10-33 父の肖像(2)
「真の価値? 真の最悪の種とでも言われた方がしっくりと来る気がいたしますけれど。でも私もそれを聞きたかったのです。貴方はご存じなのですね、ザクセオン大公閣下。ベルデラウト王朝の崩壊からこの方、どうしてベルテセーヌ王が聖女を“秘すべきもの”とするようになったのか。“どうしてクリストフ二世が殺されねばならなかったのか”」
「……」
きゅっと口を引き結んで心配そうな視線を向けるマクシミリアンを宥め、自分にはそれを権利があるのだという確固たる意思で閣下を見据えれば、閣下もたっぷりと空気を取り込んでから、ひとつ長年の愁えを吐き出すような重たい吐息を吐いた。
「かの陛下は……それはもう、眩しい人だった。私にないものをすべて持っている。ひとたび微笑めば誰もが虜になり、ひとたび声を発せば誰もがそれにひれ伏したくなる。誰よりも穏やかなのに、誰よりも鋭く、頭上に剣でも吊り下げられたような緊張感を与える。だが感じるのは恐怖などではない、恍惚感だ。そんな、まるで麻薬のような男だった。そしてそれは、ライバルと言われたクロイツェン七世……彼こそが、最も感じていたことだろう」
「……」
「危険だった。それはどうしようもなく……話せば話すほどに我を失うほどに、危険な人物だった。教会は何度も陛下に、是非聖女を皇宮にお連れして欲しいと願い出たが、私は密かに、それだけはやめて欲しいと思ったものさ。あのような王の傍に聖女が並ぼうものなら、もはや選帝侯なんてものには何の意義も意味もない。世界はすべて彼の手の物になるのだという確信があったからだ」
そんなことを言われても、リディアーヌにはピンとこない。
当時のリディアーヌはただの六歳の、憂いも知らずに王城の奥深くでぬくぬくと育てられているだけの王女様だった。皇帝戦のために国を離れている両親がどこで何をしているのかにすら関心を抱かない、それが当たり前の、そういう王女だった。
「だがそんな温厚な、誰をも従えてしまうような王であったその陛下が、ただ一度……声を荒げ、人を跪かせ脅えさせる姿を見たことがある。あぁ、忘れもしない……この皇宮の議事棟の、議場などでも何でもないただの天下の往来で、ずらりとひれ伏し脅えていた聖職者達。その先頭で脅え、竦み、言葉を無くしていた教皇聖下を」
「っ」
出てきた名前に、思わずどくりと心臓が脈打った。
今の教皇がその地位に着いたのは十二年前。当時はまだ、次期教皇として名高いいち枢機卿猊下の立場であったはずだ。同時に、すでに重たい病に伏していた前教皇に代わって教会の権力を率いていた立場であったとも聞いている。
元々ベルテセーヌと良好な関係にあった前教皇とは反する派閥で、かといって当初からクロイツェン派だったなどという話はきかない。むしろ当時を知る人から聞きかじった話を鵜呑みにするのであれば、ベルテセーヌ派だったと言った方がいい逸話が多い人だった。
だがそれをひれ伏させ、怒号を浴びせるような……そんなことがあっただなんて。
「現教皇聖下をはじめとする教会の原典派のことは、私も当時から知っていた。古くから教会にあった大派閥だ。それはベルデラウト王朝の崩壊後下火になり、しかしクリストフ二世陛下の台頭によって再加熱した、そういう派閥であった。理由は……本人が誰よりも分かっておろう」
「原典派……なるほど。聖女を帝国の聖女にと望む、過去の教会の栄華を懐かしんでいる彼ららしい呼び名ですわね」
帝国初期時代の原典に帰る、という意味なのか。それともこの帝国の皇后として、帝国に聖典の源泉たる“原典”をもたらす者があるという意味なのか。
皆は前者であることを想像するだろうが、リディアーヌには後者の意味合いを強く感じた。聖下は確かに、それに強い執着を抱いている。
