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2-3 すみれ姫(1)

 思えばこの春、王太子の婚約破棄事件を知った時、ヴィオレットを国外追放だなんていう中途半端な罪にしたシャルルに頭を抱えることはあっても、ヴィオレット嬢自身に関してはすぐに関心を失ってしまって、後回しにしてしまっていた。

 あの時どうしてもっときちんと調べておかなかったのか。

 いや、リディアーヌは別にベルテセーヌの王族ではないのだ。そんなものまで把握してあげる義理は無かったのだから仕方がない。だがそれでも、今となっては悔やまれてならない。


 今年の帝国議会からこの方、ちょっと何事かと言いたくなるほどにアルトゥールがリディアーヌとの噂を喧伝しまくり工作を凝らしていたのは、おそらくフォンクラークでヴィオレットを見つけたせいなのだ。リディアーヌはその隠れ(みの)として、利用された。

 彼らの間に何があったのかは知らない。だがヴィオレットという美味しい駒をそのまま、ベルテセーヌと対立関係にあるフォンクラークに置いておくのは“勿体ない”と思ったことだろう。ましてやベルテセーヌの名誉を貶めたい現状、アルトゥールがヴィオレットを放っておくはずがない。

 城下町のパン屋に通い詰めるだなんて……単にアンパンとやらがお気に召した、なんてことはさすがにないとは思っていたが、いくら何でもヴィオレット嬢だなんて。


 大体、ヴィオレットというのは何なのだ? なんでベルテセーヌ有数の侯爵家の娘が、追放された先で平然と庶民に紛れて、しかもパンなんて焼いているのだ? 意味が分からない。

 そう……あるいはリディアーヌの知る本物のヴィオレット嬢はすでに死んでいて、今のヴィオレット嬢はオリオール侯爵家がどこかから拾ってきた平民出身のそっくりさんなのではないか、なんて荒唐無稽な疑いをかけてしまうほどに。


「まったく……トゥーリは何を考えているの……?」


 ここ数日留まることを知らない重たいため息をつきながら、今日も今日とてうちの文官達が一生懸命集めてきてくれた情報の束をめくる。だがこの作業にもいい加減飽きてきたところだ。

 たまらずゴンと机に頭を打ち付けてダレたら、ちょうどお茶を置こうとしていたマーサが一瞬手を止めた。それからすぐに、何事もなかったようにティーカップを置く。

 心を安らげてくれるハーブティーだったけれど、生憎とこんなもので気は鎮まりそうもなかった。


「まだ、お相手がそうと決まったわけではないのでしょう? 姫様」

「いいえ、マーサ。これだけ情報があって逆にはっきりと“分からない”ということの方が怪しいのよ。お相手が本当にただの町娘なら、それこそあっという間に素性が分かっているはずよ」


 そうならないということはつまり、アルトゥールが誰と分からないよう工作しているという事であり、フォンクラークの城下でも例の女性の素性がまったく漏れてこないということは、その女性が城下町以外の出身ということだ。

 しかも彼女が突如として知られるようになった時期が、ベルテセーヌでの王太子の婚約破棄騒動の時期からほど近い。これはもう、黒としか言いようがない。

 一体この状況、誰がどこまで把握している事か。


 聖別の儀からこの方、リディアーヌの尽力によってアンジェリカはベルテセーヌに少なからず影響力を持つことが出来るようになったし、副産物としてブランディーヌ夫人の頭を抑え込むことにも成功した。少なくとも、王太子の婚約破棄という大騒動に一応の決着がついたはずだった。

 だがもし、ブランディーヌの娘が大国クロイツェンの皇太子に()()められて、皇太子妃にでもなろうものならば……考えたくもない悪夢だ。

 悶々(もんもん)と思考しながら突っ伏していると、それを咎めるようなゴンゴンという重たいノック音がリディアーヌの身を起こさせた。

 顔を出したのは、いつもならノックなんてしないはずのフィリックだった。養父のもとに書類の受け取りに行っていたはずで、手に書類を持っている。

 そしてどうやらフィリックが珍しくノックなんてしたのは、その後ろからお客さんが付いてきていたかららしい。フィリックが何かを言うよりも早く、チョコンと後ろから顔を出した可愛らしいうちの弟に、「あら、デリク」と腰が浮いた。

