0-5 昔の話を(4)
それからの彼らとの思い出は、数え切れないほどにある。
初めの頃の遠慮なんてあっという間になくなって、つまらないことから国の根幹にかかわることまで、実にいろいろと議論した。
冗談を言い合ったり、からかいあったりもした。至極真剣に論じあうこともあった。
彼らは年相応の少年のようであり、けれど議論をしている時は大人顔負けに真剣で冷静であったから、元々“国の子”として育てられていたリディアーヌにはとても居心地のいい相手だった。
他の誰とも違う。同じ、為政者としての思考を持つ者達だ。
それが心地よくて。編入してから三年、リディアーヌはすっかりと“兄の思い出を探すだけ”なんてものとはかけ離れたほどに深く、彼らと親しみ合ったのだ。
だがそこは学校。時間は有限であり、やがては終わるもの。
アルトゥールとマクシミリアンの出身はまだ領地が隣り合っているけれど、リディアーヌの住まいは遠い。アルトゥールとマクシミリアンだって、隣り合っているといったってクロイツェンもザクセオンも大国だから、そうそう会うことは出来なくなる。
三人でいられる時間は長くない――。
***
そんな不安を感じ始める卒業を間近に控えていたある日のこと。
ただ朝食を取ろうと男子寮と女子寮の間の食堂に向かったら、いつも食事をとる奥の席が何故か一面赤く色づいた花びらに埋め尽くされ、その中心で男子生徒が一人跪いていた。
その光景を見た瞬間、口の中いっぱいに苦みが広がり、息が苦しくなった。
あの時の衝撃は今もうすぼんやりとしたまま忘れられない。ただその光景が衝撃的だったというのではなく、嫌な思い出と重なってしまったせいだ。
『リ、リディッ、リディアーヌ公女殿下ッ! どうか私と、け、け、けっ、けけっ……』
『ハァ……』
落ち着こうと絞り出したため息だったけれど、あのタイミングはビクリと固まった男子生徒に悪かったと思っている。だがその時は、相手の心を慮って差し上げる余裕なんてなかったのだから仕方がない。
『姫様』
給仕仕度のため傍を離れていた侍女のマーサも、気が付くやいなやすぐに飛んできて、リディアーヌの背に手を添え踵を返すことを促した。
『これは一体何事ですか?』
『悪いけど、朝食はやめるわ。ちょっと一人にしてちょうだい』
そう呟いて歩き出したリディアーヌに、マーサが深く頷き背中を押した。
後ろが何やら騒がしいけれど、気遣ってはいられない。
きつい花の香りがする。甘い焼き菓子の香りがする。口の中が苦い。
その光景は、兄を失った日の出来事を思い出させる光景だった。
秋の終わりの赤い落ち葉が舞う美しいはずのその季節は、兄が亡くなった季節であり、一番苦手な季節なのだ。
今でも真っ赤な絨毯は苦手だ。毒を飲んだのは自分ではないけれど、赤のちらつく場所で紅茶の香りを嗅ぐと、まるで毒を飲んだような錯覚に陥る。
瞼の裏が真っ赤に染まって視界をくらませ、頭の奥はガンガンと打ち付けられたかのように痛み、呼吸が覚束なく息を詰まらせる。肌には悪感がまとわりついて、玉座の下で一人凝り固まっていた無力なあの頃の恐怖がこみ上げてくる。
こういう時は、冷たい外の空気を吸うに限る。
頭を抱えくらりくらりと歩いていると、硬い石畳と森の香り、鮮やかな青い空が、少しだけ気分を取り戻させてくれた。
だがそれでも無くならない嫌な記憶と嫌な息苦しさに、どこかのベンチで休もうかと木陰に足を延ばしたけれど、その足元は頼りなく絡まった。
あぁ、まずい。転ぶ。
だがそう思った体はふわりと腕を引かれ支えられ、ほのかに心地よい甘くて苦い香りの中へと包み込まれた。
