2-6 ヴェラー卿の来訪(2)
「“聖女の資格”といったわね。ヴィオレット嬢はアンジェリカ嬢を本物だと思ったと?」
「は? えぇ。そのような仰りようでしたが、公女殿下は何かご存知ですか? 私どもには聖女と聞いても、それでどうして潔く身を引くことになるのか理解しかね、ヴィオレット様にはため息を吐かれたのです。ベルテセーヌ王国においては、“聖女”という称号はとても大切にされているのだとか」
やはり聖痕に関する認識はベルテセーヌとその外では違うか。
ただヴィオレットがどれほど聖女の意味を知っているのかも分からない。称号を大切に、だなんて物言いは、むしろ聖女の本来の意義を理解していないかのようにも感じ取れる。
まぁ、それについてはいい。むしろ好都合だ。できることならクロイツェン側にはあまり聖女の本来の意義についてを知らないでいてもらいたいものだ。
「聖女の証というのはベルテセーヌ王室の王女にだけ遺伝する神秘として、重要な意味を持つのよ。同じ先々王庶出の外孫でも、ヴィオレット嬢ではなくアンジェリカ嬢がそれに選ばれたことは、ヴィオレット嬢なりにショックだったんじゃないかしら」
まぁ、聞く限りだとヴィオレットがそんなものに執着するようにも思えないが。
むしろその人柄や行いを聞けば聞くほど、アンジェリカが聖女であったことを誰よりも喜んだのがヴィオレットだったのではとすら疑う。“身を引く”だなんて言葉を用いるのは卑怯である。
「聞けばその証が本物であるのかどうかの確認として、先だってリンテンで秘密の催しが行われたとか」
ほぅ? さすがにリンテンは皇帝直轄領からも近い。聖別の儀に関しては皇帝陛下もアルトゥールに隠していたようだが、まったく隠しきるというわけにはいかなかったようだ。
であれば、リディアーヌがリンテンにいた理由についても、それと関係があるのではという疑いはすでに抱いているわけだ。
「教会でそういう確認の儀式のようなものを行う必要があるのよ。私は外部からの見聞役として請われて、先日その儀式に参加したわ」
「やはり、そうでしたか……」
「トゥーリからの指図を受けたという皇帝陛下の臣下が同席していたわよ。てっきりトゥーリは知っているものかと思っていたけれど、そうではなかったようね」
白々しいが、演技も大切である。
「一体なぜ、他国のことに公女殿下がお関わりになられているのでしょうか。我が皇子はそのことについてはいい、と仰いましたが、私は気になって止みません」
アルトゥールが探るのを止めたのは、皇帝陛下が何か上手く言いくるめたからだろうか。逆に気になる所である。
「そんなにおかしなことかしら? ヴァレンティン家は代々ベルテセーヌ王室とは縁が深いわ。先代の聖女も、私の“従姉”……つまり、現大公の姪よ。先代の聖女の就任式にはお養父様もご出席なさって、新しい聖女の誕生を祝福されたと聞くわ」
「そう……なのですか?」
リディアーヌが自分の素性について口にすることは珍しい。だがこのヴァレンティンの大公の姉がかつてベルテセーヌ王室に嫁いでいたことは誰もが知っていることである。であれば、大公の娘であるリディアーヌが無関係でなかったとしても、何らおかしくはないはずだ。
「ところでヴェラー卿。主のためにと関心を深くして情報を集めることは良いけれど、今回の聖女の儀式に関しては、教皇聖下の計らいでリンテンの教会が選ばれ、皇帝陛下のご下命によって私が招請されたのよ。何故と聞くなら皇帝陛下にお伺いするべきだわ。トゥーリはそれを知っていたから、“調べなくていい”と仰ったのではなくて?」
