10-20 火蓋
フィリックにはあぁ言ったものの、リディアーヌには引っかかるものがまだあった。
皇帝候補を狙う教会関係者。ヴァレンティンに罪を着せるかのようで、しかしガラス瓶自体は汎用性が高く花も毒もいかにもヴァレンティンのせいであるふりをしましたと言わんばかりのわざとらしい手抜かり。この中で唯一異彩を放っているのが、聖都でしか手に入らないはずの薬草であり毒草である紫頭花で、その一点でのみ周到であることがむしろ違和感でさえある。犯人は聖都の聖職者だ、と押し付けられているような……。
集まった書類をめくりながら思案の海を漂っている内に、手にしていたペン先からポタリと書類にインクが落ちた。
あらいけないとペンを持ち上げ、ベッドサイドテーブルのペン立てに戻そうと手を伸ばしたところで、じっとこちらを見るベッドの中のリュシアンの視線に気が付き、はっと目を瞬かせて腰を浮かせた。
「リュス……気が付いたのね?」
「……ディーがいるのは、何故だろう」
「眠りすぎて寝ぼけているのかしら? 昨夜からずっといるわよ」
取り合えず手にしていたペンを置き、書類も置いて、ベッドサイドに乗り上げてリュシアンの背に手を入れる。
気が付いたように歩み寄って来たレアンドロ卿も安堵した様子で「お目覚めになってよかった」と声を震わせつつ、背中にクッションを入れるのを助けてくれた。
「今、殿医の先生は仮眠中なの。薬を預かっているから、まずは大人しく飲んでちょうだい」
「……状況が、分からないな」
「貴方、アンジェリカの報告を聞いている最中にベルブラウの塩漬けの中に入っていた毒で倒れたのよ。それは覚えているかしら?」
レアンドロ卿が薬を用意してくれる傍ら、頭を抱えるリュシアンに水を差しだした。
顔色はすっかりと土気色になっているが、真っ白になっていた昨夜に比べれば随分とマシだ。それでも胃腑は傷んでいるはずで、水すらも飲みずらそうにしているのを見ると、マーサに湯も人肌ほどに温めなおしてほしいことを頼んだ。
「アンジェリカは?」
「心配ないわ。一応、毒を持ち込んだ当人だったことと盛られた場に居合わせたことから、ダリエルと一緒に離れに謹慎しているわ。でも毒の流入経路や毒の種類なんかから疑いは晴れたも同然だから、心配いらないわよ」
「……どうして君が?」
「貴方の使えない側近達に痺れを切らせたアンジェリカが私を呼んでくれたのよ。苦労しているようね、国王陛下」
思考が回り始めたのか、リディアーヌの冗談交じりの皮肉に困った顔をして見せたリュシアンは至極真面目な様子で「すまない」と謝罪した。
忘れていたが、リュシアンは冗談が通じないタイプなんだった。
「陛下、薬をどうぞ」
そう言っているうちにもレアンドロ卿が薬を用意し終えたようで、痺れの残る腕を上げずらそうにしているリュシアンの代わりにリディアーヌがそちらに手を伸ばした。ついでに薬を一口自分の口に含んで毒味をしてみせたら、必死の形相のリュシアンに「何をしているんだ」と叱られた。
昨夜、アルセール先生が目の前で調合していった薬だ。だから躊躇わなかっただけなのだが、毒とリディアーヌの関係に誰よりも神経質になっているリュシアンには到底看過できない、ぞっとするような光景だったようだ。だがそんな心配は必要ない。
「うるさいわよ。病人は黙って為されるがままにしていなさい」
「……ディー……頼むから、君がそんな真似はしないで欲しい」
「あら、つい先程まで意識も吹っ飛んでいた人が何を言うのかしら。この薬は私が素材を提供して、私の恩師であり義理の兄である薬師が私の目の前で調合していったものよ」
「……」
まだ困惑した様子のリュシアンに、やれやれまったくと息を吐き、もう無視してしまおうと水薬にくぐらせた匙を「ほら」と口元に突き出した。
「……ディー、その……自分で」
「腕も上がらずに何を言っているの。遠慮する必要なんてないでしょう?」
「……」
「言っておくけれど、私がここにいることも、看病をしていることも、お養父様もマクシミリアン公子もご存じよ。というか、そのミリムは今すぐ下の階でうちの側近達と悪だくみ中よ」