思い切り胸に頭をぶつけてしまったのが恥ずかしかったけれど、腕を引っ張られたせいだと苦情を言える。腰に添えられた手が、芳しくない体調をさりげなく支えてくれる。少し馴れ馴れしすぎて、けれど安心して身を任せられる、完璧なエスコート。
『やぁ、リディ。おはよう』
けれどそんな紳士な様子とは打って変わった華やいだ声色が、たちまちリディアーヌの口角を緩ませた。
朝日にきらきらと輝く濃い金の髪。優しげに眉尻を下ろしてこちらを見下ろすエバーグリーンの瞳は、まるでヴァレンティンの深い春の森のように心地よい。
出会った頃よりも少し声が低くなって、とても背が伸びて、けれど威圧的にならないように少し身をかがめて接してくれる心遣いはいつも優しくてスマートだ。
『おはよう、ミリム。ねぇ、朝の挨拶をするには近すぎると思わない?』
『実は食堂でおかしなものを見かけてね。ショックを受けた親友が朝食も取らずに踵を返したと聞いたから追いかけてきたんだ。案の定、フラフラじゃないか』
朝食は食べないと、なんて言いながら口元に押し付けられたものを、思わず反射的に口に入れてしまう。
毒見もしていない物であることに顔が青ざめたのは一瞬のことで、すぐにも口の中いっぱいに広がった甘味に意識を奪われた。
どうしてこの友人は、常に甘いものを携帯しているのだろうか。
『……甘い』
『チョコレートだよ』
どこからかごそごそと引っ張り出されたもう一つの黒い塊に、思わず口が吸いよせられた。
苦みと甘みと、ほのかなオランジェットの香り。なんという甘美な食べ物。おいしい。
『お前達、道の真ん中で何をしている』
そんなことをしていたら、どこからか呆れたといわんばかりの声がかけられた。
青みを帯びた濃い黒髪に、透き通るようなブルーの瞳。端正で涼やかな面差しは触るとひんやりとしそうな雰囲気を漂わせているけれど、マクシミリアンからリディアーヌを引きはがす手付きは丁寧で、さりげなく木陰のベンチへ促す手際は手慣れている。
昔はただ当然とばかりに強引にエスコートをしたものだけれど、議論に議論を重ねている内に、いつからかこんな風に柔らかで自然な所作で勝手にエスコートされるようになった。
正直、気分がいい。リディアーヌのせいで身に付けさせてしまった余計なスキルだ。
『おはよう、トゥーリ』
『あぁ、いい朝だな、リディ。なのに朝食も取らずにどこかへ行ったというから心配してきてみれば、道端でミリムに餌付けされているとは』
『チョコレートというのですって。美味しいわよ』
そう口の中に残った濃厚な甘味とほのかな苦みを堪能していたら、『でしょう?』と得意気に笑うマクシミリアンが、友アルトゥールの口元へとチョコレートを突き出した。それを見つめるアルトゥールお坊ちゃまの嫌そうな顔が、私達は大好物なのである。
『やめろ、バカ。お前に選帝候家公子としての尊厳はないのか?』
『ポケットに忍ばせた甘味を好きな時に好きなようにこっそりと食すこの心地よい背徳感を知らないなんて、相変わらずクロイツェンの皇子様はお利口さんだね』
『……』
むにゅっと歪んだ顔で一体何を思ったのか、マクシミリアンからチョコレートを奪ったアルトゥールがガリガリと仇でも打つかのごとく菓子を噛み締めた。何を意地になっているのか知らないが、口に入れた瞬間からちょっと頬が緩んでいる様子が実に可愛らしい。
『二人とも、朝から元気ね』
『チョコレートには興奮作用が有るらしいからね』
『……』
え、私そんなもの食べさせられたの?