「彼らは教会に対しても温厚な顔をする陛下のことを見誤ったのだろうな。陛下の帝位戴冠の暁には、聖女殿下もこの皇宮でお育てし、ゆくゆくは皇后として、この帝国の祭典を担ってくださることだろうと……彼らは陛下も当然その考えなのだと思っていたのだろう。そんなおべっかを言ったつもりが真逆の激怒を引き起こしたのだから、彼らが冷や汗を垂らして白い聖職者服を地面にこすりつけたのも致し方ない」
「ベルテセーヌ王は皇帝戦には臨んだけれど、聖女は……娘は国許から出す気が無かったということですね。それは私の記憶とも一致しています」
やはり父は、聖女を帝国の聖女として引き出すために皇帝戦に臨んだわけではないのだ。むしろ娘も息子同様、そのまま国許に置いて行くつもりだった。帝国から距離を遠ざけさせ、きっと父が生きていても、変わらずリュシアンか誰かの妃とさせて、国内に閉ざしたままにその生を終えさせるつもりだった。
「だがあれは、不味かった」
「……」
「穏やかな顔をしているばかりであれば、ただ陶酔すればいいだけの麻薬であり続けられたのだ。だがそれを怒らせてしまえばどうなるのか。皇宮に走った恐怖と言う名の激震は、今も思い出せば身が震える。そしてそれを最も恐怖したのは……」
「クロイツェン七世だった」
こくりと頷いたザクセオン大公に、リディアーヌも小さく吐息を吐いた。
一体皇宮での父がどういう人であったのかは知らない。だが閣下が言うような人物だと広く認識されていたのであれば、穏やかな面差しという取り付く島があるならまだしも、それすらないほどの本性を持つと知ったクロイツェン七世は、さぞかし恐怖したことだろう。
今は笑っているけれど、ひとたび不興を買ったならば、自分はどうなるのだろうか。一体どのような鋭い刃となって、自分の喉を引き裂くだろうか。
恐怖心による陶酔は、効いている内はいいけれど、ひとたび夢から覚めてしまえば自分が何に陶酔していたのかをまざまざと突き付けられたはずである。
恐怖心――彼が垣間見せたその一切の許しを与えない態度が、クロイツェン七世を恐慌に走らせた。
恐ろしい。だから自分では手を下せなくて、他人を使った。その他人もまた自分の存在をひたすらに隠し、傭兵と、ベルテセーヌ国内の王弟派などという都合のいいものを利用して、クリストフ二世という人物への免疫がある内部の手によって暗殺された。
この皇宮ではそれをただ遠巻きに、誰もが傍観しているだけだった。
彼らの多くはその凶報に嘆き、声を荒げたけれど、だがもしかすると彼らの中にも“安堵”が過っていたのかもしれない。だから彼らは容易く、クリストフ二世を死に追い詰めた人物に対して頭を垂れることができた。
陶酔という名の恐怖から自分達を引き上げ、脱却させてくれた“英雄”として。
「それだけの恐怖を与えられていてなお、なぜまた聖下は聖女を帝国にと望むのでしょう」
「きゃつらの思想など私にもわからぬよ。だが容易くひれ伏し許しを請うほどに、原典派は必死だったのだ。聖女を得る機会が得られた、今を逃せば二度は無いと。おそらく最初はクリストフ陛下も同じ意見だと勘違いしたのだろう。だがそうではないと知って……」
思わず一瞬口を噤んだザクセオン大公に、リディアーヌもぎゅっとこぶしを握り締めた。
確信はない。だが、聖女を帝国に取り戻すという原典派の目的において、もっとも味方にし得る強力な後ろ盾であったはずのクリストフ二世は、その日を期にたちまちもっとも自分達の目的を阻害する強力な敵となったはずだ。
教皇聖下は昨今クロイツェンと急接近しているとはいえ、決して元からクロイツェン派などと言われた人物だったわけではない。だが果たしてどうだろうか?
