10-16 紫頭毒事件(3)
「先生っ、この中に使えるものは?!」
「これは……薬ですか?」
「毒に特化したものばかりが入っているはずです」
アルセールはすぐに区分けされた丸薬の中のいくつかを選んで手に取ると、匂いと、それから一つを指で軽く潰して中身を確認した。それからすぐにそのうちの一つを手にして「どうしてこんなものを?!」と顔を跳ね上げさせた。
「これは教会の薬師以外による持ち出しが禁じられているはずの品種ですよ?!」
「私もこれらの内容は詳しく知りません。でもこれは……」
きゅっと握りしめた冷たい金属に、先程乱暴に引き掴んだせいか、割れた爪が指先を切り、血が滲んでいた。だがそんなことはどうでもいい。もしこれが使えるのだとしたら、それは何という皮肉で、だが何という幸運だろうか。
これを受け取ったのはベルテセーヌ王の戴冠の式典の後だ。あの時はリディアーヌの方が毒を食んでしまい、ひどい目に遭った。そのすぐ後で、マクシミリアンがこれを渡してきたのだ。常に周囲に危険が孕んでいたリディアーヌに、どうか手放さないでくれと言って。
だが彼はこうも言っていた。
『そう言って私から渡すふりをして、君に持っておいて欲しい、って。“トゥーリ”が』
これは当時の皇帝が鍾愛する孫であり、この直轄領において何かと例外がまかり通っていたクロイツェンの皇太子だからこそ手にすることのできたものだ。後にヴァレンティンの殿医に調べてもらった時は、教会や東大陸系の毒物中和に有効な鎮痛薬や嘔吐薬、胃壁の保護薬、中には毒と紙一重の強い薬効を持つものまであり、教会の許可なく持ち出すことのできないものも含まれていると言っていた。それはヴァレンティンにあっても早々手に入れることの叶わないものでもあると。
だから複雑な心境を抱きつつも、『決して御身から手放さずにお持ちください』と言われ、以来リディアーヌかフィリックが必ず持ち歩いていたものである。それがまさか、こんな形で使われるだなんて。
「先生、薬になりますか?」
「……ええ。少し中身をばらして配合を変えます。公女殿下、この辺りを三種、すべていただいても?」
「お願いします」
すぐに頷いて、殿医の先生が並べてくれた薬皿に余すことなくすべてを出す。
まだハラハラと気持ちが急いているのか、取り出す指先が震えていたら、さっとアルセールが取り上げて変わってくれた。
「ベルブラウはすでに処方していますか?」
「原因がベルブラウの塩漬けとあって、避けておりました。代替としてセダフを。嘔吐剤の後、補薬とセダフを水で薄めて出来る限り毒を出しましたが、強い嘔吐剤と胃壁が痛んでおられるせいか、ほとんど吐いてしまわれて」
「セダフは飲み下し辛い薬草です。原因はベルブラウではないので、投薬はベルブラウを中心に組みましょう。粉末を薄めに溶いた湯に塩をひとつまみと砂糖を少量加えて、ティザの葉で混ぜて人肌ほどにしてください。それから昏睡中も水分補給をこまめにしましょう」
「はいっ」
殿医の先生とアルセール先生が跳躍に取り掛かったのを見ながら、ほぅ、と息を吐いてリディアーヌは傍らの椅子にへたり込むようにして腰を下ろした。
冷静を装ってみてもやはり心は急いていたのか、どっと手に汗が滲んでいるのを感じた。ぬるりとした掌の不快感は指先の血のせいだ。今更痛みを感じ始めた。
「少しは落ち着かれましたか? 姫様」
そんな指を取り上げて淡々と静かな声をかけるフィリックに顔をあげる。
おそらく見た目通りにずっと落ち着いていたというわけでもなかろうが、しかし恨めしくなるほどの冷静さだ。
冷たい手がリディーアの手の様子を確認し、ぱっと広げたハンカチの上に下ろすと、どこからか取り出したはさみでパチパチと割れた爪の形を整え、やすりをかけて行く。そのあまりにも悠長な動作が少しずつ落ち着きを思い出させてくれるようだった。
「フィリック、なんでそんなものを持っているの?」
「こちらへの出がけにフランカから預かってまいりました。姫様がどれほどこちらにいらっしゃるともしれませんでしたから、この通り、侍女の七つ道具とやらを」
「いつの間に……」
そういえばここまで着いて来た側近はフィリックとエリオットだけだ。エリオットがいたことにも、侍女がいないことにも気が付いていなかった。
どうやら気丈なふりをして見せていてもそんなことにさえ気を回せない状況だったらしい。そのことに今一度深くて長い吐息をこぼした。
