10-34 父の肖像(3)
「身勝手だわ……」
思わずリディアーヌが呟いた言葉に、どこからも批難も反論も飛んでは来なかった。
そう。皆が分かっている。これはそんな、身勝手な話なのだと。
少しの間、その身勝手に対する憤懣を諫めるための沈黙を選んだリディアーヌに、大公も時間をくれた。
道理で……養父が頑なに口を閉ざし、父が『娘には言うな』などと命じるはずだ。
つまり先の皇帝戦でクリストフ二世が、少々浮世離れして聞こえるようなおかしなほどの影響力を放ってその存在感を見せつけたのは、自分の娘へと向けられる彼らからの視線を一手に引き受けるためだったのだ。
娘が帝国に振り回され、彼らの傀儡として利用されないように。
自分の手の届くベルテセーヌに守り、手を伸ばそうとする者達からの防波堤であるために。
これまでは息をひそめることで守りとした。
だが父は自分が目立ち影を濃くすることで守りとしようとした。
それは国として、歴史あるベルテセーヌ王室としての判断だったのか。それとも、まだ酸いもしらない幼い娘のための、父親としての判断だったのか……。
分からない。分からなくて、そしてそれを知る機会はもうなく、ただ一つだけ分かったことは、すべての原因は結局、ベルテセーヌの聖女……王女リディアーヌにあったのだということだけだ。
だがだからといって自分を貶したりはしない。
それは王女であったリディアーヌのせい。私、ヴァレンティンのリディアーヌのせいではないし、もっと言えば、それを利用しようとした周囲のせいである。それを見間違え悲嘆に酔うことで自分を慰めねばならないような時期は、もう遠の昔に過ぎ去った。
そんな愁えも何もない顔をあげたリディアーヌに何を思ったのか、ザクセオン大公はどこか安堵したような顔で息を吐き、「余計な言葉は必要なさそうだ」と呟いた。
「かつてベルテセーヌとベルデラウトが並び立っていた時代において、聖女とは不可侵の存在であり、王達に守られ、教会を従える存在だった。だがその片翼が落ちた今、すでに帝国の半分はベザの血の遠い、異なる信仰を併存させたものとなった。ベルテセーヌが聖女を帝国から王国へと秘匿したことは、ベルテセーヌにある聖地と神秘を外敵から守るためであり、古き帝国の伝統を守るためでもあったのだろう。そして遠き者達により、聖女がより機械的なものとして帝国の制度に組み込まれることを厭うた。私も娘を持つ父親として、その気持ちは痛いほどに分かる」
「……さぁ。歴代ベルテセーヌ王の思惑は知りませんけれど。でも古き伝統に誇りと矜持を持っているのがベルテセーヌで、もとより何かと変化を嫌う気質があります。それを思えばおかしくは思いませんね」
しかし変化は起きた。その変化に対応しようとして、だが決して思った通りにはゆかない現実を変えんとする大きなうねりが、父を殺した。
その強靭な壁を突き崩し、ベルテセーヌという分厚い守りの壁の中から聖女を引きずり出すために。
そんな思惑とは裏腹に、ベルテセーヌは国内においても眩いばかりの威光を放っていた王の急死に混乱をきたし、その混乱の中で引きずり出したかったはずの聖女はベルテセーヌから消え去ってしまった。
一度は戻って来たものも、またすぐに遠ざかり、リディアーヌはヴァレンティンのリディアーヌとなった。帝位に抱くことのできる王の娘ではない、皇帝を選ぶ者たる選帝侯家の公女へと。
亡きクロイツェン七世が何を思っていたのかは知らない。だがリディアーヌがリディアーヌ王女を土の下に葬ってから十年。それを信じた者もいれば信じなかった者もいたであろう。だがまったく名前も出てこなくなったかつての聖女に、くしくもその存在は人々の中から薄れていった。
そこに今更、アンジェリカという聖女を名乗る少女が現れてしまった。
あの時はリディアーヌもただその状況に冷静に対処したけれど、一体かつての原典派にどんな旋風を巻き起こしていたのか……想像するとぞっとするようだ。だがだからこそ、自分はヴァレンティンを選んだことを後悔しないし、むしろ英断であったとさせ思う。
いや、英断であったのはきっと養父だ。