「ッ……」
どうやらヴェラー卿もすぐに自分の失言に気が付いたらしい。
それが皇帝陛下の思惑であったと言われれば、ヴェラー卿のここでの訝しむような発言は、すなわち皇帝陛下への不審を口にしているも同罪だ。皇帝陛下の孫に仕える臣下として、主に顔向けできないものである。
「ッ、申し訳ございません。大変な失言を致しました。どうか私の先走った好奇心をお許しくださいッ」
「私から余計なことを言うつもりはないわ」
ほっと安堵したヴェラー卿が感謝を述べると同時に、幸いにしてこの場の主導権を握ることに成功した。ここからは、ヴェラー卿の一方的な感想ではなく、リディアーヌの聞きたい事柄をただ淡々と答えさせるターンである。
「ヴェラー卿。少し想定外の話が挟まってしまったけれど、皇帝陛下や教皇聖下が関与するほどなのだから、聖女というのがどれほどベルテセーヌで大事なのかものなのかは理解していただけたのではないかしら?」
ごもっともなことに、ヴェラー卿は神妙な面差しで頷いた。
このことはしっかりとアルトゥールにも伝えてもらいたい。“聖女には手を出してはいけない”、と。それが少しでも、計略への歯止めになってくれたらいいけれど……いや。アルトゥールに限って、そんな簡単にはいかないか。
「それならオリオール侯爵が娘を切り捨てることを選んだ理由も、分かるのではなくて?」
「それは……」
くっと言葉に詰まったヴェラー卿だったが、じっくりと思案したかと思うと、やがておもむろに首を横に振った。
「いいえ。たとえそうだとしても、ベルテセーヌの王太子殿下とオリオール侯爵の行った仕打ちは到底、許されるべきものではありません」
はぁ。なんともヴィオレットに傾倒した物言いではないか。
どうやらヴィオレットはすでにアルトゥールの傍で、その堅物な側近達に慕われるだけの関係を築いているらしい。それは果たして彼女の素なのか。それとも、“計略”なのか。
「分からない人ね。互いの文化を尊重することも大事よ、ヴェラー卿」
「それは理解しますが……」
「オリオール候が娘を犠牲にしてでも聖女を選んだのは、信心深いあの国ではごく当然のことなのよ。侯爵が親として非情であると罵ることは簡単だけれど、王侯たるもの、感情よりも合理的な判断を優先することはトゥーリだって嫌になるほど知っていることでしょう? 私情を飲み込んでまで聖女を重んじてきたからこそ、ベルテセーヌは代々教会から強い支持を受けてきたの。どうぞ教会と仲の悪いトゥーリにはくれぐれも、その意味をよく考えるよう助言してもらいたいものね」
「……」
まぁそう言われて大人しくしてくれるアルトゥールではないし、受け入れられるヴェラー卿でもないだろうが。
「つまり公女殿下は、そのアンジェリカという聖女を“公女として”お庇いになるつもりだということですか?」
「……」
だがまさかそんなド直球な物言いをされるとは。
確かに、学生時代からこの方、アルトゥールとマクシミリアンの二人とはいらぬ駆け引きもせずに率直に意見をぶつけ合うことも多かった。だがリディアーヌが率直に議論を交わしたのはアルトゥールに対してであり、それは彼が皇国の皇子だったからこそ許したことだ。
逆に言えば、アルトゥールが率直な物言いをしたのも、彼がリディアーヌをそれに値する自分と対等な一国の公女として尊重していたからである。
“従者如き”がそれを真似していいはずもない。
だからヴェラー卿の取り繕いもしない質問には、ダンッ、と机を叩いて不快を示した。
さすればすぐにヴェラー卿も自分の失言に気が付いたようで、気まずそうに顔色を失い、視線を落とした。
