10-40 パン売りの少女(2)
「貴女は? 貴女は少しでも彼に、ナディアに取るような態度を取られたことがある?」
「……一度、だけ」
一度? てっきり一度もないと思っていたのだが。
「彼に契約婚約を持ちかけた時に……そういう顔で笑いながら、試された気がします」
「あぁ」
そういえばそうだったか。
だがそれはヴィオレットが落ち星としての記憶の中で行ったことの模倣でしかない。ヴィオレット本人の才覚ではないし、結局アルトゥールもその後のヴィオレットにあの取引を持ち掛けてきた時のような生意気さと大胆さを感じることはなく、危険な人間を逃がさないようにとチヤホヤしてみせたところですぐにコロリとおぼれたただの少女に、たちまち興味を失ったのだ。
ヴィオレットはそんなことも知らないで、他では見せない甘い“演技”に、それが自分だけの特別だなどと勘違いしたのだろうか。
「でも私は彼の友人になりたかったわけではありませんっ。それに、アルはいつも優しくっ」
「……ふぅ」
あぁ、やっぱり。分かっていないのだ。
「言いたくないけれど……私、トゥーリには両の手では足りない程度には告白されたことがあるわ。わりと私は彼の“好み”なのだと自負しているわ」
「ッ……しって、いま、す」
悔しそうな顔をされたが、別に自慢したいわけじゃない。
「その私が言うのよ。トゥーリの愛着は、優しく微笑んで甘い言葉を囁く様な可愛らしいものじゃないわ。好きになればなるほど、わざと気に障ることを言って、自分じゃなくて相手の愛情を測ろうとしてくる困った人なのよ。私だけじゃなくて、ミリムやナディもその被害者ね。それで反論すればするほど執着する、歪んだ人よ」
「っ……」
だから反論されないこと自体が、彼の本当の愛着を知らないということなのだ。
一度興味を持ったものへのアルトゥールの執着ときたら、遠く離れた国にいてさえ逃れられないほどだ。なのにそれを知りもせずヘラヘラと傍に入れたというのだから、よほど頭の中がお花畑なのか。いっそ羨ましいくらいである。
「私は……アルに、少しも好かれていなかったというのですか?」
「さぁ、私だって何から何まで知っているわけではないもの。でも貴女がそう感じているのなら、そうかもしれないわね」
「……」
あぁ嫌だ嫌だ。せっかくの休日だったのに、なぜこんなところで私は聞きたくもない話を聞かされ、悩み相談に乗ってあげねばならないのか。
「教えてください……私の、何が駄目だったんですか?」
「はい?」
「確かに、アルの妃になるだなんて……原作通りではありませんでした。でもリュシアン兄様には受け入れてもらえたんですっ。なのに私の何が足りなくて、アルに好きになってもらえなかったんですか?!」
いや、そんなことを言われても。リディアーヌは彼女の言うゲンサクとやらを知らないし、クロイツェンでの彼女の生活を知っているわけでもないのに。
だがこのまま『そんなの知らないわよ』と突き放したところで、納得して解放してくれそうな感じはしない。どうしたものか。
「そのゲンサクとやらで貴女はリュスと結ばれるはずだったそうだけれど。えっと、そうだったわよね?」
「……はい」
「それってそもそも、リュスが貴女を好いているからなの?」
「……」
口ごもるということは、そうではない可能性もすでに考えたことがあるのだろう。
元より、リディアーヌにとっては聞いた時から首を傾げるばかりの話だった。
多分リュシアンは、誰にでも当たり障りなく接して見せる傍ら、極度の人間不信を患っている。その生い立ちを思えば無理もないことだ。それがただの幼い頃の幼馴染だからと、ブランディーヌの娘を本気で好いて、本気で王妃になどと望むものだろうか。
「償い、ではないかしら」
「っ……」