 それを見たフィリックも何か言おうとした口を閉ざすと、すぐに扉を開けてフレデリクを中に促した。


「姉上、お忙しいですか?」


 少し申し訳なさそうに、胸元に何かの書類をぎゅっと抱いて顔を出したフレデリクが、鬱々としていた気持ちを晴らしてくれる。

 まさかフィリックめ、リディアーヌの気分転換のために気を利かせたなんてこと……。


「大公殿下の執務室でお会いしました。兄の出した宿題について、お聞きしたことがあるそうです」


 うん、そんな気を利かせる人間ではないよね。フィリックは。


「ちょうど仕事が手詰まっていたところだわ。いらっしゃい、デリク。何を聞きたいのかしら?」


 そう手招きをすると、駆け寄ってきたフレデリクがリディアーヌの隣でキョロキョロとどこに立てばいいか、それとも座るべきかと見渡す。なので何か言われるよりも早く、よいしょっ、と、近頃随分と重たくなってきたフレデリクを抱き上げて、膝の上に座らせた。こうできるのも、もうあと少しかもしれない。


「あ、あねうえっ」

「それで? どんなことかしら?」


 ちょっと恥ずかしそうに周囲を見つつ、けれどフィリック達がちっとも気にしていないのを見ると、少し恥ずかし気に顔をほころばせてから、「これなんですが」と机に書類を置いた。

 どうやら家庭教師のマドリックに出された課題のようで、『最近殿下方がお悩みのヴィオレット嬢について、最善の最悪の状況について調べ、殿下方のお考えを聞いてくる事』なんていう表題が書かれていた。

 マドリックめ……子供に一体、何をやらせているんだか。


「デリク……マドリックはこの課題について、何か他に言っていなかったかしら?」

「あの……私が、養父上や姉上のために自分も何かしたいと言ったのです。そしたら、養父上や姉上に話を聞いて、情報整理のお手伝いをしてみてはどうかと」


 なるほど。マドリックなりに、忙しい父と姉との時間を作ってあげようという配慮を……いや、そんなはずはないな。彼にそんな気遣いはできない。だったらこれは単純に、フレデリクへの教育方針を幼い頃から政務について学ぶ公子教育へと転換させた結果なのだろう。

 だからって子供になんてことをさせるのか……ハァ。


「お養父様にはすでに聞いてきたのね?」

「はい。ですが姉上とは考え方が違うかもしれないから、先入観なく話を聞いてくるといいと言われました」


 どうやら養父も便乗して協力しているらしい。姉としても、協力しないはずがない。


「ちょうどこの課題と同じような話を皆としていたところなのよ。フィリック、新しい書類をちょうだい」


 そう求めると、ちょうど養父のもとから書類を受け取ってきたばかりのフィリックがテキパキと必要な順に机に並べ置いた。今度の情報は、以前目を通すだけ通して放置していたヴィオレット嬢に関する情報を新たにまとめたものだ。


「最もこちらに都合のいい状況というのは、アルトゥールがヴィオレット嬢を懐柔する目的が、ただヴァレンティン家を抱き込むためであることね。それならいくらでも対処の仕様があるわ。既知を理由にヴィオレットをこちらで保護するといって引き取ってしまえたら一番いいけれど、介入の余地が与えられるだけでも十分……逆に言えば、介入の余地を作ることが今すべき第一のことね」

「心強いお言葉です」


 苦笑交じりに記録を取るフィリックの様子に、はっとしたフレデリクも持っていた紙束に一生懸命メモを取り出した。そんなフレデリクのためにも、今日はいつもよりゆっくりと話す。


「最も都合の悪い状況については、もう言うまでもないわ……」


 思わず再びハァとため息がこぼれてしまったが、それにはフレデリクが、「ヴィオレット嬢が復讐を考えている場合、ですか?」と声をかけた。おそらく養父のもとでそういう話を聞いてきたのだろう。


「ええそうよ、デリク」

 頭の中を整理するついでに、フレデリクにも説明をするべく、机にまっさらな紙を一つ置いた。


「いうなればヴィオレット嬢というのは、先だってベルテセーヌを混乱に巻き込んだ事件の張本人であり、ベルテセーヌで今なお強大な権力を握っているブランディーヌ夫人の娘。王太子から婚約破棄をされ国外追放になった以上、ベルテセーヌにおいては“罪人”だけれど、よもやその罪人がよその国、それもクロイツェン皇国で皇太子妃になんてなろうものなら、東西の大国間に緊張が走ることになるわ」

