるのだろう。思えばロマネーリ教区長は元々貴族の出身なはずだから、それも当然か。


「教区長様。先ほどの、ペステロープのこと……なんですが。その。彼は、本当に?」


 馬を長時間走らせるため、先ほどよりは速度を落として、できるだけ痕跡を残さないよう道を選んで森を行く。熊除けがてらに会話をするのは悪いことではなく、教区長もそれに乗ってくれた。


「私が見違えるはずもありません。他でもない王子殿下が、“匿って欲しい”とペステロープ家の兄妹を連れてきたのです」

「王子……って」

「エドゥアール王太子殿下……聖女リディアーヌ殿下のお兄君であり、クリストフ二世陛下のご嫡子です」

「ッ……でもペストロープ家は、そのクリストフ二世陛下を暗殺した家だとっ……」

「……」


 黙り込んだ教区長の様子に、アンジェリカもすぐに察した。

 なるほど……私達が学校で学ぶ歴史は、改竄された歴史。思えば聖女リディアーヌの手記でも、両親の死は皇帝戦に絡む外敵によるものだったと書かれていた。その上で、実行犯がペステロープなのだと理解していたのだが、どうやらそうではないようだ。思えば、リディアーヌの手記の中には“ペステロープ”なんて言葉は一度も出てきていなかった。


「その二人はその後、どうなったんですか?」

「しばらく教会で匿った後、お二方がヴァレンティン家に亡命なさる際、大公家の従者とメイドに偽装させこの国を出ました。それ以後のことは私も……」

「そうだったのですね」

「よもやそれが公女様の意図なのではなどと考えたりもしていたのですが……まさか、皇国などと……ありえない事です。アンジェリカ様。本当に神父が、“皇国の犬”と?」

「ええ。少なくとも私にはそう聞こえましたし、彼がそれを否定する様子もなかったと思います」

「何故皇国などに……いや、そもそもどうして皇国……“クロイツェン”が関わっているのか」

「あ」


 そうか。皇国というのは、クロイツェンのことなのか。

 なんてことだ。まさか自分がここまで馬鹿だったなんて……。


「教区長様。私を狙っているのは、最近噂の“ヴィオレット派”です。ヴィオレット様は国外に追放になった後フォンクラークにいたそうで、そこでクロイツェンの皇太子と知り合ったのではないかと聞いています。もしかしたら……恋人になられたのでは、とも」

「なんということだ……」


 はぁぁ、と嘆きのため息をこぼした教区長は、しばらく悶々と考えこんだ後、「何という愚かな真似を」と再びため息を吐いた。


「もはや“あべこべ”ですな……私を襲ったのは間違いなく正司教だろうと思っていましたが、アンジェリカ様がいらしたのを見て、その正司教が“ヴィオレット派”と通じているのではと疑っておりました。ただヴィオレット様はわざわざ復讐に立ち戻られるような御方でもなかったはず。そのことに混乱していたのですが」


 そうかしら? 確かに復讐というと少し違う気がするが、この国を乱すことには前科がある人だから、意外とありそうな気もしないでもないのだが。


「ですが後ろに皇国がいるとなると、大きく話が変わってきます。まず間違いなく、“ヴィオレット派”とやらは皇国による計略でしょう」

「えっと……確かセザール様もそんな風に。リディアーヌ公女から、そういう忠告もあったんです。皇国の動きに気を付けるように、と」

「そうですか……さすがは公女殿下であらせられます」


 その評価はどこの誰も同じだ。ちょっといい加減、あの人のスペックのバグり具合に嫉妬しそうである。


「もはや貴女様に隠しておくことも無いでしょうから申し上げますが、私が正司教も不在の最中に王都を離れたのは、“青の館”を詣でるためでございました」

「青の、館?」


 なんだったっけ。どこかで聞いたような気がしないでもないが、ピンとはこない。


「先王陛下の離宮であった建物ですが、今は、とある罪人が幽閉されております」


 離宮に幽閉となると、相当身分の高い人に違いない。


「本来であれば外部との接触は遮断されてしかるべきなのですが、何しろ(へき)()な上、国王陛下の関心も遠のいているものですから、実際には何年も前から出入りをしている者達がおります。私もその一人で、我々はその地に幽閉されている御方に、知恵と知識を与え、逆に(くん)(とう)を受けてまいりました」

