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1-50 皇帝の判決(3)

「公女は残りなさい」


 そう皇帝が言葉を加えたため、腰を浮かせかけていたリディアーヌだけはそのまま再び腰を下ろし、席を立った他の皆だけが恭しく礼を尽くして部屋を退席した。

 フィリックはリディアーヌの傍に残ろうとしていたが、「全員下がれ」と皇帝が自分の側近も含めて人払いをしたため、リディアーヌもフィリックに頷いて退室させた。

 やれやれ。こういう呼び止めは本意ではないのだが。


「人払いした。楽にせよ……と言うべきなのだろうが。すでに必要のない言葉だな」


 席を立ち窓辺に向かう皇帝に、リディアーヌは椅子に腰を下ろしたままクスリと笑って差し上げた。今更、この人に使う気遣いなんてものはない。


「実にもっともらしい理由を並べ立てて、教会まで扇動し、その上フォンクラーク側からは随分と既知のある人物を呼びつけたようだ。一体どこからどこまでがそなたの計略だ、リディアーヌ公女」

「そんなつもりはありませんわ、陛下。特に最後の一点に関しては、私も驚きましたから。てっきり、バルティーニュ公爵殿下かセリヌエール公爵がいらっしゃるとばかり」

「セリヌエール公爵夫人はそなたらのカレッジの同期と聞いた。アルトゥールからは聞いたことのない名だが」

「あぁ……駄目です。あの二人は何かと気が合わないんです」


 そうちょっと呆れた顔で素直に答えれば、「なるほど」と皇帝の顔もわずかにほころんだ。

 はて、何事か。随分と珍しいというか、らしくない顔をするものである。


「不思議なものよ。かつてはクロイツェンという国の名誉を背負い皇帝戦に挑んだ。それこそ脇目もふらず、汚れる事も厭わずに、ただひたすら周囲を蹴落とし、最も高き椅子に座ることだけを考えていた」

「……」

「だがいざこの席に着いてしまってからはどうか。余は日々、この帝国に属するすべての国々がつまらぬ計略を働き、諍いを繰り返し、同じ方向を向いてくれぬことに頭を抱えため息を吐き、こうして疲れ果てている」

「……あぁ」


 どうやらこの人もその席に座ってようやく、皇帝という物への自覚が芽生えたらしい。

 そんなことを赤裸々に語る真意は何であろうか。隠しもしない苦悩の表情は、何を思ってのことであろうか。


「公女。アルトゥールはフォンクラークの王太子の計略に、どこまで気が付いていたと考えるか」

「……」


 驚いた。あぁ、これは驚いた。まさか皇帝の口から、そんな言葉が出て来るだなんて思ってもみなかった。

 皇帝直轄領まで脅かされたこの一件。きっとアルトゥールはすぐにも自分やクロイツェンに害が及ばぬよう計略を巡らせたはずだ。それは当然であり、その計略を含め、アルトゥールはこの皇帝に気に入られていたはずだった。おそらく今より何年か前に起きたのであれば、皇帝は孫の手際に“ずる賢い”だのなんだの言いながらも満足したことだろう。

 しかし今の皇帝はこの大事件に、事実、頭を悩ませている。

 今回の一件は、確実に皇帝と教会との間の溝をさらに深めることになった。即位からこの方教会との関係に最も悩まされてきた皇帝にとって、苦悩が深いのは当然であろう。

 だが今、皇帝は初めて、何をしでかそうとも仕方がないと笑って流してきた孫の所業に、心から憂えを感じ、そして初めての“憤り”を感じているのだ。


 老いた――この皇帝が、ここまで変わるだなんて……。


「アルトゥール殿下は……トゥーリは今までもよく、私との噂を利用した態度を取っていました。それは私も同じですし、お互い分かっていて、“はぁ、まったく”と笑い飛ばせるものだったはずです。この春、帝国議会で流れた噂はさすがに趣味が悪いと腹を立てましたが、それでもまだ許容できる噂でした。しかしトゥーリがアマーテオ卿に囁いた“(ざん)(げん)”は、その度を超えています」

「……」

「それは互いに互いを理解した上で利用していたこれまでのお遊びとは違い、明らかに私の動向を探るために“帝国の直臣”を利用した謀略であって、それはお互いに暗黙の了解のように守ってきた一線を越える物です。そこまでしなければならなかった理由は、考えるまでもありませんが」


