10-35 父の肖像(4)
「それを初めて耳に出来たのは一年前、クロイツェンから皇宮へと向かう道中の、お祖父様の墓前でしたね」
「……そういう意味で言ったわけではない」
「おかげですべての愁えと申し訳なさが無くなりました」
ザクセオン大公はあくまでも、皇帝戦においては自らの目で見て決めればいいと、そんな正義を説いたつもりだったのだろう。だがそれが何故か予期もせぬまま、マクシミリアンの祖国への裏切りと、ヴァレンティンへの家出という結果を引き起こした。
改めて考えてみると、思わず大公閣下に同情しそうなくらいの奔放ぶりである。そんなはずではなかったろう。
つい眼差しが同情的になってしまったところで、「ちょっと、リディ。今何考えてる?」とお隣から突っ込まれてしまった。ごほんごほん。
「大体、貴方の偽善なんて必要ないんですよ。それが私達の何を守ってくれるというのか。義母の嫌がらせも、時に過激な行動も、貴方は何も知らないし、関心もない。いや、関心を持ってしまっては困ると分かっているから、見て見ぬふりをする。私もそれを知っていたし、もっと言えばトルゼリーデ妃もそれを知っていたから、段々とやり方にも苛烈さが増していった」
「……」
「別に大したことじゃありませんでしたけどね。それこそ私よりはるかにサバイバルな生活を送っていたらしいリディのことを聞くにつれて、うちの義母はなんて手緩い人だったんだと感心したくらいです」
「私と比べるのはどうかと思うわよ?」
こう言っては何だが、一国の国主の家庭とはいえ、所詮は家庭のいざこざ。帝国皇帝が厄介な元王女を脅すのとは規模が違う。
「でも飽き飽きはしていました。一生こんなものに悩まされながら大公を名乗るのかと思えば、国主の座よりも面倒臭さの方が勝ちましたし、そのたびに憤る姉上を諫めるのにも疲れていました。こんなことで可愛がっているレヒトが申し訳ない顔をして小さくなるのを見るのも、辛かったです」
「……マクシム」
「あぁ、その呼び方も。いい加減、やめてもらえませんかね」
少し鋭くなった語気にピクリと大公が口を噤む。それに気が付いたのか、「いや、反抗心という話ではなくて」とマクシミリアンは困ったように頭を掻き乱した。
「私は貴方にもそう呼んでもらいたかった。友人達がどうしてそう呼ぶのかを、貴方に聞いてほしかった。私は、“ミリム”としての自分が気に入っているんですよ。友人を揶揄って悪態を吐かれ、リディにちょっかいを出してため息を吐かれる。でもどちらもこっちが気落ちしそうな時はその前に必ず甘やかしてくれるんですから、まったく、沼ですよね」
「えっと……そんなことしたかしら?」
「計画的なトゥーリと違って無自覚なのがリディのいいところだよね」
そんなことを言われても、本当に思い当たらないのだが。
「自分で未来を切り開いてきたリディは、私にとって英雄です。私にそれだけの思い切りがあれば、とうにこんな中途半端から抜け出せていただろうに。だから私はそのための行動を取ることができた“ミリム”としての私が好きです。おかげでリディも無事に転がり込んできましたし」
「こほんっ」
「ただ憐れなのは姉上です。あんなにも姉上を想ってくれる人を旦那にしていながら、まだ私に執着する。そうしなければいけないのだと、ずっと何かに追い詰められたみたいに生きてきた人です。でもそれは貴方の責任です。私はそれなりに、父上がトルゼリーデ妃を迎えねばならなかった理由も、母上を重んじてくれていた気持ちも存じています。でも母に愛されていた姉上には到底受け入れられなかったのでしょう。なのに貴方はそれと向き合うこともせず、目を背けた。そのツケです」
マクシミリアンがザクセオンを離れた時、ペトロネッラはまず最愛の弟の前に、不義理に従って弟の立場を危うくした父を恨んだことだろう。
ザクセオン大公がそんなだから、弟は家を見限ったのだ。父が私達に関心を持っていないから、誰も可愛い弟を追いかけてくれないのだ。自分がこれほど求めているたった一つの幸せが得られないことは、すべて不義理を犯した父のせいなのだ――。
ヴァレンティンでは絶対に起こり得ないことではあるけれど、同じ娘として、リディアーヌにも全く分からないではない感覚かもしれない。思えば実の父についても、母との結婚前とはいえ、密かに離宮に弔うほど、他に想う人がいたのだと知った時にはひどく裏切られた気持ちになったものである。
「ですが勘違いしないでください。繰り返して言うように、私自身は別に貴方を恨んではいませんし、そんな顔をされたいわけではありません。姉上にとっては許せない父でしょうが、私にとってはまぁそれなりに好き勝手を許してくれた懐深い父ですし、選帝侯家の公子の立場はそれなりに有益でしたし、便利でした」
それはちょっと、身も蓋もない気がしないでもないのだが。
本心? それともただの皮肉なのか?
