2-12 客と提案(1)
side アンジェリカ
「マリシアン」
兄の言っていた来客は、良く見知った顔だった。
久しぶりに顔を合わせたクロードの最側近の顔に、もしかしたら城に帰れるのかと声が弾んだのは仕方のないことで、そしてそれは少なくともここまでの道中、思っていたよりも普通に兄と会話ができたという事実に浮かれていたせいでもあったのだと思う。
だからマリシアンがニコリともしない面差しで深刻そうに口を引き結んでいるのを見ると、たちまち夢から覚める思いをさせられた。
どうやら、いい報告をしに来てくれたわけではないらしい。
「遠い所を大変だったでしょう? 離れの方に来て。今私はこちらで生活しているの」
そう本邸の隣の建物を指さすとマリシアンは困惑したような顔を見せたけれど、これについては気にしてもらう必要はない。「私が好きで、こっちにいるんです」と言いながら、離れへと招き入れた。
「前触れもなく訪ねてきてしまってすまない。ダリエル卿に変な誤解をされていないといいいが」
「お兄様はそんなこと気にする方じゃないわ。それよりマリシアン、クロード様はどうしているの? ここへは何をしに?」
応接間に入るや否や、席に着くのもほどほどに口早に問いかけたアンジェリカに、マリシアンは答えづらそうに口を噤んだ。クロード達に何かがあったからというよりは、おそらくマリシアンがそれに答える術を持たなかったせいだ。これにはアンジェリカも自分の言葉を後悔した。
ヴィオレット派なるものが騒ぎだしてからこの方、仮にもヴィオレットの実の兄であるマリシアンは殊更難しい立場に追いやられていて、クロードの側近でありながらクロードの傍からやや距離を置かれてしまっているのだ。
アンジェリカとしては、マリシアンは他の誰よりも早くクロードに味方しアンジェリカのことも助けてくれた人だから、本人の性格との相性はともかく、クロードにとって信頼していい人物だと思っている。だがクロードはそうではないのか、騒動からこの方近くにいることが減ってしまい、アンジェリカも中々顔を合わせられずにいた。
くしくもアンジェリカもまたクロードとは距離を置かれているようなものだったから、逆に共感もある。むしろ、以前より親しみを感じているくらいだった。
そんなマリシアンはクロードの細かなことこそ語れなかったが、かわりにアンジェリカが王都を去ってからのことは説明してくれた。
「国王陛下の様子は変わりない。少し、苛立っていらっしゃるようだが……セザール様は公女殿下からの助言を気に留めて、日頃の慎み深い様子は何処にというほど、ヴィオレット派に探りを入れている。ただそのせいか国王陛下のセザール様への心証は悪くなるばかりで、殿下は間に挟まれてしまって苦労をしていらっしゃるようだ。俺はここのところ、宰相である父の手伝いに駆り出されていたのだが……王室は今、あまりいい雰囲気ではないな」
「私はセザール様は何だか苦手だけれど……言う事には一理ある気がするわ。外国からの計略だなんだという話はよく分らなかったけれど、聖女として認められたはずの私を偽物だと言ったり、今更ヴィオレット様を持ち出してクロード様を攻撃したり、そんな風潮が国内から突然起こるだなんて、やっぱりおかしいもの。裏にヴィオレット様がいる……というのは、まだあまりピンとこないけれど」
「庇うつもりはないが、妹……ヴィオレットがわざわざそんなことを考えるとは思えない。去り際の様子を考えると、尚更だ」
仮にも兄であるマリシアンがそういうのだ。やはり、ヴィオレット派の黒幕がヴィオレット本人であるなんていう話は、荒唐無稽なのではなかろうか。
だとしたら……外国の計略という方はどうか?
「どうして国王様はちゃんと調べてくださらないのかしら?」
「調べてはいらっしゃる。だがはっきり見えない他所の敵なんかに無駄に脅えるより、目の前に見えている暴動を鎮圧してしまえば早いじゃないか、という考え方なんだ。俺も、それには納得できる」
「それは……そうだけれど」
「ただ国王陛下が本当に気にかけているのは、セザール様が先に黒幕を見つけてしまう事じゃないかと思う」
「何故?」
黒幕が見つかるのはいいことじゃないか。それですべて解決するのだから。
しかしアンジェリカの純然たる疑問に、マリシアンはぐっと眉根を寄せ「セザール様は真相を知らないからだろう……」と呟いた。その、もう忘れてしまったのかと言わんばかりの口調に、アンジェリカもハッとした。
ヴィオレットは“冤罪”によって国外追放になった――そう。確かにヴィオレット派の行動は不自然だが、ヴィオレットが冤罪であるという訴え自体についてはその通り、冤罪なのだ。だが当時国外にいたセザールはそれを知らない。国の公的な記録では、ヴィオレットは確かにアンジェリカに非道な仕打ちをしていたことになっているし、茶会の席で毒を盛ったことになっている。
だからこそセザールはヴィオレット派を“暴動を起こしている人々”と認識し、彼らを取り締まろうとしてくれている。だがもし、そうではないのだと知ってしまったら? 事実、ヴィオレットが冤罪なのだと知ってしまったら?
