10-30 道化と野犬
side ヘイツブルグ大公
ざわざわと木々を揺らす風の音。
しゃりりしゃりりと刃を磨く金属音。
薄暗い窓のない部屋にけぶるような香木の匂いが充満し、思わずマントで鼻を覆って煙を散らした客人を二つの視線が見やった。
「セナンゼル候が皇宮の騎士と聖騎士を率いて、ベルテセーヌ王襲撃の事実確認を理由にベルテセーヌ離宮に赴いたそうだ」
こんな陰鬱な場所はさっさと去ろうと事実だけ述べたところで、祭壇と呼ぶには質素な机の上の火鉢に香木を投げ入れた男が、機嫌の一つも窺わせないニコニコと気味の悪い作り笑顔で「それがどうかしましたか?」と言った。
顔も口調も、胡乱すぎて嫌になる男だ。
「お前達が何かしたのではないのか? 私はそんな指示は出していない」
「私はそういうのは専門外ですからね」
一体何が専門外なものかと思うが、確かに荒事を直接行う人間ではない。だからもう一人の陰鬱に刃を磨く男を見たが、そちらはいつもながら不機嫌な顔で一言だって口をきいてたまるかと言わんばかりの様子だ。
利害で繋がりを持っているとはいえ、個性も主張も違い癖の強い彼らとはまともな関係を築いているとはまったく思っていないし、そうしようとも思わない。だがだからといって勝手なことをしてもらっても困る。こっちにはこっちの、長い時間をかけて準備をしてきたシナリオというものがあるのだ。
「勝手なことはするな。予定が狂う」
「おやおや、お言葉ですね。別に私は邪魔する気なんてありません。そんなことよりも、今日の議会はなんです。まったく手緩くて欠伸がでてしまいましたよ」
「……」
「今更、“選帝侯閣下”としての良心が咎めるので? ヘイツブルグ大公」
ぎりりと眉根を寄せて睨んだところで、ヘラヘラと変わらない顔立ちが実に腹立たしい。
分厚い暗幕の向こうにいて、議場の張りつめた空気にも一身に降り注ぐ喜怒渦巻く視線にもさらされたことがないくせに、何と生意気なのか。あの場に立てばこの男とて、どれほどにその張り付けた表情が保てるというのか。
「相変わらず、お姫様は厄介でしょう? 正直、少しいい気味ではありましたね。私も、十五年もたって今更“こんな話”を持ちかけた貴方には心の底から呆れましたから」
「だったら何故乗った」
「ただ使い勝手がよさそうだっただけですよ」
嘘か真か。どうせ今ものらりくらりと適当なことをうそぶいているのだろう。まともに応対するだけ無駄だ。
そもそも彼らの事情なんて知ったことじゃない。私達はただ利害が一致しただけの間柄だ。
「それに今日の事件のおかげでその厄介なお姫様は退席したんですから、私に感謝してもらいたいくらいですよ。おかげでみじめったらしくも追及を交わせたのでしょう?」
「……」
そんなことは関係なくはなからそういう予定だったのだと反論をしようとしたところで、先程から一言もしゃべらずに刃を研いでいた男がざくりと刃を傍の机に突き立てて睨むものだから、こちらも言葉を放ち損ねた。
さすがに突然刃を投げてはこないだろうが、まったく、野蛮な空気の男だ。忌々しい。
「どいつもこいつも……勝手をしているのはお前達だ」
ジリリとか細い蝋燭の日を揺らした低い呟きに、思わず喉で生唾がひっかかった。
「貴方にだけは言われたくありませんよ。まったく、色々と台無しにしてくれて」
ちゃらけた様子で軽口を叩く道化に、ざりざりと机に突き立てた刃物をそのまま滑らせた野犬の暴力的な眼差しが、さすがに彼の口をも噤ませた。
なんと酷い空気だろう。こんなものでも利用価値があると思って組んだが、手綱を置かなかったのは不味かったか。
「どっちもこっちも、俺が斬る。余計なことはするな」
だからと言って勝手にうろうろされても困るのだ。なのにこのまったく協調性というものがない連中にはため息をこぼさざるを得ない。
我ながら、もう少しましな手駒は無かったのかと思うが……何しろこちらに食いついてきたのは向こう側からなのだ。元より思うがままになるなどとは勘違いしていない。
「まったく……少しは言うことを聞いて欲しいものだ」
「そんな義理は無い」
あぁ、あぁ、そうだろうとも。
むしろ出会いがしらからその刃で首を割かれなかったのは奇跡だと思っている。
だがそれでも憂慮が勝るのは仕方のないことで、一言物申そうとこんな場所まで来た自分の真面目ぶりを早くも後悔する心地だった。
「とにかく、無駄に警戒心を煽る中途半端は止めてくれ」
「えぇ、まぁ考えておきますよ」
「……」
返事をするという常識もないのだから、やはり野犬は困る。その点はそこのヘラヘラした道化の方がマシだが、正直どちらの方が気味が悪いかと言えば、そのヘラヘラ顔の方だ。研ぎ澄ましたように真っ直ぐな目的を持つ野犬と違い、何が本心なのかが分からない。
「そういう貴方こそ、もっと考えて行動しては如何ですか?」
「考えているとも。想定外ではあったが、しかしセナンゼル候は動いた。私に図星を突かれて気まずい思いをしたがゆえ、年甲斐もなく焦っているのだろう。分かりやすい男だ」
「そんなことはどうでもいいんですよ」
むっと眉をしかめたところで気にした様子もなく火箸で香木を転がす道化のせいで、益々強いむんとした香りが鼻腔をついた。
まったく、何故こんな窓もない部屋で黙々と香を焚いているのか。臭い上に暑くてかなわん。
だがそれに文句を言うよりも、いかにも何か含みがある様子でほくそ笑んでいるのを見ると、苦言よりもため息の方が先に吐いて出た。
