1-37 竜の海渡り亭(1)
グーデリックに連れられて馬車で向かったのは、商会からほど近い中町内の中路地に面する店舗だった。てっきりフォンクラークの別宮などに招かれると思っていたから、拍子抜けでもあった。
別宮のような場所であれば警備も厳重で万が一という時に抜け出すのも難しくなっただろうが、この規模の店舗となるとその手の難易度はぐっと下がる。
店の周囲は上品というより、少々夜の雰囲気が深いというのか。アルコールの匂いと艶めいた女性の誘うような声とが飛び交っており、女性には少しばかり居心地の良くない通りかもしれない。だがそれはすなわち、夜遅くまで人目が有る場所ということでもある。
ふむ……何かいい情報が得られるのではと期待していたが、肩透かしだったかもしれない。
「殿下、ここは?」
「あぁ、何だったかな……」
チラと後ろを窺ったグーデリックに、ここまで口も挟まずしずしずと付き従ってきた王太子の従者が、「“竜の海渡り亭”でございます」と答えた。
確か、フォールという名だっただろうか。よく弁えた所作と冷静な雰囲気が、先日からなんとも王太子の従者にしては妙に感じていた男だ。
「竜の海渡り亭?」
「我が国の食材を取り扱わせている店だ。先の帝国議会の折にも多くの連中をもてなしたが、その誰もが今や常連だ」
そう得意気に店の中へと促され、リディアーヌも大人しくエスコートされながら足を踏み入れた。
言葉の通り、どうやら食事処としての店舗らしい。まだ真新しさを感じるから、きっとウォルマン商会と同じ頃に開かれた店だろう。商会を通じてフォンクラークの食材を提供し、そちらの料理を提供しているわけだ。悪いやり方ではない。
店内は、一階は開放的なレストラン。二階は半分がテラス席になっていて、リンテンの港町ではよく見かけるタイプの形をしていた。ただ珍しいのは通常二階か三階建てが多いところ、この店は四階建てで、周囲の店より頭一つ大きい。店舗の規模自体は周りと変わらないのに殊の外立派に見えるのはその高さのせいだろう。見た限り客席は二階までのようだが、上の階には個室かなにかがあるのだろうか。
今宵の招きは急なことだったはずだが、店舗の中に客はおらず、貸し切られているようだった。まぁ流石に、お忍びという言葉も知らないような一国の王太子が来るのに、一般客は入れてられないだろう。
案内されたのは二階席だった。
雰囲気はテラスなんかの方がいいだろうが、生憎と窓もカーテンが閉め切られいて、店内の薄暗さに拍車をかけている。代わりにどこの城から盗ってきたのかと言いたいような大きなシャンデリアがギラギラと存在感を放っていた。
そんな広々とした二階の中央に、ドンと一つだけテーブルが用意されていた。贅沢なスペースの使い方だが、ただ一人の貴賓をもてなすには最も適した設えである。
豪奢に飾り立てられたテーブルの端に、エスコートを受けながら腰を下ろす。グーデリックはその向かいに座った。たいして大きくないテーブルだが、貴賓をもてなすのにふさわしい席位置である。どうやらそんなところまで型破りするつもりは無いようだ。
何やらずっとベタベタされていたため、距離が離れてくれただけでもほっとする。すっかり慣れたきつい香水の香りも遠ざかり、ただ代わりにツンとしたお香の香りが鼻についた。テーブルの燭台の傍には花が飾られており、蝋燭の揺らめきと一緒に花の隙間からか細い煙が漂っているから、香りはこれが原因だろう。食事を楽しむはずの場に香りの強いものが置いてあるのは珍しい。フォンクラークの風習なのだろうか。
すぐにも何なのか聞いてみたいところではあったが、机の設えについて尋ねるのは食事中に行うのがマナーであり、食事が始まる前からそんな話をするのは無粋なことだ。まずは店主から来店を喜ぶ大業な挨拶と料理の説明がされ、食前酒が振舞われ、当たり障りない会話から始めるのが作法である。
「こんなに短時間で準備がなされているとは驚きました。最初からご計画なさっていたのかしら?」
「さぁ、どう思います?」
はぐらかすように言われたが、この様子は準備していなかったはずがない。思えばリディアーヌがウォルマン商会に入ってすぐ、グーデリックもやってきた。だとすると、はなから監視されていたのかもしれない。
警戒……されているのだろうか。ただその警戒がグーデリックによるものなのか、あるいは愚昧なグーデリックに代わってその周囲の者達がそうしているのかは分からない。
