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2-14 誘拐と逃亡(1)

side アンジェリカ

 お兄様の説得に上手くいったことは、アンジェリカにとっての大きな自信になっていた。

 よく考えればそんなのは()(まつ)なことなのだが、調子のいい単純な思考回路がアンジェリカを少なからず油断させ、そしてこれからのこともすべて上手くいくに違いないだなんていう錯覚を生んだのだ。

 それを後悔したのは、くしくも兄とマリシアンがエメローラ領を出て程ない頃のことだった。


「封領貴族は時に田舎貴族だなんだと中央貴族に馬鹿にされるが、国から土地を預かることは名誉であり特権だ。領主は領地内の出来事に関してある程度の自治と支配権を認められていて、場所によっては私兵も認められている。言ってみればエメローラ領は、私の名のもとに私が庇護するものを守る上ではこの上ない安全地帯だ」


 出掛け前に兄が淡々と、“自慢かよ”と突っ込みたくなるような御託を並べていた。その言葉を、どうして重く受け止めなかったのか。


「だがそれはあくまでも、俺のおかげだ」


 はいはい、お偉いですね! すごいですねーっ! だなんて。どうして言葉の本質も察せずに、適当なことを言ってしまったのだろう。


「つまり、領主不在のエメローラ領は“ただのエメローラ領”だ。どうせお前にそれをどうこうすることなんてできないんだから、くれぐれも大人しく、離れに籠っていろ」


 とにかく小馬鹿にされたのだと思った。機嫌が悪いからアンジェリカに当たり散らしているだけなのだと。

 あぁ、まったく。どうして私はこんなにも馬鹿で浅はかだったのだろうか。

 二人が数人の騎士を連れてエメローラ領を出てまもなく……アンジェリカは気晴らしに出かけたエメローラ家の庭で、襲撃を受けたのである。

 自宅とはいえ慣れ親しまない伯爵家の広い庭。いつの間にかメイドもいなくなっているし、腫れ物なアンジェリカに声をかけて来る使用人もいない中の、当然のような誘拐劇。


『お前、やっぱり何も分かってなかったな! この愚妹!』


 何処からか聞こえてきそうな兄の罵り言葉を勝手に思い浮かべては勝手に反省する中、アンジェリカが抵抗の一つも出来ずにいかにも怪しい黒づくめ集団に庭の石畳から森へと引きずり込まれ、なすすべもなく捕まった。


 襲撃犯の一人が、『伯爵夫人いわく、屋敷の警備は十分で戻る。急げ』なんて言っていたことについては……ハァ。今更後悔したところで、もう遅い。嫌なものから目を背け続けた結果がこれだ。

『だがそれはあくまでも、俺のおかげだ』

 兄の言っていた言葉を、ようやく本当の意味で理解した。

 兄は兄なりに……確かに、アンジェリカを守ってくれていたのだ。

 くしくもこのエメローラ領の心無い村人や、関心のない使用人達。そして兄の生母である伯爵夫人から。


  ***


「今度からお兄様には、私にはもっと分かりやすい言葉で説明しないと伝わらない、って教えないと駄目ね……」


 地面を引きずられ馬車に放り込まれたせいで全身が痛い。特に肩と足と、背中も痛い。

 クロード様が好きだと仰ってくれた髪がぐちゃぐちゃで、びらびらしたドレスのフリルが破れて垂れ下がり、汚れて実に見すぼらしい。まるで”ヴィヨー家のアンジェリカ”だ。

 口の中に血の味がする。幸い顔は庇ったから、見た目はひどくは無いはずだ。ただ確かめたくても手枷と足枷をかけられているせいで確かめられない。

 なんとか外せないかと身じろいでみたが、もれなくガタンッと揺れた地面に飛び跳ねた体が床にぶつかり痛い思いをしてしまった。

 ガタガタと揺れる地面は、ここが荷馬車の荷台だからだ。荷台は(ほろ)がしっかりと覆っているせいで薄暗く、外の様子は見えない。横壁や床は微妙にささくれ立っていて、下手をすると髪が絡まったりドレスのレースが引っかかったり、危険だった。ひどい環境である。


