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2-2 セザールの来訪

『できれば私が大きくなるまで、私だけの姉上でいてください。いいですよね?』


「という話をしたの」

「……姉弟仲が良いようで何よりです」


 冷ややかなフィリックに、「デリクの可愛さがまだ伝わってないようね」と言葉を続けようとしたら、それよりも早く、ドンと机に書類が積み上げられてしまった。

 やれやれ。リディアーヌの前に、とりあえずこの仕事人間に可愛いお嫁さんを選んであげる方が先かもしれない。それでちょっとでも丸くなって、ついでに変な信仰心も薄れてくれればいいのだが。


「そういえばフィリック。貴方って、今何歳だったかしら?」

「いきなりなんです? 姫様」

「二十……八? 九? パトリックが三十ほどだから、それよりは下よね?」

「二十四ですが」

「……」


 今更だけど、フィリックは老け顔だな。いや、年のわりに落ち着きすぎているというか、老練感が漂っているというか。


「じゃあハンナなんてどうかしら? 若くして嫁いだのにすぐに未亡人になってしまって、まだ二十歳そこそこなのに仕事にばかり明け暮れているのよ。イザベラは少し家格が合わないかしら。そういえばエベール伯爵夫人が姪の嫁ぎ先を探しているとか……」

「一体いきなり何の話をしだすんですか? 私は結婚する気はありませんが」

「結婚でもさせれば、貴方がちょっとはマシにならないかと思って」

「……さてはまた、大公殿下かうちの父かにでも結婚をせっつかれたんですか?」

「……」


 はぁ。敏すぎるのも考えものである。


「一体今度は何処のどなたです? セザール様ですか? まさかクロード殿下の弟君ではありませんよね?」


 敏すぎるのも……はぁ。


「ベルテセーヌの王族を婿に、だなんて考えもしていなかったから驚いたわ」

「まぁ、そうでしょうね。私も皇宮でセザール様をお見かけするまでは失念していました」

「悪くはないと思うのよね。シャルルの息子でさえなければ、だけれど」

「論外ですね」


 やっぱりソコなのだ。はぁ、悩ましい。


「そんなことより、書類の確認をお願いします。秋の例祭まで時間がありません」

「はいはい。どれからかしら?」


 多分誰であれ、フィリックを矯正するのは無理だな。

 そんなことを思いつつ受け取った書類に目を通し、ペンを入れて行く。


「祭事はいつも通りね。気合を入れすぎたカラマーイ司教が去年みたいに屋根から落ちて骨を折らないよう、よくよく言っておいてちょうだい」

「カラマーイ司教でしたら、資材調達のためシモナート山に出かけたとの届けがありました」

「何ですって……」


 司教様が何してるのよ、と、受け取った書類に頭を抱える。


「とりあえず二、三人、城から騎士を送りつけなさい。去年みたく包帯まみれで祭壇に立たせようものなら国民が困惑するわ」

「かしこまりました」


 それから他には、と、書類をめくっていく。

 城の裏手で営巣(えいそう)を始めていた飛竜の卵が無事に孵り、雛を連れて飛ぶ姿が目撃され始めた事。リディアーヌ達と共にヴァレンティンに入って来ていたイレーヌ商会の支団がベルテセーヌ経由で出立したこと。ベルテセーヌからフォンクラークの件に関する書状が届いたこと。それから……。


「セザールからだわ」


 書類の中に、先日ろくに話せぬままに終わってしまった従兄からの手紙が紛れていた。


「何と書かれていますか?」

「秋の初め、大使の任期が終わって(くに)(もと)に帰る際にヴァレンティンに立ち寄りたいって。去り際、聞きたい話があると伝えていたのに急に取り止めたから気を使ってくれたのかしらね」

