10-17 紫頭毒事件(4)
「フィリック、そこのガラス瓶の出所はどう思う? うちで使っているガラス瓶とは違うのよね」
「そうですね。刻印もありませんし、質はいいですが、ヴァレンティンで一般的に見かけるタイプではありません。むしろこの直轄領内の硝子店などで汎用性が高いものに似ています。だとしたら底面に……あぁ、やはり。店名の刻印がありますね」
「店名?」
フィリックが検分するガラス瓶を受け取って見てみるが、書かれているのは店の名前というよりなにやらヘロヘロとした傷跡のようなものである。
「皇宮城下中町一番街の大店のものですよ。店名のヘルメスを筆記したものでしょう」
「あぁ。確かハンナ達がガラス瓶入りの飴玉を買い込んでいた店ね」
何でそんなものを覚えているのかは甚だ不思議だったが、さすがの慧眼と褒めておこう。
にしてもよく分かるな、なんて思いながら蜂蜜漬けの方の瓶を見回していたら、ふとこちらも変なことに気が付いた。
「これ、うちの作る蜂蜜漬けじゃないわね」
「そうですか? よく違いが分かりませんが」
「今回持ち込んだ蜂蜜漬けは作り置きの砂糖漬けに林檎と生姜を漬け込んだ蜂蜜を加えた物だから、蜂蜜の中に色々と不純物が混じっていて見た目は少し悪いのよ。でもこれは透き通った蜂蜜色だわ。多分、塩漬けか何かを水洗いして絞ったものをそのまま蜂蜜に漬けてあるんじゃないかしら。花の色も薄いわ」
「良くそんなことが分かりますね」
「お互いさまよ」
そう答えたところで、ふむ、と考え込む。
ベルブラウの砂糖漬けや塩漬けはヴァレンティンでは珍しいものではなく、ただの蜂蜜漬けも高級品とはいえ珍しくはない。リディアーヌも皇宮では度々それらを飲用しているし、ヴァレンティンの離宮に仕えているものならそういう話も知っているだろう。
だがアンジェリカに接触したメイドとやらはヴァレンティンのメイドであったとは思えない。では一体どこからそんな的確な手土産とやらを選んだのだろうか。
「砂糖漬けと塩漬けは、お茶会でも出してきたけれど、蜂蜜漬けは今回が初めてよね?」
「ええ。日頃姫様は普通の蜂蜜漬けをあまり好んで飲まれませんので」
そう。甘すぎる紅茶は好きではないので、蜂蜜漬けは好んでいない。ただ今回の蜂蜜漬けは紅茶に入れる用ではなく、柑橘の絞り汁に小さじ一杯ほど加え湯で溶いて楽しむ類の果実湯であり、そこが気に入っていた。
「蜂蜜漬けの話題をどこかで出したかしら?」
「どこかと言われるのであれば、青苑での会議中が最初……いえ、これは確認が必要ですが、公子様も同じものを料理長から貰っていましたよね?」
「……貰っていたわね。五つも」
くしくもリディアーヌよりこれを気に入ってしまったらしいマクシミリアンは、大きくもない荷物鞄の中にぎっしりと料理長特性のおつまみやら蜂蜜林檎やらベルブラウの蜂蜜漬けやら、入るだけ詰め込んで皇宮に出立した。どこかで蜂蜜漬けの話題が漏れるとしたら、マクシミリアンの周辺からかもしれない。おそらく選帝侯議会棟にも持ち込んでいるだろうから、それならどこから漏れたとしてもおかしくない。
「アンジェリカには蜂蜜漬けとクッキーを贈る、と話したはずよ。なのにクッキーは用意できていないのだから、あの会議にいた誰かが仕組んだとは思えないわ。それに蜂蜜漬けも塩漬けも一朝一夕にできるものではないから、あらかじめ準備されていたのも確かね」
「どこから情報が漏れたのか、どこまで広まっていたのか……調べさせましょう」
それにコクリと頷いたところで、調薬を続けていたアルセールが殿医に「まずはこれを」と渡し投薬に移った様子が窺え、ふとリディアーヌ達もそちらに視線をやった。
本当なら考察に集中するべきなのだろうが、リディアーヌの足は自然とベッドへと向かってしまう。ひとまず薬が出来たことに吐息が零れ落ちたが、まだそれが効くかどうかは分からない。邪魔にならない場所に腰を下ろすと、じっとリュシアンの様子を窺った。
こんな調子ではまたフィリックから文句の一つでもあるかと思ったのだがどうやらそんなことはなかったようで、むしろリディアーヌがここでじっとしているなら幸いとばかりに、騎士の一人に「水甕や茶器なども調べてもいいですか?」と申し出ている。騎士は自分では判断しかねるという様子を見せたが、折よくダリエルがレアンドロ卿含め数人を連れてきたので、ぱっぱと話をまとめてしまった。
ダリエルはそのままアンジェリカを連れて離れの方で謹慎する旨を伝えている。どうやらレアンドロ卿達とも話は付いているようで、「ダリエル卿が不在では陛下もお困りでしょうから、早めに解放できるよう尽力します」などと言っていた。フィリックが脅さずとも協力的でいてくれるようだ。あるいはダリエルから何か聞いてしまったのか……。