『ほらみたことか。リディ、あんまりコイツの出すものをホイホイと口にするな』
とかいいつつ、アルトゥールの視線が友人のポケットを物色している件については見ていないふりをしておいてあげた方がいいのだろうか。
『それで、リディ。食堂がすごいことになってたけれど、あれ、何?』
クスクスと肩を揺らしながら問うてくる友人のおかげか、先程の光景が忌まわしい記憶ではなくただの滑稽なお遊びに思えてきた。もうちっとも息苦しくなんてない。
『何……かしら? あまりの衝撃にその場で踵を返したから』
そういえばむせるような花の香りの中で、誰かが何かを言っていた気がする。
『あれは南大陸の、ライゼン王国の第三王子だな』
あぁ、そんな人が一つ下の学年にいるとか聞いたことが有るな。帝国には所属していない、外海を隔てた隣国からの留学生だ。
神学を学ぶために国賓待遇でベレッティーノ寄宿学校に留学してきたと聞いているが、王子と雖も、この世界に比類なき大帝国の支配階級からしてみればその程度の認識しか抱かない相手である。
『じゃああれはライゼンの作法?』
そう首を傾げたら、もれなくマクシミリアンがクフッと噴き出してお腹をよじった。
『くっ、くくっ、リディっ、作法ってっ。くふふっ』
『……あんなのが作法だと誤解されたら他のライゼン人が可哀想だ。勘弁してやれ』
『あー……えっと。じゃあ何だったのかしら?』
『何って……お前』
友人の冷たい視線に、『ちょっと』と、手近なところにあったマクシミリアンの上着を引っ張った。なのにいつもは軽口なはずのマクシミリアンが困った顔のまま中々答えてくれない。
『ちょっと、トゥーリ』
だからもう一人の友人を頼ったなら、彼もまた呆れたような面差しでため息を吐いた。
『リディに求婚するつもりだったんだろう?』
『……』
『……』
『きゅ……えっ?!』
あまりにも思いがけなさすぎて、びっくりしてしまった。
『求婚? え? 何故?』
『だというのに君と来たら、ろくに話も聞かずその場でため息を吐いて踵を返したんだって? 可哀想に。王子様、その場で放心したまま固まっていたよ』
『身の程知らずにはちょうどいい。流石はリディアーヌだ』
今更ながら、カァと顔に血が上って来た。
『私、なんて失礼なことを。でもどうしてそんな、突然っ』
『驚く事じゃない。俺達ももうすぐカレッジを卒業だからな。他の王侯貴族も皆、もれなく求婚合戦の最中だ』
『……求婚合戦って……何? そういう学校イベント?』
『イベントっ』
くッと笑いをかみ殺したマクシミリアンに、頬を膨らませた。
このベレッティーノ寄宿学校に入ってから三年。自分がいかに閉鎖的な国に生まれ育っていたのかを知った。ここではありとあらゆるもの、特に帝国というものを学ぶ機会が得られ、それを貪欲に学んできたつもりだけれど、まだたったの三年だ。生まれてこの方そんな環境にいた彼らに比べれば、世間的な常識が多々足りていないことは自覚している。
しているけれど、マクシミリアンはとにかくも、いつもはクールを装っているはずのアルトゥールまで笑いをこらえているというのは何とも面白くない。
『ちょっと、トゥーリ』
『帝国に所属する王侯貴族の子弟は、およそ六年間、どこかしらのカレッジに入って学ぶだろ? リディも中途編入ではあったけれど、こうして三年間通った。その目的は勉学のためだけでなく、社交的な顔繋ぎの役割もある。同時に、結婚相手を見繕うという一面もある』
『そのくらい私だってわかっているわ。でも求婚って家同士でするものでしょう?』
そう首を傾げたリディアーヌに、『まぁ普通は』とアルトゥールがあからさまに憐れむような目を向けてきた。
『心配せずとも、俺はちゃんとルールにのっとってヴァレンティン家に求婚状を送った。だが大公家に伝手のないライゼンの王子は直接君の心を射止める以外に方法がなかったんだろう。あれは彼なりの精一杯の誠意だ』
うん。うん? うん?! 何か今、変な言葉が聞こえたような。
ライゼンの王子……は、どうでもいい。諸々、一気に頭から吹き飛んだ。
そんなことより今何か到底無視できないようなおかしな言葉が……。
『ちょっと、トゥーリ! 抜け駆けはナシだって、君が言ったんだろう?!』
『先に約束を破ったのはミリムの方じゃないか。知ってるんだぞ。お前、もう半年も前からヴァレンティン大公に手紙を送り続けているらしいな』
『それを言うなら君だって、今年の帝国議会で閣下を部屋に引きずり込んで、一体っ……』
う、うん?!
『っ、ちょっと待った!』
ちょっと待て。何?! 何だと?!