相も変わらず、グーデリックの従者の表情には“色”がない。リディアーヌへの警戒を見せる様子もないし、むしろ熱心に気を利かせてくれているくらいだ。
例えば、王侯貴族の晩餐では基本的に食器も配膳のための侍従も持参する。正式な正餐会ともなると主催者側が一手に準備するが、普通は自分の信頼のおける慣れた者に任せるのだ。だから本来、今宵もリディアーヌは侍従のマクスを同行させ食器も持参すべき所だったのだが、何しろ急なことだったため準備ができていない。
それにグーデリックの馬車に乗り込んだ時点で、マクス以下男の側近はすべてグーデリックに“来るな”と言わんばかりに爪弾かれている。まぁ元々マクスは侍従にしておくには惜しいくらい情報収集に長けているから、今頃フィリックが良いように使っていることだろうけれど。すなわちリディアーヌは今、晩餐に招かれる最低限の支度が出来ていないことになる。
フォールはそれについて、まず真っ先に「急なことでしたので、こちらですべてご用意させていただきます」と言った。普段ならそう言われても警戒しかしないのだが、困った王太子がこれまで最低限犯罪者にならずにいるのはフォールの尻拭いの成果なのだと思うと、これもフォールのせめてもの配慮であるようにも思えるというものである。
とはいえ毒見ばかりは欠かすわけにはいかない。本来毒見はメイドの役目だが、ここでは侍女に扮しているセーラが受け持ってくれた。彼女は薬師でもあるから、毒への耐性もあるし、薬の味にも敏感だ。フランカに任せるには忍びなかったためとても助かる。
逆に本来侍女の役目であるはずの食器の手入れはメイドに扮しているフランカが行っていた。店側が用意した食器類を確認しテキパキと拭ってゆく様子は、はたしてメイドと呼んでいいのかどうか。まぁしかしグーデリックもそんなところまでは気にしないだろう。
飲み物の類も基本的には毒見される。ただし、食前酒は別で、その場で詮が開けられ、店主が自ら注いでまわり、招いた主人側が先に口を付けることが毒見の代わりとなる。
「それでは公女。良き夜を存分に楽しんでくれ」
「期待しておりますわ、殿下」
ニコリと微笑んで杯を掲げ、グーデリックが口を付けたのを見てからグラスを傾け、唇を濡らす。ふむ。ごく普通の蜂蜜酒だ。少し発泡していてお酒を飲まない人でも飲みやすく、どちらかというと女子供向けの甘みの強いものだった。
店側はあるいは小娘に扮しているリディアーヌの服装のせいで年齢を見誤り、この甘ったるい食前酒をチョイスしたのかもしれない。少なくともグーデリックには似合わない。
アミューズにはこの港町特有の新鮮な魚介をマリネにしたものを。オードブルは、エビとひよこ豆のパテだろうか。おそらくフォンクラーク風の食べ方だろう。少し暖かくてパンにあう。ちびちびと口に含んで白ワインで流し込んでもいい。スープはエビの殻や貝類をじっくりに出した具なしの海鮮スープ。海沿いの都市ならではである。ただ味はかなり香辛料が効いている。この辺がフォンクラーク風の味付けなのか。できればこのスープは香辛料なしで味わいたいな……。
などと思ったところで、はっと我に返った。思わず夢中になっていた。
「実に楽しそうに食事をなされる」
「リンテンへの滞在ももう今日、明日ばかり。このような新鮮な魚介も最後ですもの。ヴァレンティンにも港町はありますが、城は山脈にへばりつくようにあって、中々こうも新鮮なままにはいただけません」
「我が国も王都は内陸の山沿いだが、港町からは川を上って運び込まれる。珍しくはない」
そうカツンとお皿をスプーンで突いたグーデリックは、もう飽きたとばかりにスプーンを置いて手を振った。ちまちまちびちびとしたものは嫌いなのだろうか。それを見たせいか、逆にリディアーヌは丹念にスープを飲み干した。
「……姫様」
丁寧にスプーンを置いたところで、新しいグラスを置いたセーラが傍らでボソリと咎めうような声色を発した。
うん。忘れてないよ? いつどこでパヴォの脅威にさらされるかだなんて警戒心。ちゃんと覚えてますよ……? 多分。
「こほんっ。それで、殿下。まさか本当に、ただ晩餐に招いてくださっただけということもないのでしょう? どういった意図なのでしょう」
「それは後のお楽しみです。まずは食事を楽しんでください。あぁ、このパンは最近、我が国で流行っている甘いパンです。アンパンといいましてね」