「私も、実際に使われた茶器などは確認したいですね。毒の服用経路が本当に塩漬けであったのかの確認もしたいです」
投薬後の変化を慎重に見ていたアルセールがほっとした様子で手を拭いながら立ち上がるのを見ると、彼らの顔にも安堵が浮かんだ。
薬師がひとまずこの場を離れても大丈夫だと判断したことは、何よりの安心だ。
アンジェリカも心配そうにリディアーヌの傍に寄り添ってリュシアンの様子を窺っていたが、しかしそれにはダリエルが「私達は離れに行きます」とアンジェリカを呼び寄せた。
「でもお兄様……」
「心配なのは私も同じだ」
「……」
アンジェリカが躊躇うのも無理もない。ましてやつい先程目の前で倒れられたのだ。今も油断したらすぐにでも泣き出しそうな顔をしているのに、離れでじっとしていろというのは酷な話だろう。
だからせめて安心させるためにも、リディアーヌがぎゅっとその手を握りしめた。
「アンジェリカ、もし許されるなら、今夜は私がずっとここにいるわ。大丈夫だから安心して、貴女も少し休んで」
「……リディアーヌ様」
ついにはほろりと零れ落ちてしまった涙を、「困った子ね」とすぐに拭う。
西大陸の淑女たるもの、異性の目の前で不用意に泣くだなんてあってはならない。ならないとは思うけれど……気持ちは、分からないでもない。
「フィリック、レアンドロ卿。アンジェリカの為にも急いで真相を究明してちょうだい。長くは待てないわよ」
「かしこまりました」
「は……はっ」
無茶な要求に躊躇わず頷いたフィリックに釣られるように返事をしたレアンドロ卿は、そのまま「ではさっさと検分しましょう」とアルセールを連れて出て行くフィリックを見て、きょろきょろと慌てふためいてから慌ただしくリディアーヌに一礼して走り去っていった。
しょっぱなから義弟の尻に敷かれている様子だが、大丈夫だろうか。
ちなみにレアンドロ卿は侍従なのだからこの部屋に残すべきで、着いて行くべきは文官のダルセイユ卿だったはずなのだが……。
「あの、私はどうすれば?」
そう苦笑いしたダルセイユ卿に、ダリエルはポンポンと肩を叩いて、「彼らが戻るまでここをお願いします」といい、名残惜しそうに何度も振り返るアンジェリカを連れて行った。大層な困り顔になっていらっしゃる。
とはいえリディアーヌもこれ以上、多少面識がある程度のベルテセーヌの文官とあれこれと話し合う気はない。すっかりと人気の減った部屋ですることを失ったリディアーヌは、殿医の先生が水薬を飲ませるのに苦労しているのを見ると、ベッドサイドに乗り上げ、医者が触る事も憚られるといった様子で躊躇しているのを横目にリュシアンを抱き起し、後ろから自分に凭れかけさせた。
その近さにチラリと一瞬周囲が気まずそうな視線を向けたが、どうせここにいるのは口を噤ませられるリュシアンの側近ばかりだ。構わない。
冷たい頬に手を当てて、紫色に変色してかさかさと乾ききっている唇を押し開き、先生に薬を流し込んでもらう。注がれた水が口端から零れ落ちるのを咄嗟に袖で拭い、重たい頭を丁寧に肩に乗せて、先生から受け取った水差しを自らリュシアンの口元に宛てて注ぐ。こくりと小さく動いた喉元を見つめながら、慎重に、ゆっくりと注いだ。
「公女殿下、もう大丈夫でございます。枕に」
無事に飲ませるべき薬がすべて消えたのを見て、ほっと安堵の吐息が零れ落ちる。
抱えていた体を倒し、枕に頭を戻したところで、先程よりも呼吸に雑音が少なくなっていることに気が付いた。薬が効いてくれたのか、この短時間で頬にもわずかながら赤みが戻ったような気がする。きゅっと手を握れば、こちらも先程より温かみが戻っている。だがそれでもまだ体は冷たい。
「先生、手がまだ冷たいわ。火鉢か、毛布を加えてはどうでしょう」
「ええ、そうでございますね。すぐに」
殿医が侍従長と共にそれらを整える間も、リディアーヌはベッドサイドに腰を落ち着けたままぎゅっとリュシアンの手を握り締めた。
今感じているのは恋情や憐憫ではない。これは身内を失うことへの恐怖心だ。正直リュシアンに王になることを請うて以来、自分がリュシアンに感じる感情が何なのかがよく分からずにいた。だがいざこうなってみるとよく分かる。
この人は、ただの従兄妹という親戚であったこともあれば、契約的な関係の間柄であったこともあり、あるいはやるせない恨みを抱いたこともあれば、冤罪に声を上げることもできぬままに見捨ててしまったことへの罪悪感を抱いていることもあった。
この相反する愛憎と同情と罪悪というこんがらがりすぎた数多の感情のせいで、結局これをどういう言葉で表すのが最適なのか、分からないままだった。