『き、求婚状?! うちに?! 聞いてないわよ?!』
一体何事だ。友人達がそんなことをするだなんて微塵も思っていなかった。
しかもマクシミリアンは半年も前からだと? そんな知らせは実家から届いていない。
『言っただろう、リディ。今は“そういう時期”なんだ』
『でもトゥーリとミリムは私の友人でしょう? まぁ確かにこれまでも、冗談みたいにプロポーズされることはあったけれど……』
『リディ、一応僕は毎回本気なんだけど?』
マクシミリアンが横から何か言っているけれど、それにはただ恥ずかしげにだけ肩を竦めるに留めた。なぜなら彼等は、リディアーヌが絶対に“はい”と言わないことを知っているはずだからだ。
『私だって、家柄的にも素質的にも、“アルトゥール殿下”や“マクシミリアン公子”ほどの人物はいないと思ってるわよ。でも二人とも、跡取りじゃない』
『光栄だ、リディアーヌ公女。俺も常々、君が跡取りでなければと思ってやまない』
そうサラリと答えるアルトゥールは相変わらずで、女性に甘く紳士的で、挨拶のように気を良くさせる。距離の近いエスコートにも最初は照れたものだが、もうすっかりと慣れた。
その中でも、彼等のリディアーヌへの発言と行動が“特別”であることは存じている。お互いにお互いを快いと思っていることも、事実だ。
だがそれに応えることはできない。
なぜなら彼らはどちらも家門の跡取りであり、そしてリディアーヌもまた、ヴァレンティン大公国の暫定跡取りという立場になっているからだ。
それもこれも、当主である叔父がいい年して結婚の一つもしないばかりか、養女のリディアーヌと養子のフレデリクとをベタ可愛がりして跡取りだと公言しているせいだ。
リディアーヌとしては、いずれ生まれるかもしれない叔父の実子か、あるいは兄の遺児である義弟のフレデリクが継げばいいと思っているのだが、しかし現状、叔父には子はおろか妃の一人もおらず、フレデリクもまだ幼い。他に適任となる近しい身内もいないため仕方なく暫定跡取りの立場を甘受しており、学校を卒業すれば、大公国にようやく現れた成人大公一族として政務の一部を受け持つことになる。
というか、成人直後から本格的に政務に携わらねばならないほどヴァレンティン家は絶賛後継者不足に陥っている。なのにようやく成人するリディアーヌが領地を出てお嫁に行くなど、そもそも無理なのだ。
それ以外にも……色々と、理由はあるが。
だから彼らとは例えどんなにお互いがお互いを有力な結婚相手だと思っていたとしても、結ばれることは決してない。私達はお互いに、私達がそれぞれの家の跡取りとして相応しい才覚の持ち主であることを知っていて、それを尊重し合っているからだ。
『そういえば二人とも、最近よくその手の話題を出すわよね。けれど私がお嫁に行けないことは知っているでしょう? まぁ婿に来てもらえるなら歓迎するけれど』
『うぅん……すぐには無理だなぁ。親父殿が倒れそうだし……』
真剣に頭を抱えて考え込んでいるマクシミリアンとは裏腹に、『それはできないな』と感慨も無く言うアルトゥールは実にさっぱりとしている。
私達にとっての結婚は、感情ではない。それは今も昔も変わらないし、今更それ以外の価値観というのも見出せない。そういうものだし、それでいいと思っている。だからこそ、最良の相手と思いながらも真剣な相手だとは互いに思っていないのだ。
それがどうして、家と家によって取り交わされるべき正式な求婚状を送られるような状況になっているのか。
『だがリディ。俺達はこの三年間、いつも一緒にいて、もはやカレッジ中が俺達の仲を知っているだろう?』
『良き友人関係? それともヒソヒソと噂されている、一体ヴァレンティン公女はクロイツェン皇子とザクセオン公子のどちらが本命なのかしら、という方?』
『前者のつもりだったが、後者でもいい。いかに帝国最高峰の学び舎たるベレッティーノ寄宿学校といえども、七王家や五選帝侯家の直系が在籍するというのは稀だ。俺達がいつも共にいるようになったのも、家柄の釣り合いが理由の一つにある』
