10-12 猊下と密約(3)
「先生の言わんとしていることは分かりました。確かに私は、歴代のベルテセーヌ王が秘してきた聖女とはすでに大きく違ってしまっています。聖女を理由に狂言自殺までしましたし、現ベルテセーヌ王は元夫で、今の私は選帝侯家の選帝伯で、大公家の跡取り。まったく、言葉にすればするほど、歴代の王達が頭を抱えてしまいそうな目立ち過ぎた状況です」
「公女殿下」
再びアルセールが窘めるように声をかけたが、別に自虐しているつもりは無い。なので「だからといって今更遠慮なんてしませんが」と笑って見せた。
とはいえ、歴代と随分と違う立場であるのは確かだ。叶うことなら歴代同様、あまり表には出ずに聖女の特異性というものを秘めたまま静かにその存在を墓の下に戻してしまいたかった。
だがそうは出来ないのだ。それを実感させられた。
クリストフ二世は、もういないのだから――。
「私はヴァレンティン家に聖女が生まれることを慣例にする気はありません。ですから今後の聖女の在り方はベルテセーヌに一任するつもりですし、二度と私のような、皇帝を選ぶ側の聖女を生ませて混乱を煽るようなことにはしたくないと思っています」
それには次の世代、そのまた次の世代へと政略を強いねばならないが、王侯たるもの、そんなものは大したことではない。
濃いベルベット家の血を引くフレデリクとて、理解してくれることを願っている。
「けれどもしかしたらこれはチャンスなのかもしれません」
もしも教皇聖下に、以前の皇帝戦時から聖女に関する過ぎたる構想があったのだとしたら、父の死後、リディアーヌがヴァレンティンを選んだことはむしろ幸いだったというべきなのかもしれない。
もしもリュシアンの妃のまま皇帝戦に挑んでいたなら、リュシアンは聖女の夫として、リディアーヌもまた聖女として、絶大な教会からの支持を以て今度こそベルテセーヌから皇帝を立てることになっていたかもしれない。だがそれは教皇聖下が望む、聖女皇后制の復古、ひいては教会勢力の大規模拡張に繋がり、リディアーヌは帝国と教会の狭間で身動きを失っていたかもしれない。
だがそうはならなかった。リディアーヌには、帝国の聖女という立場を拒絶できる選帝侯家という後ろ盾と、黙って帝国に取り込まれないだけの力、すなわち選帝伯という身分を得た。
あるいはそれは、教皇聖下にとって一番の想定外な出来事だったかもしれない。
「先生の仰ることにも一理あります。もしベルテセーヌのユリウス一世陛下が皇帝になったとしても、陛下との縁を断っている私は皇帝によって秘匿することを許されるベルテセーヌ王室の聖女ではありません。ならばもしこの皇帝戦を乗り切ったところで、私は永遠に聖下との駆け引きからは逃れられないということですよね?」
「そうなりますね」
「ふぅ……まったく。聖女制をこの皇帝戦に引きずり出す原因となった人のことを、重ね重ね深く恨みますわ」
頭に過ぎったのはヴィオレットだが、厳密にいえばそれは教皇聖下のせいでもあり、アルトゥールのせいでもあり、ある意味で今のベルテセーヌ王のせいでもあるのだろう。そして多分、自分のせいでもあるのだからどうしようもない。
この皇帝戦が終わりでないのだとしたら、たとえかつて実の父が聖女を秘匿することを望み、そのためにリディアーヌを皇帝戦から遠ざけていたのだとしても、なおもその呪縛の中にいるわけにはいかない。
決着をつけるのだとしたら、それはきっと今だ。
だがそのためには、それを望む者達にも相応の対価と補償を求めるべきではなかろうか。
「いいでしょう。分かりましたわ、先生。それが私の安寧へと繋がるのなら」
その返事には、アルセール先生よりもエティエンヌ猊下の面差しの方がぱっと華やいだ。
聖女の立ち位置の曖昧さにより現状と聖下に煩わされていたのは、教会本庁の聖職者達の要を担う一人である猊下にとっても頭の痛い問題だったのだろう。かといって聖女相手に軽々しく要求を突きつけることもできない。そんな板挟みだったのかもしれない。
そんな悩みをこうして容易く解消するのだから、アルセール先生が愛弟子として鍾愛されるのも当然である。
だが油断するにはまだ早い。
「ですから、エティエンヌ猊下。猊下もまたこの皇帝戦を期に、教皇聖下となられますことを私に誓ってくださいませ」
「……は……?」
