2-7 狼の知らせ
それからの数日は、実に静かな日々だった。
新たな情報も無ければ、慌ただしく集めさせたベルテセーヌ内の情報にもまだ重大な動きはなく、外部からの接触もなかった。あえて言うのであれば、最近ベルテセーヌでは妙にヴィオレットの事件を蒸し返す者が多く、中には“ヴィオレット派”なんていわれる連中が声高に王太子を非難していると聞く。
看過できる噂ではないが、まだそれが原因となるような大きな事件の聞こえはない。
とはいえ遠いヴァレンティンからでは、ベルテセーヌの最新の情報や細かい内情をするのも容易ではない。多くの諜報員は送り込んではいるが、どうしてもタイムラグは発生するし、直接指示が与えられるわけでもない。中途半端な情報は、かえって焦りを生むものだった。
そして一国の国主一族たるもの、いかに身近に大きな計略が迫っているからといっても、そればかりに注視していられるわけでもない。国政と日常的な政務は勿論のこと、季節ごとの祭祀や貿易、外交、経済、産業。解決すべき問題も多々ある。
そんな中から、ふとリディアーヌが手に取り考えふけったのは、一つの商業ルートからの書類だった。
「お養父様。間もなく、アルテン王国からの使者がプラージュにいらっしゃるそうですね。海路交易の件は帝国議会からこの方、議題の一つにしていた重要案件ですし、私が直接出向いて会談に臨みたいと思っているのですが」
家族皆が揃う晩餐の席で切り出したリディアーヌの言葉に、ぴくりと手を止めた叔父が嫌そうに顔を上げるまで、そう時間はかからなかった。
「そんな書類を……どこでみた」
「私の机の上で」
「……」
書類の分配はアセルマン候の仕事だ。国の大事な案件や日常的な政務の大半は国主である叔父が担っているが、城に女性主人がいない現状、城内の使用人の差配と内務財務は昔からリディアーヌの仕事で、そこから派生する形で城に出入りする商人を通じて商業関連、やがて交易や産業関連は今や多くがリディアーヌの管轄になっている。選帝侯としての仕事も抱える叔父に代わって、内政的な仕事は年々増えている。
それは勿論、叔父も同意した上で、叔父がアセルマン候と話し合って配分しているはずなのだが、こうして叔父も知らぬところでリディアーヌの机に積みあがる書類も増えているのだ。特に、商業関連はそうである。
「アルテン王国というのは、外海の南の方にある島国ですよね?」
教わったことを思い出しながら問うフレデリクに、「よく勉強しているわね」と微笑む。
「アルテンは南大陸と西大陸の間にある比較的大きな諸島国家よ。元々海上拠点として商業で発展してきた国で、場所柄、南回りの航路でヴァレンティンの港にやって来る船はみなここを経由してくるわ。ヴァレンティンにとっても関係の深い国ね」
「帝国ではないのですよね?」
「ええ。帝国属国と同様の交易的な特権は受けているけれど、完全な独立国よ。デリクはまだアルテン人に会ったことが無かったかしら?」
「はい、ありません。変わった外見をしていると聞きました」
「確かに、民族的には南大陸系だから私達とは顔立ちや肌の色が随分と違っていて珍しいかもしれないわね。髪も黒や茶が多いわ。服装も特殊ね。レースや刺繍が豪奢で、とても美しいの。鮮やかな色合いだから、見ていてとても楽しいわよ。それに船も独特よ。アルテンでは女性も船の操縦をするの。みな大柄で、体つきも逞しい人が多いわ」
「私も船を見てみたいです」
そうフレデリクはキラキラと目を輝かせたけれど、それにはすぐさま叔父が「駄目だ」と却下した。おかげで二人そろって恨みがましく叔父を見ることになった。
「ぐっ……そんな顔をしても駄目なものは駄目だ。プラージュはわが国最大の貿易港を有する海上窓口。同時に、一山超えればベルテセーヌという、国境にかなり近い街なんだぞ。この情勢下、そんなところにうちの大事な子供達を遣れるわけないだろう」
むぅと口をとがらせながらも大人しく諦める様子を見せたフレデリクに対し、リディアーヌの方はにっこりと微笑んでみせると、「まぁ、好都合ではありませんか」と続けた。
無論、最初からリディアーヌの目的はそちらである。それは叔父も分かっているはずだから、返ってきたのは重たいため息だった。
「ベルテセーヌ内の中々つかめない情勢に焦る気持ちは分かるが……」
「少しでも近くにいた方がいざ何かが起きた時も対処の仕様もあります。けれどお養父様が首都を離れるわけにはいかないでしょう? 目立ってしまいます」
「それは君も同じだろう、リディ」
「アルテンからプラージュに第三王子夫妻がいらっしゃることは前々から決まっていたことではありませんか。我らが大公様と殊更親しいご夫妻を公女が出迎えることも、元々商業関連を担当している公女が自ら会談に臨むことも、なんら問題ないはずです」
「……」
実際、そういう話は元々あったのだ。しかしその話が上がった時は帝国議会の直後で、ベルテセーヌ国内の騒動を懸念して見送ることになっていた。
王子夫妻の目的は昨今の海上交易の一件と海賊対策についての話し合いであり、夫妻の旅行も兼ねていると聞いている。話し合い自体は港湾都市を任せている代官と外交官に任せておけば問題のない程度の話であり、また旅行がてら夫妻はこの後首都までやってきて大公家でももてなす予定だったから、あえてわざわざ出迎えてまでもてなす必要性もないものだった。しかし出迎えてはならない理由もなく、これほど都合のいい事情もない。
「姉上はまたお出かけですか?」
ただ惜しむらくは、うちの可愛い弟ががっかりしてしまうことである。