『そうね。私も転入初日から、いきなり先生に貴方達を紹介されてびっくりしたもの。普通、面倒見のいい同性の子を紹介しない? って』
『あれは俺達もびっくりした。ヴァレンティンに公女がいるとは知らなかったからな』
そう笑うアルトゥールの横で、『でも僕はリディみたいな美少女、紹介されなくてもすぐに声をかけたと思う』とマクシミリアンが茶々を入れた。
嘘か本当かわからないが、人懐っこいマクシミリアンなら本当にそうしそうだ。実際に、先にリディアーヌを見つけて二階から声をかけてきたのはマクシミリアンだった。
『カレッジは自分の意志で相手を見つけられる最良の場であり、ここを逃せば自由はない。だから、そろそろ卒業で、だがまだ決まった相手がいない王侯貴族の子弟らは今まさに求婚合戦の最中なんだよ』
『でも私達はそういう関係じゃあ……』
『あぁ。でもこのカレッジで、選帝候ヴァレンティン大公家の姫と釣り合いの取れる家柄はうちかミリムのところくらいだ。というか、常に俺達が君と一緒にいたせいで、留学して間もない世間知らずのライゼン王子でもない限り、他のそこらの貴族では君に声はかけられない。現皇帝の実孫の俺が友人以上の関係で君と三年間連れ添ったんだ。自慢じゃないが、俺を出し抜こうなんて怖いもの知らずは想像できない。ミリム以外……な』
『ははは……』
確かに、いい年頃だというのに婚約の話が一つも上がっていないのは、レディとしては微妙なのかもしれない。すっかり失念していたけれど、それってこのきらびやかな肩書きをお持ちの二人のせいなわけだ。
でもそれを言うなら逆もしかりだ。王家や選帝候家の嫡男なのに、二人に未だに決まった相手がいないというのはおかしな話である。それももしかせずとも、選帝候家公女という肩書きのリディアーヌのせいなのではあるまいか。
『俺達は君がヴァレンティン家唯一の成人後継者となるため他所に嫁ぐことができないことを知っているが、周囲にそんな事情は関係ないだろう? これだけべったりと君に構っていたのにプロポーズもせずに卒業をしたとなると、周囲は大騒ぎする。一体どちらに問題が有ったのか、実は家同士が不仲なのでは、仲が良かったのはただのフリだったのでは……とかな』
『え。二人はそんな理由でわざわざ正式なプロポーズをしたの?』
『ちょっとっ、真心の欠けたトゥーリと一緒にしないでよ。僕は真剣なんだってば。もしかしたらヴァレンティン大公がふとそんな気になるかもしれないでしょう?』
マクシミリアンは再びそう強調してリディアーヌの手にチョコレートを貢いでくれたけれど、言い方からして、断られるということは最初から分かっているということだ。
チョコレートは美味しくいただいておく。
『俺がクロイツェン皇室からヴァレンティン選帝候家へ送った正式な求婚状だって、冗談で送ったわけじゃない。嘘偽りなく、本物の求婚状だ』
『トゥーリまで……』
『別に困ることはない。断ってくれていい』
『そうかもしれないけれど。急にそんな真面目なことをされたら驚くじゃない』
『ミリムも言っていたが、いつだって真面目じゃないわけじゃないんだぞ。嫁いでくる気になったらいつでも言ってほしいと言ってるだろう?』
『……』
だからそういう意味じゃなくて、と思ったのだが、何を言っても詮無いだろう。ハァとため息だけついておいた。
ころりと舌の上で転がしたビターチョコレートから、甘酸っぱいチェリーソースが溶けだしてきた。
まるで私達みたいだ。
『つまり、私達がこれからも友人であり変わることない関係であるためにも、“儀礼的に”、正式な求婚をした、ということね?』
『そういうことだ。俺は次期皇帝の地位を狙う立場であり、友人であるマクシミリアンとリディアーヌはその皇帝選出権を持っているんだからな。諍いの話題なんてあろうものなら選出結果に響く』
『理解したわ。まぁいつかその日が来たとして、私がトゥーリを皇帝に推すとは限らないんだけど』
そうクスリと笑いながらベンチから立ち上がろうとすると、『君は相変わらずだな』と言って手を差し伸べてくれたアルトゥールが、いつもの淡々とした面差しとは打って変わった年相応な顔で口元を緩めた。
