10-32 父の肖像(1)
朝から書類をめくり、堅苦しい執務服のくるみボタンをびっしりと止め、仰々しくならない程度のケープスリーブの襞を整えてゆるりと髪を結い上げてもらう。
珍しくどきどきと心臓が強く脈を打っているのは、今日の予定が婿に迎えるつもりの人の父親に面会するからだなんて可愛らしい話が理由ではなくて、かのザクセオン大公が一体十五年前の何を知っているのか、あるいは無事にザクセオンからマクシミリアンを奪い取れるのかどうかと、そんな焦燥を抱いているからに違いない。
違いないと……そう思っていなければ、到底緊張で呼吸もままならない。
義父への挨拶にしてはキリリとした固い装いで、ヴァレンティン選帝侯家の後継であることを誇示する最も稀少なブルーサファイアの宝飾品を派手にならない程度に身に着けて部屋を出ると、待ち構えていたマクシミリアンが言葉もなくやって来て、そそくさと胸元に手ずからブローチを挿してきた。
ペリドットの緑葉に白い螺鈿の花をあしらった、古いけれどとても上品で繊細なブローチだ。
「突然、何?」
「お守り」
「えっと。私の?」
「いや、私の」
どうしてマクシミリアンのお守りをリディアーヌが身に着けるのか分からなかったけれど、首を傾げつつ為されるがままにしていると、つけ終えたブローチのペリドットをひと撫でしたマクシミリアンはとてもいい顔でほっと安堵の息を吐いた。
そういえばこの色は、彼の瞳の色だ。なんだか少し、気恥ずかしい。
「古い物ね」
「気に入らない?」
「いいえ、とても素敵だわ。見たことのない花だけれど」
「カリブラコア。母の遺品なんだ」
「……」
なるほど。それは確かに、お守りかもしれない。ただしマクシミリアンにとってのお守りだというのはその通りで、これを身に着けているところをペトロネッラ様にでも見咎められようものなら……想像してしまったばかりに、無駄に背中をぞくりとさせてしまった。
でもこんなもので彼のお守りになるのなら、甘んじて引き受けよう。飄々として見せながら、きっと彼の感じている緊張は自分以上なはずなのだから。
あまり多くは語り合わず、ただどちらからともなく冷たい手を握って時を待つ。
ザクセオン大公に指定された場所は、青苑だった。選帝侯議会棟でもなければ離宮でもない。わざわざ誰かがふらりと立ち寄ることも無い密会向きの場所であるから、それが大公家と大公家の正式な面会ではなく、ただ父が子を呼び出す私的な面会であることを明らかにしていた。おかげで少しくらいは気が楽になる。
ヴァレンティンの離宮からもほど近いから、いざとなれば養父を呼びに行けることもちょっとした安心感であり、離宮を出る頃には痛いくらいに鳴っていた鼓動も少しは落ち着いてくれていた。
青苑の茶話棟の周りはびっしりとザクセオン大公の騎士達が守り固めており、庭先にはいつもなら見掛けないほどの客がちらほらと窺えたにもかかわらず、建物の中は静かなものだった。きっと今日はザクセオン大公が借り切りにしているのだろう。
そのもっとも開放的で広い一階のサロンに案内される間も、懸念していたようなペトロネッラ様やトルゼリーデ妃などの姿はまったく見当たらなかった。
やがてリディアーヌさえ見知っているような大公の最側近が待ち構えていた扉に至ると、彼が手ずから丁寧に元世継ぎの公子と客人に礼を尽くし、扉を開けた。
よりにもよって今日はいい天気だ。カーテンが開け放たれたサロンは穏やかな春の日差しに包まれていて、この清廉とした青苑らしい重苦しい色だが繊細で軽やかな作りのテーブルとソファーを前に、いつもの仰々しい装いを取り去った“一人の父親”が待っていた。
柔らかな生地のシャツ。ゆったりとした身幅の上着。選帝侯家の象徴色である青を取り入れることもせず、落ち着いた桑茶色に染め抜かれた色合いが春の景色に溶け込むようにまろやかで、別の場所ですれ違ったならば一瞬大公閣下だと気が付かないかもしれないような装いだ。
だがその雰囲気は不思議とマクシミリアンに感じるものと近く、顔はちっとも似ていないはずなのに、親子なのだなと実感させられるものがあった。
「良く来たな、二人とも。座りなさい」
それでも声を聞けば、いつも通りのザクセオン大公だ。少しばかり足を勧めることを躊躇したマクシミリアンの手を引いて、リディアーヌがエスコートして差し上げた。おかげで躊躇がバレたことに気恥ずかしそうにしたマクシミリアンがこそりと笑う。
今日の私の武装を甘く見ないで欲しい。守る準備は万端なのだ。