あの日の出来事を、恐怖心たっぷりにクロイツェン七世に吹き込んだ“誰か”が、いたのではないのか……?
そんなことを思ってしまったのは、彼ら原典派の執拗なほどの執着を、すでに実感しているからなのだろうか。
「当時からクリストフ陛下には、“聖女の父”という肩書きが付いて回っていた。東大陸ではすでに聖女という存在がお伽噺の中の存在になって久しいが、ザクセオンにはそれが栄光を授けてきた時代の記憶もある。さすればそれは陛下にとって皇帝候補としての有力な武器で有り、その肩書きを利用するのは当然だと思っていた。だが今になって思えば、ベルテセーヌが自らそれを武器としたことは無かったように思う」
「あくまでも周囲が勝手にそう騒いでいただけだと?」
「そうだ。特に教会がであるが、しかし我らも、それにヘイツブルグも……古い家系はみな、そんな過去があったことを懐かしんだ」
「ゆえに今回、貴殿がヴァレンティンであることを強調することが、始めはどうにも信じがたかった。いや、いまでもよく分からんよ。何故なら貴殿は、“ベルテセーヌの聖女”を名乗るだけで、容易く君達の擁立した王を皇帝に出来る力を持つのだ」
「……」
それは認識の違いだ。リディアーヌには、ベルテセーヌの聖女にそんな力はないと思っている。だがもしそうではなかったとしても、リディアーヌがそれを利用することはないだろう。そんな必要はないし、そんなものは“選帝侯家のリディアーヌ”としての理想からかけ離れている。
「ヘイツブルグ大公の言葉に賛同するわけではない。だがそれを突き付けられた時、私には答える言葉が何一つ思い浮かばなかった。すでに我々を牽制するクリストフ陛下はいない。言っては何だが、貴殿はかの陛下に比べればはるかに温情に厚く、柔和だ」
「……」
そういう評価は心外なのだが、まぁ反論はすまい。どうやら私の“父”は、私が知っている以上のよほどの人物だったらしいから。
「十五年前、我々は口を噤んだ。思わず、噤まざるを得なかった。だがもしも今貴殿をその座に据えたなら、我らはかつて不義理をしたかの偉大なる王に許されるのではないか。それはあるいは……もっとも、楽な未来なのではないか、と」
「だから口を閉ざしたと? 私をクリストフ二世の身代わりにして、私に帝冠をかぶせれば、クリストフ二世の亡霊から救われるから。自分の後ろめたさが拭われるから」
「……」
彼らとて、それがどれほど馬鹿げたことなのかは分かっているはずだ。リディアーヌがクリストフ二世でないことも、かつてクリストフ二世が聖女を帝国に引きずり出すことに激怒したことも、分かっている。
だがそれでもクリストフ二世の影をリディアーヌにかぶせ、リディアーヌの意志で帝位につかせたなら、十五年前のすべてが清算できると……そう、思ってしまったのだ。
あぁ、なんて馬鹿らしい。
一体どれほど父が彼らにとっての偉大な存在だったのか知らないけれど、どこまでもその面影を捨て去れずにいるのは彼ら自身の問題だ。
それに巻き込まれ、勝手に問題の諸悪の根源のごとく言われるのだから、リディアーヌには声を荒げて怒る権利があると思う。
「でもクリストフ二世は、聖女を帝国の聖女にする気は無かったのでしょう?」
「あぁ、そうだ。そうだが……」
矛盾していることは分かっているらしい。それに今日ここにリディアーヌを呼び出し話をしよと思った時点で、昨日口を噤んだ自分の行動が道理の通っていないものであることの認識はすでにできているのだ。
彼らの心をそこまで捉えて離さないクリストフ二世とは、果たしてどういう人だったのか。
この血の父ながら、実に不思議なことである。
