10-13 胎動
教会側との話が上手くまとまったことは、何よりの僥倖であった。
ただ教皇側がいつ何を仕掛けて来るともしれない危機感を忘れたわけではなく、出来るだけ早く教皇側を抑え込むための場を整えねばならない。
エティエンヌ猊下側には、猊下を次期教皇に推す見返りとして早急にヴィオレットの件以外での聖女に要望する内容をまとめるよう求めたが、それについては今少し考える時間が欲しいとのことになった。リディアーヌ側も教皇の頭を挿げ替えることで守ってもらいたい安寧については、一応養父やベルテセーヌの意見も聞いてからまとめたい所である。
それに猊下方は教会内でも目立つ存在なので、あまり長く不在にして教皇側に訝しまれるわけにはいかない。特に、昨今すでにドレンツィン大司教から訝しみを受けているサンチェーリ司教には、出来る限り大司教の右腕という立場で振舞ってあちらの油断を誘う立場でいていただきたい所である。こちら側との接触は最短最低限にせねばならない。
そういう意図もあってこの日の話し合いはそのまますぐに切り上げとなり、猊下方をひそひそと青苑から出し、大聖堂へお帰しした。できる事ならば今日中にじっくり話し合い、目算もつけてしまいたい所ではあるが、何しろ猊下にとっては一世一代の賭けにもなる重大事だ。時間と慎重さを求められるのは致し方ない。
ただ何もしないには気が急くため、リディアーヌはアルセール先生を連れて皇宮城外のルゼノール家の帝都邸を訪ねると、あたかも身内で集まって談笑していますというスタンスで、フィリックやシュルトを加えて教皇失脚のための計画を詰めていった。
アンジェリカをこちらに出入りさせるのは流石に目立つため、アンジェリカにはリュシアン宛てに、聖女を生みうるベルテセーヌ王室側への情報共有と情報開示の許可を求める書簡を預けた。
リュシアンは聖女に関する問題をすべてリディアーヌの差配に任せている節があるが、ことは今後の聖女達の立場にも関わってくるものである。ベルテセーヌ王室にも文面としての許可をもらっておきたかった。
「議題は円形議場ではなく、皇宮内皇庁に帝国議事として取り上げさせる形で出したいわ」
「ええ、同意します。ことはすでに皇帝戦だけに関わる問題ではなくなっておりますし、この問題は次期皇帝陛下ではなく帝国国教と帝国の制度全般に関与しますから」
急ぎシュルトが集めてくれた今後の議会の情報を並べ、どのタイミングで差し込むべきかの案をあげて行く。
いっそどこかで教皇側がアクションを起こしてくれればそれに対する反論という形で時間をもぎ取れるが、教皇側が標的にしそうな人物が身近な人物ばかりであることを思えばそれを待つわけにもいかない。
一体どういう形で教皇側の頭を抑え込むのか、どこまで聖女の存在を誇示するのかも問題であるが、それはリディアーヌにしか判断できないことなのでこの場では話し合わなかった。だが少なくとも、議場で“原典”を開くくらいのことはすることになるだろう。それを踏まえた上で、議場はあまり広すぎない場所であることが望ましいことを注文しておいた。
「教皇聖下の目的が公女殿下を帝国の皇后であり帝国の聖女とすることなのであれば、殿下が皇后になり得ないことの証明は有効です」
「ミリムとザクセオンも巻き込むことになりますね」
アルセール先生の視線の先の指輪に自分もチラリと視線を寄越し、さすりと指先で撫でた。こんなことに巻き込んでしまうのは申し訳ない気もするけれど、でもそう言ったら彼はきっと呆れた顔でリディアーヌを叱るだろう。それが目に浮かぶものだから、つい頬を緩めてしまったところで「余計なことを考えていませんか?」とフィリックに突っ込まれてしまった。
ちょっとくらい許してもらいたいものである。
「私は、歴代ベルテセーヌ王の意図が一番気になっているわ。聖女をベルテセーヌ内部に秘匿し、権能を持たない存在にしていったのが何故なのか。それはきっと原典に書かれているんじゃないかと思うのだけれど……」
「原典を開くことなく確かめるすべはないのですか?」
「それこそ、ベルテセーヌの王の書庫をひっくり返すくらいしか手段は無いのではないかしら。さすがにそんな時間は無いわ」
フィリックとの会話に首を傾げたアルセール先生が、「お持ちの原典を開けば宜しいだけでは?」と問うたが、それにはその原典とやらに振り回されたことのあるフィリックが首を横に振り、「原典を開いている間は、外界との時間の流れた異なるのです」と説明した。
その通り、原典を開いている間は外の世界よりもはるかに速く時間が流れる。しかも一度開くと、こちらから原典を閉じるまで外との連絡も遮断される。今のこの状況ではうかうかとそんなことをしている暇はないのだ。だから推測するしかない。
少なくとも、歴代ベルテセーヌ王が皇帝戦に意欲を持たなくなっていったことと、聖女の存在が王国の聖女として秘めた存在になっていったことは傾向として比例している。あたかも必然であるようにも思えるが、別にベルテセーヌの国力が大きく変動したわけでもないのに、急に皇帝という地位から遠ざかっていったことは、昔から不思議に思っていたことであった。