「公子も離宮にいるのか?」
「公子……というか。今はその……公女、かもしれないけれど」
「?」
ごふんごほんっ。あれは病人の精神衛生上宜しくないので、これ以上は止めておこう。
「いいから飲んで。飲めないならもっと強引な手段を取るわよ」
「……分かった」
ようやく大人しくなった。
薬湯が胃にピリピリと響くのか、何度か辛そうに顔を歪めたリュシアンの背を必死に撫でながら何とか一杯の薬を飲み干させる頃には、レアンドロ卿だけでなく殿医の先生も、内部の統制に駆け回っていたダルセイユ卿も集まってきていた。
もうそろそろ、もはや部外者でしかない自分はお役御免だろうか。そうでないと……。
「公女殿下がいてくださり、とても助かりました」
「やはり殿下がいらっしゃると安心感が違います」
「どうぞこのまま陛下のお傍にいてくださいませ」
皆も安堵したせいで口が軽くなっているのだろうか。口々に語る言葉の裏に含まれたニュアンスに気が付かないリディアーヌではなく、思わずきゅっと唇を固く引き結んでいたら、そっとリュシアンの手がリディアーヌの手を諫めるように包んだ。
ほらみたことかとでも言うような面差しに、リディアーヌも表情だけで、だって仕方がないじゃないと告げる。こんな状況で、後は任せたと去れるほど、自分は身内に薄情な人間ではないのだ。
「ここまでの協力を感謝する、ヴァレンティン公女。だがこの件はベルテセーヌの件につき、引き続き協力を願えれば有難いが、どうかこれ以上の干渉はご遠慮願いたい」
「っ、陛下?!」
「何を仰います、陛下。公女殿下はそんなっ……」
周囲の様子とは裏腹に、リディアーヌはその隔絶するような言葉にほっと息を吐くと、「ええ、仰る通りですわね」と、リュシアンの手を自分のもう一方の手で包み込んだ。
昨夜に比べると随分と温かみも戻ったがまだ冷たい。何事もないふりをして座っているけれど、まだリュシアンには休息が必要だ。
「本当は貴方に、聞きたいことがあったのだけれど……」
「何だ? 答えられることなら、何でも答えるが」
「……いえ、いいわ。もっと良くなってからにしましょう。勝手ながら、私の方で貴方の今日明日の予定はすべて取りやめさせて、代替案を出させているわ」
「今日明日……明日? 明日は確か内皇庁が……」
「そんな真っ青な顔で議会に出たところで余計な話題を提供するだけよ。大人しく代理を立てなさい」
「……」
なぜそこで押し黙るのか。そのことにむっと怖い顔をしていたら、リュシアンではなく文官のダルセイユ卿の方が、「その件はどうぞお任せください」と口を挟んだ。ふぅ。
「そんなに働きたいなら働かせてあげるわよ。一応明日の件について、代理人に指示を出してから休んでちょうだい。それと一滴も漏らすことなく薬を飲みほすのも貴方の仕事よ」
「重ね重ね、感謝しかないな」
「でもこれ以上の干渉はしないわね」
言葉を借りてそう自らも線を引いたところでレアンドロ卿達がおろおろとこちらを見たが、これでいいのだ。いつまでも彼らも、元王女を頼りにしてもらっては困る。自分達が仕える主を見間違えるのはもうやめるべきだ。
「そうそう、一応報告しておくと、毒は聖都の薬園のものだったわ。教会関係者には気を付けて。それからこちらで事件が起きたのとほぼ同時に、クロイツェンの方でも事件があったようだわ。おそらく、皇太子を狙った」
「何だと?」
さすがにリュシアンは驚いたように目を瞬かせる。リディアーヌもまったく同じ気持ちだ。もしその事件がなければ、あるいは頭のどこかでクロイツェンによる凶行なんてものを再び想定していたかもしれない。きっとリュシアンもそうだったのだろう。
「無作為に皇帝候補を狙っていることも考えられるわ。どうか今まで以上に気を付けて、お願いだから毒味は徹底して。煩わしくとも、部屋から護衛や文官を外させるのもやめてちょうだい」
「……分かった。君も、どうか」
「私の心配なら不用よ。私があの日からどれほど用心深く過ごしているのか。それにそろそろ仕掛けられる側ではなく、仕掛ける側にまわりたいと思っていたところなの」