国王陛下がセザールを抑止せんと躍起になっているのは、セザールに冤罪事件の真相を知られないためでもある。それを思うとアンジェリカも言葉が出てこなかった。確かに、不味い。それを知られるわけにはいかない。
「この一件は、セザール様が何かを掴む前に、俺達の手でどうにかしなければならない。できることならセザール様より早く黒幕を見つけて対処しなければならなかったんだ。俺はその必要性を殿下に訴えてきた……だが」
背景にヴィオレットの姿が垣間見えたところで、くしくもマリシアンはクロードから遠ざけられてしまった。主の為を思っていたのに忠誠を疑われたマリシアンにしてみれば、割り切るには難しい感情を抱いたことだろう。
マリシアンに以前のような高圧的な雰囲気が感じられないことはアンジェリカにとって悪いことではなかったけれど、こうも覇気のない様子は逆に調子が狂う。
「クロード様がどうしていらっしゃるのかは知らない?」
「俺が知る限りでは、表向き、国王陛下に従って暴動の鎮圧に尽力しておられる。一方で独自にで事件の裏も探っているが、ヴィオレット派の実態は掴めていない様子だ。何しろ国民達も暴動を起こしているつもりはない。ただヴィオレットの慈善事業だなんだの功績を覚えていて、冤罪という噂に同情をしているだけなんだ。冤罪に確たる証拠を持っているわけでもない。王城で起きた事件なのだ……当然だな」
まったく……ヴィオレットめ。どこまでも忌まわしい人だ。
少し前まではパッとしない真面目で言葉がきついだけの無表情な令嬢だったのだ。それがある日突然雰囲気が変わったかと思うと、これまで親しくなかった人に突然接近したり、クロード様を蔑ろにするような行動を取ったり、挙句それに苦言を申したアンジェリカに『クロード様なんていらないと言っているんだから、私にいちいち突っかからないちょうだい』だなんて。
そんなことを言う一方で、ヴィオレットはなぜか突然料理なんてして庶民派な所をアピールしたり、孤児院の再建や悪徳貴族の摘発をしたり、商売に手を出してあれやこれやと流行を生み出すような派手なことをしたり。
やっていることと言っていることが矛盾している上に、そうして平民や下級貴族階層にどんどんと取り入って、クロード達を孤立させたのだ。
確かにヴィオレットはアンジェリカに毒なんて盛っていない。そんな分かりやすい馬鹿なことをする人ではなかった。だがクロードがそれを決断したのは、ヴィオレットがあからさまにクロードを陥れるような行動を取り続けていたせいだ。
弱い人々には慈悲の顔をしながら、一方でクロードやアンジェリカのことはいつも小馬鹿にしているかのようだった。あの毒殺未遂事件だって、罪を着せられたはずのヴィオレットの方が実に用意周到に逃げ道を準備していて、まるで事件が起きるのを最初から知っていたかのようだった。実際私達はあの後、実はこれもヴィオレットに踊らされただけなのではと、本気で話し合ったほどなのだ。
そんな彼女を、ヴィオレットこそが聖女だとか、素晴らしい人だ、慈悲深い方だと崇める人達の気が知れない。だって彼女は結局、すべてを放り出して身勝手に国を出ていったではないか。挙句、その名前が今度は穏やかになるはずだったベルテセーヌを再び混乱させ、またしてもクロード様を苦しめている。許せるはずがない。
「マリシアン。私も、クロード様のために何かがしたいわ。確かに冤罪ではあるけれど……でもあのままヴィオレット様を放っておいたら、クロード様の立場すら危うかったのよ。それを知っていたから、貴方も忠義を貫いてクロード様の側に着いたのに。そんな貴方の思いすら踏みにじられている。これ以上、ヴィオレット様にかき回されるのは御免だわ」
「俺も同じ思いだ」
しかと頷いたマリシアンは、それから少し言葉を閉ざした後、やがて意を決したように深い吐息をこぼした。
「実は……俺がここに来たのは、殿下とは関係ない。俺が勝手に、アンジェリカ嬢を頼りにして来たんだ」
「やっぱりマリシアンは話が分かるわ!」
正直、マリシアンが何を言い辛そうにしているのかの方が分からない。安全な場所に追いやるクロードよりよほど話が分かるではないか。
「相変わらず、君は……そんなに喜ぶな。殿下の意思に背いているんだぞ?」
「それがどうしたの? クロード様だって間違えることは有るわ。現に私や貴方のことを見誤っているじゃない。それを糺すのも、臣下の役目でしょう?」