ベルテセーヌから皇帝が立たなくなったのは、ベルテセーヌ十九世から二十一世にかけての時代だ。
それはかつてベルテセーヌと肩を並べるほどの権勢と色濃いベザの直系血統を誇っていたベルデラウト王朝が滅んでから数十年間のことであり、東大陸で目覚ましくクロイツェン王国と、続けてカクトゥーラやシャリンナが勃興していた時代である。
いうなれば、この帝国始まって以来もっとも大きな激動の時代であったと言える。
これにより東大陸原住民族系の国が帝国七王家の一角を占めるようになると、彼らは帝国の一員としての安堵を受ける見返りに帝国国教であるベザリウス教の布教を受け入れた。だが土俗の信仰を持っている彼らにとってのベザリウス教はただ名目上の政治的な国教制度に過ぎず、敬虔な信徒国であったベルデラウト王朝が存在していた時代に比べてはるかに信仰は減退することになった。教会がより制度的な規律を作り、かつ政治的な独立組織として再編されたのもその時期だ。
きっとその時代に、何かがあったのだ。ベルテセーヌ王が帝位から遠ざかり、聖女を一国に秘めたものへと隠してゆかねばならなかった何かが。
それはおそらく、信仰心を持たない急進的な新興国により聖女が政治的に利用される存在として利用される懸念したとも考えられ、あるいは教会内部でも信仰と聖職者の質への変化がもたらされたことでベルテセーヌと教会との間に何らかの確執が生じたと考えられないこともない。だが教会もまたそれ以後、教会内部では聖女に関する教えを絶やさず説いてきたにもかかわらず、それを東大陸に広めることをしなかった。
それはあまりにも作為的で、いっそベルテセーヌと共謀していたのではとも思わせる。
「王の書庫ではないけれど、あるいはリュシアンなら何か知っているかしら……」
父が良よ籠っていた青の館で長い幽閉時代を過ごしたリュシアンは、リディアーヌも知らぬような父の姿をよく知っていた。今まで一度もリュシアンからベルテセーヌ王と聖女の関係についての話題が出たことがないことを思えばそういうものは無かったのかと思わなくもないが、聞けば何か少しくらいは得られるであろうか。
「これ以上、何の手がかりもないままに推察するのは無理ですね。やはり情報が必要です」
「そうですね。少なくとも秘匿にまつわる動きとそういう時代があったのは確かで、クリストフ二世陛下もそれを知らないということはなかったのでしょう。となると、クリストフ二世陛下から何か聞いたことのある人はいないのかと、当たってみるのも手でしょう」
それは例えばお養父様が……叔父ヴァレンティン大公が、何か知っていないかということだろうか。
だが誰からも養父に聞けばいいではないかという率直な言葉が出ないことは、ヴァレンティン大公に期待をしていないからではなく、彼にそのことを尋ねるだけの簡単な事さえ躊躇われるほどに十五年前の出来事が彼らにとって触れ難い出来事であることを察してしまっているからなのかもしれない。
だがそうもいっていられない。
「リュスとお養父様には、私から聞くわ。できるだけ早く、時間を儲けましょう」
「ええ、お願いいたします。私も父と兄に、何か知るところはないのかと鳩を出しましょう」
そうフィリックと頷き合ったところで、バタバタ、ガタガタと何やら外でざわめきが広がるのを耳にし、ふと皆そろって扉に視線を寄越した。
すぐに誰かが飛び込んでくる様子はないが、外が妙に騒がしい。
「お客様がいらっしゃるというのに何事でしょうか。申し訳ありません、静かにさせます」
そう言って邸主の息子であるアルセール先生が席を立ち扉に手をかけたが、扉は逆にバーンッと大変な勢いで外から開かれた。
思わず扉に弾き飛ばされかけたアルセール先生が驚きに硬直して顔をひきつらせたのは仕方のない事である。
「ッ、姉上ッ……何をするんですかっ!」
「アルセール、何でそんなところに突っ立っているんだ? 危ないだろう」
「危ないのはそちらです!」
飛び込んできたのはルゼノール家の小伯爵クロレンスである。先程、「大切な話をしますから」とアルセールに部屋を追い払われてむすっと出て行ったばかりだが、さすがに痺れを切らせて突撃してきただけだなんてことはないだろう。
「クロレンス、どうしたの?」
さっと席を立って問うたリディアーヌに、「お姉様から大事な大事なお話だよ」と大股に闊歩してきたクロレンスは緩慢なふりをした様子でリディアーヌの首回りに抱き着いてみせたかと思うと、ぐっと耳元に口を寄せる。
どこぞの東大陸の色男達もびっくりするような所作なものだから周りはぎょっとしたのだが、それに何かを言うよりも早く、その口からは衝撃的な言葉が囁かれた。
「姫様、どうやらベルテセーヌの離宮で王に何かあったらしい」
パッと耳をふさいで顔を跳ね上げたリディアーヌに、クロレンスを退けようと手を伸ばしかけていたフィリックも手を止めじっとリディアーヌを窺う。だがリディアーヌは今耳にした言葉をすぐに受け入れることができず、瞬きも忘れたまま、しばし呆然と硬直してしまった。
今、クロレンスは何を言ったのだろうか。
ベルテセーヌ王? ベルテセーヌ王って……お父様……いや、違う。リュス?