残念ながら、港街プラージュがベルテセーヌの国境からとても近いことは紛れもない事実で、そんな場所にさすがに幼い弟は連れていけない。
「今回も、残念ながらお留守番よ、デリク。もう少し、情勢が落ち着いていれば一緒に行けるのだけれど」
「残念ですが、お仕事なら仕方がありません……」
「ちょっと待てお前たち。パパの言うこともちゃんと聞きなさい」
叔父はそう言いながらフォークで肉を突き刺したけれど、それにはただニコニコとした微笑みで返事をした。するともれなく、ため息での返事が返ってきた。
しっかり者かつ用意周到な愛娘がこの顔をして目的を遂げなかったことは無い。それを知っているからこそ、叔父も言葉が無いのだろう。
「段々と高まっているベルテセーヌ内の不穏な動きが気になるのは分かるが……リディ」
「アンジェリカ嬢からの返事が無いのも気にかかっています。手紙にはクロード殿下とセザールに対しても手紙を同封していました。少なくとも性格柄、セザールからはすぐに返書があっていいはずです」
「それは確かに気にかかるが……」
「手紙が届いていないのか、届いているけれど返書できる状況ではなくなっているのか。 “ヴィオレット派”なる人達の動きにどれほどクロイツェンが関わっているのかは分かりませんが、到底無視できるものではありません。扇動しているのが誰なのか、知らないわけにはいきません」
「こちらからも正式に使者を称して人を送り込んでいる。今少し情報が集まるのを待ってからでも……」
「お言葉ですがお養父様。トゥーリ相手にそれでは“遅すぎます”わ」
「はぁ。相変わらずやっかいな皇子様だな。君の友人は」
「……そろそろ、友人という呼び方を変えるべきなのではと、悩んでいる所です」
「リディ……」
国という物のせいで娘が友人を無くすことに思うところがあるのか。叔父の顔色は芳しくない。無論、リディアーヌとしても、こんなしがらみさえなければ友人でいられ続けたのにという感傷を抱くこともある。でもそんな“もしも”は意味がない。
「それを含め、“狼の知らせ”とでも言うんでしょうか。書類を見かけた時から、どうにも行かねばならない気がしてならないんです。私も危険を承知していないわけではありませんわ。でもプラージュは幸いヴァレンティン国内ですし、こちらにいらっしゃる第三王子はお養父様もよくご存じの方でしょう? リンテンのようなことにはなりませんわ」
「それは……そうなんだが。聖女に“狼の知らせ”などと言われては、無視もできないではないか」
「言葉の綾とかではなく、事実、そう感じたからそう申したんです。ちなみに、帝国議会の最中、お養父様がまったく取り合わなかったシャリンナの海賊対策に関する議題を、同じ問題に悩むアルテンの王子殿下から直接伺いたいという真っ当な理由もあります」
「ぐっ……」
つまり叔父様の自業自得である。
「だがリディ。君はそう言ってリンテンに出向いて、酷い目に遭っただろう……私はあんな報告を受けるのは二度と御免だ」
「分かっていますが、グーデリックのようなとんでもない人は早々いないと思いますよ? クロイツェンにヴァレンティンの公女を誘拐する理由もありませんし」
「それはそうだが……」
フォンクラークの王太子がおかしかっただけだ。流石にあんな大変な目には遇うまい。
「ついでに言えば、アルテンは“帝国外”。アルテンの王子夫妻と同行しているのに、そこにちょっかいを出すような人がいたとして……そうなるとこれはもう立派な“帝国院案件”になります」
「……ぐっ」
元々、帝国の外の国との外交は皇帝陛下の直轄案件だ。リディアーヌがアルテンの王子夫妻と行動を共にすることは、下手をすれば皇帝陛下を引っ張り出す事態になるということで、無論平時であればそんなことはまったく御免蒙るのだが、現状アルトゥールに対する防衛としては十分すぎる盾になる。
これだけ安全性を主張しておけば、叔父も否とは言えないだろう。
「くれぐれも……くれっぐれも、イグラーノから離れるなよ」
「まぁ、お養父様ったら。奥方様を連れてやってくる王子殿下から離れるなだなんて、修羅場をお望みなんですか?」
「リディ」
茶化すな、と言わんばかりに名を呼ぶ叔父に、クスクスと笑って見せた。勿論、言葉の真意は分かっている。場を和ませるためのちょっとした冗談である。
「ええ、分かりました。ついでにフィリックからも離れませんわ」
「それはある程度、離しておけ。寝室には絶対に入れるな」
加えてクスクスと笑っておく。
まぁ確かに、リンテンでのフィリックに対する扱いを聞いていた叔父からしてみれば、フィリックもよほど危険因子なのだろう。まぁ今回は、間男みたいな演技をさせる必要はないので、寝室にまで入れるつもりはない。安心していただきたい。
「もし怪我の一つでもしてこようものなら、二度と首都から出さないからな」
「お養父様……それは流石に過保護過ぎません?」
「デリク、お前からも言っておけ。お前の言葉が一番リディには効くからな」
「っ! わかりました! 姉上、絶対に怪我一つしないで帰ってきてくださいね。じゃないと二度と姉上をお城から出しません!」
首都から、が、お城からに代わった。
お、おおうっ。どうしたことでしょう。これは絶対に、怪我一つできない。
フレデリクが可愛すぎて、絶対にできない!
「効果抜群ですね」
思わずそう呟いたマクスに、返す言葉もなかった。
今日のソルベは林檎味だった。
狼の知らせ:ヴァレンティン風「虫の知らせ」。