「先日の一件がありましたから、その後の経過を伝えるという名目もありますね。具体的な日程は書かれていますか?」

「例祭よりは前になりそうだとだけ」

「受け入れますか?」

「勿論よ。でも公女府ではなく国の賓客として迎え入れましょう。これはお養父様に要相談ね」

「反対しそうですね」

「“そういう話じゃありません”って念を押して、届けてちょうだい」


 そうため息をつきながら、次の書類を手に取る。

 例の、アルトゥールがフォンクラークで女性のもとに通い詰めているだなんていう噂に関する報告書だった。


「目撃情報があるんですって。ナディアも帰国したら調べてみると言っていたけれど……確かな話みたい。あぁ、“アンパン”の子なのね……」

「あんぱん、とは?」

「フォンクラークで流行っているパンだそうよ。中に砂糖で煮た黒豆が入った柔らかいパンなのだけれど、ただひたすら甘ったるかったわ」

「……」

「城下町の若い女性が広めたとグーデリックが言っていたのだけれど、まさかその店の子だとは。変なところで繋がったものね」

「待ってください。“あの”アルトゥール殿下が、城下町のパン屋の娘にご執心だと?」

「……」

「……」

「……ないわね」

「ないでしょう。気持ちが悪いです」


 同感……ではあるんだけど。仮にも相手は皇太子なんだからね。言葉は選びなさい。


「続報を待ちましょう」


 はい、次。

 そうハラリと追いやった報告書だったけれど、まさかそれがこの後、とんでもない事件になるだなんて……どうして、考えついたであろうか。

 その衝撃的な知らせは、秋の初め。このフォレ・ドゥネージュの裏手の山に、早くも冠雪が見えようかという頃、竜車で慌ただしくやってきたセザールがもたらしてくれた――。



  ◇◇◇



「再びこうしてお目にかかり、光栄に存じます。公女殿下」

「ようこそ、セザール様。どうぞ立って、お掛けになって。外は冷えたでしょう」


 そう椅子に促したところで、セザールの目は、黙って腕を組んで座っている大公様と、その隣で興味深そうにセザールを見る少年を捉え、困ったように苦笑した。


「その……ご挨拶をさせていただきます、ヴァレンティン大公殿下。そしてフレデリク公子殿下ですね。お初にお目にかかります。ベルテセーヌ王が庶子セザール・ド・ネルヴァルと申します」


 今一度膝をつきなおして丁重に挨拶したセザールに、叔父は今なおムスリと口噤んだが、フレデリクの方は興味深そうに「初めまして、フレデリクです!」と答えた。

 フレデリクはこういう場に同席を許されたのが初めてなものだから、リディアーヌが親しく出迎えた様子と(あい)()って、関心もひとしおなのだろう。

 というか……この二人をリディアーヌの応接室に招いた覚えはないのだが。


「お養父様、邪魔をなさるのなら追い出しますわよ」

「……む」


 そういわれては仕方が無かったのだろう。「座っていい」という小さな声が続いた。


「セザール、気にしないで座ってちょうだい」

「あの、姉上。私は邪魔ではありませんか?」

「構わないわ。いいかしら? セザール」

「勿論でございます」


 ちょっと微笑ましそうに笑いながら席に着いたセザールは、今なおむっすりしている大公様に臆する様子もなく、「それで」と話題を切り出した。


「まず先だって公女殿下がお気にかけていた情報なのですが……」

「……ええ。いえ、詳しく知りたいわけではないの。ただもし、知っていることがあればと」


 そう少し不安そうに問うたリディアーヌに、セザールは穏やかな面差しのまま、「国王陛下に何を尋ねられたのかを報告するつもりはありません。ご安心ください」と促した。


「むしろずっと、公女殿下にはお伝えすべきだと思っていたのです」

「……二人は、元気なの?」

「生憎と私も、最近のことは詳しくないのです。クロード殿下の成人に雑音を挟ませないよう、この数年は地方や国外を廻っていましたから。ただ少なくとも、“ジュード兄上”はお元気なはずですよ」


 その言葉に、心からの安堵の吐息が零れ落ちた。

 ジュード・ルベイル・ユス・ド・ベルテセーヌは、シャルル三世の第二子。廃妃ユリシーヌ所生の元第二王子だ。

 彼はリディアーヌの従兄であり、義弟でもあった。義弟といってもリディアーヌより四つ年上で、どちらかというと“兄”という印象の方が強い人物だ。

 かつては王室の傍流として、シャルルが即位してからは王太子の同母弟として、いつも権力からは距離を置き奔放に振舞うことで上手く身を引いてみせるような人だった。その分、何かと周囲の目を気にしない率直な言動をとる人でもあったから、セザールのような庶出の異母弟も殊更可愛がっていたし、厳しい状況の中でベルテセーヌに戻ってきた幼い元王女のこともよく気にかけ、忙しいリュシアンに代わって色々と構ってくれていた。