ただ状況に流された幼かったリディアーヌと違い、養父はすべてを知っていたはずだ。原典派の存在も、かつてクリストフ二世がどんなつもりで皇帝戦に挑んでいたのかも。
その上で養父は、ベルベット家の直系という爆弾を抱えていることも承知の上で、すべての火種であった聖女リディアーヌを養女として迎え入れ自分の庇護下に入れることを選んだのだから……あぁ、それは一体どれほどの覚悟であったのか。まったく、言葉には言い表せないほどのものだ。
「どうしましょう。もう二度としないと誓ったはずなのに、今にもお養父様にもう一度大好きと叫んで頬ずりして差し上げたい心地だわ」
「分からないではないけれど、私の前では止めて欲しいかな。嫉妬で血管がはちきれそうになるから」
「ふふっ」
軽口を挟んだところで、さて、とリディアーヌも息を吐く。
事情は分かった。まだまだ抜けているところもあるけれど、大略は分かった。だが聞いたところで、やはりリディアーヌの意志を揺るがすものには何らなり得なかったことが理解できた。
誰かの思惑がどうこうとかではない。もはやそんなものは飛び越えて、リディアーヌにはリディアーヌの意志があり、そしてそれはどうやら偶然にも、父のそれと合致するものだったらしい。
だがだからといって、父がやっていたようなやり方を引き継ぐつもりはない。
リディアーヌはもう、ただ守られているだけの花園のお姫様ではないのだから。
「つまりこの皇宮で私を煩わせているのは、その原典派という聖女を欲する勘違い野郎共と、強烈な異彩を放っていたクリストフ二世という魔性の男に憑りつかれ、その亡霊の気さえ引きたくて必死な夜啼鳥共なわけなのね」
「魔性の男……」
思わず彼らが口を閉ざし耳を赤く染めたのは、一体何を想定したからだろうか。リディアーヌなりの皮肉だったのだが、思いのほか効き過ぎたようだ。
だがこれ以外に相応しい言葉は思いつかない。うちの母ばかりか厳めしい顔のヘイツブルグ大公まで虜にしたというのだから、一体クリストフ二世とはどれほどの魔性だったというのか。それに群がりピーチクパーチク必死に歌う小鳥共の滑稽さときたら、そうと例えては美しい歌声の夜啼鳥に申し訳がないくらいだ。
でもそんな愛及愛屋は御免だ。私はクリストフ二世じゃないのだから。
しかしそうであれば猶更、自分は自分の意志で、そうはならないのだということを喧伝し続けねばならないのだろう。
一人きりであれば、それが果たせたかどうかわからない。聖女でありクリストフ二世の娘という亡霊の面影をかくまった養父は、さぞかしこれまで愛憎取り巻く視線にさらされてきたことだろう。それを憂えて身を粉にする選択肢も、少し前までのリディアーヌにはあったかもしれない。
だがもうそんなものはない。くしくもこの困った甘えん坊の狼さんが、リディアーヌにとっての“捨て去れないもの”になってしまったせいだ。
「今日この日、閣下がどのような意図で私を招いて下さったのかは存じません。でもおかげでより一層、気持ちは固くなりましたわ」
何度も「オム・ファタール……」などと呟きながら赤かったり青かったりと百面相している愛しい人を見つめると、ふと我に返ったような鮮やかな緑色の視線がこちらを見返した。
「ベルテセーヌは、言葉では何をどう言い取り繕っても、私の奥深くからは切り離すことが出来ない故郷であって、捨て去れないものだったけれど……それも、もう止めるわ」
「リディ?」
「母がどんな思いで故郷を去ったのかを知ってしまったから。かつてリュス達がどんな顔で私に王女の存在価値を請うたのか知っていたから。だからベルテセーヌはずっと私にとっての心残りで、見捨てることのできない、“私の国”だったけれど……でもその郷愁が、人々にクリストフ二世の影を思わせるのよね」
ただの故郷と、愛おしませてくれたらいいものを。だがそんなことさえ許されないのだから、なんて酷い話なのか。
だけどもういい。もういいと言えるだけの、理由が出来た。
「貴方がザクセオンを捨てるのだもの。私もベルテセーヌを捨てるわ。そのかわり貴方が、私の中に出来てしまった十年分の過去の記憶を埋めてちょうだい。そうしたら私も、貴方の二十年分を埋める努力をするわ」
