1-40 パヴォ(1)
体が重い。息が苦しい。頭がくらくらとして眩暈がする。
思考がはっきりとしない。瞼が重くて、起きていられない。
それでも必死に目を開きながら、周囲に目を凝らす。
しばらく意識が飛んでいたせいで、今自分がどこにいるのかが分からない。だが多分、まだあの店の中だ。構造からして、三階や四階には個室の類が有ると思っていた。多分その中のどこかだ。ただ見るかぎり、この部屋は随分と豪奢な作りの部屋である。
天蓋のかかった大きなベッドに、慣れない手触りのシーツは……そう。確か昼間に商会で見た、ヘンプとやらの織物だろう。ここはグーデリックのテリトリー内ということだ。
ベッドサイドの卓上に小さな灯りが見える。それに、この鼻につく香り……さっきまでの甘苦いツンとした香りと、それに混じって煙草のような燻した木の実のような煙たさが混じっている。
よく分らないが、この意識の朦朧感……パヴォが焚かれている可能性がある。
ひとまず無理やりにでも体を動かしてベッドにうつ伏せ煙から逃げようとしたが、ベッドのシーツにも強い香りが染みついていた。これでは逃げようもない。
あとできることといえば……。
「……フィリック……」
何をぐずぐずしているのかと咎める気持ちで呟いた言葉とともに、ふと、フレデリクが持たせてくれた手首のお守りが目に入った。お守りの上に結ばれていたレースのリボンは、いつの間にかほどけてしまったようだ。
あぁ、そうだ。このお守り……。
力の入らない指先を必死にもたげて、カリカリ、カリカリと手首を引っかく。
だが駄目だ。細かい作業は出来ない。
仕方がないからふるふると腕を持ち上げて、フレデリクが一生懸命刻んでくれたであろう狼の刻印のメダルをガリッと歯で噛んだ。あぁ、無理。顎も働かない。でも指よりはまだいい。
ガリガリ。ガリガリと歯と歯の間でメダルを噛んで、やがてピタリと、歯がメダルのくぼみにかかった。やった。
そのまま懸命に力を加えると、間もなくパカリとメダルは半分に開いた。
なんてこと……まさかとは思ったけれど、やっぱりこのメダル、中が空洞のロケットになっていた。厚みに違和感を感じていたのだ。
これを仕込んだのはフレデリクだろうか? それともフレデリクにお守りのことを教えたであろう黒幕……つまりうちの腹の黒い側近だろうか。でもおかげで助かった。開いたメダルからはこの部屋に充満した嫌な香りとは打って変わった芳しいベルブラウの香りがしている。
このメダル、どこからともなくいい香りがすると思っていたのだ。やはり、ベルブラウの花びらが押し込められていた。
ベルブラウの花には様々な薬としての効果がある。本当は根の方が薬効が強いのだが、傷薬から精神安定剤、解毒剤にまで、幅広く使われている。これがどれほどの慰めになるかは分からないが、少なくとも何かの薬を盛られているであろう現状、ベルブラウの花びらは解毒の助けになるかもしれない。
気だるい体をごそごそと動かし、シーツの上に口を這わせ、舌を伸ばし、賢明に花びらに食らいつく。口に入れた瞬間から、もやもやとした頭の中が晴れてくれるようだった。
解毒……解毒、か。そんな効果が有ることを知っていたなら、八年前のあの日、兄が毒に倒れた時、砂糖漬けされた花びらをひっつかんで兄の口の中に押し込んでいただろうに。
いや、兄の側近達がそれを知らなかったはずがないのだから、やはりあれはどうしようもないことだったのだろう。でもそれでも……あの時兄が、砂糖ではなく、リディアーヌと同じようにベルブラウの砂糖漬けを使っていたなら。そしたらあんなことには……。
『リディ――』
あぁ、兄のことを考えていたせいだろうか。何やら幻聴まで聞こえ出した。
『リディ。私の可愛い妹』
『どうしたんだい、リディ』
『眠いのかい?』
うとうと、うとうとと頭が微睡む。
微睡むけれど……でも、待って。待って? お兄様?
『リディ――』
おかしい。おかしい……。お兄様は死んだはずなのに。私の目の前で、血を吐き、胸を掻き、もがき苦しんで……なのにどうして、お兄様が見えるの?