「リュスが今私に向ける感情も、大半がそれよ。そして貴女に抱いているのも、自らの手でオリオール家を断罪したことへの貴女への罪悪感とか……そういえばゲンサクとやらではブランディーヌは失脚しないのだったわね。だったらブランディーヌに対する人質か、そうやってブランディーヌを宥めることで平穏を得ようとしたのか、それともそういう困難に身を置くことこそが自分の罪の償い方とでも勘違いしたのかしら。どれも彼らしいわ」
「償い……」
今にも泣きだしてしまいそうなヴィオレットに、この程度で? と息を吐く。
やはり彼女は、ちっともこの世界に向いていない。利害のない関係なんて存在しないというのに、たかだかそんなことだけで心を痛めるのだから、なんて脆弱なのだろう。
「私は皆の表面的な笑顔しか見れなくて……何も、分かっていなかったということですね」
「そんなものは王侯貴族の標準装備でしょうに」
追い打ちをかけてみたが、もうすっかりと消沈しているらしいヴィオレットはそれを素直に受け止め、深く頷いた。
ようやくちょっとくらいは可哀想なヒロインごっこの夢から抜け出せたのだろうか。
「アルは……アルトゥール殿下は、私が思っているよりもはるかに皇太子殿下でした。いざとなれば、きっと最愛の人であっても簡単に切り捨ててしまえるような、そういう人なんですね」
「ええ、そうよ」
「それと並び立ちたいなら、私もそうならなければならなかった。でも私は……」
そうはなれない。
「ふふっ、私、なんて滑稽なんでしょう。勝手に憧れて、勝手に好きになって、それで今は彼のことも知らずにいたくせに、勝手に失望しています。でも私が感じているのは利用されたことがどうこうとかじゃなくて、そこに恋心が無かったのだというショックだけで……つまり私は所詮、その程度の、そこら辺の平凡な女の子と変わらない、そういう、その程度のものだったんです」
「今更ね」
さらに追い打ちをかけてみたところで、ヴィオレットの面差しは変わらず、やはり深く頷くだけだった。
ただしょんぼりと落ち込んでいる姿は、その恰好の通り、ただの町娘にしか見えない。こんな町はずれの屋台で店を出し、客に笑いかけながらお釣りを渡していたその顔は、きっとクロイツェンの暗くて冷ややかな城の中ではできなかった顔だろう。
だから今こんなところで息抜きにそんなことをやっていたという事実自体が、彼女が無理をしていた証拠なのだ。
はなから彼女には、為政者側の世界に身を置く覚悟も力もなかった。それにもっと早く自覚を持てていたら、こんなにも長い間迷わずに済んだだろう。
なのに今の今まで彼女をその場に引き留めていたのは、彼女の未来を知っているという言葉を危険だと思った為政者達の政略のせいだ。彼女はそれにすら気が付かずに浮かれていただけの、ただの憐れな女の子でしかない。
まったく……同情する。だからナディアは、少し強引にでもそこから彼女を引きはがし、遠ざけたのだろうか。こうして彼女に夢から覚める機会を与えるために。
「性格なんて、生まれ育ちである程度決まって、そう簡単に変える事なんて出来やしないものだわ。貴女はオリオール家の生まれではあったけれど、落ち星としての前世の記憶とやらがあるのでしょう? それは到底、私達の世界にとけ込める思想ではなかったわ」
「……はい」
「それでもやり様はあったでしょうけれど。でも貴女の一番の失敗は、未来を知っているからと過信して、周りを見て、それに染まるということをしなかったことよ。はっきりと言うのであれば、貴女はとても“独りよがり”で“傲慢”だった」
それはリディアーヌが一番腹に据えかねていた場所でもあったのだけれど、これについてはヴィオレットは何故か困った顔で首を傾げた。やはりそこについての自覚は無かったようだ。
今までもそのせいで散々間違ったはずなのに……誰もそれを彼女に教えなかったのだろうか。
「貴女、ベルテセーヌでは随分とあれこれと真新しい物を持ち出して、随分な富を築いたそうね」
「っ、私、別にお金が目的じゃっ」
「そんなのはどうでもいいわよ。いえ、むしろ物を売っておいて富が目的じゃないだなんて、商人達に嫌な顔をされるわよ。嘘でもそういうのは口にすべきじゃないわ」