「二十年は言い過ぎだよ。君に出会ったその日から、私の居たい場所は君の隣だから……精々、十二、三年かな? いや、何ならもっと前から、私のザクセオンへの執着は無くなっていたかもしれないけど」
はぁぁとため息を吐く彼の父親には少し同情するけれど、つまりはこれが私達の答えだ。
「何故だ、マクシム。確かにペトロネッラには悪かったと思う。だが私はそれほど、お前が失望するほどの父親だったであろうか……」
か細く、どうしようもなく零れ落ちた問いかけは同情を買うには十分な声色だったけれど、淡々と「いえ、別に」と答える冷たい息子の声色は、ちっともそんなものには揺るがなかった。
「こんなことを言っては申し訳ないと思いますが、そもそも私は最初から、そんなに貴方に期待をしていません」
「……」
「そんな顔をされたところで、言い繕ったりはしませんよ。母はどうせ貴方とは政略的な関係だったのでしょうし、それをどうこうと言うようでは公子なんてやっていられません。私は別に、父上の再婚に反対したこともありませんし、何ならレヒトも、他の弟妹も、皆可愛いと思っています」
「……だが……」
「貴方はこの程度の言葉も信じられないほど、私に嫌われていると思っているんですか?」
おかしな話だ。国許での彼を知らないリディアーヌにさえ彼がどれほど弟妹を可愛がっているのかは分かるというのに、逆に親であるはずのザクセオン大公の方がそれを信じ切れないというのだから。
それは自分に疚しいことがあると思っているからであり、大公本人の根が真面目な気質のせいなのだろう。
「父上は私がザクセオンを去ることは、消極的な判断だと思っているんですね」
「ヴィンデガルトの恨みを晴らしたいだろう」
「言っては何ですが、父上。私はそのヴィンデガルトという母のことを、大して覚えていません。覚えているような年まで、そもそも母が生きていませんから」
びっくりしたように顔を跳ね上げたザクセオン大公に、まったく今更だと言わんばかりにマクシミリアンは呆れた顔を向けた。
だが確かに、そんなにおかしな話でもないのだと思う。リディアーヌとて、六歳で失った両親の記憶は決して多くない。養父が沢山話してくれた母と違い、父に関してなんて、それこそ人から聞いた記憶がほとんどだ。
マクシミリアンだって物心がつくかつかないかという頃に母を亡くしている。ペトロネッラ様は長女として、母を亡くしてすぐに後妻、それも子を宿した義母を迎えた父への反発心から、同母の弟妹を必死に匿うように懐に隠し育てたという。だからマクシミリアンの父に対する感情にも、リディアーヌがクリストフ二世に感じるような“他人感”があるのかもしれない。
そうと知らないのは、親達ばかりだ。
「姉上は母が亡くなった時、すでにそれなりの年齢で、それに長女ですから、多くの記憶があったのでしょう。姉上から見れば私やアディ姉上は、幼くして母を亡くし、父がよその女にうつつを抜かした可哀想な子供達なんでしょう。でも私は一度として、自分を不幸だなんて思ったことはありませんよ」
「マクシム……」
「母のいるレヒトを羨んだことはありますが、同時に煩わしいだろうにとも思いました。いつも無理や無茶ばかりする姉上を見ていた私には、母がいて、後ろ盾もあるレヒトが後を継いでしまえば、皆苦労せずに済むのになんて思ったこともありました。まぁさすがに滅多なことでは口にしませんでしたが」
言葉でいうのは簡単でも、そんな思いを抱くまでには多くの葛藤があったはずで、それが分からない父親ではないだろう。複雑そうに歪んだ面差しは、どこまでも飄々と、淡々としたマクシミリアンとは対照的だった。
だが彼が望んでいるのは、大公のそんな顔ではないのだ。
「所詮、貴方が見ていた私は、母と後ろ楯を無くした可哀想な嫡男。自分が跡継ぎとして扱ってやらねばならない子供で、当たりのきつくなってしまった愛娘が自分から守ろうとしている腫物なんです」
「そんなことは……」
「私を、“ヴィンデガルトの息子”や“ペトロネッラの弟”以外の何かで見たことがあるとでも?」
「っ……」
「別に恨んでなんていないんですよ。ただ私は一度でも貴方が、『お前はどうしたいのか』と聞いてくれるのを待っていました」