きっと前者なのだろうが、大公には後者に思えてならないのだろう。顔色は益々悪くなるばかりだ。
「ただ姉上のような妄執にもこりごりですから、私は貴方達から存分に学んで、同じ下手は打たないようにとは思っています」
「……あぁ」
短く自分の後悔を含んで頷いた大公に、何故かマクシミリアンはここぞとばかりににやりと笑う。
「そうですか? 父上もやっぱりそう思いますか?」
「……そんなにも私を責めたいのか?」
「いえ、まさか。同意が欲しいだけです」
「いくらでも同意しよう。私が不義理だったのだ。私がお前達姉弟を苦しめた元凶で、お前をそんな風にした原因なのだろう。お前達の苦労から目を背け、気付かぬふりをし続けた。そのくらい乗り越えられなくて何が公子かと……そう、幼かったはずのお前を突き放した。それを後悔しているが、そんなことを言ったところでお前には何の意味も……」
「あぁ、その辺はどうでもいいです」
……どうしたものか。大公閣下の顔が益々ひどくなるのだが。
「ちょっと、ミリム……」
「うーん、困ったなぁ。別に本当に、心の底から責めてなんていないんだけど。何で伝わらないんだろう?」
「貴方の顔が胡散臭すぎるからではなくて?」
「え、それはどうしようもないよ。だとしたらそれは私をこの顔に生んだ親のせいだから、自業自得と諦めてもらうしか……」
酷い顔の大公閣下とは裏腹に、リディアーヌの顔にはくすりと笑みが浮かんだ。
いい加減大公閣下も、自分の息子がこういう性格なのだと理解すればいいものを。そうできないのは、閣下の中の“マクシム”が、お利口で従順で優秀な、そういう幼い頃の姿のまま時を止めてしまっているせいなのだろうか。
「つまり父上。私はそんな父と姉に学んだので、同じ不義理をしでかす気はないんです。何しろ私はもうリディ無しには生きていられない体にされていて……」
「ごほんっ!」
大きな咳払いで窘めたら、してやったりとばかりにマクシミリアンはカラカラと笑うのだから、始末に負えない。大公閣下はもっと、この長男なのに悪戯好きで甘えん坊な末っ子気質の息子のことをよく知るべきである。
彼はこうして、度の過ぎた言葉を“叱ってもらう”ことにさえ、愛情を感じている。いや、むしろ好き好んでそうやって、叱るほどの関心を得ていることに安堵を感じている。
事実、彼にとっての父はそんなこともしてくれないような“他人”だったのだろう。
「つまりお前は、もうザクセオンに戻ってくる気はないのだな?」
「ええ、微塵も。証が必要なら、どうぞ破門でも追放でもしてくださって構いません。あぁ、レヒトのためにもそのくらいあった方がいいかな」
「ッ、マクシミリアン!」
さすがに大公閣下の口から咎めるような怒号が飛んだけれど、まるで意味が分からないとばかりに首を傾げているマクシミリアンにはそれ以上の言葉が続かなかったようだった。
なんてことだ。彼にとってはそれが“なんてことないことだ”だなんて思うほどに、ザクセオンを無価値に思っていたのだろうか。それは彼を跡取りと信じてやまなった父親にとって、この上ない皮肉であり悲劇である。
だが同情はしない。むしろこの底抜けに辛抱強い男にそんな感情を抱かせたことに、怒りさえ抱きそうなくらいだ。
そんな心地で隣を見てしまったせいか、「何か変なことを言ってしまったかな?」と、マクシミリアンは苦笑を浮かべてその心配を拭おうとした。
「別に悪い意味で提案しているわけではないんだけど。父上も、そんなに神経質にならなくていいですよ。リディやヴァレンティン閣下は、私が何の役にも立たない森の狼であっても十分に拾って養ってくれそうですし」
「すでにその心地よ」
これは本心である。
「この通り、ヴァレンティンは居心地がいいんです。私がありのままでいてくれることを許してくれて、悪いことをすれば叱り、いいことをすれば褒めてくれる。そんな当たり前のことが存在している場所です。これを失うくらいなら、後ろ髪を引くものなんて何もない方が気楽なくらいだ」