「一体、ジュードはあれからどうなったの? 私は、何も知らないの」


 そして同時に、今までそれを知ろうともしてこなかった。


「我ながら薄情だと思うわ。私は私に良くしてくれたはずの身内が目の前で裁かれる中、庇う言葉の一つも口にしなかったし、それどころか彼らにどんな処分を下されたのかすらろくに覚えていないのだから」

「薄情だなどと言わないでください……貴女はまだ、十一歳だったんです。エドゥアール殿下に起きた凶事が、一体私達にどれほどの衝撃を与えたことか。貴女が何も言えなかったとして、それを咎める人など誰一人としていません。ジュード兄上も、ユリシーヌ妃も。あの方達はきっと、自分の身より貴女の身を案じていたはずです」


 そう……そうだ。そういう方達だった。だからこそ、自分を薄情と思うのだ。


「ユリシーヌ様は、白の修道院に幽閉されたと聞いたわ。間もなく、亡くなられたとも」

「元々、お身体の丈夫な方ではありませんでしたから……かつての王妃陛下にふさわしい葬儀とはいきませんでしたが、ジュード兄上が埋葬を許され、故郷シャントール領の長閑(のどか)な丘の上に葬られました」

「そう……」


 きちんと葬ることが許されたというのは、何よりの情報だった。


「その一件を期に、教会から廃太子への処遇に関しても苦言が増え、リュシアン兄上も黒の塔から青の館へ移送されました。出入りが厳しいため私もその後の兄上のことは良く存じていないのですが……」

「青の館ですって?!」

「先王時代の離宮だと聞いています」

「……え、ええ」


 驚いた。それはリディアーヌの父が好んで使っていた辺鄙(へんぴ)な所にある離宮……と呼ぶには小さすぎる、別荘である。

 確かに周りには何もないし、使われていた時代からも少し年月が経ち寂れていたことかと思うが、重罪人ばかりが日も当たらぬ石造りの牢に詰め込まれている黒の塔に比べると天と地ほどにましな処遇なはずだ。知らなかった。


「どうして青の館に?」

「他でもない……すべて“亡き王女殿下”のおかげです」


 私? ベルテセーヌを離れて以来、一度としてベルテセーヌに何かをしたつもりなんてない。なのに一体、私が何をしたというのだろう?


「国王陛下は王女殿下をベルテセーヌに物理的に引き止められなかったがために、廃太子されたリュシアン兄上の“妃”として、王女殿下を王籍簿に残し続けました。それはご存じですよね?」

「……えぇ」

「王女殿下は“亡くなられ”ましたが、しかしおかげで兄上には“聖女の夫”の肩書きが残ったんです。そのことは兄上が冤罪である可能性を()()し続けましたし、教会もまたそれを無視できませんでした」

「あ……」

「私は亡き王女殿下に、心からの感謝を申し上げています。それはもしかしたら殿下にとって不本意なことなのかもしれませんが、それでも私は心から感謝をしています。その肩書きが無ければ、きっと今頃私は私の大切な兄上を一人、無実の罪で失っていたでしょうから」

「……セザール……」


 その口から、はっきりと“無実”という言葉出てきたことに、言葉を失った。

 無実……無実、か。

 リディアーヌは今なお、あの時の事件の真実をはっきりと考えることすらできずにいる。だが少なくともリディアーヌより三つ年上のこの従兄は、自分の異母兄の無実を信じ、そしておそらくリディアーヌが去った後のベルテセーヌ王室で、その真相を探り続けていたのだろう。

 それが、ただあの国から逃げ出し己を殺したリディアーヌに、言葉にならない罪悪感を抱かせた。


「セザール。無実というからには、証拠があるのか?」


 そこに、むっすりと黙りきっていたはずの叔父が口を開いた。この話題に関しては、叔父も無関心ではいられなかったのだろう。


「いいえ、大公殿下……残念ながら、私一人の力でそこまでは。しかしこの件に黒幕がいることは確かです。事件からこの方、兄上に近侍していた半数以上がすでに何かしらの理由を付けて処分を受け、中には不審な事故死をした者もいます。母に頼んで何人か保護していましたが、その内の一人もあらぬ疑いをかけられ死に追い込まれました。その時の状況や、あるいは教会が兄上の処遇改善を訴えた時、反発をした人たちの顔ぶれを見れば、その真相も自ずから……」