ようやくまともに深呼吸が出来た。
あぁ……アルセール先生がいて……アルトゥールの薬入れがあって、良かった。本当に、良かった。
もしかしたら、安堵するには早いのかもしれない。だが先生方の落ち着いた所作は安堵を呼び、まったく急いた様子のない粛々とした行動はこちらにも穏やかさを思い出させる。その空気の中でさらにフィリックまでもが淡々と指先の治療を続け、仰々しく包帯まで巻いてゆくのだ。そのおかげもあってなのか、リディアーヌも随分と落ち着いた。
「ごめんなさい、フィル……私、見苦しかったわね」
「我が主に見苦しいものなど何一つありませんが、孤高の姫様が他者のことにそのようにお心をお乱しになる事については非常に不快でしたね」
「……」
「フィリック卿、貴方はもう少し場の空気の読み方というものを学んだ方が良いでしょう」
薬をこねていたアルセール先生が一瞬振り返って呆れた顔をしたのも無理ないことだ。
「そこの朴念仁の言うことなどお気になさらないでください、公女殿下。もっと取り乱してもいいものを、大変冷静に対処なされておいででしたよ」
「……有難うございます、アルセール先生」
その優しさが沁みる。
「だからってご自分の爪で御手を傷つける方がありますか。せめて私に命じてくださればいいものを。何でもご自分でどうにかしないととしてしまうのは姫様の悪い所だと、以前からくどく申し上げてきたはずです。もっと部下を上手くお使いなさい」
「……貴方はどうして私が傷心の時に限って説教をするのかしら」
「こういう時が一番大人しく聞いて下さるからですよ」
「……」
よし、やめよう。何を言っても無駄なので、いらないことを言うのはやめよう。
「そんな事よりも、アンジェリカ」
まだはらはらとあっちをこっちをと見ていたアンジェリカを呼び寄せて、もう少し建設的に時間を使うことにする。
「貴方達に声をかけたというヴァレンティンのお仕着せのメイドについて、覚えている限りの事を教えていただけないかしら」
「……はい。あの、でも本当にぼんやりとしか。まるでベレニーと話しているような気がして、でもベレニーではないなという気もしていて、ただ感覚としてはベレニーと話している時のような印象でした。呼び止められた時は誰だろう、というくらいだったんですがすぐに気にならなくなって、リディアーヌ様からだと瓶を渡されて、なぜか不思議なくらいにラジェンナと喜んで……でも陛下が甘いものが苦手でいらっしゃるから塩漬けも、という、そういう話をしたことはぼんやりと覚えています」
「おそらく興奮剤の類が炊かれていたのではないかと。御者はその被害に遭っていないのですが、貴族のお嬢様であろうからと、背を向け見ないようにしていたと証言しております。ただ覚えている限りでは、メイド服姿の若い女性で、結っていたのか切っていたのか、髪は短い印象で、それから赤毛であったと」
すでにダリエルが調査をしていたらしい内容を付け加える。
生憎と若い女性で赤毛というだけではそこら中にいる。ただ金や薄茶の淡い髪色が多いヴァレンティンには多くない色だ。少なくともリディアーヌが今こちらに連れてきている中にはいない。
だが髪なんてものはウィッグ一つでどうにでも変えられるものだから、そればかりに注目することもできない。
「ヴァレンティンのメイドのお仕着せだったのよね?」
「はい。上級メイドの、品のいい、あの青いリボンの……多分」
アンジェリカはそう頷いたが、ダリエルは少し言葉を躊躇した後、またアンジェリカに言葉を続けた。
「御者はそもそもヴァレンティンのお仕着せを知りません。ですが青いリボンとやらを身に着けていたかどうかについては首を傾げていました。どこでも見かける、ごく普通のメイドの恰好だっと。もっとも、はっきりと目にしていたわけではないようですから信頼に足るかは分かりませんが」
「もし本当にうちのメイドだとすると、“普通の”というのは少し違和感があるわよね」
これにはベレニーを良く知っているアンジェリカも微妙な顔で頷いた。
ヴァレンティンのメイドのお仕着せは、城下町の女性達が噂にするほど機能的かつ可愛いとの評判の逸品だ。いわゆる私服的な可愛さとは違うが、きちっとした詰襟に丁寧なタックが入った白いシャツに、濃紺のワンピースドレスという定番のデザインにも質の良さとこだわりが詰め込まれており、これだけでも見栄えする。