 だがそれでも意外と冷静だったのは、小さな頃に村の子供達に石を投げられ枯れ井戸に落とされて丸一日誰にも見つけられずに寒さに凍えた経験があるせいだ。

 エメローラ家のアンジェリカになってからこの方、アンジェリカがドレスや装飾品に目が無く、また王子が惜しむことなく散財させていたことは良く知られた話だ。王子の私財からすれば微々たるものだったろうが、次々と部屋を埋め尽くしてゆく贈り物に、いつしか“強欲の聖女”だの“王子に貢がせている女”だのの噂が飛び交っていたことを知っている。だがそれを何と思ったことは無い。噂に嘘は無かったし、見たこともないような素敵なドレスと宝石、靴や帽子、部屋の装飾品やいい香りの石鹸、すべてが新鮮ですべてが欲しかった。

 それに選んだ品はどれも後ろ指を指されるような良識に反する値段の物ではなかった。それは伯爵家の娘として生まれていれば……あるいは王孫として生まれていれば、当たり前のように享受できていたはずのものだったからだ。

 それを非難される(いわ)れは無かったし、アンジェリカがこの四年で手に入れたものなんて、これまで十数年貴族として生まれ育った人達からしてみれば実に微々たる物でしかない。そのことを理解してくれたのはクロード達だけだった。


『君はもっと、沢山の物を求めていいんだ。庶子というだけで得ることが出来なかったものを、すべて取り返していい』


 そのクロードの言葉はきっと、八歳になるまで庶子という扱いを受けていたクロードの本心だったのだろう。だからクロードのためにも、躊躇うことなく散財した。

 きっと“エメローラ家のアンジェリカ”を知っている人は皆、アンジェリカがサイズの合わないボロを纏い、土に汚れながら畑を耕し、冷たい水で食器を洗って薄っぺらい布団に身をくるみながら固いベッドで眠るような人間であったことを知らない。こんな、ちょっとレースがほつれただけの汚れたドレスに目くじらを立てるようなお嬢様でないことを、知らない。


  ***


 それから丸三日。流石に水と乾パンを与えられるだけでは体力的にしんどかったが、昔は冬の終わりには食べる物が無くて干し米を齧って空腹を満たしたこともあったのだ。この程度は何ともない。


「みすぼらしいですね、アンジェリカ様」


 やがて荷馬車はどこかの静かな場所で停まった。

 幌をかき分けたのは嘲笑うように声を引くつかせた男性で、目端によぎったその男の恰好にはすぐに顔に険がよぎった。

 みすぼらしいことなんてどうでもいい。だがその男に嘲笑われることは、屈辱だった。


「先日ぶりですこと、“神父様”。こんなところまで私を追いかけていらっしゃるなんて、随分と熱心な聖女信者なのね」

「くくくっ。聖女ですか……今の貴女を見てそんな世迷言を言う方はいないと思いますがね」


 それはヴィヨー村で出会った神父様で、あの時とは打って変わった格好で枷をかけられたアンジェリカを嘗め回すと、実に愉快そうに鼻で笑った。


「あの、神父様。俺達はどうすれば……」


 そこにこそこそと声をかけてきたのは荷馬車の御者を務めていた男達だった。よく見慣れた農夫の恰好をしていて、くしくもその面差しには既視感があった。

 なんてことだ……ヴィヨー村の男達じゃないか。

 悔しいことに、これに関してはひどくショックを受けた。

 結局彼らは、最初から最後までアンジェリカを異物と見做し続けたのだ。ただ父親がいない婚外子というだけで母を拒絶し、アンジェリカを孤立させてきた村の大人達。そこから一転、伯爵家に引き取られ栄華を駆け上っていったアンジェリカに、おぞましい(ねた)みを抱いていたらしい人達だ。

 一体私達に何の罪があったというのだろうか。殴り、蹴り、地面を引きずり枷をして、そうして痛めつけねばならないほどの罪が、どこに。


「貴方達はその女を下ろしたらすぐに村に戻りなさい。大丈夫です、貴方達は何も知らないふりをしていればいい。あとはこちらで“処理”しますからね」

「……は、はい。あの。ですが、神父様……」


 チラ、チラとこちらを見る彼らは、少しくらい罪悪感を感じているのだろうか。


「心配せずとも、貴方達には何の罪もありません。何しろこの女は、あろうことか聖女様の名を汚した“偽物”です。私は正司教様のご指示のもとその証拠を見つけ出し、かつての正聖女様を追い出した挙句、偽の聖女を祀り上げて神威を汚そうとした王家を断罪せんとしているのです。これは正しきを正しくするための“正義”です!」