「……そうか」


 叔父もそれ以上は突っ込んで聞かなかった。

 おそらく、確証のないままに、フレデリクもリディアーヌもいるこの場所で口にさせることは(はばか)られたのだろう。リディアーヌとしても、それを素直に受け入れられるかといえば、今はまだ難しいかもしれない。


「ジュードはどうしているの?」

「最近のことは私も存じていないのですが、最後にお会いした時には南方の辺境で兵役についておられましたよ。王籍を削られ王都を追放された後、一応兄上も離宮に幽閉されたはずなんですが、気が付いた時にはもう国軍の一兵卒に混じっていて、気が付いた陛下が無理矢理除隊させたんですが、翌年には南西の辺境軍で小隊長になっていました」


 先ほどまでの深刻な様子とは打って変わって、クスクスと笑って語るセザールの話には、リディアーヌもつい呆れた顔をしてしまった。


「心配して損をしたわ。ジュードお兄様の心配なんて、ちっともいらなかったわね」

「あの人は大体、どんな環境でも上手くやれる人ですから」

「王都から遠ざかっていることは、逆にジュードにとっては幸運なのかもしれないわ」

「それでも、兄君と貴女のことは、ずっと気にかけておいでです」

「……」


 それには何と答えることもできない。何しろリディアーヌは父と母が後を任せるといったその国を捨て、自ら王女の死を願ったのだ。一体ジュードにどんな申し開きが出来ようか。


「セザール。今、ベルテセーヌの内情はあまりいい状況ではないわ」

「ええ……外に出てみて、改めてそれを実感します」

「……お兄様達を、宜しくね」


 そう呟いたなら、びっくりしたとでも言わんばかりにセザールが目を瞬かせた。


「何よ……その反応」

「いえっ。ただお伝えしたら、ジュード兄上は涙を流して喜びそうだなと」

「伝えるようにとは言っていないわよ」


 まったくっ。

 でもおかげで、少しだけ胸のつっかえが取れた気がする。

 よかった……。


「それで、公女殿下。それから大公殿下……この度私が帰路、少々無理を押して帰国に立ち寄らせていただいたのは、手紙にするには危険余りある情報を一つ、お伝えするためでした」


 そんな話は聞いていなかったものだから、自然と叔父も、リディアーヌも表情が険しくなった。

 つい先日まで、皇宮というこの帝国の中枢にいた人間だ。それが、らしくもない深刻な顔をして言うのだ。嫌な予感しかしない。


「公女殿下は先だって皇宮で、クロイツェンの皇太子殿下がフォンクラークで意中の方のもとに通い詰めているらしいとの話があることを皇帝陛下に仰ったとか」


 一体どこから仕入れた情報かは知らないが、事実である。


「ザクセオンのマクシミリアン公子から教えていただいた情報よ。あれからナディアも調べてくれて、城下町のパン屋の娘のもとに通い詰めているようだと聞いたわ。ちょうどリンテンの一件の頃から行方不明だともあったけれど……」


 その原因はリディアーヌの方がよく知っていた。他でもないグーデリックが、『捉えさせようとしたが逃げた』と言っていた。まず間違いなく、グーデリックのせいで身を隠したのだろう。


「その様子だと、まさか事実だったの?」


 まさかアルトゥールがグーデリックと一人の女性をめぐって争ったとでも? グーデリックから匿ったのが、アルトゥールだったと? うーん、そんなことをするような正義感のある男じゃなかったはずなのだが……。


「事実どころの話ではありません。皇宮では今、その町娘が“すみれ姫”なのではと、騒然としています」


 すみれ、ひめ?