 実際、アルトゥールがどこまで知っていたのかは分からない。

 だが、“何も知らなかった”などと言えない事だけは確かだ。


「ヴァレンティンに対して、ベルテセーヌとの確執を作らせる……なるほど。次期皇帝候補として実にらしい計略です。私とて頑なにクロイツェンとの縁談を拒んできた以上、いつトゥーリが手を打ってくるかと覚悟はしていましたから、それをとやかく責めは致しません。陛下は随分と(へき)(えき)なさっているようですが、“そういうもの”です」

「……あぁ。その通りである」

「フォンクラークが王室専売品を国王の許可なく扱っていたことに関しては、リンテンの港に船を着ける許可を出した以上、その船が自分の名を汚さないかを確認するのは当然のことで、であれば知らなかったなどということは有り得ません。しかし赤い旗を掲げた商会が王太子の名のもとに専売品を売るのです。わざわざ突く必要性もなく、いざとなれば王太子に罪を(かぶ)せればいいのですから、分かっていて放置したと言っていいでしょう。リンテンにとってははた迷惑この上ない事でしょうが、責任を追及できるものでもありません」


 まぁ、ずる賢いとは思うけれど。


「ですがパヴォの密輸に関しては……ふぅ。庇う気などは毛頭ありませんが、流石にトゥーリもグーデリック王太子がそこまでするとは想像していなかったと思いますよ」

「……そう思う理由は何だ」

「リスクしかないからです。トゥーリの当初の計画では、リンテンを拠点に東大陸や南方の品を安価に北方諸国に流通させることで、ヴァレンティンのベルテセーヌへの依存を絶つことが目的だったはずです。それに対しヴァレンティンは北方交易の行商に働きかけて、帰路にベルテセーヌを経由してリンテンに戻るよう話を付けました。結果、トゥーリの思惑ほどにヴァレンティンとベルテセーヌの関係は絶たれていません」

「実に上手くしてやられたと、悔しがっておったぞ」


 なるほど、すでに皇帝の耳にはアルトゥールを通じて入っていたわけだ。その悔しがる顔とやらが見られなかったのは残念だが、いい話が聞けた。


「トゥーリのことですから、早々と次の手を考えていたことでしょうけれど……その次の手が、パヴォの密輸の黙認というのはリスクが高すぎます。それにグーデリック王太子の目的はベルテセーヌでした。私が北方の行商にベルテセーヌを経由させていることはトゥーリも知っていたのですから、そのベルテセーヌに麻薬を流通させれば、遅かれ早かれヴァレンティンにも影響が出ます。ヴァレンティンを取り込もうとしているトゥーリが、そんな愚策を弄するはずがないではありませんか」


 むしろアルトゥールが関与しているとなれば、もっと上手く、用意周到な策を巡らせたはずである。

 この計画が杜撰(ずさん)であったことこそが、アルトゥールが関与していなかった証拠なのである。


「随分と信用しているのだな」

「信用? いいえ。彼が愚策を弄するような人間でないことを知っているだけです。とはいえ、訳もなく王太子が何度もリンテンに出入りし、食事処に通い詰めてブルッスナー家と共謀していた……そんな分かりやすい繋がりに気が付かなかったということはないでしょう。トゥーリがどこまで掴んでいたのかは私にも分かりませんが、はじめから王太子に罪を着せるつもりで、望むべき時まで“放置していた”可能性は、無くはないと思っています。ベルテセーヌに麻薬が少しでも広がれば、ヴァレンティンも行商にベルテセーヌを経由させるような危険は冒させません。ベルテセーヌとの交易にも一層警戒するようになっていたでしょうから」

「……そうか」


 どうやらリディアーヌから聞きたかった言葉はそれだったようだ。

 クロイツェンの繁栄ではなく帝国全体の安寧を望み始めた皇帝にとって、それこそが可愛い孫の許せぬ点だったのだろう。

 かつては皇帝自身もそんな人間だったはずだ。ゆえに咎めきることもできず、苦悩を抱えているらしい。

 それをリディアーヌに吐露(とろ)するとは思わなかったが……きっと皇帝は今リディアーヌの先に、かつて皇帝戦で争った人物の姿を重ねてみているのだろう。


 私欲によって殺した男の姿を今更懐かしむなど……許されようはずもないのに。


「陛下。ずっとお聞きしたかったのですが、“リディアーヌ王女の死”は、その秘匿を神に誓約したもの。ですが知る人は事実を知っています。例えばベルテセーヌやヴァレンティンの者達。ルゼノール家や、フォンクラークの王室も。見たところ、セリヌエール公爵夫人も知っている様子です。私は友人でもある公爵夫人に私のことは何一つ話していませんし、少なくとも学生時代、彼女はそれを知らなかったはずです。なのに今は知っているというのは、公爵夫人となってから知ったのでしょう。それがフォンクラーク王室では公然の事実になっているということです」