 熱く語る神父の白々しい言葉に、村人達はどちらかというと“安堵する”といった様子で胸を撫でおろし、ギシリと荷台に乗り込んできた。


「無知で愚かな人達……私はリンテンで、その“正聖女様”立ち会いのもと、聖女であると認められたのに。そんなことも知らずに踊らされて」


 アンジェリカの捕らわれている箱に手をかける村人達が、アンジェリカの言葉にビクリと身じろいだ。彼らも、疑いが無いわけではないのだろう。なのに神父の言うがままに伯爵令嬢を襲って誘拐するだなんて。何て愚かなのか。


「さっさとするぞ、お前ら。どうせ、領主様に見捨てられて置いていかれた“偽物”だ。神父様にお任せしよう」


 そんなことを言いながらアンジェリカを荷台の上でズルズルと引きずった男には、特に見覚えがあった。

 幼い頃、『自分の言う通りにすれば村に馴染めるようにしてやる』だなんて言ってアンジェリカを脅したことのある、下世話な村長の息子だ。まさかあの時拒絶したのを未だに根に持っているというのだろうか。なんて愚かな。


「で、でもよ……お前も村から領主様と同じ馬車に乗るのを見てたじゃないか……」

「俺達、本当にこんなことをして……」


 そう不安がる様子には、村長の息子が何かを言うより早く、「何をしているのですっ! 早くしなさい!」という神父の怒声が飛び、たちまち村人達を慌てさせた。

 村長の息子が投げてよこしたアンジェリカを、二人の男がチラチラとお互いを見やりながら困惑気に、触れる事さえ何か罪になりそうで怖いといった様子で、荷台から突き落とした。くっそぅ……痛い。

 ずるずると身を起こして顔を上げ、じっと村人達を睨み上げれば、皆がビクリと脅えたように顔を背ける。よくもまぁそんな小心で、こんなことをしでかせたものだ。


「“正司教”と言っていたわね……つまり指示したのはアルナルディ正司教なの? 聖別の儀で本山の司祭様が持っていらした聖水を偽物に入れ替えて、正聖女様までも侮辱しかけた大罪人だわ。部下の管理不行き届きで、聖別後、中部教区に左遷されたそうだけれど。貴方達、まさかそんな人に踊らされているの?」

「貴様ッ」


 神父が声を荒げるのを見ると、どうやら図星だったようだ。もれなく村人達がそわっと不安そうな顔を見せる。

 彼らにとってのアンジェリカは、ぎゅっと口を噤んで睨みつけるしかできない、無知で愚かな村に染まれぬ異端者だ。しかしあれから四年、アンジェリカは変わったのだ。こうして聖職者に対し堂々と物を申し、またその裏を問い詰められるくらいに。


「エメローラ領の隣はオクレール領とブランジル領。ここは森の中のように見えるけれど、遠くに街の明かりが見えるわ。山に囲まれた小さな町で……日が落ちかけているから、あっちが西ね。エメローラから丸二日西側で、山がある辺り……デボルト領? いえ、デボルト伯爵令息はお兄様と親しかったはずだから、南側のマズリエ子爵領かしら?」

「ッ……」


 どうやら大当たりだったようだ。まさか以前兄が口うるさく説明していた周辺の領地情報が役に立つなんて。しかも当てずっぽうだったのに、見事的中させてしまったらしい。

 マズリエという名前は、それこそつい先日リディアーヌ公女からの手紙に同付されていたセザール宛ての手紙に書かれていた名前だ。アンジェリカもセザールから、注意せねばならない貴族の名簿として、写しを受け取っていた。

 知っている名前は三割がいいところだったが、マズリエはマリシアンがブランディーヌ派として絶対に覚えておいた方がいいと言っていた名前の一つだったせいで印象に残っていたのだ。


「オリオール侯爵家の分家筋なんでしょう? それがクロード殿下の許嫁を誘拐だなんて大層なことを考えたものね。つい先日私を見舞いに来てくれていた侯爵令息のマリシアンが聞いたら何ていうかしら」


 そう挑発的に言ったところで、「お、おい」「やっぱり不味いんじゃ」と、村人達がソワソワと後ずさり出した。それを神父が咎めようとした瞬間――。


「ぐぅっ」

「ぎゃぁぁっ!」


 絞り出すような鈍い叫び声と、虚空をまったどろりとした鮮血。

 どさりと地面に落ちた村人達が、びくっびくっと痙攣しながら、血だまりの中でこちらを見た。その目がまるでお前のせいだと言わんばかりに憎しみを孕んで……そのままピタリと、息絶える。