「え?」
ほら。こんなところでも小さな食い違いがある。
きっと彼女の“前世の記憶”の中ではそうではないのだろう。謙遜も無欲も尊いものなのだろう。だがリディアーヌの知る商人の世界は、どれほど素晴らしいアイデアを思いつくかで有り、どれほど物を売るのかであって、築いた富こそがその人の成功の証であり、素晴らしい商人であることの証だ。目的もなく富を築いている人がいたなら、それはなんと傲慢で欺瞞な人間に見えることだろうか。
リベルテ商会はよくもまぁこんな人物を上手く扱ったものであるが……いや、ヴィオレットが商人ではなくそれを後見する貴族のお嬢様という立ち位置だったからこそ、彼らの関係は上手くいったのだろう。
「貴女、今のベルテセーヌで、貴女の残したものがどうなっているのかをご存じ?」
「……それは……ベルテセーヌは、私と商会は活動できなくなっていて……」
「それでもクロイツェンの皇太子妃なら情報くらいいくらでも得られるでしょうに、何故しなかったのかしらね」
「……」
「貴女が広めた菓子類は、変わらず流行っているわよ。でも貴女の“庶民でも気軽に楽しめる”だなんてコンセプトは完全に消えて、富裕層の嗜好品として落ち着いているわね」
「そんな……」
「何もおかしなことではないわ。貴女がその真新しい菓子にふんだんに使った砂糖も生のミルクもスパイスも、すべて菓子になんてする余裕があるほど安いものではないもの」
「そんなことありません! リベルテ商会ではちゃんとそれでっ」
「オリオール家の広大な領地で、オリオール家の為に働く商会が、オリオール家のお嬢様のために仕入れてきた物品よ。それはすべてオリオール家がバックにいたから可能だったもので、それはオリオール家の税収を削って得られたものでしかないわ」
「ちがっ……」
反論は受け付けない。違ってなんていない。だから今、旧オリオール領が王家の直轄領となってリベルテ商会に対する特別な措置が存在しなくなった結果、それらの菓子は富裕層の少しの贅沢品として落ち着いたのだ。
「貴女の広めたドレスもそう。同年代の女の子達には随分と受けたそうね。アンジェリカも好きと言っていたわ」
「それにも何か問題があると?」
「貴女も皇宮の昼餐会の時にペトロネッラ様に何か言われたのではないの?」
「……」
なるほど。言われたけれど納得できなかったわけか。ペトロネッラ様は一体どういう注意の仕方をしたのだろう。
「正式な場で身に着けるには、淫らだ、と。でもコルセットは健康に悪いんです! 世の女性達はあんなに締め付けて苦しい思いをする必要なんてないはずで、私のドレスは可愛さも華やかさもありながらそれを解消してくれるものでっ」
「それは“私たち女性”にとっての“楽”でしょう? 楽は、つまり楽な場の服ということじゃない」
「え?」
「コルセットをしないドレスが娼婦のドレスであることくらいは知っているわよね?」
「……でも、そう見えない工夫は」
「娼婦のドレスと言われる理由は、コルセットによって固く肌を隠し他人に触れさせないよう自衛している淑女たちと違い、誰でも容易く素肌に触れられるからよ」
「きっ、貴族の社交場でそんな話っ」
「あるわよ」
巷を良く知っていると聞いていたはずだが、思いのほか世間知らずだ。彼女は紳士で堅物な顔をした貴族の男性達が、お堅い淑女たちに遠くから礼を尽くし甘い言葉を囁く裏で、“脱がせやすい”女の肌をむさぼることを知らないのだ。
「私だって、ぎゅうぎゅうに締め付けるコルセットは嫌いよ。楽できるものがあるならその方が嬉しいわ。でも社交場では嫌でもコルセットを身に着けるし、分厚いタイツも重たいスカートも、甘んじて受け入れるわ。私は楽な恰好よりも、殿方達に色めいた目で嘗め回すように見られる方が嫌だからよ」
「……でも悪いのは、そういう目で見る殿方達です。私達には自由な恰好をする権利が……」