「それを見損なっては永遠に後悔するな」
「ええ。だからどうか……早く良くなりなさい。後で聖水も届けるわね。薬の効能を高めてくれるから」
持つべきものは聖女の妹でしょう? なんて茶化して見せたところで、リュシアンもリディアーヌがどういうスタンスでここにいたのかを察したようだった。何といえばいいのか分からない顔をしながら、「妹か……」と呟き、複雑な様相で口端を吊り上げて見せたリュシアンに、ざわざわと心が毛羽立つ心地がした。だからすぐに気が付かなかったふりをして、ぱっと席を立った。
もとよりマクシミリアンやフィリックには『せめてリュスの目が覚めるまで』といってここに居座らせてもらっていたのだ。目が覚めた以上、もうここにいる理由はない。
「帰る前に、アンジェリカに一目会って、貴方はもう大丈夫と伝えて言ってもいいかしら?」
「ああ。それにレアンドロ、君も一緒に行って、二人を解放してきてくれ。どうせ彼らは巻き込まれただけだ。明日の一件も、代理を立てるならあの二人を閉じ込めてはおけない」
「はい。承知いたしました、陛下」
「ところで二人のことは聞いたが、ラジェンナ嬢はどうした?」
「あぁ、それならうちに」
そんなことだろうとは思っていたのだろうレアンドロ卿はちょっと困った顔を見せながら、「ラジェンナ嬢への疑いも、もはやありません」と言った。それにリュシアンも頷くので、リディアーヌもヴァレンティンに戻ったらこちらに戻すことを伝えた。
「ただ、アンジェリカとラジェンナ嬢は青苑からの帰路に毒を持たされたわ。アンジェリカが青苑に出かけていることの情報が漏れていたということだから……」
「……うちの内部に、今回の件に関与した内通者がいる、か?」
「ええ。くれぐれも気を付けて」
「分かった。重ね重ね、協力を感謝する」
「……ええ」
他人行儀を選んだのは自分だけれど、そういう感謝のされ方は落ち着かない。落ち着かないけれど、これに慣れて行くべきなのだろう。
「また新しい情報があれば、ユリタス卿を通じて知らせます。どうかよくお休みになって、一日も早く良くなられますことを願っておりますわ、陛下」
席を立ち、ドレスのスカートを摘まんで一礼して見せると、すぐに先程までめくっていた書類をがさっと手に取ってマーサに預け、背を向けた。
あまり長居していると、また周囲に余計な噂を立てかねない。もう十分に長くここにい過ぎたのだから、これ以上特別である様子を見せるわけにはいかなかった。
言葉よりも雄弁な視線が、長く長く背中を追いかけてくる。それが後ろ髪を引かれるようだった。けれどそれに一度も振り返りはせず部屋を出たると、リュシアンが目覚めたことを聞きつけたのか、マクシミリアンとフィリックが待ち構えていた。
「お待たせ、ミリム。長く待ってもらって、申し訳なかったわ」
「……困ったな。こんな格好じゃあ、抱きしめたくても抱きしめられない」
そう眉尻を垂らしたマクシミリアンに、思わずきゅっと拳に力がこもってしまった。
あまり甘えてばかりはいられないと思うのに、どうしてこの人はいつも欲しい時に欲しい顔をするのか。
「あら、私は貴方の顔と恰好が好きになったわけではないのよ」
だからドレス姿であろうとも、豪奢な長い波うち髪をしていようとも、関係ない。思わず身を寄せたリディアーヌを受け止めた腕はよく知った腕で、困った顔をしながらもそっとリディアーヌの頭を撫でた大きな掌は、いつもと変わらない安堵の掌だった。
ただ一つ不満があるとするならば、頬を寄せたそのドレスのレースから、彼の甘いような苦いようないつもの匂いがしないことだろうか。
「さすがにドレスにチョコレートは忍ばせていないのね……」
「甘いものが欲しくなった? だったら早く帰ろう」
「ええ。そうね」
ゆるゆると解かれていった後ろ髪の代わりに、すりとその肩に額を寄せる。
その心にはもう、迷いや不安はない。
帝国議会に対し、『教会と聖女の共同声明』と称し、エティエンヌ猊下の証印をもらった議書を提出したのはその日の事であった。
火蓋はすでに、切って放たれた。
※明日は更新お休み。次は19日に。




