1-38 竜の海渡り亭(2)
「ごほんっ」
おもむろに咳払いしたフランカに、パッと視線をそらしてアンパンをちぎる。
ちぎったけど……これ、食事をしながら一個全部食べるには重いな。うん。
「このように甘いものをパンの中に入れるというのも始めて見ましたけれど。フォンクラークでは一般的なのですか?」
「さぁ……他には見たことが有りませんね。最近、城下にこういう変わったものを出す流行りの店があるのですよ。なんでも考えているのは若い娘のようで。城に召し出そうとしたんですが、忌々しいことに姿をくらませましてね。足取りを探させている所です。捕まれば、きっともっと面白いものを食べさせてあげられますよ」
「そう、なんですか」
罪もない町娘を捕まえるって言った? うわぁ……。
「ですからいかがです? 我が国にいらっしゃるというのは」
「ん?」
ん、ん?? んんん?!
「私をフォンクラークにお誘いなの?」
「そうは聞こえませんでしたか?」
いや、聞こえたけれど。それって、遊びに来てください、という意味なのか。それとももっと別の……うちのお養父様が怒り狂いそうな方の意味なのか。というかこの王太子、既婚者ではなかったか? だとしたら、いかに言い方がいやらしくとも、意味としては前者の方になるのだろうか。
「そうですわね……今の季節、西の内海ではマゼンタ色に染まった夕闇に、濃い琥珀色の日の光が映えてとても素敵なことでしょう……」
フォンクラークの情景と言われて真っ先に目に浮かんだのは、見たこともないフォンクラークの海の様子などではなく、憂い気を帯びた東雲色の髪に濃いキャラメルブラウンの瞳をした友人の姿だった。
ただ思わず口をついて出ただけの言葉だったのだが、どうしたことか。「海なんぞがご覧になりたいとは、随分とお可愛らしい」なんて言っているグーデリックではなく、その後ろで配膳をしていたはずのフォールのキラッキラに輝いた瞳の方に、目が釘付けになってしまった。
この反応……どこからどう見ても、故郷の海を恋しがっている顔なんかじゃない。もしかしてこの侍従、リディアーヌの言葉に、リディアーヌと同じものを想像したのではあるまいか?
少し驚いているようで、けれど愛おしさを隠すということを知らない眼差し。リディアーヌと目が合うや否や、はっとして急いで視線をそらしたようだったけれど、この薄暗闇でも分かるくらい、ほんのりと耳が赤く染まっているではないか。あの反応は、この馬鹿げた少女スタイルで視線を合わせてあげた公女様に照れた反応ではない。
ご、ごほんっ。そんな反応ではない。絶対に。
はぁ、しかしこれは驚いた。確かに少しばかり、王太子の侍従にしてはよくできた、なんていう疑いは抱いていた。しかしまさかこの男……王太子の最側近でありながら、我が友人“ナディア”に通じているのではあるまいか?