あまりにも堂々とスルーされた。うぅむ、やはり食事に何かあるのだろうか。
魚料理が並ぶ横でサーブされた丸いパンは、見たことのない色と質感のパンだった。いつもの白くて硬いパンではなく、しっかりと焼き目が付いた、見るからに柔らかそうなパンだ。上の方にチラチラと載っている小さな粒は……パヴォの種子ではなかろうか。合法の、香辛料としてのパヴォである。
これ自体に問題は全くないけれど、フォンクラークや一部南方の国以外では見ることのない香辛料である。わざわざそんなものをあしらっているのを見ても、フォンクラーク生まれのパンというのは確かなようだ。
でも魚料理に甘いパンって……まぁ勧められた以上、食べますけれど。
「……?」
手に取って半分に割ってみたけれど、驚くほど柔らかい。中には煮豆だろうか。黒くてどろりとした具が入っていた。フォンクラークの王侯階級は当然のように白いパンを主食とするが、庶民は小麦を薄く焼いたパンや、あるいは豆類を主食とするという。その辺の発想から生まれたパンだろうか。見た目としては中々抵抗を感じるのだが、とりあえず小さくちぎって口に含む。
ふむ。ふぅん。
「いかがかな」
「なんて柔らかいパンなんでしょう。中の煮豆だけでなくパン自体にも甘みがあるようです。それに……」
どうしよう。何と言ったらいいのか。
正直に言えば、食事を楽しみたいリディアーヌが今最も求めていないレベルの甘さであり、決して好みではない。この柔らかいパン自体は悪くないが、中の煮豆が砂糖をじゃりじゃり食べているかのような甘さだ。
あぁ、そういえば南方の国は紅茶にもドバドバ砂糖を入れるし、菓子もどろどろに甘くするんだった……昔、友人が甘い菓子に溺れるほど蜂蜜をかけているのを見てびっくりしたのを思い出してしまった。
そう。つまり甘い。とんでもなく甘い。角砂糖をさらに煮詰めたように甘い。
「とても甘いですね」
それしか感想が出てこなかった。
甘いものが好きなアルトゥールなら、喜んで食べそうかな。
ただ如何せん、強烈な甘さのせいで折角の魚料理の味がまったくしない。多分、香辛料と、それに生姜なんかがきいた凝った味わいの煮魚なはずなのだが、煮豆の味に口を支配されてしまっている。しかもこのパン、白ワインにまったく合わない。
このサーブ順で正しいのかと不審に思う所なのだが、実に不思議なことに、グーデリックは得意げにパクパクとアンパンとやらを口にし、ついでにワインも空にした。
なるほど……フォンクラーク人にとってはこれが普通のようだ。実に不可解である。
「ところでこのパンの上に乗っているものは、フォンクラークの香辛料ですわよね? 胡桃のような、香ばしい香りですこと」
「ほぅ?」
アンパンのおかげで、少なからず料理から気がそれた。そろそろ突っ込んだ話を始めてもいい頃合いでもある。このパンも、いい話題を提供してくれた。
「それをご存じなんですか?」
「昔、クロイツェンのロレック貿易港を訪れた時に香辛料市場に行ったことが有るんです。随分と印象的でしたから。確か、実は毒だけれど種子は香辛料になるとか」
「クロイツェンの? まぁ、我が国はかの国には色々と輸出しておりますからね。目に留まってしまうのも仕方ない」
あぁ、うん。そうだね。スゴイスゴイ。
「こういう使い方をするのですね。食べたのは初めてです」
「我が国ではいろいろな使い方をします」
「ウォルマン商会でも扱っているのですか?」
「……」
おや。返事が返ってこない。何やら意味ありげにジィっとこちらを見ている視線が、今迄とも違った雰囲気でいやらしい。
「私、何かおかしなことでも言いました?」
「ふっ。いいえ。本当に、好奇心旺盛なのだと」
「あら、前にも言ったではありませんか。私、カレッジを出てからこの方、何の刺激もない日々に飽き飽きしていますの。珍しい食べ物や食材くらいしか面白いことが無いのですもの。でも本音を言っていいのであれば、多少物珍しいものに興味を持つくらいで、私はまだまだ退屈をしていますわよ、殿下」
「それはいけない。もっと刺激的なものでなければならないようだ」
えぇ。そうそう。このパヴォの実なんかより、もっとわくわくさせてくれるような……貴方の横っ面を叩いて硬い牢獄にぶち込んで、ひぃひぃ言わせられるくらいのものでないと。