「口が過ぎたようね、マックス・ヴェラー」
「……ッ」
「貴方とは三年間、ほぼ毎日のようにカレッジで顔を合わせていたのだもの。気が緩んでしまったのかしら? でもそれだけ私達のことをよく知っているのだから、私達が何を最も嫌うのかも、ご存じのはずよ」
「……申し訳ありません。主を差し置いて口を挟んだばかりか、青く貴き血筋の御方のお考えを探ろうなどという身の程知らず。公女殿下がお怒りになるのは当然のことです」
ヴェラー卿はそれを失念するような愚かな従者ではなかったはずだ。なのにどうして口が緩んでしまったのか。
ただ主を思って必死だったのか。それとも……ヴィオレットの前では、口を噤む必要がないせいなのか。
あぁ……益々と、ヴィオレットに対する印象が悪くなってゆく。
「そんなにヴィオレットを庇いたいのであれば、許すわ。どうぞ、庇ってごらんなさい。どんな方なのかしら? 聖女より聖女と崇めるような方なのかしら。それともトゥーリの計略を知っていて、復讐のために協力を申し出ている協力者なのかしら」
「公女殿下……」
「どうなさったの? 先ほどまでの公女への物怖じしない勢いは何処へやったのかしら」
リディアーヌが気分を害していると思っているのだろう。顔を青ざめさせたヴェラー卿はひとしきり迷いった様子を見えた挙句、「復讐など、とんでもございません」と、諦めたように口を開いた。
「ヴィオレット様は、それはもう慈しみ深く、清らかなお方です。暴力、暴言、不正など一切を嫌い、善良で、弱きものに躊躇いなく手を差し伸べてくださるような……そう。まさに、聖女と見紛うばかりでございます」
マックス・ヴェラーという人について、リディアーヌは詳しく知っているわけではない。だが少なくとも学生時代トゥーリの傍にいた彼は、いつでも影に控えて主のために懇親的な忠臣で、その主の意向に違えることなく礼節を守っている真面目な男という印象だった。
主のためならばと権力におもねらない芯の強さは以前からあったけれど、しかし主のいない場所でその主と懇意であるはずのリディアーヌにこんな口を利くような男ではなかったはずだ。
ヴィオレットのことを語るその言葉は、一見ただ求められるがままに返答しているかのようで、しかし言葉の端々が明らかにリディアーヌに突っかかるようなものにも聞こえた。
リディアーヌは従者のような弱き者に配慮することは無いし、善良だけで人を評価したりしない。それは彼の主も同じであるはずだ。だがそうであるからこそ、そうでないヴィオレットに心酔しているかのようにも感じられる。
「キヨラカ、ね。けれどそれの何が妃として役に立つのかしら。トゥーリがヴィオレット嬢を選んだ理由は何? 私が聞いて納得しうるような理由なのかしら?」
本当にそんな甘っちょろいだけのお嬢様なのだとしたら、果たして本当にアルトゥールのお眼鏡に適うものだろうか? 大体、婚約破棄してすぐに余所の皇太子をとっつ構えておきながら、“聖らかな女”というのはどうなのか。
ヴィオレットの真意は、何なのか――。
それが知りたくて口にした言葉だったけれど、その言葉にヴェラー卿はふるふると首を横に振ると、どこか遠くを見るかのようにうっとりと目を蕩けさせた。
「いいえ、公女殿下。ヴィオレット様はただ、紛うこと無き清らかな心をお持ちのお方なのです。その真心が、アルトゥール殿下のお心を溶かしただけなのです。公女殿下もお会いになれば、きっとお分かりになることでしょう」
真心が心を溶かした?
あのアルトゥールが本気で恋をしたとでも?