「……」
少し驚いたように目を瞬かせたマリシアンは、アンジェリカの頼もしい……はずの言葉に感心を……いや、していないか。ただ困ったような、戸惑うような、そんな顔でアンジェリカを見やったかと思うと、やがて悩まし気なため息を吐いた。
「セザール様と同じことを言うんだな」
「なんですって」
それは少し。いや、かなり不本意だ。なぜそこでセザールの名が出てきたのか。
「実は、うちの父に上手く取り繕って俺を送り出してくれたのはセザール様なんだ」
「セザール様が、どうして?」
「あの人はあの人なりに思惑があるんだろう。だが俺は、俺なりの誠意が通じたんだと思っている。思いたいだけかも、しれないが……」
「難しいことは分からないわ。でも私にできることが有るなら言って。私もマリシアンと同じ。クロード様のために何かしたいの」
誰が何を考えているのかなんて知らない。でも何かしていないと、このままでは落ち着かない。
クロードはアンジェリカが聖女として出張ることを快く思わなかったが、アンジェリカにとっては聖女というのが自分の唯一の武器なのだ。それでできることが有るなら、クロードに嫌われてだってやって見せる。
それで、クロードの助けになるのであれば。何でも。
「考えは……ある。だがこれは、危険なことだ」
「いいわ。何でも言って」
食い気味のアンジェリカの言葉に後押しされたのか、マリシアンは真剣に、だが簡潔にその考えとやらを語った。
「今起きている暴動はそもそも、クロード殿下の素質を問うことを目的としていた。本当ならアンジェリカ嬢が聖女と承認された時点で、これは沈静化するはずだった」
「ええ」
「だがそこに今更、ヴィオレットに素質が無いはずがない、冤罪だ、もう一度調べなおせという集団が出てきたわけだ。そんなのは世迷言だろうと王室はそれを取り合わなかったが、結局はそれがエスカレートして、ヴィオレットを追放したこと自体への非難が起きた」
「ひいては、クロード様の素質に対する非難になったのね?」
「ああ。今はさらに広がって、君の聖女としての地位を疑うものまで出始めている。聖別の一件以来勢力を失って処分を受けたアルナルディ正司教が、いまだ教会内部に根強い自分の派閥を操作しているのではと、うちの父は考えているようだ」
なんてことだ。未だにあの人に煩わされるのか。
「だったら私がもっと聖女らしい働きをすれば、クロード様のためになる?」
「いや、それはもう失敗している」
失敗と言われていい気はしない。だが言わんとしていることは分かった。
聖別からこの方、アンジェリカはすでにこれでもかというほど、国民の王室への賞賛のために国王に利用されつくしたのだ。だが結果はどうだ。名ばかりの偽善に感謝をする人はおらず、あるいは何をやってもかつてのヴィオレットの二番煎じになってしまって、国民らは何らそれに有難みなんて感じていやしない。それどころか、『そういえばヴィオレット様は』なんて、昔を懐かしがったりするのだ。
これではアンジェリカも、やる気を失わざるを得なかったし、国民がそんな調子だから、国王もどんどんとアンジェリカを役立たずと言わんばかりに冷遇し始めていた。
多分、それはクロードがアンジェリカを王城から離した理由の一つでもあるのだと思う。
おそらく王都では今なお不在なはずのアンジェリカの名で国王が色々と策を巡らせているのだろう。だがそれでは意味がないことを、もう知っている。
「でも私に他にできることなんて……」
「一つだけ……あるんだ。とても危険で、クロード殿下が聞けば絶対に許さないような……そんな、できることが」
「……いいわ。言ってちょうだい、マリシアン」
強い覚悟を持って答えたアンジェリカに、マリシアンはぎゅっと拳を握る。
「クロード殿下は王太子だ。自ら危険に飛び込ませるわけにはいかない。だからその代わりにアンジェリカ嬢……国民のもう一人の標的となっている君が、“おとり”になってくれたなら……この騒動の黒幕が、顔を出すかもしれない」
「おとり……」
すぐには、何がどうやって役に立つのか分からなかった。
国民もいかに暴動を起こしているとはいえ、聖女に直接手を出すようなことをするだろうか? いや、マリシアンは“黒幕が”と言った。ということは、おびき出したいのは暴動を起こしている人達ではなく、彼らをそう煽っている人達という事ことだろか?
