10-14 紫頭毒事件(1)
アルセール先生の被って下さった痴態に一瞬気は紛れたが、馬車に乗り込むといつもよりいやに遅く感じてしまうその動きにいらいらと焦燥が募った。
握った手に力がこもりすぎて肌が白く冷め上がり、固く噛みしめすぎた奥歯がじんわりと痛みを催す。そんなことにも気が付かないほどに強張った体と、ぐるぐると頭の中を駆けまわるのは嫌な想像ばかりだ。
まったく無駄なことを考えている自覚はあって、深い息を吐いて自分を諫めようと顔を落としたところで、「今から無駄に悩んでいるのは無意味です」という無慈悲なフィリックスの言葉に追い打ちをかけられた。
それに「人の心をどこへやったのですか?」とリディアーヌを気遣うように背を撫でてくださったアルセール先生を連れてきたことは何よりの裁量で、その身に沁みついた教会の香木の香りがリディアーヌを言葉よりも雄弁に宥めてくれた。
やがてベルテセーヌの離宮に馬車が着いたところで、表立った騒ぎは見えないながら、門兵の傍に元ジュード配下の見知った顔の騎士が立っているのを見た。明らかに内外の出入りを意識したものだ。
いつもならヴァレンティンの紋章一つで疑いもなく丁寧に門の中に促されるところ、今日ばかりはピリピリとした様子で停められたのも致し方ない
「ご来訪の予定は聞いておりませんが、一体何の御用でしょうか」
警戒心を尖らせながら御者に話しかけた騎士に、自ら窓のカーテンを掻き分ける。
「私よ。アンジェリカから使いがあって来たわ。身内の薬師を同行させています」
顔を見せたリディアーヌの姿に、気まずさと期待という相反する両方を漂わせた騎士が、薬師という単語にたちまち天秤を期待の方へと傾けた様子が見受けられた。警戒に歪んでいた面差しがたちまち安堵としたようにほころび、打って変わって慌ただしい様子で「奥の棟に付けてください」と中へ、それも普通なら客人が通されない場所へと促された。
馬車が停まったところで、ここでもまだ表立ったざわめきは感じなかった。だがリディアーヌがエスコートも待たずに飛び出すと、バンと開け放たれた扉から同じように急いた様子のアンジェリカが飛び出してきた。
「リディアーヌ様!」
「アンジェリカ、詳しく報告してちょうだい」
かつかつと足早に踏み出そうとしたリディアーヌに「姫様」とその肩を掴み止めたフィリックを恨めしく振り返る。落ち着けと言われているのは分かるが、このくらい許してもらいたいものである。
「分かっているわよ」
騒ぐ姿を見せない方がいいのは理解できる。だからそう形ばかりの深呼吸をして見せて、ただ挨拶を交わす体裁でアンジェリカに駆け寄り、頬を寄せる。
「アンジェリカ、リュスは……」
「わ、分かりませんっ。い、意識が、まだ……」
生きている――そうと分かっただけで、それがどれほどの安堵であったか。
かつて実の兄は、処置がどうの、薬がどうのなどと言う間もなくその場で、リディアーヌの目の前で息絶えた。その恐怖を誰よりも知っているからこそ、まだ手の尽くしようがあることだけでも幸いだと思える。
「教会の薬師であるアルセール先生を連れてきたわ。すぐに診せて」
「えっ?!」
慌てふためいていたアンジェリカが一瞬キョトンと言葉を失って見渡したリディアーヌのお供の面々に、恥ずかしそうにもじりと俯いた人物がいるのを見て、「えっっ?!」と、二度目の声をあげる。
気持ちは分かるが、あまり見ないで差し上げて欲しい。
「アンジェリカ」
「……あ、は、はいっ。こちらにっ」
一拍遅れて我を取り戻したアンジェリカがフィリックにジロリと睨まれ、あくまでも親しいヴァレンティン公女をお招きしただけの体裁をとって、ニコニコと引き攣るいびつな笑みを浮かべながらリディアーヌ達を棟内に招き入れた。
この棟は本館の奥にある王の寝殿だ。外国籍の者が立ち入る場所ではなく、また内部の者でも限られた者しか出入りできない場所であるはずだが、一階の階段下のホールに至ったところで思った以上の人が集まりに一気に慌ただしさの空気が増した。