『いや、分かっている。君はそういう人だ。私はそういう君のことが好きなのだから』
ふと、先程の手紙の書き振りが頭をよぎった。
“そういう君のことが――”。感情ではなく理性で。甘い言葉より合理的な言葉で。物事を自国の損得益不益で判断し、それを誇りとしているようなリディアーヌを。
「ふぅ……」
あぁ、そうだ。あの友人はなんら変わってなんていない。真心なんて関係ない。ただひたすら貪欲に上を目指す、生まれながらの皇子殿下だ。他人に婚約者を奪われるようなヴィオレット嬢に転がせる相手じゃない。
ヴェラー卿は失念している。アルトゥールというのが、どれほど冷静に自分を殺すことのできる人間なのかを。
私はそんな彼のことが、好きなのだから――。
「同情するわ……」
思わず零れ落ちた言葉は、誰に対して呟いた言葉だったのか。自分でもよく分らなかった。
利用するつもりだったのに利用されているだけかもしれないヴィオレットに対してなのか。誤解を知っているはずなのに放置して踊らされている憐れな忠臣に対してなのか。あるいはそんな男を悪友と呼び、嫌いになりきれない自分に対してなのか。
でも多分そう言ったなら、私の二人の友人あたりは実に嫌らしく笑うと思う。
あぁ、そうだ。そうなんだ。何を惑わされているのか。あの人達は、そういう人達なのだ。
きっとこの夏、リディアーヌが帝国議会で囁かれた噂を皇帝陛下の前で確かに拒絶したことが、アルトゥールにとっての“区切り”となった。
『もし君が事情を知り、仕方がないとため息をつきながらも頷いてくれたなら、と。そんな淡い期待も抱いていた。だが半年ぶりの君の手紙に、それがどれほど浅はかな夢であったのかを思い知った』
あの一件で、アルトゥールは意を決したのだ。
リディアーヌは決して懐柔できない。そしてそれは、皇帝もすでに諦めたことなのだと。
だからアルトゥールは、ヴィオレットを選んだ。
『せめてこれからも、君が変わらず私の最愛の友でいてくれたならと願うばかりだ』
なるほど、そういうことか。
変わらず友でいたいのではない。変わらず友でいてくれたらいいのに――つまり彼はすでに、リディアーヌが最愛の友であることを迷いかねない行動を起こしているのだ。その上で、友でいて欲しい。君がベルテセーヌに味方しないでいてくれたら、これからも君と敵対せずに済むのに、と、そう言っている。
アルトゥールにとってベルテセーヌはすでに排除すべき敵であり、ひいては保守派の陪臣を多く抱えるヴァレンティンに対する計略を目論んでいることは、もはや変わることのない事実なのだ。
これはもう、学生時代の延長線上の、笑って許せる悪戯ではない。皇帝戦を見越した上での、名をかけた前哨戦だ。
ヴィオレットはそれを可能とする大事な手駒。クロイツェン皇太子妃の称号は、ただベルテセーヌの名誉と権威を没落させ、ヴァレンティン家にベルテセーヌ王室を見限らせるためのきっかけにすぎない。
ではこの状況、このタイミングで、アルトゥールがわざわざヴェラーという腹心を遣わしてまで手紙を届けさせた理由は何だ? リディアーヌに気を利かせたなんて可愛らしい理由なはずがない。わざわざ情報を融通してくれるようなお人好しなどということも絶対にない。
ならば、考えらえる目的はただ一つ。
「そういえばヴェラー卿。貴方、いつまでこの城に滞在する予定だったかしら?」
「は……あの。殿下からは、公女殿下からの返書を受け取って来るようにと命じられていますが」
つまり、理由を付けてリディアーヌの傍に“目”を置くことが目的なわけだ。
「フィリック」
名を呼ぶと、察しの良いうちの筆頭文官がすぐさま応接間の机に便箋とペンを置いた。
ヴェラー卿が驚いた顔をしているが、関係ない。
『今はもう“親愛なる”と書くにも躊躇われるかつての友、アルトゥールへ』
綴り始めた文字に、ヴェラー卿が困ったようにおろおろとし始める。だが手を止めるつもりはない。