「リンテンでの計略からみても、アルトゥール殿下の目的はヴァレンティン選帝侯家とベルテセーヌ王室との間に確執を作ることではなかったでしょうか? 姫様が聖別に参加してアンジェリカ嬢を聖女として認めた今、ヴァレンティン家の認めた聖女を弾劾するのは愚策かと思いますが」

「確かにそうね……」


 昨今ヴァレンティンとベルテセーヌの関係はやや疎遠になりつつあったのだが、しかし北方交易やアンジェリカ嬢の一件は逆に親密関係が絶たれていないことのアピールになってくれた。そこにヴィオレットという昔の厄介の種を持ち込んだところで、ヴァレンティンの心証は悪くなるだけである。


「でもトゥーリって他人の心情に配慮できる性格ではないし、色々考えているようでその実、優位的な権力さえ得られれば、後は皆言う事を聞いて当然みたく思っている節がある根っからの皇子様よ。その目的がヴァレンティン家を引きはがすことではなく、単なるベルテセーヌ王権の失墜であったら……どうかしら?」


 考え得る最悪の状況を考えてみたところで、もれなくフィリックもぎゅっと眉根を寄せて不愉快さを現した。


「つまり最悪の状況というのは、そのヴィオレット嬢が復讐を目論んでいて、今のうちに次期皇帝戦でベルテセーヌ勢力に打撃を与えてしまっておきたいアルトゥール殿下と利害が一致した場合、ということですね。ヴァレンティン家は代々ベルテセーヌ王室を庇護してきた選帝侯家とはいえ、国内が混乱し人望を失っているような国の王族を皇帝に推戴するような愚かなことは致しません。それこそ、アルトゥール殿下はそういう“姫様の英明さ”を存じているはずです」


 もっとも事はそう単純ではないのだが、生憎とアルトゥールはそういう英明という名の合理性以外の部分を考慮するのが(すこぶ)る下手なのだ。本人曰く、一応自覚はしているらしいけれど。


「あの、姉上。私はまだ皇帝選定についてはあまり教わっていないのですが……」


 話を中断して聞いてもいいものかと遠慮がちに見上げてきたフレデリクに、構わないから何でも聞くようにと頷いてみせる。


「ではお聞きしますが、養父上や姉上を見ている限り、私には、ベルテセーヌの王がすでに人望の有るような人とは思えません。なのに、姉上がご友人と仰るほど秀でた方が、どうしてベルテセールを警戒するのでしょうか?」


 ちっとも分かりません、という純粋な言葉に、なるほど、と肩を揺らして苦笑した。

 確かに、実に単純で、芯を突いた言葉である。だが生憎と、皇帝戦というのはそう簡単な話ではないのだ。


「確かに、デリクの言う通り。私だってベルテセーヌの今の王や王太子に皇帝の器があるかと言われたら、ない、と断言するわ。ただ皇帝戦というのはそういう個人的な感情や個人の素質とは関係のない一面があるのよ」

「器がなくてもいいんですか?」

「そりゃあ、有るに越したことは無いけれど」


 皇帝というのは、少なくともその在任中、出身国やその周辺諸国に強い影響を及ぼすことになる。今皇帝直轄領への港をクロイツェン皇国が一手に掌握し莫大な利益を得ていることも皇帝がクロイツェン出身だからに他ならない。

 かつてベルテセーヌから皇帝が出ていた時代には、直轄領は勿論、今のリンテンや周辺の小公国に至るまですべてベルテセーヌの息がかかっていた。クロイツェンの辺りにあった国などはすべて、皇帝直轄領に海路を用いるためベルテセーヌにもおもねらねばならなかったほどだ。

 それが、“西大陸”の優位性を作っていた。

 しかし今では逆だ。皇帝直轄領に西大陸に属するリンテンを経由せねばならないにも関わらず、帝国の優位性は東大陸に大きく偏っている。西大陸ではむしろ、直轄領から近い場所でさえも帝国からの独立的な風潮が強まっているほどだ。ベルテセーヌが今ほどに内向的で、国外に無関心になっていった理由もここにある。


「だから東西大陸のバランスという意味でも、一国の王室が皇帝位を独占することは“帝国”の維持を担う選帝侯家としても避けたいことだわ。だからザクセオン選帝侯家はクロイツェン王室を支持しているし、我々ヴァレンティン家は代々ベルテセーヌ王室を支持してきたわ」