「幽閉されている人から?」

「ええ。あの方は一から百を知り、二百を考える御方です。なので昨今のこの情勢のことも、何か考えつかれるのではと思い、いつもの巡礼の道を外れ、北に向かっていたのです。そこを、随分と手慣れた者達に襲撃され、あの場所へ」

「そうだったのですね。実は私も、とある方に助けを求めるために、兄やマリシアン卿にお願いをしたばかりでした」

「行き先はオトメールと仰っていましたね」

「はい。兄達はオトメールから船で、南に行く予定で……」

「ということは、ジュード殿下でしょうか」

「……」


 なんてこと。この人も、廃太子の弟の行方を知っていたのか。南というだけですぐに察するだなんて。


「そんなことを思いつくなど……セザール様でしょうか。やれやれ……ジュード殿下は確かに武に重きを置かれてきた方。とはいえ、(ただ)(びと)が軽々しく操れるような御方ではありませんよ。そのことは他でもない、セザール様が一番よくご存じのはず」

「そうなの?!」


 マリシアンもお兄様もそんなことはちっとも言っていなかったのに。


「まぁしかし、このように実力行使でアンジェリカ様を襲うような者達がいるともなれば、ジュード殿下の存在は心強くはございます。もっとも、その前後もまたあべこべになってしまわれているようですが」

「お兄様には忠告をされたの……なのに気が付かなかった私が悪いんだわ」


 もれなく自分で自分に、ハァとため息を吐いた。


「教区長様は当然、ジュード殿下をよくご存じなのですよね? 私は確かにマリシアンとセザール様の提案を聞いて策に乗りましたが、その殿下のことは良く知らないのです。お兄様はとても尊敬なさっているようでしたけれど」

「気さくで、(ほが)らかな方ですよ。現王陛下の御子の中では、一番クリストフ一世陛下に似ているのではないでしょうか」

「……」

「あぁ、多情な方ではございませんよ。決して」

「それは良かったわ」


 少し冗談も言い合える程度に気が抜けてきたところで、馬は少し開けた場所へと出た。どうやら順調に、マズリエ領と隣のデボルト領の境に出られたらしい。

 デボルト伯爵家はどうやら兄と既知の間柄にある家らしいから、この領地に入れたというだけでも安心度が違う。ただ最も安全なはずの自領内で誘拐されたことも事実だから、ここからも極力忍んで行く方がいい。


 幸いにしてベルテセーヌ中を巡礼している教区長のおかげで道自体は分かったので、一気に森を駆け下りるとそのまま麓の廃教会に一泊した。

 常駐の神父もいない小さな教会だけれど、教区長様は備蓄の食糧の場所までよくご存じで、久しぶりに干し肉と干し果物にありつくことが出来たし、教会の井戸で簡単に身を清めることもできた。ついでにボロボロのドレスは脱ぎ捨てて、教会にあった修道女の服に身を包んだ。

 それから教区長様のおかげで、手枷と足枷の鎖を断ち切ってもらうことができた。

 あのボロ小屋では道具が何もなかったから外せなかったが、物と時間を使えばどうにかなるものだと、教区長様がコツを教えてくれた。

 手足が自由になっただけでも馬の操縦性はぐっと増す。


「オトメールまではこの街道沿いに行けば二日ほどで着けます。ただ問題は、オトメールは外国船も寄港する重要な港湾都市なので、都市への出入りが厳戒ということです」

「堂々と入るわけにはいきませんか?」

「それが最も容易くはありますが、どこまで正司教の影響が伸びているのか分からない以上、私も堂々と入って無事でいられる自信はございませんな」

「……」


 それはアンジェリカも同感である。

 オトメールは王室の直轄地。“どちら派”なのかも、まだ分からない。もしもヴィオレット派に染まっているようものなら、飛んで火にいる夏の虫である。


「町に入る前にお兄様達に合流出来たら……」


 一番いいのだけれど、と言いかけたところで、カタンとどこかから聞こえた物音に、はっとして息を潜めた。






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