「そうね。でも時と場と広め方を、貴女は間違った。コルセットを脱ぐということは、“そういうことをしていいです”と言っているようなものよ。少なくとも今の殿方達はそう思っているわ。なのにその意識改革もせず、貴方達なんて知らないわよとばかりに自分の意を通した。それでいて“嘗め回すように見るだなんて失礼です”だなんて、我儘にもほどがあるわ。殿方達も可哀想よ」
「……」
「貴女が国を去って以来、令嬢達もまとわりつく視線の方が嫌になったのね。夜会であのような恰好をすることは無くなったわ。代わりに女性達の昼間のお茶会やサロンでは、コルセットを楽にしたスタイルも見慣れてきたそうよ。男性の居ない場でそうして寛ぐことは受け入れられたということね。そもそも私も、外での仕事が無ければ城ではそういう恰好をしていることも多いし、彼女達もそうだったんでしょう。その手のスタイルのレパートリーが増えたことで、今はそうしていられる場の範囲が少し広がったという感じかしら」
ヴィオレットは、その発想自体は間違っているわけではないのだ。彼女の生み出したものは確かに受け入れられているし、広まっている。ただそれはすべて彼女の思った通りの場所ではなく、受け取った側にとってより良い場所での使い方へと改められ、定着した。ヴィオレットの間違いは自分が良いと思ったものを良いと思った場所で広めようとしたことで、それに対してあまりにも独りよがりで、周りを見なかったことなのだ。
彼女が考えたものを享受するのは誰なのか。それによって周りが何を思うのか。誰がどんな思いをして、どんな変化が訪れるのか。
急速な変化は良くも悪くも騒動を引き起こす。その時、その影響を考えて差配できるかどうかが大事なのであり、そしてそれを上手く操ることが、流行を牽引する貴族の貴婦人達に求められるスキルだった。
だがヴィオレットはそんなものをすっぱりとかなぐり捨てて、ただ好きなことを好きなように広めた。くしくも彼女はベルテセーヌで比類する者のいない大貴族の令嬢で、王太子の婚約者だった。そんな人が広めれば、同じ年頃のレディー達もそれに追従しないわけにはいかない。彼女はそんな自分の影響力も、分かっていなかった。
権力なんて嫌い、いらないなんていいながら、自分がどれほどその恩恵を受けていたのか。クロイツェンではベルテセーヌの時ほどの大きな混乱は起きていないみたいだから、実に上手く周りが……アルトゥールや皇妃陛下などが調整していたのだろう。そうして彼女はさらに、自ら考え学ぶという機会を失った。
「貴女の間違いは、作り出すことと広めることを両方したことね。貴女がなりたいのはどっち? 何かを作り出すこと? それともそれを貴族社会に浸透させ、意識改革し、定着させてゆくという社会変化をもたらすこと?」
「……わたし、は……」
聞かずとも分かる。彼女がやりたいのは“前者”なのだ。あるいは後者もやりたいのかもしれないが、それがどれほど自分に向いていないのかはもう分かっているはずだ。世間を何も知らない彼女にそれは、向いていない。
「私は貴女の人生に口を挟むつもりは無いし、もし今後それで迷惑を被るとして、その時は公女として真正面から潰して差し上げるわ。だから気にしない」
「……」
「でももし今後も何かを作り出すことと広めることをやめられないというのであれば、せめて思いついたものを実行する前に、生産地の現実、市場の影響、そこに住んでいる人の生活と風習を知り、歴史と伝統に対する敬意を持って、よく考えてから広めて欲しいと願うわ。私は今までの貴女のやり方を強く非難するけれど、でも貴女がこれまで食用とされなかったものを食用として広めたり、気候に合わせて新たな名産品が作れることを提案したりした点については、悪くなかったと思っているわ」
「リディアーヌ様……」
思わずポロポロと涙をこぼし始めたヴィオレットにうんざりとして、息を吐いて背を向けた。