「……」
彼の家には、そんなものさえなかったのだ。
そう知らしめているような言葉に大公閣下が言葉を失っている内にも、マクシミリアンは呑気にお気に入りの蜂蜜をたらりと傾け、スコーンを蜂蜜まみれにする。
こんな行動の一つ一つをちゃんと見て、気にかけていれば、彼が本当に何の皮肉もなく、ザクセオンが嫌いなわけじゃないと言っていることが分かるだろうに。でもそれさえも伝わらないのは、こんな行動すら“反発”なのだと思い違いしているからなのだろう。こんなにも幸せそうな顔をしているというのに。
「やっぱり蜂蜜の種類、もう少し増やす?」
「いやいや、別にあてつけてるわけじゃないよ?」
「でもそんなに幸せそうな顔をされたら、我慢してね、だなんて言えないじゃない」
「え、そう? そんなに幸せそう?」
「貴方はクローバーの蜂蜜がお気に入りなのね。クローバーくらいならうちでも出来るんじゃないかしら。婿入り道具の中に養蜂家という人材を放り込んでくれてもかまわないわよ?」
「何だろう。リディが言うと私のためじゃなくて、ヴァレンティンの繁栄のためと言っているように聞こえるんだけど」
「私は、うちの繁栄にもならなような甘いだけの餌を与えるお人好しではございません」
「ふふっ」
ぞんざいに扱えば扱うほどいい顔になるのが、最近少し癖になって来た。
あまり変な趣向に目覚めさせないでもらいたい。
「そういうわけだから父上、ちょっとでも罪悪感を感じるようなら養蜂家を下さい。あぁ、何なら定期的に色々と贈って下さってもかまいませんよ。リディ、他に欲しいものは無い? いい機会だよ」
「そうね。カッフェの販路についても知りたいけれど、輸送は難しいものかしら?」
「いや、それなら私も知っているから盗ってしまおう」
「え……」
「チョコレートはすでに手配済みだから、あとは何がいいかな」
「紅茶は? ザクセオンはリンドウーブと専売契約をしている農場がいくつかあるわよね? うちはリンドウーブとは交易が少ないから、いい紅茶はあまり出回らないわよ」
「私はヴァレンティンの青茶も好きだけど。よし、贔屓の商人にも声をかけておこう。リンドウーブの商人を介すればヴァレンティンとは海上貿易がしやすくなっていいしね」
「うちの港町に商会を開かせましょう。アルテンからも招致するつもりで空けさせている土地があるの」
勝手な話をしている内に段々と我に返ってきたのか、「ごほんっ」という大公閣下の咳払いが二人の意識を引き付けた。ようやくちょっとは立ち直って下さったのだろうか。遅すぎである。
「つまり……なんだ。お前が十分に、自分にとってより良い方を選んだのだということは分かった」
「遅すぎますよ。やっとですか?」
「ごほんっ」
マクシミリアンもさすがにまどろっこしさに飽きてきたのか、言葉が随分と投げやりだ。
「ミリム、もう少し閣下に優しい言葉をかけてあげたら?」
「え、やだよ。だってこの人、私が散々、もうこれでもかっていうほど、リディが可愛い、リディが好き、結婚したい、って言いまくってたのに、全部聞き流して『そうかそうか、それは無理だな』としか思ってなかったんだよ。ひどくない?」
「ご、ごほんっっ!」
「……」
どうしよう。大公閣下にしびれを切らしすぎたせいか、まったく歯に物を着せる気配がない。このまま下手なことを言っているとこっちまで恥ずかしい思いをしかねない。残念だが、大公閣下には理解を諦めてもらおう。
「つまり父上。私にとってリディは、私のたった一人なんです。不義理を犯す気もなければ、この命を捧げるほどに、想っています。貴方がちっとも信じてくれなかったその言葉がすべて私の本心であったことを知って下さい。他の何を知ってくれる必要もありません。ただこれだけは、知っておいてください」
「……分かった……」
ようやく必要だった言葉が得られた心地だ。