そんなザクセオン大公の視線が一瞬、勧められるままに椅子に腰を下ろすリディアーヌの胸元のブローチを見た気がした。けれどそれにもなんてことのない顔をして見せながら、「失礼させていただきます」と遠慮なく腰を下ろす。
一つのソファーにぴたりと寄り添って座れば、目の前に座る大公の眉尻も自然と垂れた。
分かっていたとでもいうようで、でもどこか困ったようでもある、なんとも言えない微笑が浮かんでいる。笑い方がよく似ている。
「ふぅ……こうしていざ面と向かってみて。だが一体何から話せばいいのか、参ってしまうな」
固い顔の息子をチラリとみて、その緊張を解きほぐさせるかのように言う大公閣下に、「でしたらまずはお茶をお飲みになるのはいかがですか?」と物腰柔らかい老紳士がお茶を淹れてくれた。
深い紅色の、ほのかな花の香りのする紅茶。並べ置かれた沢山の種類の黄金色の蜂蜜。この紅茶は見覚えがある。以前、マクシミリアンが贈ってくれたことがあった。それにこの蜂蜜の種類の豊富さ……ちらりとマクシミリアンを見てみれば、なにやらむすりとした複雑そうな顔色だ。もしかして、ここにある蜂蜜はすべて彼のお気に入りだろうか。
ヴァレンティンで蜂蜜と言えば蓮華か林檎くらいなものだが、この種類の豊富さは流石穏やかな気候のザクセオンである。この様子だと、ヴァレンティンにある蜂蜜ではちっとも足りていなかったかもしれない。
思わず真剣な顔で蜂蜜をまじまじ見つめていると、「見すぎだよ、リディ」と突っ込までた。いつの間に我に返ったのだろうか。
「なんて種類なのかしらと思って。これは? 随分と色が鮮やかだけれど」
「蜜柑の蜂蜜」
「ではこっちは?」
「枇杷」
「ネフル?」
初めて聞く単語に首を傾げていると、一体何を思ったのか、マクシミリアンはその隣の蜂蜜を手に取り、手ずからリディアーヌのティーカップに垂らした。
日頃あまり紅茶を甘くはしないリディアーヌを知っているからか、量はほんの少し。でもそれにミルクも入れて、手ずから「どうぞ」と差し出してくるものだから、さすがにいささか気恥しい。でも興味はあるので、大人しく受け取ってのどを潤してみれば、不思議と懐かしい味がした。
「あ……分かった。クローバー」
以前、同じ茶葉をマクシミリアンが送ってくれた時、一緒に優しい味わいの蜂蜜がセットで贈られて来た。ほのかな癖とミルクにもよく合う風味で、紅茶と合わせてもいいけれど、そのままホットミルクに入れてもとても美味しかったのを覚えている。
マクシミリアンも沢山の蜂蜜の中からそれを選び、たっぷりのミルクにたっぷりの蜂蜜を自ら注いでいるから、きっとこれは彼のおすすめの組み合わせなのだろう。
「お前の蜂蜜への目利きは流石だな」
「だからってこんな、七つも八つも取り揃えないでくださいよ。勿体ない」
「勿体ないか?」
そう苦笑しながらスススと侍従が置いた茶菓子に、マクシミリアンがぐっと言葉に詰まった。どうやらほくほくのスコーンが、蜂蜜を無駄にしないであろう可能性を示唆したようだ。初手からいいように父親に振り回されすぎである。
でも何だかんだ、この人は息子のことを知っていたのだと思えば、少しは微笑ましさも感じられた。だからって気は抜かないけれど。
「私は貴方のために、もっと沢山の蜂蜜を作らせるべきのようね」
「ヴァレンティンの林檎の蜂蜜は格別だから、十分だよ」
「確かベルテセーヌには杏の蜂蜜があったと思うのだけれど」
「……とりあえず十瓶ほど取り寄せてみようか」
ぶれぶれの意見に苦笑を浮かべている内にも、随分と緊張感がほぐれたのを感じた。柔和な蜂蜜の味わいのせいか、それとも彼のこだわりが強すぎる可愛らしい趣味のせいか。くしくも“ひとまずお茶を”は、この場においてとても適切なものだった。
「まずはあれやこれやと聞くつもりだったが、聞くまでもなかったようだな」
「分かっていることをいちいち確認しないでくださいよ」
「そうは言っても、お前は私の長男だ」
「貴方にはアルブレヒトがいるでしょう」
どうにもツンケンと取り付く島を与えないマクシミリアンに、大公閣下も困った顔をなさるばかりだ。
ティーカップを傾けながらちらちらとその様子を見ていたリディアーヌは、ふむとカップを置くと、安心させるかのようにマクシミリアンの手を上から握りしめた。ほらみたことか。よゆうたっぷりな態度とは裏腹に、すっかりと冷たくなっているではないか。
「おそれながら閣下、そちらの元長男は、今やすっかりとうちの末っ子なんです。今日の招待の趣旨は存じておりませんが、もしそれに文句があるようでしたら……場を改めましょう。それは我がヴァレンティンの大公閣下にもご同席していただくべきお話しでしょうから」