 リディアーヌ王女の死は、教皇聖下立ち会いのもとで神に誓った“誓約”だ。だからこの帝国に属する者は誰であれその事実を他者に漏らすことはできないし、当事者である皇帝などは尚更、誓約を侵すような真似は出来ない。この帝国の民であれば誰もが持っている“信仰心”に誓って、そんな神威を侵すよう真似は出来ない。

 だがだからと言って、目にみえる罰則があるわけではないのも事実だ。破ろうと思えばいつでも、誰でも侵せるものである。


「なのに皇帝陛下。さほど信仰深いわけでもない貴方が、“リディアーヌ公女は聖女である”、“公女を得れば、教会は味方となる”、なんていう次期皇帝候補が喉から手が出るほど欲するような情報を、なぜトゥーリに話していないのですか?」


 昔から、それが実に不思議でならなかった。

 確かにそう誓った。そう硬く、約束した。だが知っている人は知っている。どうして教会がヴァレンティンの公女と懇意であるのかも。どうして皇帝が執拗に次期皇帝候補の孫の相手としてヴァレンティンの公女を狙っているのかも。

 なのに当のアルトゥールはその理由を正しく理解していない。彼は今も昔も、リディアーヌを(まご)うこと無い“選帝侯家の公女”だとしか思っていない。

 それは何故なのか。


「余にも、信仰心はある」

「そんな言葉で納得しろと?」

「逆に問おう、“聖女リディアーヌ”。そなたの素性を知ったとして、我が孫はどんな計略を巡らせると考えるか」


 知ったとして?

 ふむ……言われてみれば、それを正面から考えてみたことはなかった。

 考える必要が無かったし、知ったところで自分が踊らされるつもりがないという確固たる意志があったせいかもしれない。

 だがもし、アルトゥールがそれを知っていたなら。

 リディアーヌがベルテセーヌの先王の遺児であり、聖女の肩書を持っていると知ったなら。


「……私がトゥーリなら、多少非道な手を使ってでも“聖女”を自分のものにするでしょうね。さすれば容易く、皇帝の地位が近付くでしょうから。でも生憎と……」


 生憎と、と口にしてすぐ、リディアーヌはふと気が付いた自分の心に口を噤んだ。

 その顔に、皇帝が深い吐息をこぼしながら、憂えた様子で窓の外を仰いだ。

 あぁ、そうか。そうだな……もしそんなことになったなら、リディアーヌはアルトゥールにとって最も痛手となる方法で、自らこの首を掻き切るだろう。

 最も残酷で、最も悲惨に、彼にとって最も痛手となる方法で。

 これはアルトゥールのせいじゃない。そうではなくて……。


「あぁ……トゥーリは知らないんですね。“お父様”を死に追いやった真犯人が、貴方であると」


 呟いた言葉に、皇帝からの返答はなかった。

 皇帝は何度もリディアーヌを(そそのか)し、クロイツェンに嫁ぐと言わせてみせようと策を弄してきたが、どうしてリディアーヌがそれに対して頑なに拒むのかの理由を知っている。

 リディアーヌの父である前ベルテセーヌ王クリストフ二世に暗殺者を送ったのは、フォンクラークの前王ジュドワールだ。それが皆の共通認識であり、世に知られた事実だ。だがその奥にはさらにもう一人……そうなるよう上手くジュドワール王を転がした黒幕がいる。

 フォンクラークは本来、ベルテセーヌとも並ぶ古い初代皇帝の血脈を受け継ぐ保守的な国であり、同じほどに信心深い国である。それゆえに、長年ベルテセーヌだけに聖女が現れることを最も遺憾としてきた国でもある。