 すみれひめ……すみれ姫……。


「……ッっ。すみれ姫、ですって?!」


 思わずガタンとテーブルを叩いてた立ち上がったリディアーヌに、どこからも咎める声は飛んでこなかった。

 同じく驚嘆にはっと口元に手を添えた叔父は、しばらく思案に暮れた挙句、「そうか、そういうことか」と呟く。


「どういうことなの、セザールっ。すみれ姫って……王太子の元婚約者である“ヴィオレット嬢”が、フォンクラークにいたの?!」

「まだ確証があるわけではないんです。ただヴィオレット嬢がフォンクラークにいた点については、間違いないと思います。非公式な情報ですが、クロード殿下との婚約破棄の一件で国外追放処分となったヴィオレット嬢は、正式な沙汰が出るより早く、既知としていたマイヤール侯爵令嬢の手引きで王都を出ています。マイヤール領はフォンクラークに近い立地ですし、周辺には縁戚貴族も多く、また行商と交易が盛んで国境まで大きな街道も通っています。その()()でフォンクラークに入ったとみて間違いありません」

「それが、どうしてっ……」

「アルトゥール殿下がフォンクラークに通い詰めていることは以前から皇宮でも噂になっていました。ただ海上交易の話が進んでいた時期でしたから、誰も問題視はしていなかったのです。いえ、むしろその……目的は、公女殿下に近づくためなのでは、などという噂も」


 なんですって? 事実無根も甚だしい。でもそういえば、マクシミリアンもそんな感じのことを手紙に書いていた。あれはもしかしなくても、噂に対する探りを入れられていたのだろうか。


「しかし公女殿下が皇宮にいらしたことで、よもやそんなことが有ろうはずもなかったことが明らかになりましたし、その上公女殿下はアルトゥール殿下に関する不穏な噂を残してゆかれましたから……以来、アルトゥール殿下は皇帝陛下に幾度も呼び出され、何度かは怒号が飛び交ったというような話も聞こえていました」


 どうやらリディアーヌが去ってこの方、二人の間にも少なからず変化が生じていたようだ。


「それからすぐです。アルトゥール殿下が妃を迎えるつもりらしいとの噂が飛び交うようになったのは。実は皇宮にもそれらしい女性が現れて、皇帝陛下に謁見をしたとかなんだとか……」

「……それが、ヴィオレット嬢だったと?」

「少なくとも、私の知るヴィオレット嬢との特徴がよく合致していました。髪は切っていたようですが、しかしそれ以外の風貌や背丈、瞳の色、それに言動の数々。どれもヴィオレット嬢と一致します」

「セザール。お前が直接、本人を見たわけではないんだな?」

「はい。ですからあくまでもこれは噂であり、私の憶測です。ただ……」


 ちらりとリディアーヌを窺った視線に、リディアーヌも言葉を無くして眉をしかめた。

 アルトゥールのことは、よく知っている――知っているからこそ、分かる。彼が、何の利益にもならない相手を選ぶはずがない。ちょっと珍しいパンが作れる町娘なんかを、選ぶはずがない。

 だがもし、町で偶然見かけたその何の変哲もなさそうな少女が、ベルテセーヌで冤罪をかけられ追放された王太子の元許嫁であったなら? 聖女の承認を受けて国を湧かせているアンジェリカによって罪を着せられ、恨みを抱いているかもしれない女性であったなら?

 何てことだ……あのアルトゥールが、それを見逃すはずがないじゃないか。


「……お養父様……」

「最悪だ。最悪の中でも、最低最悪な状況だ」


 深いため息とともに沈黙した叔父に、フレデリクが心配そうにきょろきょろと視線を巡らし、同じく顔色を失っているリディアーヌの袖をチョンとつまんだ。

 おかげで少し気持ちは和らいでくれたけれど、今はそれに微笑んであげる余裕すら持てない。


「セザール……重要な情報を、感謝するわ」

「いいえ。それだけのご恩を、先の一件で受けています」

「……ごめんなさい……今はちょっと、考える時間が欲しいわ」

「私も、急ぎこのことをベルテセーヌに伝えねばなりませんし、生憎とこれ以上の情報も持っておりません。私もすぐにお(いとま)させていただきますので、どうかご遠慮なく」


 そう静かに席を立ったセザールに、ただかろうじて侍従に、「くれぐれも丁重にお持てなしして」との指示だけは伝えた。


 それからしばらくは、一体何からどう手を付けたらいいのか。

 しばし何も考えられないほどに、ただただ困惑するばかりだった。






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