「リディ……」
一瞬目を輝かせたマクシミリアンは、しかし程無く「ん?」と首を傾げた。
「末っ子? 末っ子はおかしいんじゃないかな?」
「おかしくないわよ? 長女リノン、長男アウル、次男アルグ、次女ルフス……」
「まってまってっ。何の名前?!」
「ドゥネージュの森の狼さん達」
「そっちの末っ子っ?!」
おっと。思わず口が滑った。
「ごほんっ」
思わず大公閣下の存在を忘れかけていた。いかんいかん。
「公女……一応確認しておくが、息子は……マクシムは、君の何なのだろうか」
「聞いての通りですわ。うちの可愛い狼さん達の末っ子で……」
大公閣下は変な顔をしているけれど、これはちっともおかしなことではなくって。
「ヴァレンティンの守り神である森の狼達の、私を救い上げてくれた可愛い可愛い末っ子ですわ。でもこのとおり、末っ子は甘えん坊で奔放で、そのわりに寂しがりだから、私も沢山返してあげないとすぐに拗ねてお気に入りのシーツをボロボロにしてしまうんです」
「リディ……」
ザクセオンでも、森の鹿を神鹿として崇める。子は神鹿が運んでくるものとして尊ぶ土俗の信仰なんかもあったはずだから、こういえば大公閣下も、ヴァレンティンにおける狼の意味がわかることだろう。マクシミリアンはザクセオンではなく、森の守り神がもたらしてくれたものなのだという、その言葉の意図も。
私達は、ザクセオンへの影響力が欲しくて彼を取り込んだんじゃない。森から出てきてしまい彷徨い歩いている迷子の狼さんを、ただ保護して愛おしんでいるだけ。
彼が森に帰りたいと思わない限り、フォレ・ドゥネージュの城が彼を全力で守るだろう。
「そうか……守って、いるのか」
「そんな責任感を持たせようとしていたわけではありません。リディの言う通り。私はただ勝手に転がり込んで、勝手に気に入られようと懐に付け入っているだけです」
「ええ、なかなかあざとい付け入り方だったわよ。おかげで手放せなくなってしまったわ。私も、それにお養父様も」
自分一人で責任を負おうだなんて片腹痛い。捕まえて離さないのはこっちもなのだと強調したリディアーヌに、マクシミリアンも少し気恥しそうに苦笑を浮かべた。
「ヴァレンティン大公が、受け入れていると?」
「閣下は議場で何をご覧になっていましたの?」
「……」
すぐに押し黙ったザクセオン大公に、やはり思った通り、養父は選帝侯議会棟でもどこでもすっかりマクシミリアンを我が子の如く扱っているらしいことが推測できた。
人懐っこいマクシミリアンの手腕でもあるだろうし、あるいは養父にとってもずっとぽかりと空白のままになっていた兄エドゥアールの死以来の穴を埋めてくれる存在になっているのではないかと思う。
まぁ兄とは、随分と毛色が違うけれど。
「マクシム、お前は分かっているのか? お前が選んだのは、この皇帝戦、あるいはその先においても、“最も危険な存在”であり、“最も大きな悩み”を引き継ぎ続けねばならない……そういう、厄介な存在だぞ」
「は?」
すぐにぴくりと顔を歪ませたマクシミリアンが、珍しくも他人を丸め込む穏やかな面差しをひそめ、あからさまに嫌悪を示した。
「貴方にそんなことを言われる筋合いなどありませんよ。リディはただのリディです。貴方達のような身勝手などこぞの皇帝や王や大公達のせいで、危険と悩みを押し付けられ続けただけの、憐れだけれど誰よりも強い、私の愛おしい人です」
危険だの悩みだの……ええ、仰る通り。
聖女だなんて余計な付加価値も、ベルテセーヌの元王女、クリストフ二世の子の生き残りだなんていう厄介なこの赤い血も、望んで欲したものじゃない。捨てられるのであれば今すぐにでも捨てて、ただのヴァレンティンのリディアーヌになってしまいたい。
そんな思いを誰よりも知ってくれているのが、きっと養父とこの人だ。そしてリディアーヌを危険で悩みの多い存在にしているのは紛れもない、外の人間達だ。そのことを、どこまでも長閑で平和なヴァレンティンで年を越したマクシミリアンは知ってくれている。それは何という安心であり、安らぎであろうか。
「だがそれは、お前が彼女の真の価値を知らないからだ」
それでも口と噤むことはなく反論するザクセオン大公に、マクシミリアンはさらに反論をしようとしたようだったけれど、気になることのあったリディアーヌは自らそれをそっと制した。
わざわざ自分達を揃って呼び出すくらいだ。元より、閣下はその話をするために私達を呼び出したのではないかと思う。そしてそれは、リディアーヌが聞きたかった話でもある。