追放だなんだは有耶無耶になったけれど、それは敢えて閣下がそうしているのだろう。下手に突っ込めば本気で絶縁状でも突き付けかねない息子であることが理解できたはずだ。
「だがマクシム……マクシミリアン。ペトロネッラは、お前のその決断に怒り狂うだろう」
「……」
たちまちスンと冷たく冷ややかになった眼差しに、リディアーヌはその手をきゅっと握りしめてやった。
大公閣下を恨んでいないというのは事実だろうけれど、彼にそんなことは言われたくは無かったのだろう。姉がそうなったのは彼のせいなのだから。
「リディ、聞きたいことはもう全部聞いた?」
「……えぇ、聞けたけれど……」
「じゃあ帰ろう。もう話すことも無いし」
「……ミリム」
先程までの温度のある声色ではない。よほど気に障ったらしい。
確かに、これ以上いたところで無益な時間だ。「そうね」と答えて差し伸べられた手を取り席を立ったところで、何故、何が気に障ったのかが分からない様子の大公閣下の戸惑うような視線が追いかけてきた。
「父上はご存じないようですが、その姉上はすでに、最愛の弟とやらが自分の思い通りにならないと知るやいなや、花瓶を投げつけ襟首を掴んで、どうして自分を悲しませるのかと刃物を突き付け脅しをかけて、言うがままの人形であることを誓わせようとした後です」
「ッ……」
「あぁやっぱり。知らないんですね。貴方の城で、貴方のいるすぐ傍で起きた事件ですよ。でも私が頭にコブを作ろうが首を絞められた痕を残そうが血を流そうが、そんなのは“いつものこと”なので、誰も報告なんてしなかったんでしょう」
「ッ、マクシムッ、それはどういうッ」
マクシミリアンは詳細を尋ねようとした大公閣下に見向きもせず、少し強引にリディアーヌの手を引き、そのままつかつかと扉を目指した。
思わず彼の腕をつかむ手に力がこもってしまったのは仕方がないことで、胸いっぱいに広がった痛みに共感と既視感を感じたのは、それほどまでに彼のことが我が事のように愛おしくなってしまったからなのだろう。
彼が今少し、息子に関心を持っていたならば。
今少し心を止め、一人の人間として向き合ってあげていたならば。
彼を守ってくれる、“家族”であってくれたなら……。
「ミリム、最初の二つは聞いたけれど、刃物は初耳よ。私に隠し事をしたのね」
「え、そうだった?」
「帰ったらお仕置きにしましょう」
「リディのお仕置きって何だろう。ちょっと興味がある」
「うーん……甘いもの断ちとか?」
「リディアーヌさん……」
あら、効果覿面みたい。
くすくすと笑いながら、でも表情とは裏腹のひんやりと白くなった手に、見捨ててたまるものかとばかりにきつくマクシミリアンの手を握り締めた。
握り返す手はそれ以上に力強くて、沢山の恨み言と、けれどそれ以上の“諦め”という悪い癖によって放り捨てられた感情が痛いくらいだった。
そんな彼が、どうしてもと執着して諦めなかったものがリディアーヌであるのなら、それは一体どれほどの切なる願いであったのだろうか。
今はただ、この手を振りほどかなくて良かったと、ただただそう思う。
「効果がありそうだから、このお仕置きにしましょう。とりあえず三日から」
「く、果物は? 果物は甘いものに入らないよね? 蜂蜜は? えっと、えっと……」
三日後に備えて、マーサには城下で色々な種類の蜂蜜を買い漁ってもらおう。
ザクセオンなんて頼る必要はない。ヴァレンティンが、ヴァレンティンの持てる力の限りを使って、もっと幸せなものがある事を教えてあげればいい。
この冬には林檎だけではなくて、梨や杏も蜂蜜に漬けよう。チョコレートが手に入るようになったら、オランジェットも作ってもらおう。
沢山の甘やかなまどろみの中で、もう二度とそんな顔で諦めを口にしなくていいように。
貴方は私が、幸せにしよう。
貴方が私にくれた分だけ。いや、それ以上に沢山。
貴方にはそうされるだけの価値が、十分にあるのだから。
それを知らない人達に、貴方の優しさは勿体ない。