『もしも私が違う選択をしていたなら、今、貴方とこんな手紙をやり取りすることは無かったのでしょうね。トゥーリ、もしも貴方が心から寄り添える女性に出会えたのだというなら、私はそれと友人として心から喜び、祝福したでしょう。でも残念なことに、貴方が真心なんて言葉に絆されるような“格好悪い男”でないことを、私は知っているわ。
私はヴァレンティンとして、貴方の行動に口を挟む権利は持ち合わせていないわ。私に貴方達の事情に介入することはできないし、できたとして苦言や機嫌を示すくらいよ。でもだからといって、そうやすやすとベルテセーヌの王の首を自分の作った人形の首に挿げ替えることが出来るとは思わないで。貴方はヴィオレット嬢を使えば容易にことを運べると思っているのかもしれないけれど、ヴァレンティンはそれほどベルテセーヌと浅い縁ではないの。
貴方の行動の度が過ぎるのであれば、私もまた私の持ち得る“度の過ぎた理由”で、貴方の喧嘩を買うことになるでしょう。それを胸に留めておいていただきたいものだわ』
『かつての私の大切な友、アルトゥール。貴方がどんな選択をするのかは、貴方の自由よ。けれどかつての既知に免じて一つだけ言わせてもらうなら、貴方は今後、ヴィオレット嬢とオリオール侯爵家の何を知ったとしても、自分で選んだヴィオレット嬢を生涯大切にしなければ駄目よ。貴方が利用したのだもの。その責任を取れないような無責任な人ではないと、期待しているわ。
そしてきっと貴方がその“何か”を知った時、私が取るこれからの行動の理由にもきっと納得するはずよ。その時、私が最も悲惨な結末を選ばなくてすむよう、気を付けてもらいたいものね。そうでなければ貴方はきっと、最愛と呼ぶものを永遠に失うでしょうから』
願わくば、この友人を失いたくないものである。
だがそれはもしかすると、とんでもなく難しいことなのかもしれない。
『貴方が恋にうつつを抜かして目をくらませるような愚かな人間になっていないことを、信じているわ。どうか私を失望させないでちょうだい。
貴方との慣れ親しんだはずの手紙に笑顔の一つも浮かべられずにいるリディアーヌより』
待ち構えていたフィリックから濃い紫紺の蝋を受け取り、その場で乱雑に手紙に封をし、印章を押し付ける。
乱暴だけれど手早くて、そして何の親愛もない手紙だ。だがそれをヴェラー卿に差し出したところで、彼に文句は言えない。
「公女殿下……」
「これで貴方の任務は達成ね。これを持って、早くトゥーリの所へ帰るといいわ」
「……」
様子を見る限り、きっとヴェラー卿は少しでもこの場に居残って情報を集めることを命じられていたはずだ。その戸惑いが透けて見えるようだったけれど、しかしこうもあからさまに意図を見抜かれていては、留まり続けることもできないだろう。
仕方なさそうに手紙に手を伸ばしたヴェラー卿は、「確かに拝受いたしました」と頷いた。
「首都の外まで騎士に送らせるわ。送り先は東門かしら。それとも、“南門”の方が近いのかしら。でも残念ながら、今この瞬間をもって南門は閉鎖する予定なの」
「……」
答えないということは、答えられない方角に用があるということだ。
「エリオット」
扉を見やった先で、エリオットが首肯して扉を開けた。
このままうちの騎士達が、一日たりとも滞在させること無くヴェラー卿を“東門”へと送り届けてくれることだろう。ついでに、北方諸国群の入口まで連れて行かせてもいい。ベルテセーヌ方面とは正反対の、その道へ。
それを察したように仕方なく席を立って、たが儀礼的に深い一礼と面会を感謝する言葉を述べたヴェラー卿は、そのまま背を向け扉へと足を向けた。
ただ、このまま大人しく出ていくかと思った矢先、ヴェラー卿はチラリと僅かばかりにリディアーヌを振り返った。
「まだ何か?」