「本人の資質は関係ないということですか?」

「勿論、無関係ではないわ。王室の中の、誰を選んで皇帝に推薦するのか。そういう選択も、選帝侯家の大事な役割の一つよ。ただし皇帝は必ずしもすべての七王家の中の“最も才気ある者が良い”とは限らないの。フレデリクもそれをよく覚えておきなさい」

「はい」


「ベルテセーヌ王室の長い歴史と今に続く血脈は、“保守派”の象徴ともいえるわ。皇帝直属の内皇庁をヴァレンティン家の支持する保守派貴族で占めるためにも、ベルテセーヌから皇帝が立ってもらわねば困るという私達の事情もある。私達が支えている、私達に忠義を尽くしている人達のためにも、彼らを大事にしてくれる皇帝を立てねばならないということね」

「なるほど……いつも養父上は春になると帝国議会にお出かけになりますが、その議会で養父上に味方をしてくれる人達がどのくらい皇帝陛下の傍にいるのか。そういうことに関係するんですね?」

「まぁ、デリクはなんて賢いんでしょう」


 その通りよ、と、思わずフレデリクの頭を撫でまわしてしまった。あぁ、癒される。


「今の皇帝は革新派が多いクロイツェンの出身で、教会派や保守派とは仲が良くないわ。教会派や保守派から絶大な支持を受けていたベルテセーヌのクリストフ二世が暗殺という卑怯な手で亡くなったおかげで皇帝になった人物だからよ。それでも皇帝になって以来、なんとか教会の支持を得ようと努力をしてきた人であることは確かね」

「クロイツェンの皇太子が何かと姉上にちょっかいを出すのは、ヴァレンティン家の抱える保守派や教会派を味方にするためなのだと養父上も言っていました」

「そうね。何しろ先の皇帝戦の折、亡くなったクリストフ二世を皇帝候補に擁立したのがヴァレンティン家だったわ。それを亡くしたのだから……実行犯であったフォンクラークや、黒幕であろう現皇帝に対するヴァレンティン家の心証、ひいては教会からの心証は、過去になく悪いわ。次期皇帝を狙う以上、アルトゥールはそれをどうにかしないといけない」


 リディアーヌと親友と呼べるほどに仲良くなったことは、ある意味アルトゥールにとって“成功”だったはずだ。だから卒業からこの方、リディアーヌが求婚に頷かなかったことの事情こそ理解してくれたものの、今なお頑なに味方にはならないことにはさぞかし苦慮していることだろう。こんな予定ではなかったはずだ。


「トゥーリは、知らないのよ。現皇帝が、私にとって仇敵であること。ヴァレンティン大公であるお養父様にとって、無二の姉を死に追いやった張本人であること。くしくも私が“友人”という関係を築いたからこそ、ベルテセーヌとさえ切り離せれば“取り込める”と思っている。でもそうではないわ」


 少なくとも叔父は、次代にクロイツェンやフォンクラークから皇帝が立つことは絶対に受け入れないだろう。リディアーヌも同じだ。たとえアルトゥールが現七王家の中で最も聡明であったとしても、多少憎たらしくとも操りやすいベルテセーヌから皇帝を立てる方がマシだ。

 皇帝というのは、決して“優秀であればなれる”というものではない。


「一番恐れるのは、トゥーリが“ヴァレンティンを取り込むのではなく、ベルテセーヌを見限らせる方が正しい”と気が付くことよ」

「あ、そうか……姉上は、自分に対する計略はどうとでもできるけれど、見限らざるを得ないほどにベルテセーヌが資格のない存在になってしまえば、どうにもできない、と。そう思っているのですね?」

「そう。そしてその引き金になりかねないのが、“ヴィオレット”なの」


 話しながら紙に書き綴っていた関係図に、当初の議題であったヴィオレットが結びついたところで、ぱぁっと目を輝かせたフレデリクはそれを一生懸命に書き写し始めた。

 理解を得たという喜びを無邪気に噛み締めている所はまだまだ子供だけれど、この理解の良さはさすがはお兄様の子である。


 もしも順当に、兄がベルテセーヌの王になっていたなら……きっとヴァレンティン家は何憂うことなくエドゥアールを、そしてやがてはこのフレデリクを、皇帝の座に(すい)(たい)しただろうに。






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