さすがにこれには驚嘆が勝ったのか、まん丸に目を見開いて硬直した猊下に、サンチェーリ司教もバチバチと目を瞬かせ、困惑気な視線を向けた。
すでにエティエンヌ猊下にその野心があることは皆承知していただろうが、教会にとって別格の存在である聖女に真正面からそんなことを言われて困惑するのは当然である。
しかも現教皇聖下の帰天を待たずして、この皇帝戦をきっかけにという無茶な条件だ。それに混乱するのは当然だった。
だが撤回はしない。ましてや言い間違えの類などでもない。猊下には、現教皇聖下を引きずり落し、その座を継いでもらわねばならない。それが、聖女の威によって教会に秩序をもたらすことの見返りだ。
「……公女殿下は、ご自分の発言が教会においてどれほど重たい意味を持つのか、理解した上でそう仰っておられるのでしょうか」
「勿論です。今までは打算として、ヴァレンティンとして、猊下が教皇の座を狙うバックアップをすることが望ましいとの立場でした。けれどこれは私個人、聖女リディアーヌとしての要請です」
「……っ」
「私は、もし今、聖職者達を抑え込む抑止力を得たとしても、次も、また次も、聖女がそれを利用されない聖女であり続けられると自惚れるほど楽観主義ではありません。いつ失敗する聖女が現れるのか、あるいはいつそれを利用する教皇が現れるのか。私の理想はあくまでも“王国の聖女”であり、それが瓦解しかねない最初の原因になどなりたくありません。
だからこれが私の出す必須の条件です。猊下、貴方は全教会の指導者としてこれから私が行うことを全力で後世の記述から抹消し、再び聖女が一国の中に秘匿された、なんら特異ではないいち王女の称号としてあり続けられるよう、持てる力のすべてをもって協力してください。聖女が神威を借りるのはこの一度きりです。私は二度と聖女を帝国に引きずり出さないと確約してくれる教皇がいなければ、そのやり方を承認することはできません」
「っ……」
それがどれほど重要かつ難しい事なのか、分からないわけではないだろう。
ごくりと息を呑んで顔を歪める猊下の反応はもっともで、だがそれと天秤にかけ得るほどに、今の聖下のやり方に不満を抱く次期教皇候補としての利益も大きいはずだ。ましてや聖女がそれを手助けすると言っているのだ。簡単には断れまい。
その決断は、果たして早かったのか、遅かったのか。長いようで短いピリピリとした緊張感のある空気は、やがてゆっくりと零れ落ちた猊下の吐息によって切り裂かれ、やがて呼吸を引き締めたエティエンヌ猊下は席を立ち、その場に深々と膝を着いて首を垂れた。
教皇に次ぐ枢機卿という地位を持つ者がなすべき所作ではない。だがそれを黙って受け入れたリディアーヌは、椅子に腰かけたままそれを受け入れる。
「すべては神々の愛し子、聖女殿下の御心のままに。愚僕エティエンヌ、及ばずながらその意に適うべく、この白き御旗の下で御為に生涯を捧げることをお誓いします」
それは、教会における最も厳格で、そして古い作法であった。それゆえにそれだけの覚悟を見て取ると、リディアーヌもまた彼らの求めに応じる意を込め、揃えた指でトン、トンと両肩を叩き、額に手を添え、「敬虔なる神の徒エティエンヌに聖女の寵愛を」という宣誓を受け入れる言葉で礼に答えた。
今となってはベルテセーヌ王即位の場でしか為さない所作だが、古くは皇帝即位においても行われていた古い作法である。それが教会にも受け継がれていたことを今初めて知った。
リディアーヌが何ら迷いなくそれに答えられたことに、感涙したように沈黙し震えていた猊下も、やがて覚悟の決まった顔を持ち上げた。
なんとも頼もしい面差しではないか。
「こんな古い作法が教会に伝えられていただなんて、知りませんでしたわ」
「私に大聖堂大書庫の私が閲覧しうる本で目を通していないものは一つもありません」
「そういえば猊下はアルセール先生の師なのでしたね……」
呆れるほどそっくりだ、という意を込めてそう口にすると、ニッと猊下の口元にも笑みが浮かんだ。これまでの形作られたような聖職者の笑みとは違う、実に世俗的で野心的ないい笑みである。
そんな様子をただパチパチと目を瞬かせてみていたサンチェーリ司教は、やがて「これは何とも……まいりましたね」と、ようやくついて出てくれたらしい言葉を呟いた。
「知らず知らず、とんでもないことに巻き込まれてしまったようです」