「……あ……」
『リディ、寝てていいんだよ?』
さわさわと頭を撫でる感触が心地いい。
誰よりも柔らかで、甘やかで、うっとりするような声色がリディアーヌを呼ぶたびに、心臓が震える。
「あれ……おかしい。なん、で……おにい、さま……」
『リディ。私の可愛いリディ……』
お兄様だ。本物のお兄様だ。
まったく、長い間どこに行っていたんだろう。うん? 私は何を言っているんだろう。そうだ。お兄様はリンテンにいたんだ。アンリエット義姉様と、このリンテンで。そう。幸せに暮らしていたんだ。義姉様はどこだろう? デリク……デリクは? あぁ、ううん。今はお兄様がいればいい。皆にお兄様を取られたくないもの。
もっと撫でて。もっと甘やかして。私、頑張ったのよ。お兄様がいなくても、ちゃんと頑張ったのよ。聖別も。私、ちゃんとシャルルに毅然としてやったのよ。えらいでしょう?
あぁ、不思議だ。こんなにも体は眠たくて重たいのに、意識が冴え冴えとして感じられる。
神経が研ぎ澄まされていくようで、どんどんとお兄様の姿かたちが明確になっていく。
どうしたんだろう。もしかして私は、今までずっと長い長い夢を見続けていたのだろうか。
「お兄さ……」
『リディ』
途端、ドロリと兄の全身から血があふれかえった。
「ひっっぅっ」
『リディ……助けて、リディ』
「に、ぃさ……っ」
赤い。赤い、赤い、真っ赤な血。
『たすけて……いたい。くるしい……』
甘くて苦い砂糖と花と、鉄のにおい。
『いやだ。たすけて、たすけて……しにたくない。リディ……どうして。どうして……』
毒だ。毒が。
助けないと。たすけないと……。
『どうして、わたしをころしたの……? リディ』
「ッッッ!」
違う。ちがう、ちがうっ。ころしてない。ころしてない。ころすはずない。
『たすけて、リディ。たすけて、たすけて、たすけて……』
「やぁぁぁぁっ」
こわい。こわい。私が死を持ってきた。お父様を、お母様をころした。お兄様を、ころした。わたしがころした。わたしが。わたしが、ワタシが……。
「いや、いや、いやっ、にいさま、エディにいさっ……」
『リディ――』
ふと……血に濡れ苦しんでいたいたはずの兄が微笑んだ気がした。
差し出された青い花びらが、リディアーヌの唇に触れる。
ベルブラウの、香りがする。私の命を救ってくれた、お兄様が届けてくれた故郷の香りだ。
「っ……」
『リディ……負けては駄目だ……』
あぁ、そうか。これは幻覚だ。何もかもすべて。パヴォが見せている、幻覚だ。
「……」
でも、お兄様。たとえそうだとしても……お兄様がいてくれるなら、その世界の方が私にとって何百倍も価値が……。
『こんなに簡単に負けては、君の悪友たちに呆れられるよ』
「あ……」
『分かった? 私の賢い、愛しい妹――』
***
酷い夢だ。
頭が重たい。体のあちらこちらが痛い。ひどく憂鬱な気分で、まとわりつく匂いが全身を引き裂いてくるようだ。
ただ口の中にいっぱいに広がったベルブラウの香りが、夢と現の間でリディアーヌを引っ張り合っている。
あぁ……やっぱりあの時、無理やりにでもお兄様の口にベルブラウの花を突っ込んでおくべきだった。こんなにも強烈な解毒作用を持っていただなんて。
「おや。薬が弱すぎたか……意識が有るようだ」
ぼうっとした視線の端で、カンカンと過剰に頭に響く足音がした。扉の閉まる音も、カーテンのはためく音も、すべてが過剰に響いてきて気分が悪い。
それに極めつけの、この鼻につく匂い。
グーデリック・ギャロワ・ド・フォンクラーク――この少女趣味の悪党め。
「あぁ、ぞくぞくするよ、リディアーヌ……弱り切った身体に目を潤ませて、私を睨んでくるその瞳。なんて生意気で、可愛いんだろう。私の姫」
ぎしりと寝台に腰かけたグーデリックが身をかがめ、抵抗もできないリディアーヌの唇を奪う。この男。一度ならず二度までも……。
「始めての口付けに照れているのかい? ふふっ。初心な所も可愛い。口を開けてごらん。もっと気持ちよくしてあげるよ」
なるものか!