ワンピースのスカートもメイド用とは思えないほど贅沢に布を使った保温性の高いペチコートがセットで、ふわりと可憐なラインになる。メイドの必需品である白いエプロンには邪魔にならない程度にレトロなレースのフリルが縫い付けられており、何より首元の上品な青いリボンタイがとても古風で上品だ。エプロンを外せばそのまま理知的な貴族の婦人にだって見えるほどで、メイド達は正装が必要な場面でも望んでお仕着せを着るほどだと聞く。
中級以下となるともっとシンプルな型になるが、雪深い国にふさわしく布地はしっかりと上質で、普通のメイド服と違いどれも高襟なのが特徴だ。
確かに黒っぽいドレスに白いエプロンはメイド服の基本なのでぱっと見で普通のメイド服と言われてもおかしくはないが、もう少し印象に残ってもよさそうなものである。
「いずれにせよわざわざヴァレンティンのメイドを装ったということは、アンジェリカ達を信頼させるためだけが目的だったのか、あるいはヴァレンティンとの間に溝を生ませることが目的ということもあるわね」
リディアーヌが呟くと、アンジェリカがビクリと脅えたように口を引き結んだ。自分のせいでリュシアンが倒れたのだという恐怖があるのだろうか。これはリディアーヌの配慮が足りなかった。
だがさらにフィリックが「まんまと利用されましたね」という追い打ちをかけたものだから、アンジェリカもずぅぅんとあからさまに落ち込んでしまった。
「フィリック……」
「変に言い繕ったところで無意味です。反省すべき点はすべきです。しかし私は事件が起きてすぐに私達に使いを寄越したことは大いに評価しております」
「……」
うん。まぁ、ええ。そうね。そうかもしれないけれど、ほら、アンジェリカもダリエルもなんとも言い難い顔になってしまっている。
「とはいえ犯人の目的次第では、いずれアンジェリカ様かヴァレンティンを標的とした悪い噂くらいは流れるでしょう。少なくとも毒を渡した相手とルートが判明するまでアンジェリカ様とラジェンナ嬢は人目を置いて隔離し、事件の取り調べにはダリエル卿ではなく別の文官を充てた方がよいでしょう。陛下のお傍にも侍従としてレアンドロ卿を置いておくことを提案いたします」
物言いはともかく、フィリックの言っていることは理に適っている。ベルテセーヌ内部での混乱を抑えるためにも、近し者達ばかりで周りを固めておくのは良策ではない。たとえ今ここにいる面々が手放しに信頼できる相手であったとしても、そうではない派閥を排除してしまっては逆にいらぬ疑いをかけられ内憂を抱えることになりかねない。
使い勝手のいいダリエルを外してしまうのも苦肉の策だが、アンジェリカが実質毒を持ち込んでしまった原因である以上、実兄であるダリエルは調査からは外れるべきである。それにリュシアンの容態とてまだこれからどうなるとも知れない。その時リュシアンの傍に近しい者ばかりを置いておいて疑いの矛先を向けられることも避けさせたい。
「レアンドロ卿は大人しく使われてくれるかしら?」
「そこは私にお任せください。こういうこともあろうかと、卿の義兄であるうちの兄上から囁きがいのあるネタをいくつか預かってきております」
「……」
ご愁傷様である。レアンドロ卿もこんな義理の弟がいて憐れであるが、諦めてもらおう。
「下手に私から声をかけるよりも、この後の配置の差配はダリエル卿からやっていただくのがよいでしょうから、後はお任せします」
「分かりました。ここはレアンドロ卿に任せ、調査の方はダルセイユ卿に任せることにします。アンザス候の縁者ではありますが、国王補佐として信頼のおける文官ですので」
セザール派として現国王に何かと冷淡なアンザス候は、現在ベルテセーヌ王室内でも国王派と言いつつ警戒せねばならない派閥なのだが、若い世代には比較的セザールの言葉をよく聞き、きちんと国王を補佐してくれている人材もいると聞く。その内の一人なのだろう。そういう人物がいたことは幸いである。
この場をどうかくれぐれもと口にして離れがたい様子を見せたダリエルは、一度リュシアンの様子をよく目に刻み、差配の段取りをつけに部屋を出て行く。その時に一瞬扉の向こうが見えたが、どうやら先程まで無意味に集まっていた連中は解散し、静寂を取り戻しているようだった。
それでも何人かが訝し気に立っていたことを見るに、早めにこの判断をしたことは正しいことだっただろう。