握った情報を頬にたっぷりと含ませて、教えてくださいとでも懇願させたいのか。まったく、一体この男のどこが“聖職者”なのか。
「言いたいことがあるのならばさっさと言え。長居は出来ない」
「連れない人ですね。そんな性格ではさぞかし“貴方の君”には煙たがられたでしょう」
「……」
余計な話に耳を傾けるつもりは無い。
じっと黙り込んでいたなら、男は仕方なさそうに火箸を置いて息を吐いた。
「件のお姫様がエティエンヌ枢機卿猊下と密談していたことはご存じですよね?」
「あぁ」
「なにやら内皇庁に、猊下の証印付きで告知文書を出す気のようですよ。一体、何が書かれているのでしょうね」
「……」
もとより、彼らがコソコソとやっていることは察している。だが教会の人間というのは何かと腰が重たい上に手続きが煩雑で、どうせ証印とやらにもまだ時間がかかるだろう。だからこそ自分の立場を利用して早々と先手を打った。
こいつらがちゃんということを聞いて今日までにやることをやっていれば、今こんなにも怒りを堪えて苛立たねばならない理由もなかったのだ。
「お前達の不手際のせいだろう」
「私は最初から言っていますよ。演出は好きにやらせてほしいと」
まったく、あぁ言えばこう……。
「先程からごちゃごちゃと……俺が斬るまで黙っていろと言っているだろう」
ただでさえこの道化と意見があっていないのに、さらに野良犬のようなこの男までもが好き勝手をするのだから、もはやここに統率なんてものは無い。この短時間で三度目の深いため息を吐くと、もう何を言っても無駄だとばかりにヒラヒラと手を振ってあしらい、踵を返した。
もう少しまともに使えるかと思ったが、とんだ無駄足、とんだ厄介者達だった。彼らをあてにするより、自分自ら手を下す策を凝らしたほうがマシかもしれない。そうしないために手を結んだ者達だったはずだが、ちっとも使えやしない。
「もういい。好きにすればいい。私もそうする」
そう諦めたようにつかつかと歩を勧め扉に手をかけたところで、カンッとすぐ耳元で響いた金属音に思わずひゅっと息をのんで顔をひきつらせた。
「こらこら。扉に穴をあけられては困りますよ。机と違って代えがきかないんですから」
「もう一度だけ言う。“俺がやる”」
恐る恐る、顔の脇を通り過ぎて扉に突き刺さったナイフの柄に手を伸ばしかけ、しかし触れる直前で躊躇い、さっと手を引いた。
何が塗ってあるとも知れない。下手に触るのは愚か者のすることだろう。
「これを扉ではなく私の頭に投げられなかったのは躊躇ではないのか? そんなお前の何を信用できるものか」
「投げていいならそうするが、お前にはまだ利用価値がある」
ただの純粋な武力だけで自分が優位だと勘違いした若者の戯言だ。聞く耳もないが、下手に挑発してへそを曲げられては一層面倒だ。だから適当に「それは結構なことだ」と言いおいて、とっとと扉に手をかけて、この陰鬱な部屋を抜け出した。
体にまとわりついた香木が気持ちが悪い。眉をしかめながらパタパタとけぶる上着を叩き、細くて暗い隠し廊下を過ぎ、のぞき穴から人通りがないのを確認して扉を開けた。
この“禁事棟”は窓の少ない作りをしていて、その小さな窓の向こうもすでに日が傾き薄暗くなっているけれど、それでも先程の部屋よりはるかにマシな明るさだ。
それにため息を吐きながら角を曲がったところで、この棟でよく見かける騎士に遭遇した。
すぐにぱっと道を譲り礼を尽くした騎士の隣を何事もなかったように通り抜けるが、なにやらじっと視線が追いかけて来る気がするのは、疚しさを覚えているからなのだろうか。
思わず足早になりながら人も来ない個室に入りドンと息を吐きながら椅子に腰を下ろしたところで、まとわりついていた香木の中にほのかな埃の匂いを感じた。
なるほど……あの異様にけぶい煙の臭いは、かび臭く埃っぽい隠し部屋の匂い消しでもあるのか。だがだからと言ってとても看過できるものではなかった。あんな場所で火を焚いていたせいか、空気も薄かったような気がする。
そう思い至ったところで、ますますぐっと眉根がよった。
呼吸が浅ければ、思考も鈍り、切れ味も下がる。もしもそんなことまで考えて異様に香を焚いていたのだとすれば、まったく、なんと周到な道化なのか。
だがそれでも、使えるならそれでいい。
“わが君”の心残りを果たす――その利害が一致している限り、その目的だけは誰も違うことなどないのだから。
『今更、“選帝侯閣下”としての良心が咎めるので?』
「……」
違う。違うとも。
そんなものはとっくに無くした。
十五年前、血を滲ませ歯を食いしばりながらクロイツェン七世に首を垂れた瞬間から、そんなものは露と消えて無くなった。かの君の娘が死んでいなかったのだと知ったその瞬間から、そんな言葉も忘れ去った。
十五年……十五年だ。
本当の恨みも嘆きも知らない愚かな娘は、自分にとっては心変わりするほど長い十五年だが、お前にとってはほんの十五年なのだと言った。
そう。その通り。
まだ十五年。たったの十五年だ。
それはどうしようもないほどに長く、だが驚くほどに早い、何一つ変わることのない恨みと悔恨の十五年間だった。
たったの十五年でそれを捨て去れる彼らの方がおかしいのだ。
私にとってはまだ、ほんの十五年。
私の時計はあの時からまだ少しだって進んではいない。
忘れてヘラヘラ笑える彼らの方がおかしいのだ。