無理矢理唇を割ろうとして来るものだから、なけなしの力を振り絞ってガリと舌を噛んでやった。
だがやはり駄目だ。ちっとも顎に力が入らない。
「くくっ。いけない子だ。今に逆らう気など起きなくしてあげるからね」
何やらさっきまでと口調まで違う気がする。この男、何やらまた別の薬でもきめこんでいるのではなかろうか。気持ちが悪い。
「あぁ、どうしよう。折角のこの愛らしい服を脱がせてしまうのは惜しい。でも同時に、ずたずたに引き裂いて、生まれたままの姿にしてやりたいとも思うんだ」
この口が動きさえすれば、数多の暴言をくれてやるというのに。今できることと言えば、ただ睨みを利かせる事くらい……。
「ッッ……!」
バリッとナイフで引き裂かれたリボンに、途端に肺に空気が流れ込んでくる。
冗談ではなく、狂っていやがる。
身動きもできない体に跨って、嬉々としてナイフを振り回す。その光景は身体が動かせないことと相俟って、少なからずリディアーヌに恐怖心を与えた。
口喧嘩の一つもできれば恐怖を紛らわすこともできただろうに、狂気に満ちた顔が……熟れた男の躯体が、恐ろしい。
「ッ」
ピリッと走った小さな痛みに、ナイフをもてあそんでいたグーデリックの顔色が変わり、忽ちナイフを投げ飛ばす。
「あぁ、なんてことだ。傷がついてしまったではないか。すまない、すまない、私の姫。君が身じろいだりするからいけないんだよ。血を流させる気なんてないんだっ」
でろりと首を這い血を舐めとった生ぬるい感触に、ぞわりと背筋が凍えた。
気持ちが悪い。まるでナメクジにでも這いずり回られているようだ。
敵うことなら、今すぐにでもこの男を押しのけてっ……。
……。
少し。少しだけだが、拳に力がこもった気がした。
指が動く。腕はまだ動かないけれど、確実に力が戻ってきている。
そうだ。先ほどから、あの甘苦い香りが薄れている。
なるほど……食卓で焚かれていたあの香が、この眠気と意識を朦朧とさせる気だるさの原因なのだ。だがグーデリックにはあまり効いていなかったところを見るに、おそらくはフォンクラーク原産の薬で、この男には多少なりとも耐性が有るのだろう。それでも完全ではない。
だから食堂でまとわりついた薬を落とすためにこの男はこの部屋を離れていたのであり、しなだれて唇を這わせているこの男の髪が濡れている原因だろう。
意識があやふやなせいで認識できていなかったが、ベッドサイドの明かりの傍で焚かれていた煙が今は消えている。おそらく部屋に入ってきてすぐ、グーデリックが消したのだ。
大分、頭が回り始めた。
「あぁっ……これが……これが、聖痕。なんということだ。美しい。まるで神話に語られるそのままではないか」
先ほどから執拗に胸を撫でまわす手がおぞましかったが、どうやらその視線はナイフでズタズタにされてはだけきった胸元の聖痕を注視しているようだ。
先だってリンテンの領都で会った時には聖別なんてまるで興味もないような態度を取っていたが、なんという恍惚とした顔で聖痕を嘗め回しているのか。これだけ体を好き勝手にしておきながら、聖痕に触れる指先はびくびくと震えていて、まるで神秘に触れるかのようだった。
先日の様子がまさか演技だったとは、騙された。私もまだまだだ。
「ぇ、ん……か」
あ。喉の力も少しずつだが戻ってきた。
「ん? なんだい、私の可愛いコマドリ」
んぐっ……。
「あぁ、そうか。話せないんだね。リゼットは身体の自由を奪うのには便利だが、折角の寵声まで奪ってしまうのが難点だ。だが暴れられては困るのでね。愛しい君に手ひどい扱いはしたくないんだ」
そう言いながらおもむろに自分の薄っぺらなバスローブの紐を解き襟をはだけだしたグーデリックに、思わずぎゅうっと目を瞑ってしまった。
こんなものに動揺するほど初心なつもりはないが、汚らわしくて見るに堪えない。
それを一体どう勘違いしたのか、グーデリックは実に機嫌を良くしたらしく、もはや耳に入れるのも憚れるようなことを言いながら体をまさぐり始めた。
あぁ……このまま汚されてしまおうものなら、人生最大の汚点だな……。
「随分と余裕だ。これから破瓜の痛みを知るというのに」
だがボソリと耳に囁かれた言葉は、どんなにか平気なふりをしてもしきれなかった。
大丈夫だ。こんなの、なんてことない。こんなことくらいで、何も失ったりなんてしない。
しないはずなのに。
「ッッ……」
体が動かない。
嫌だ。いやだ、いやだ、いやだ。
気持ちが悪い。
叫びたい。
助けを求めたい。
どんなにか見苦しくても、今すぐに。
いやだ。たすけて。助けて、お兄様。助けて。
助けて……トゥーリ。ミリム――。
どうか、どうか……
「姫様ッ!」