 皇帝はそれを利用し、すでに皇帝となる望みの薄かったジュドワール王に囁いたのだ。


 ベルテセーヌ王が皇帝になれば、聖女は皇女である。手に入れる望みは無かろう。だったらいっそ、ベルテセーヌ王を(しい)してしまえ。さすれば聖女は父という庇護者を失ったただの無力な子供である。手を出すのは容易い。


『そうだ。何なら皇帝となった余が、手を貸そう――』


 リディアーヌがその真実を知ったのは、十一歳の時……兄が死ぬ、その前日だった。

 ベルテセーヌを訪ねてきて、これがおそらく最後だろうからと教えてくれた真実だ。

 兄が一体どうやってそのこと知ったのかは知らないが、叔父ジェラールの皇帝に対する深い憎悪を思えば、それが間違いでないことは明らかだった。

 以来、リディアーヌにとって皇帝クロイツェン七世は、もはや永遠に裁く機会を失ってしまった父母を殺した仇敵(きゅうてき)であり、リディアーヌが決して“皇帝アルトゥール”の皇后にはなり得ない理由なのだ。


「そなたがただのか弱い、色恋にうつつを抜かしてくれるような女子であれば、このように悩みもしなかった」

「もしもの話なんて無意味ですわ。万に一つも私がそんな性格に急変することは有り得ませんし、私にとって貴方が世界で最も憎い、私のすべてを狂わせた人物であることに変わりはないのですから。私はアルトゥールという人を嫌いではないけれど、その人と未来を描くことは絶対にありません。私は“王女”として、そんな恥知らずにはなれませんから」

「相分かった。これはやはり、余の罪なのだろう――」


 何を今更。そんな分かり切ったことを……。


「公女。もしも私がアルトゥールに真実を語ったならば、どうなるであろうか。そなたが手に入らぬ理由を知ったなら……いかなる策を弄したところで、教会派閥の後見を得られぬことを知ったなら」

「さぁ……どうするのでしょうね。私が自ら首を切るのが先か。それとも陛下のように、邪魔な聖女に殺しの手を差し向けるのが先か。その答えは、陛下の方がお詳しいのではありませんか?」

「……そのような愚かな孫を、見たくはないな」

「案じずとも、そんなことが起こるとしたら、陛下が亡くなられた後です。どうぞあの世で、どちらが先に貴方の所にやって来るのか、指折り待っていてください」

「……」


 不敬を叩きつけられてもいいような物言いであっても、それを咎めることは皇帝にはできなかったらしい。

 あぁ、本当に……随分と丸くなったものだ。これでは、この深い所を占めてやまない恨みも、出所を失うという物である。罪を犯した人間の身勝手な後悔ほど、忌まわしいものはない。


「話は以上としよう。もう下がりなさい」


 呼び止めるのも勝手なら、下がらせるのも勝手か。だがこちらとしても、これ以上この人と長々と言葉を交わすつもりはない。嬉々として席を立ち、「それでは失礼します」と形ばかりの礼を尽くして歩を進めた。

 さっさとこんなところは出て行って、早くヴァレンティンの芳しい森に包まれたいものである。


「公女」


 だがそう呼び止めた皇帝の声に、今一度振り返ることを余儀なくされた。

 これ以上、何を言うことが有るのか。

 そう機嫌悪く顔を向けたリディアーヌに、その人は薄い笑みを浮かべて。


「喜ぶと良い。きっとそなたの仇は、程なく死ぬ」

「……」


 喜ぶ? 私にとって、貴方の何に喜びがあると?

 あぁ、そうか。長い時間が経って、リディアーヌは王女ではなく公女になって。

 そして今、私がこの人に抱いている感情は、ただの無だ。

 その人が生きていても、死んでいても、関心がない。その死に悲しみも無ければ、喜びもない。

 私にとって両親の仇であるその人は、もはやただ老いて死んでゆくだけの老人なのだ。

 それに気が付いた瞬間、ふっ、と、思わず苦笑が零れ落ちた。


「公女?」

「思いのほか、興味が湧きませんね」


 皇帝は老いた。もう昔のように恨みを抱くこともなければ、恐怖を感じることもない。その人はもはや、ただの老人となった。

 軽やかに扉をくぐるリディアーヌの背を、その人がどんな顔で見ていたのかは知らない。

 知る必要もない。


「そなたもまた、ヤツと同じことを言うのだな……」


 その男はもう、自分の罪を悔いることを思い出しただけの死者だ。

 ただ許しを得たいだけの死者の相手をするほど、私はお人好しではない。






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