「そこの貴方。フォールと言ったかしら?」
「……は。何でございましょう」
「殿下は折角の貴国の海を見飽きていらっしゃるみたいだわ。貴方もそうなのかしら?」
何故フォールに聞くとばかりにグーデリックが訝しんだようだが、リディアーヌがニコニコとグーデリックから視線を離さないものだから、機嫌を損ねるということはなく、またリディアーヌが他の男にちょっかいを出して妬かせようと奮闘しているかの如く見えたらしい。逆に機嫌を良くして、「私は構わないぞ。答えてやれ、フォール」なんて言っている。
「……こほん。その、公女殿下。フォンクラークの素晴らしい情景に理解のあるお言葉、嬉しい限りです。私も早く故郷に帰り、あの優しくも冷たい夜明け時の日差しの瞬きに浸りたいと思うばかりです。どちらかと言えば……私は共有するより、独占したい方ですが」
「まぁ。ロマンチストでいらっしゃるのね」
くすくすと笑って差し上げる。
勿論、本気で彼がロマンチストだなんて思っているわけではない。どうやらまごうことなく、私達は“同じ人物”を想像していたようだ。
はぁ、驚いた。どうやら私の友人は、敵の懐に妙な信奉者を得ているようだ。流石である。その……少し、人妻に対してする表現ではない言葉の選び方に引っかかりはしたけれど。ごほんっ。
「お前がそんなにフォンクラークの海を恋しがっているとは知らなかった。今すぐにでも海の中に放り出してやろうか」
「……ご容赦ください、殿下」
さっとワインを注いで気をそらしつつ、そそくさと背を向けて会話の中から離脱する様子は実に手慣れている。グーデリックに目を付けられない方法を熟知しているようだ。
リディアーヌもこれ以上、どうやら内通しているらしいフォールに迷惑をかけるつもりはないので、早々とその話題は切り上げ、「海というと……」と話題を変えた。
「そういえば殿下、先ほど、聖都に向かう私をこのリンテンの港で見たことが有るというようなことを仰っていませんでしたか?」
「あぁ、そうだともとも! よくぞ聞いてくれた!」
お、おぅ……。
「忘れもしない……煩わしい帝国議会から帰る道すがら滞在した退屈な町で見かけたあの光景。船上にいた十四歳の貴女のあのお姿。私はあの瞬間、君に心を奪われた!」
あれ、今告白された?
まぁいい。とりあえずその言葉で、何となく思い出した。
あれはカレッジの第五学年が始まってすぐの頃のこと。カレッジは春の盛り、二の月の初めに開講する。その月末には帝国議会が始まり、翌月の下旬にかけて、議会と社交が行われる。帝国議会は通常、国主かその後継者が代理として出席し、一方選帝侯家も同時期に選帝侯議会に参加する。そうして帝国中の貴顕がひとところに会するのである。
とはいえカレッジの学生なんかは当然お呼びではないわけで、今もリディアーヌは国主である養父に代わって唯一国内の留守役を務められる公女なので、帝国議会や選帝侯議会に縁は無い。しかし一度だけ、その場に顔を出したことが有るのだ。
くしくもカレッジ開講中の慌ただしい時期、皇帝陛下が必死に呼び止めようとしていた養父が予定を放り出して勝手に帰国してしまった……などという、とんでもない報告が、学生寮のリディアーヌに届いてしまったがために……。
あぁ、思い出したら何やら腹が立つような恥ずかしいような、複雑な気持ちになってきた。
何ら変哲もなく学校生活を送っていたある日、突然アルセール先生が皇帝陛下に仕える実兄からの手紙とやらを神妙な顔で持ってきて、悩ましそうに相談してきたのだ。
まさかリディアーヌも養父が強硬帰国などという暴挙に出るとは思ってもみなかった。取り合えず、いつもお世話になっている先生の兄が非常に困っているということで、『私が行って対処いたします』と、帝都の皇宮に出向くことになってしまったのである。
すでに議会本会は終えて城は社交シーズンに入っていたけれど、リディアーヌはあくまでも学生なので、社交に参加したわけではない。ただ急ぎ船でリンテンを経由して皇帝直轄領の城へと出向き、皇帝陛下に謝罪と、そして皇帝が養父に持ち掛けていたらしい議題について受け取り、大急ぎで処理して、学校に飛び返った。
あの時は養父のせいで十日も学校を欠席することになり、前期の学期末試験でもアルトゥールとマクシミリアンに負けて三位だったのだ。
今思い出しても、実に忌々しい思い出である。