何かって? まさか……。
「姫様、しっかり!」
ぱんっと頬を包んだクロレンスの手の平に、はっと顔をあげる。
じわりと伝わってくる掌の熱と、じんと痺れた頬。こちらを覗きこむ瞳に、少しずつ実感が戻って来た。
「ッ……クロレンス、どういうこと?」
「下にグレイシス侯爵夫人の使いを名乗る女性が来ている。ただ私達の知っている顔じゃなくて信じていいものか困っている。姫様に知らせてくれと叫ぶものだから伝えに来たが」
「アンジェリカの使い……」
ルゼノール家の知らない顔がいることは何ら不思議ではない。わざわざアンジェリカの使いを騙って飛び込んでくる使いがいるとは思えないし、それに今ここにリディアーヌが来ていることを知っているのは、先程顔を合わせていた聖職者達とアンジェリカだけだ。本物である可能性が高いだろう。
「すぐに会います」
話しの信憑性の高さにすぐに扉を飛び出したリディアーヌに、「何かあったらまずいから私の前に出ないで」と自ら護衛を買って出たクロレンスが急いた心地のリディアーヌを強引に諫めながら、一階のホールへと誘導する。
そのホールに顔を出した瞬間、みるみるリディアーヌの中の焦燥が膨れ上がった。
「ラジェンナ嬢!」
「ッ、公女殿下!」
ルゼノール家の者に水をもらって肩で息をしていたのは、髪を振り乱し、この寒空に目立たない侍女の装いで上着も羽織っていないラジェンナだった。アンジェリカの使いで間違いない。
急ぎ駆け寄ったついでに、メイドが手にしていた毛布をひっつかみ、自らラジェンナの肩に纏わせる。
「どういうこと、ラジェンナ嬢。先程の情報は……」
「わ、わた、し、どうしたらいいか、分からなくてっ……お助け下さいっ、公女殿下。へ、陛下が……陛下が、どっ、毒をっ」
さっと顔を青褪めさせるとともにぎゅっとその肩を握ってそれ以上の言葉を噤ませる。
いかに信頼のおける身内の邸宅とはいえ、ここには人目が多すぎる。安易に一国の王の変事を知られるわけにはいかない。
そんなことはベルテセーヌ側の誰にでも分かる事だろうに、それでもラジェンナがここへ飛び込んできたということは、おそらく毒を盛られたのはアンジェリカの目の前での事だったのだろう。アンジェリカが後先考えず何よりも早くリディアーヌに助けを求めてきたのだと分かる。
「容体はッ?!」
「わ、わかっ、わかりま、せんっ。私、すぐに、私っ……」
「大丈夫よ、ラジェンナ嬢。落ち着いて。深呼吸をして」
「ッで、ですがっ……私っ……陛下に、毒なんてっ、そんなことっ……」
あぁ、そうか。いつもは冷静な彼女が何をそんなに慌てているのかと思ったが、もしや最近侍女のような仕事が板についているラジェンナが出したお茶か何かが原因だったのだろうか。
アンジェリカが未来の義姉と慕うラジェンナを現場から遠ざけるため、周囲のベルテセーヌの側近達を頼らずラジェンナをここに寄越したのではないかという気もする。
「しっかりなさい、ラジェンナ。貴女ではないのでしょう?」
「当たり前ですっ!」
「だったらしゃんとなさい。顔を上げて、堂々となさい」
「ッ……」
心が急くのはこっちの方だ。だがそれを必死に抑え込みながら、ラジェンナの顔をあげさせる。今にも走り出したい衝動を抑え込む代わりに拳が震える。
「ここまで歩いてきたの? 馬車は使っていない?」
「う、馬を。離宮の厩から」
「誰かに見られた可能性はあるわね。シュルト」
「はい。目撃証言、噂、広まり、諸々集めるよう指示します」
「それからフィリック、すぐに馬車を」
「騒ぎになっていないとも限りませんが、直通なさるつもりですか?」
そう眉をひそめたフィリックの胸ぐらをつかむと、ぎゅっと引き寄せる。それに一瞬目を瞬かせたフィリックだったが、何か察したのか、されるがままに身を屈めてくれる。
「リュスが毒を盛られたらしいわ。容態不明。内部の混乱が酷いかもしれないわ」