「それは、公女殿下が忠告してくれたような……外国とか、国内にいるかもしれない反クロード様派とか、あるいは……ヴィオレット様とか?」
「まだ誰が黒幕なのかははっきりと分からない。でも王城やエメローラ領という安全な場所を出たら、まず間違いなく何者かが君に何かをしでかすと思う。相手が聖女をどう思っているのかは分からないが、少なくともクロード殿下から聖女を奪えば、それだけでクロード殿下の権威を失墜させられる。おそらく黒幕側も、ただ生ぬるい暴動ばかりがタラタラ続く現状に苛立っているはずだから、まず間違いなくこっちの動きを見逃さない。見逃さないだろう、と……そう……」
そう、誰かがマリシアンに教えたと?
「それも、宰相様が?」
「……いや」
何とも言い辛そうに口澱むマリシアンに、少し苛立ちが募った。
何が引っかかっているのか知らないが、もじもじたじたじと、らしくない。
「いいわ、協力するわ。だから隠し事は無しよ。一体それは、誰の計画で、誰が何を私にさせようとしているの?」
「……セザール様の、助言なんだ」
「……」
思わずアンジェリカの眉根もグッとよってしまった。よりにもよってその人だなんて。
「セザール様の発案というのは……確かにちょっと、気に入らないけど」
「いや、そうじゃない。発案自体は俺なんだ。むしろどこからか聞きつけてきたセザール様には、アンジェリカ嬢に万が一があればクロード殿下がどんなに窮地に立たされるかを説かれた。それでも現状をどうにか打破する一手が欲しいと相談したんだ」
「相談だなんて……マリシアンは、あの人を信じているの?」
「正直よく分らない。だがうちの兄が……次兄のエミリアン兄上だが、兄上が、少なくとも今の王室では一番頭のまわる方だと評価していた。実際、父上も最近は国王陛下よりセザール様と話し合っていることが多いくらいなんだ」
「マリシアンのお兄様は、セザール様について詳しいの?」
「うちは今でこそクロード殿下派としてふるまっているが……エミリアン兄上は元々、廃太子の同母弟であるジュード殿下と同級生で、近侍していたんだ。セザール様はそんなジュード殿下が殊更可愛がっている弟だったと聞いている。そのせいで兄上は少しセザール様にも身贔屓なんだ」
ジュード……つい先ほど、兄から聞いた名前だ。兄も随分とその人に思い入れがあるような様子だった。
アンジェリカにとっては顔どころか噂も知らないようなクロードの異母兄なのだが、思いのほか、少し上の世代には深く根付いている人物らしい。
「アンジェリカ嬢が外に出れば、黒幕が釣れないか……そんな話を聞いたセザール様に、言われたんだ。だったらせめて、アンジェリカ嬢の周囲に頼りになる護り手を置くようにと。だがヴェルノーはクロード殿下の護衛がある。仰々しく騎士団に守らせたら、黒幕が近付いてくれないかもしれない。だから目立たず、けれど堅固に守れる存在として……ジュード殿下を頼ってはどうか、と助言された」
どうしてマリシアンがずっと言い辛そうにしていたのかが分かった。
確か兄が、ジュード、ひいてはリュシアンという廃太子が、国王や王妃にとって触れてはならない存在であるかのように言っていた。確か八年前の事件からこの方、廃太子は厳罰に処され、その同母弟の王子も身分を剥奪され、王都を追放になっていたはずだ。なのにクロードが追い詰められている現状、聖女がジュードを頼るなど、国王やクロードが聞いたらとんでもなく怒るだろう。怒るどころか、もっとひどいことになるかもしれない。
「マリシアンは、それがいいと思う?」
「……正直、分らない。俺は兄上と違って、ジュード殿下やセザール様のことをよく知らない。だがジュード殿下が元々武の才能で知られた人物だったことは有名だ。今は身分を失っているが、いざという時に元王子殿下の肩書きも守りになるとは思う」
「そう……」
思えば兄も、随分とジュードを慕っているようだった。その上マリシアンまでこういうのだ。そのことに気持ちが揺らぐ。
ただ、本当に信じていいのだろうか?
「でもマリシアン……その方は、リディアーヌ王女を殺そうとした人の弟なんでしょう?」