しかしなるほど。確かにあのタイミングであれば、聖都の学校に嬉々として飛び返ろうとしていたリディアーヌが目撃されていたとしてもおかしくはない。
「驚きました……確かに、そんなことが有りましたわ。殿下はあの時、リンテンにいらしたのですね」
「開講シーズンにカレッジの制服を纏ったレディがいるというだけでも目立ったが、何と言ってもあの時の麗しさは言葉にならない。聞けば、ヴァレンティン家の姫君であるというではないか。あの時の興奮を何と言葉にすればいいのか!」
元々仰々しい人ではあるけれど、その言葉には殊の外熱が籠っているようだった。よもや全く知らぬうちから、この人にそんな風に目を付けられていただなんて。
「私はてっきり、成人式の時が初対面なのだとばかり」
「実に口惜しいことに、貴女への求婚はことごとく大公に阻まれてしまいましたからね」
ちょっとなんですって。またですか、叔父様。なんであの人はこういう話を何もかも娘に黙って破り捨ててしまうんですかね。確かに精神衛生上問題があるとはいえ、これもある意味重要な情報源だというのにっ。
「ぞ、存じませんでしたわ……そこまで私を想ってくださっていたなんて……」
あぁ、なんだか頭がくらくらしてきた。
正直嬉しいという感情からは程遠いが……こうなると、あまり度の過ぎた演技を続けているのも良からぬ誤解を生みそうで怖い。少しくらい突き放すべきか。
「ですが殿下、私は……」
「まぁ、大公の許可などどうでもいい」
「え……?」
あれ。グーデリックが変なことを言い続けているせいで、眩暈が。
いや……冗談ではない。先ほどから何やら目の前がくらくらとして……。
「貴女が私に興味を持ってくれたことがとても嬉しい。ましてや今日はそのような私好みの恰好で会いに来てくださるなど。あぁ、どれほど私が興奮しているのか、お分かりになりますか? この思いをぶつけたくて仕方がないものを、どれほど我慢しているのか」
あ、なんかやばい。頭がぐらぐらとして瞼が重たい。まるでお酒が全身に回ったかのように熱っぽくて、思考がふらつく。叔父とは違ってお酒には弱くないはずなのに……酔った? いや、まさか。そんなにがぶがぶとワインを飲んでいたわけでもないのに。
「ですが公女……少しばかり、奔放が過ぎましたね」
カクンと体から力が抜けて、目の前の食器に突っ込みそうな体を咄嗟に無理を利かせた腕で支えた。それでもガシャンと食器が弾み、体がテーブルに沈む。
「ッ、姫様!」
瞬時にイザベラ達が動いたのが視界の端によぎったけれど、彼女達が行動に移すよりも早く、がちゃがちゃと鎧を鳴らして周りを取り囲んだ連中が三人を取り押さえた。これはいくら何でも、多勢に無勢だ。意識が朦朧としていく中で、ひとまず必死に視線だけで、暴れず様子を見るよう訴えかける。
カツンカツンと大手を振って歩み寄ってきたグーデリックの香水が、長らく鼻についていた卓上のお香の香りを遮った。あぁ……そういえばあのお香の事。うっかりと、聞きそびれていた。
「あぁ、おいたわしい、我が姫よ。だがそのトロリとなさった目がまた情欲を駆り立てる。まったく、何と罪なお方だ」
「……なに、を……」
あぁ、駄目だ。言葉も絞り出せない。なんとか意識を保つべく体を鞭打ちたいのに、その力も出ない。眠ってしまいそうだ。
「安心するといい。目が覚めた暁には、きっと貴女が望んでいた通り、とても刺激的で溺れざるを得ないくらいの快楽の中にいる事でしょうから」
くふふ、といやらしく笑うグーデリックの顔が近付いてくる。
重たい体が強引に引っ張り上げられ、だらりと腕にしなだれる。
あぁ、嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。吐き気がするほど嫌なのに、なんてことだ。体が動かない。でろりと嘗め回された頬に、唇が触れないよう必死に首をもたげるくらいしかできない。あぁ気持ちが悪い。
まったく、何て無様だ。それもこれも、全部アマーテオ卿……彼のせいだ。
きっと後で、フィリック達には散々怒られるだろうな。
でも仕方がない。その恨みつらみは全部アマーテオ卿に着せて、ついでにトゥーリに全部愚痴ってやろう。
そうしてすっきりしたら……とりあえずミリムに、癒しの手紙でも送ってもらおう……。
トゥーリと違って、きっと存分に甘やかしてくれるに違いないから。