「この度の面会では、公女殿下に大変なご無礼を働いた自覚があります。ですがそのご無礼ついでに、もう一つだけ、罪を重ねても宜しいでしょうか」
「……聞き流してあげるから、どうぞ言ってご覧なさい」
これ以上、何を言うことがあるのか。そんな態度で促したリディアーヌに、ヴェラー卿はじぃっとリディアーヌを見て、少し悩ましそうに目を細めた。
「正直、ヴィオレット様に対する不信感はあります。そんな道を選ぶ主に、不安を覚えることもありました。けれどそれでも私達は、主がヴィオレット様を選んだことを当然だと納得もしています。そしてどうして自分達がヴィオレット様に容易く懐柔されたのか。懐柔された自覚もあれば、その理由に心当たりもあります」
「なん、ですって?」
一体何を言うのか。そう馬鹿らしさを覚えたのだけれど。
「ヴィオレット様の面立ちは、カレッジにいらした頃の公女殿下によく似ていらっしゃいます。だからこそ、我が皇子はヴィオレット様に絆されたのです。公女殿下はきっと“らしくないことだ”と仰るでしょう。しかし長年殿下を見てきた私が、あえてそう申し上げるのです。殿下はヴィオレット様の向こうに、昔の公女殿下をご覧になっています」
「っ……」
「私は今、公女殿下とベルテセーヌとの関係が気になって仕方がありません。殿下もきっとそれを知りたくて、埋まらない心の隙間を埋めようとしていらっしゃるのです。“貴女の代わり”で」
ただ、それだけのことです、と一礼して下がろうとするヴェラー卿に、待ちなさいという一言が出てこなかった。
まったく、どうしたことか。言い逃げだなんて質が悪い。主の悪い所ばかり学ぶのだから。
「姫様……」
静かになった応接間で、フィリックが少し気遣うように……あるいは咎めるかのように、声をかけてきた。
分かっている。最後に呼び止めそこなったのは、失策だった。
でも驚きすぎて、声が出なかったのだから仕方がない。
「まったく……なんてこと」
「最後の言葉はブラフでしょうか? あるいは、本心なのでしょうか」
「……さぁね。そんなことは、考えるだけ無駄だわ」
ただ、リディアーヌとベルテセーヌの関係が今更気になりだしたなんて言葉は、無視できないけれど。
「ただ煽られるがままに色々と吐露した愚かな従者なのかとも思いましたが、最後の言葉を用意して面会に挑んでいたのだとすれば、中々に食えない男です」
「あのトゥーリが長年傍に置いているくらいだもの。何の取柄もないということは無いでしょうね」
ヴィオレットに対する感情は本心であったようにも見えたけれど、ただそれだけというわけではないわけだ。あぁ……やはり捨て台詞が引っかかってしまう。
「姫様の方も、少々感情的になりすぎたようですね。一体手紙には何が書かれていて、何と返信したんですか?」
「……」
あぁ、これはあれだ。暗に、急ぐにしたってちゃんと臣下と方針を話し合ってから動いてほしかったんですが、という苦言だ。
そのいつもながらの平常運転に、思わずハハッ、と苦笑が零れ落ちた。
「姫様……」
「フィリックの声を聞くと、平常心になれるわ。もっと何か喋ってちょうだい。多少お説教臭くても、今なら許してあげるわよ」
「喋っていただきたいのはこちらなのですが?」
やれやれとため息を吐く遠慮のない腹心に、けれど机の上に放置していたアルトゥールからの手紙を読む許可は与えなかった。
これは、見せられない。到底、見せられない手紙だ……。
「フィリック。今すぐ、お養父様とアセルマン候に面会を求めてちょうだい。あの通り……すでに私はトゥーリの後手に回ってしまったようよ。すぐに動かねばならないわ」
「はい。直ちに」
察しの良いうちの臣下に頷いて、アルトゥールの手紙を手に取り立ち上がった。
この手紙は……そう。執務室ではなくて。自分の部屋に、しまっておこう。
もう二度と目にしなくていいように、けれど無くならない場所に。
思い出と一緒に、固く固く、封をして。