『君のそういう所が、俺は好きだ』
『……今のは少し、ドキッとしたわ』
『クロイツェンの皇太子妃になる気になったか?』
『トゥーリが皇帝ではなく皇帝を選ぶ側になりたいというのであれば歓迎するわ』
そう何度言ったとも知れない言葉を交わしつつ手を借りて席を立つと、『頑固だぞ』『そうこなくちゃ』と友人達の笑い声がした。
口の中で溶けきったチョコレートが、たっぷりの甘さとほのかな苦さの余韻を体に刻む。
もう、少しだって体調は悪くなかった。
ここでは、かつての、私の言葉など微塵も聞かれずにいつの間にか交わされていた関係とは違い、自分の意志で選んで、自分の意志で語り合える。
ただの延長戦くらいのつもりであったリディアーヌの人生は、この場所で、この友人達の傍で、瞬く間に色鮮やかな世界へと染まった。
ここは本当に、いい場所だった。
本当に、愛おしい友人達であった。
彼らを失ってしまいたくない気持ちは、私も同じ――。
『もうすぐ卒業なんて……寂しいわ』
『ヴァレンティンは遠いからな』
『卒業試験の手は抜かないわよ。貴方達が無駄な事をしている間に首席の座を取り戻してあげるんだから』
『はっ、どうかな』
『僕はまぁ、適当にやるかなぁ』
軽い。軽いのにそう言って余裕で好成績を出すマクシミリアンの言葉を素直に信じるほど馬鹿じゃない。『こいつはまた』『最低ですね』とアルトゥールさんとひそひそしておいた。
『そういえば卒業したらクロイツェン旅行をする、っていう約束、覚えてる?』
『当然だ。うちは広いから、たっぷりと休暇を取って来いよ。隅々まで案内してやる』
『はいはい、僕も行くよ!』
『ミリム、お前はいいだろ。いつでも来られるんだから』
『ちょっとトゥーリ、抜け駆けは禁止だよ?』
『まったく。わかったわかった、二人とも来い。もてなしてやる』
『私、マルセールの市場に行ってみたい。あ、あとロレックの大貿易港も』
『いいね。ロレックでリディにピッタリの真珠の髪飾りを買ってあげるよ』
『有難う、ミリム。じゃあ私はミリムに螺鈿のブローチを見繕ってあげるわね』
『おい。他人の国で勝手にデートの計画を立てるな』
『しょうがないなぁ。じゃあトゥーリ姫にも可愛い珊瑚の耳飾りを選んであげるよ』
『だったら私はピンクの貝殻のブレスレットを探してあげるね』
『お前達!』
あははっと声をあげて笑いながら、スカートを翻して闊歩する。
兄を失い、故郷を失った日、自分はもう二度と笑えないのだと思った。なのにこうして笑っていることがとても不思議で、そして自然であるように思えた。
卒業試験はとても難しかったけれど、良い手ごたえだった。朝と同じように夕方も、友人達と回答を突き合わせてあれこれと議論をした。
卒業のその日まで、毎日毎日、惜しむように語らった。
こんな日々が終わってしまうのはとっても寂しい。
寂しいけれど。
『リディ、手紙を書くよ。返事がなかったらヴァレンティンまで催促に行くから、ちゃんと返事を出してね』
『ミリムは本当に来そうで怖いんだけど……そうならないよう、ちゃんと書くわね。チョコレートを添えてくれると嬉しいわ。オランジェットの入ったやつが美味しかったわ』
『俺からも手紙を出そう。あぁ、夏の終わりにはヴァレンティンのベルブラウの花茶を送ってくれ。妹が好きなんだ』
『ええ、トゥーリ。一番綺麗にできているやつを送るわ。催促の手紙を頂戴ね』
『お返しに何が欲しいのかを書いてくれ。そういうのを選ぶのは苦手なんだ』
『私も苦手』
『二人とも僕に相談すると良いよ。このマクシミリアン様が選んであげよう』
『……ふむ。そうしよう』
『そうするわ!』
幼い頃の日々は、辛く、悲しいことが多かった。
でも今は幸せだ。とても、幸せだ。
願わくばこの日々がずっと続いてくれたらいいのにと、思うほどに――。
『それじゃあ、またね。僕の類まれなる愛しい友人達』
『今に流石は我が友と言われる評判をとどろかせてやるから、待っていろよ、お前達』
『二人が私を思い忘れずにいてくれる限り、私も貴方達を大切に思い続けるわ』