「……」
こそこそと囁いた内容に一つ眉をしかめたフィリックは、「なるほど」と呟くとしばし難しい顔のまま黙り込んだ。それからすぐにクルリと振り返ると、じっと佇んでいるアルセール先生に目を止めた。
「アルセール司教、同行を願います」
「フィリック?」
「情報の真偽はまだ分かりませんが、ラジェンナ嬢の様子を見る限りまったく何もなかったわけではないのでしょう。“緑の襟”を連れて行けば役に立つかと」
「……」
「……私を何だと思っているのか。ひどい扱いですね」
アルセール先生が呆れた顔になるのも当然だ。いかに身内とはいえすでに司教という高位聖職者階級にあられる御仁に対し、なんとも雑な物言いである。
だがそんなことには慣れた様子で、「理由は分かりませんが」とアルセール先生は助祭の持って来たローブをさっさと羽織った。
「私がお役に立つのであれば、お供いたしますよ」
「……えぇ、そうですね。お願いします、アルセール先生」
背に腹は代えられまい。教会の薬師は外の医師と比べても扱う薬の量がはるかに多く、毒の類にもとても詳しい。それはリディアーヌも以前、教会で薬学を学んだらしい青の傭兵のセーラの手腕でよく知った。今は誰よりもその存在が頼もしい。
「姫様、どうする? 忍んだ方がいいなら町の辻馬車を装って送り届けるよ」
クロレンスはそう提案してくれたが、それには首を横に振った。下手に偽装した方が怪しいし、ましてや外の者をベルテセーヌ離宮に入れたとなると、余計に焦って方々から薬師を呼び寄せているかのように思われなくもない。それよりはヴァレンティンの紋章を掲げて堂々と入った方がマシである。ヴァレンティンがベルテセーヌと懇意であることは周知なのだから、後からどうとでも言い訳も聞く。
「構いません。ただアルセール先生はできれば姿を見られないでいただきたいわ」
「いいものがある」
リディアーヌの要望にはクロレンスがなぜか嬉々として侍女を部屋に駆けて行かせた。
一体何が出て来るのかと不安を覚えていたのはアルセールばかりではないだろう。案の定、戻って来た侍女が手にしていたものを見たアルセールは頭を抱える破目になった。
「姉上……なんでそんなものを持っているんです?」
「姫様のお忍び変装用に揃えていたんだ。君は男にしては華奢だし、聖職者の服はビラビラしているから、これで誤魔化せるんじゃないか?」
そういうクロレンスが広げて見せたのはロングストレートの薄茶色の鬘と、大きな花柄の刺繍とベルベットのリボンがついた外套だった。
カントリーテイスト、かつ若い女性向けの色合いがアルセール先生をさらに悩ませているようだが……正直、悩んでいる時間がもったいない。
「フィリック」
「承知しました」
声をかけただけで理解したらしいフィリックがクロレンスの手からぱっと鬘を受け取りアルセールの頭に押し付け、上着をドンと胸に押し付ける。
憐みを誘う苦渋の面差しが長い髪の下でこちらを窺う。その恨めしそうな眼差しが可憐すぎて、思わずリディアーヌも言葉を無くしてごふんごふんっと咳払いで誤魔化した。
似合いすぎだ。三十路過ぎのいい年したおじさんなはずなのに……可愛すぎる。これは絶対に、エティエンヌ猊下の懐刀、冷艶にして清貧な真面目な聖職者には見えない。禁欲的な聖職者達の中に放り込んだがまず間違いなく事件が起きるに違いない。
「お、お……お、おに、おに、あい、ですっ……先生」
「ッ、公女殿下ッ」
怒ると余計に可愛らしい。どうしたものか。
「ほら、まったくっ。早く行きますよ! 急ぐんですよね?!」
「は、いっ」
今なお肩を揺らすリディアーヌに、まったく、とアルセール先生はらしくもない悪態を沢山ついていたけれど、そのおかげか否か、少しだけ、急いたように張りつめていた感情が和らいでくれた。
アルセール先生は偉大である。