扉を守っていた見覚えのある騎士達がリディアーヌの顔を見てほっと息を吐き、中へ中へと急かす。
「元々陛下は周りに人を置くことを嫌っておいでなので、こっちには信頼のおける者達しかいません。一応、出入りを全部遮断させて、人払いも。情報が漏れないよう、中にいた人と中に入ってきてしまった人はすべて先程のホールに集めてあります。陛下は仕事を終えるといつもこの奥の棟からは人払いするのですが……」
周囲に頼れる存在がいない中、アンジェリカがこの離宮で第二位の立場である王弟夫人としての役割を必死に勤めようとしていたことが窺える。だがまだせわしなく離宮内の空気が焦燥に駆られているのを見ると、口外禁止と出入りの遮断を言いつけるまで、騒ぎを聞きつけて集まってしまった者達もいたようだ。
リディアーヌも心はどうしようもなく急いていたが、王の寝室を前にぞろぞろと側近達が集まってざわめいているのを見ると足を止め、ゆっくりと深呼吸した。こういう時にどう対処せねばならないのかはよく知っている。
「全員、こんなところで何を無為に過ごしているの?」
だからわざとピリリと声色を引き締め叱責といっていい様子で声をかける。すぐにはっと振り返ったのは、扉の前で一人じっと口を噤んで冷静を保っていたユリタス・モードリヨンだ。アンジェリカの補佐役としてヴァレンティンから派遣していたよく見知った顔で、どうやらアンジェリカを助けて扉を固めていたようだ。とはいえまだ経験の浅い文官である。リディアーヌの声を聞くとすぐに顔を跳ね上げ、安堵したような顔を見せた。
「これは、公女殿下」
「おぉ、殿下」
「良く来てくださいました、殿下」
安堵したように口々に声をかける頼りない王の側近や重臣達を見渡す。いい年をした大人が、ただこんなところで無為に慌てふためくばかりとは情けない。
王が倒れるというのがどういうことなのか……それを知らしめる光景である。
「公女殿下……」
そんな中でも多少は落ち着いた様子で静かに扉の前に立っていた見知った顔が、焦燥よりも先にきちんと礼を尽くす。
ベランジュール公爵息殿下レアンドロ――三世王という王族傍系に当たりながら、リュシアンの侍従として籍を置いている親族である。
「レアンドロ卿、場の状況の説明を」
「このような醜態を晒し、申し訳ありません。今、陛下のお傍には殿医のほかエメローラ伯とバルテオン伯が。まだ容体の詳しいことは……」
まだ仕え始めて間もない主君の一大事である。彼らの頭が上手く回転しないことも仕方がないと言えば仕方がないのだが、揃いも揃って情けない。ハラハラと足踏みしているだけで、碌な状況説明もできないとは。
これはアンジェリカが外からの助けを求めるはずである。誰もこの場を差配できていないし、仮にも外部の人間であるはずのリディアーヌを見ても誰一人それを咎めようとさえせず、むしろ安堵しているのだ。リディアーヌにとっては都合のいいことではあるが、情けなくもある。
「王の寝室の前で無意味に騒ぐ理由は何?」
「陛下のご容体が気になるのは当然ではありませんか。皆心配して……」
「心配したところで何の役に立つというのよ。後ほどどんな指示があっても万全に受け答えられるよう、やるべき仕事をやるのが貴方達の仕事なのではなくて?」
「っ……」
じりじりと苦い顔を見合わせる老害達はともかく、王の側近達にはさすがに思う所があったのか、「仰る通りです」と消沈した顔を見せた。だが生憎と彼らはまだ、自ら何をすればいいのかの判断ができるほどではないのだ。それにはため息が零れてしまう。
リディアーヌとて、早く部屋の中へと飛び込みたいものを。
「下に集まっていた人達の監視は?」
「一応させています」
「一応? 徹底しなさい。あんな出入りの導線に放置していないで、どこかの内部屋に集めて、騒がせず、言葉を噤ませて監視を。それから文官達はすぐに経緯の聴取と精査を。事件の概要は? 混入のルートは? 原因は何? どうして何一つ報告できないの?」
「経緯でしたら、そちらのグレイシス侯爵夫人とラジェンナ嬢が……」