「私の知る限り、ベルテセーヌが聖女を公の場から秘匿し始めたのは、ベルテセーヌ王が皇帝戦から距離を置き始めてから……ベルデラウト王朝が滅んでからです」
「ああ、相違ない」
「それは何故ですか? それにもかかわらずクリストフ二世が皇帝戦で帝位を望んだのは、何が理由ですか?」
歴史書をめくる限り、ベルテセーヌはここ何代も、皇帝戦に王や王太子のような有力な王族を皇帝候補として出した歴史がない。今のカクトゥーラやセトーナと同じように、傍系から当たり障りない人物を箔付け程度に出し、ヴァレンティン選帝侯家もそれで当然とばかりにまとまりなく適当に後見し、時にカクトゥーラやセトーナを後見してみせたりもした。まるでわざと、ベルテセーヌを帝国から遠ざけるかのように。
そうしてすっかりとベルテセーヌは帝国の中でも独立気風の高い閉ざされた国となり、聖女はお伽噺の中の存在へと秘匿されていった。
なのに何故突然、父は皇帝戦なんてものに望んだのか。
どうしてそんな必要があったのか。
「私も詳しくは知らない。だが原因については察しが付く」
「……何ですか?」
「クリストフ二世は、良くも悪くも良い男だ。目立ちすぎる」
「……」
何の冗談かと思ったのだが、「冗談ではない」と念を押された。
いや、さすがにそれが理由だなんて言われても信じられない。
「まぁ確かに、それが原因とは言うまい。だがすべての切っ掛けではある。思わず人目を引いてしまう。人々の噂の口にのぼってしまう。関心が深まる。そして噂が噂を呼び、それを知りたいと思う者達が増えれば増えるほどに探られ、知られ、勝手に広まって行く」
「……そして誰かがそれを耳にし、ふと過去を懐古する」
「そうだ。もはや名も聞かなくなって久しい聖女の存在は、下火となっていた教会原典派を勢いづけるには十分な火種であっただろう」
「教会が、クリストフ二世を引きずり出したと?」
「教会だけとは限らぬがな。クロイツェンの台頭によって滅んだベルデラウトの落人らにとって、ベルテセーヌは過去のベルデラウトの栄華を思い起こさせる存在だ。古く、遥か帝国初期時代には、ベルデラウトにも聖女がいたとの伝承がある。果たして事実かどうかは知らぬが、ベルテセーヌに夢を抱くには十分だ」
ベルデラウトの聖女の話はリディアーヌも知っていた。
正しく言えば、当時はまだこの国が帝国制へと移行する前の本当に初期の時代の話であって、果たしてベルデラウトの家系と言っていいのかどうかは甚だ疑問なのだが、間違っているとは言えない。
二代聖女にしてヴァレンティンの祖たるベルベット・ヴァロアと第三代皇帝との間に生まれた兄弟が、ベルテセーヌ王室とベルデラウト王室の祖だ。この内、弟である初代ベルデラウト王の娘に三代目聖女がおり、そんな従妹を妻としたのが兄ベルテセーヌ王の息子だ。三代目聖女は本家に嫁入った傍系のベルテセーヌ王女といいう記録のされ方をしているが、ベルデラウトの王女であったというのもまったく間違いではなく、ベルデラウトが『自分達の家系から聖女が生まれたことがある』と称するのも間違いとはいえない。そもそもが身内なのだから当然だ。
だが滅んで久しく、その記憶も薄れ、かつては略奪者と忌避されたクロイツェンがどんどんと勢力を伸ばし、逆にベルテセーヌが息をひそめるようになる中、旧ベルデラウト系の人々の中にはたまらぬ鬱憤が積もっていった。
そこにふと、聖女を有する輝かしい若き王が現れて、注目されないはずがなかったのだ。
膨れ上がった聖女擁立と原典回帰派に、春のたびに帝国議会に足を運ばねばならなかったクリストフ二世は何を思ったのだろうか。
聖女の母として理不尽に招かねばならなかった妻に、何を言ったのだろうか。