「っきゃぁぁぁっ」


 たまらず声を上げて後ずさろうとしたところで、足枷に足を取られてドンと地面に倒れ込んだ。そのアンジェリカをギロリと見下ろした黒ずくめの男の冷たい視線に、ひゅっと喉の奥が詰まる。

 一瞬……本当に、一瞬の出来事だった。

 何もない所から現れた男が、今にも逃げ出しそうな村人達をいともたやすく……殺した。

 その切っ先が最後に残った一人の首横で赤い雫を垂らしていて、ひいっ、と声をあげた村長の息子はその場に情けなくへたり込んだ。


「お、おぉ、キリアン殿っ」

「……何をベラベラしゃべらせている、神父。とっとと中に入れろ」

「わ、分っているっ。くそっ、貴様っ! さっさと来い!」


 髪を鷲掴みにされ、痛みと恐怖が再びアンジェリカに悲鳴を上げさせた。だが声を上げるとすぐに、面倒くさそうに舌打ちをしたキリアンと呼ばれた男がかがんでアンジェリカの胸ぐらを引っ掴んだ。


「ッッ!」

「殺すなとは言われているが、痛めつけるなとは言われていない。騒ぐなら爪をはぐ。それでも抵抗するなら足の腱を切る。それでも駄目なら目をえぐり、鼻を削ぎ、指を切り、腕を切る。嫌なら大人しく従え」


 この人は駄目だ。神父や村人なんかとはまるで違う。絶対にダメなやつだ。

 恐怖に震えボロボロと涙が落ち始めたアンジェリカがすっかりと腰を抜かして動けなくなったのを一瞥した男は、チラリと蹴り飛ばした神父と村長の息子を見るや否や、サッサとしろと言わんばかりに睨みつけてから傍の粗末な建物に入っていった。

 その様子に「くそっッ、“皇国の犬”がっ」と吐き捨てながらよろよろ立ち上がった神父が、忌々しそうにアンジェリカに手を伸ばす。その手にビクリと体が竦んだが、再びアンジェリカが喚くのを面倒だと思ったのだろう、神父は髪ではなく腕を掴むと、「早く立て!」と怒鳴りながら、足元のおぼつかないアンジェリカを半ば引きずるように小屋に連れ込み、奥の小部屋に投げ出した。


 虚栄心が欠けたせいか、先ほどまでとは比べものにならないほどに全身が痛んだ。

 肩が、背中が、足が、手が、今にも切り刻まれそうなほどに痛い。たった今目の前で殺された男達の姿が自分に重なる。

 どうしてあの男は村人を殺したのか。最初からそのつもりで。いや……違う。アンジェリカがいらないことを言ったせいだ。ただ神父を言い負かすためだけにベラベラと口を開いた。村人達はそのせいで、この件に正司教とマズリエ家が関わっていることを耳にしてしまった。そのせいだ。

 村長の息子は……目の前で村人が見せしめにされたのだ。きっと今まで以上に逆らえなくなったはず。愚かな男だ。


「ッ……」


 痛む体がなんだ。私が死ななかったのは、ただそれが今じゃないからだ。呪うような視線を投げかけながら死んでいったあの男達はアンジェリカが殺したも同然で、そしてあの男は、きっといつでも躊躇いなくアンジェリカを殺せる。

 怖い。怖い……一体私はこれからどんな目にあわされるのか。


「アンジェリカ様……大丈夫ですかな」


 途端、どこからともなく聞こえてきた男性の声に、ビクンッと飛び上がって壁に身を寄せた。

 だが目に入ったのは別の壁の端にぐったりとしなだれたよぼよぼの老人で、汚れ切った衣服はよく見ると聖職者の装いだった。

 長い髪が縺れ、乾いた唇がこぼす言葉はしゃがれていて、アンジェリカ同様に重たい手枷がガリガリと細い腕を繋いで……そして何より、老人の周りについ先ほど嗅いだばかりの鉄くさい腐臭が漂っていた。


「ッ……」


 知らない老人だ。いや、本当にそうだろうか?

 元は純白であったであろう長いローブ。汚れ切った長いストラ。絡まり(すす)けた伸びがちな白髪の下に見える金色の飾り。だらりと床に広がるローブに刻まれた豪奢な刺繍。


「ッ、ロマネーリ教区長様ッ! どうしてここにっ……」






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