指摘に自分の至らなさを実感して急いているのはリュシアンの最側近達だ。だがそれも片手の指で数える程度で、いまだぼんやりと気だるげな連中は訝しむようにアンジェリカを向いてそんなことを言う。
それを見れば、アンジェリカが日頃から彼らにどういう目で見られているのかも察せられるようだった。拳を握って唇を噛みながら、それでも反論一つしないアンジェリカを見るに、こういう扱いはいつもの事なのだろう。
どうやら直接疑いを受けているわけではないようだが、いまなお本国におけるグレイシス候クロードの立場が懸念され得るものであることはそれだけでも十分に伝わり、ましてやまだ記憶にも新しい南部の反乱に関係のあるラジェンナ嬢への目はそれ以上であるようだった。
アンジェリカが脇目もふらずにラジェンナを逃がし、リディアーヌという外の人間に助けを求めてきたのも致し方ない。こんな状況では身動きもままならなかっただろう。
まったく……この皇帝戦の間、どれほどアンジェリカがベルテセーヌに貢献してきたと思っているのか。見る目のない者ばかりでため息が出る。
「貴方達は、自分の仕える主が一体どんな理由で先王子殺しの汚名と冤罪を着せられたのか、もう忘れたのかしら?」
「ッ……それ、はっ」
「分かったのなら貴方達はとっとと関係者各位の聴取と差配、それに離宮内の鎮静化、戒厳の徹底に当たりなさい! いい大人が部屋の前でおろおろ立ちすくむだけの指示待ちだなんて恥ずかしいっ。アンジェリカを見習って、何か一つでも役に立って見せる気概を見せてはいかがなの?!」
容赦なく張り上げた声に慌てふためいたようにぞろぞろと膝をついた連中に、ふぅと一つ息を吐く。
彼らが膝を着くべきは王であって、もはや外国籍となったリディアーヌではない。なのにそれさえ勘違いしてしまうような程度の意識なのだ。リュシアンも苦労する。だが大人しく言うことを聞いてくれるのであれば、今はそれでもいい。
ふんと振りかぶって彼らの間を通り抜け扉に向かったところで、こちらから扉に手をかけるより早く、声が聞こえていたのか、中からダリエルが扉を開けて顔を出した。
すっかりと青褪めた険しい面差しをしているが、そこに焦燥は無い。それだけでも最悪の自体にはなっていないことが分かるが、ツンと薬草の香りが漂えば、リディアーヌも足早に部屋の中に駆け込み一目散にベッドへ飛びついた。
「リュスっ」
すでにとっぷりと窓の外は暗くなっているが、明かりをつける手間も惜しんでいたのか、部屋の中が薄暗い。それでもわかるほどに真っ白な顔で昏睡しているリュシアンに手を伸ばすと、その額の髪を振り分け、呼吸と体温を確かめる。
随分と体が冷たい。だが額には汗が滲み、かろうじて呼吸は確認できるがぜいぜいと喉が鳴いている。それにわずかに感じる花か何かのような甘苦い匂いを感じる。
「アルセール先生」
ぱっと身を起こしてすぐに薬師である先生に場を譲ると、上着と鬘を放り出していた先生もすぐに駆け寄って来て脈を取る。
「公女殿下、そちらは……」
「教会の薬師の資格を持っておられる司教様です」
「教会の……」
「お兄様、大丈夫ですわ。アルセール司教様はリディアーヌ様達のお身内で、エティエンヌ枢機卿猊下のお弟子様です」
アンジェリカがそうダリエルに説明すると、ダリエルよりも王の枕元にいた殿医の方が「教会の緑の襟の薬師様ですか?」と期待を示した。そのことにダリエルも察した様子で、「心より感謝いたします、殿下」とリディアーヌに礼を尽くす。
「それよりも状況を説明して」
そう顔をあげた頃にはフィリックがてきぱきと部屋に明かりを入れさせており、少し部屋に明るさが戻って来た。そうされてようやくこの場にいた皆も外がすっかりと暗くなっていることに気が付いたようで、「情けないですね」とダリエルも自分の動揺を知ったように首を振った。
確かに足りないことばかりであったが、外と違い寝室内が固く守られ落ち着きを保っているのはダリエルの差配だろう。そのことは評価できる。
ダリエルはアルセールがこちらに関与することなく黙々と診察しているのを見ると、そちらを任せて新ためてこちらを向いた。