「人は崖の上に立たされて初めて本心が分かるというのも、まったく、その通りね」
「……公女殿下」
リディアーヌとリュシアンの関係を良く知っているであろう侍従長が何と答えるべきなのかという困った顔を見せるが、その表情は見当違いだ。
両親が死ぬその直前まで、リディアーヌにとってのリュシアンはただの従兄で、あまり接点はないが兄がよく可愛がっている親戚だった。結婚をした当初も、彼はリディアーヌに王となることを求めながら、誰よりもリディアーヌをかつての花園で真綿にくるまれ愛されていた小さな王女としての過去を投影し、夫ではなく兄の代わりであるように振舞った。だがだからといって本当に兄のように思っていたわけではなく、多少縁があるだけで、所詮は数多にいる身内だが疎遠な者達と変わらない存在なのだと思っていた。
しかし今こうして苦痛に顔を歪めて眠るその人に抱いた焦燥はそんな他人行儀なものではない。実の兄と違って目の前で死んでしまうような真似をしないでくれたこの人への安堵も、言葉に言い尽くせないほどに深い。
きっと本当に大切な身内が死に過ぎてしまった中で、彼らの次に失いたくない近しい身内であることが強く思い起こされたのだろう。
それは自分の心を守るための利己的な、便宜的な感情だったかもしれない。だがそれでも今の自分にとって、リュシアンはヴァレンティンの家族にも次ぐほどの失いたくない身内であり、亡き兄の身代わりのような存在になっているのだ。それを実感した。
「……リュス」
かさりと指先を撫でた乾いた肌。はらりと掻き分けた白い髪。すっかりと色褪せてしまった色だけれど、それでもこの指通りに郷愁を感じるのは何故だろう。
「……っ」
髪を指で梳いている内に、小さくその唇が動き、何かを口にしたような気がした。
意識が戻ったのかと、はっとして握っていた手を力強く握りこむ。
「リュス、聞こえる? リュス」
「……ディー」
はっきりと聞こえた名を呼ぶ声にぱっと皆も飛びついて来たが、それを若い医師が、「皆様、お控えに」と少し遠ざけた。患者を刺激させないようにとの配慮なのだろう。
じわじわと開かれた視線はまだ定まらないが、もう名前を一度呼びかければ、耳を頼りにその顔がこちらを向いた。
この人は兄とは違う。こちらを見てくれることも無ければ手を差し伸べてくれることも無く、ただ苦痛の声をあげながら二度と会えなくなってしまった兄とは違う。その安堵に感情の制御も聞かぬまま、目元いっぱいに涙の幕が張った。
これじゃあアンジェリカの事なんて言えない。でも仕方がない。
「リュス……まったく、酷いこと。私の目の前で毒に参るだなんて、なんて愚かなことをしてくれたのかしら」
「……ディー……君は……無事だろうか……」
「まだ意識が混濁しているようね。貴方が一緒にお茶を飲んでいたのはアンジェリカであって、私ではないわよ。私はこの通り、何とも無いわ」
「良かった……」
「……」
自分がこんな目に有ってなお、まだリディアーヌを気にするのだ。なんて酷い話だろう。
こんな罪悪感に彼を捕らえさせてしまったのはリディアーヌのせいだ。ずっと解けぬままに重たい心のしこりとなって、今も、そしてこれからも、彼はエドゥアールの死を永遠に抱えて生きて行くのだ。
それをざまぁないと思っていた自分はもうおらず、今はただただ悲しみが漂うばかりだ。
お兄様は、とても、とても罪深い死に方をなされてしまった。人一人の人生を狂わせる、クリストフ二世の恨みを体現するに相応しい残酷な死に方を。
私達は永遠に、そんな後悔の檻に閉じ込められ続けねばならないのだから。
リュシアンはそれからまた固く目を閉ざして深い眠りに落ちたけれど、殿医の先生はその落ち着きに安堵の顔をして、「もう大丈夫でしょう」と仰った。
だが一体、これの何が大丈夫なものか。
自分と違い、誰も支え、慰めてくれる人のいないこの人の憐れさと、それなのに何もしてあげることのできない自分の無情さを思うと、何も言葉にならなかった。
今できるのは、ただひたすらにこの手を握り、傍にいる事だけだ。ベルテセーヌの離宮で夜を明かすことが、今の情勢として望ましくない愚かな所業であることは分かっていたが、それでもここから一歩として動くことはできなかった。
戻って来たフィリックが何度か声をかけてきたような気がしたけれど、それも耳に入りはせず、ただひたすらにその手を握り、一晩中胸の内に懺悔を繰り返し続けた。
今のこの状況に到底頭は回っていなかったけれど、でもこれだけは嫌というほどに分かっている。
今回もまた、誰かが己のためにリディアーヌの安寧を脅かしているのである――。