「いいじゃないですか、お師匠様。私達としてもエティエンヌ猊下にそうなっていただいた方が、ずっと過ごしやすくなります。いっそこの場で共犯者に名乗りを上げて、ドレンツィン大司教の職を請うてはどうですか?」
「これっ、フィレンツィオ!」
もれなくとんだ師匠の叱責にもめげない助祭に、猊下も呆れた顔で苦笑した。
だが実質、いわずとも巻き込まれたも同然だ。元より教皇方についている現ドレンツィン大司教は、教皇と共に引きずり落す対象になり得る。フィレンツィオもそれを分かっているのだろう。とはいえ、この危ういやり取りには元教師であるアルセールがもれなくあからさまにため息を吐いた。実に聖職者らしくない歯に物着せぬ教え子の様子に、悩ましさが募っているようだ。
「これで貴殿も一蓮托生ですわね、司教様」
「うちの馬鹿弟子については後でどうにかするとして……しかし私も覚悟を決めました。望むところでございます」
何やら憐みも募ったが、大変良い答えである。エティエンヌ猊下もこれに深く頷いた。
「とはいえ殿下、私とて何の理由もなく聖下を弾劾することはできません。どうなさるおつもりか」
「まぁ……その気になれば聖職者の頭のすげ替えくらい聖女には容易いのですが」
「……」
「……」
あぁ、いかん。さすがに聖職者達にどん引かれたか。ぐふんごふんっ。
だが実際のところ、それは神々にかわゆい末っ子みたいなものらしい聖女のお願いを聞いてもらって、『教皇を罷免しろ』と騒いでいただけばいいのでは、なんて暴論が最初に過ぎったのは事実である。
そんなことを言ったら敬虔な聖職者達が青褪めて『不敬でございます』と狂乱しそうなので、あくまでも最終手段として秘めておくが、いざとなれば使えなくはない手段である。
「一応、思い当たる手段はいくつかあります。聖下が聖女として承認したヴィオレット妃が盗品である聖女の鍵を持っていることも理由にできますし、あるいはこのまま黙って引き下がるということも無いでしょうから、精々それを利用するのも手でしょう。幸い、そういうのは専門分野です」
「そんな専門分野は聞いたことがありませんよ」
教え子達の暴論が過ぎることに頭を抱え始めているアルセール先生がすかさずそう突っ込んだが、あえてのただの事実である。やりようはいくらでもあるのだという意味だ。
「ひとまず、情報をまとめて計画を練る時間が必要ですね。それからどういう形で聖下の口を噤ませるのか……その辺りはうちの者達とも話し合わせていただきたいです」
「勿論でございます。ただ、そう時間はかけられませんが」
「承知しています。今日明日中には方針に目途をつけてしまいたいですね」
リディアーヌはすでに内外にマクシミリアンという特別な存在を得たことを知らしめた。それはリディアーヌに対して皇后などという構想を吹聴した教皇聖下にとって挑発と受け取られる行為であろう。だからきっと聖下が何かをしでかすのだとしたらそう遠くない未来であり、何日も待っていられることではないはずだ。
リディアーヌとしても真に皇帝戦に集中するためには早いところ教会関連の混乱に決着をつけたい。それは早ければ早いほどいい。
「私の方も、教会と聖女様との関係性についてはしばし時間をいただき、じっくりと考えたいところです。ただそれに先立ちまして、公女殿下……殿下により“次期教皇”に推された身として、先んじて一つ、是非聞き届けていただきたい願いがあるのですが」
すっかり考え込んでいたところに、少し言い辛そうに、だがこの機会を逃してなるものかとばかりにエティエンヌ猊下が口を開く。
「遠慮はいりません。私に可能なことなのでしたら、何でも仰ってください」
「では恐れながら、公女殿下。殿下はヴィオレット妃殿下を厄介者として教会に押し込めることで帝国政務上の秩序の平安としたいようでございますが、私としましてはそのような厄介な種、まったく欲しくないので止めていただきたい」
「……ふぉ?」
思わず変な声が出た。
いや、まぁ、そりゃあ……ええ、まぁ。でもヴィオレットを欲したのは教会で……。
いや、うん、そりゃあそういう人達もいるというだけだが、でもヴィオレットは教会に押し込んでおかないと色々と面倒くさ……ごふんっ。
「……ッッ。い、っいや、それは、そのっ……」
分かっている。勿論分かっている。
確かに教会に押し付けようとしたのは事実で、しかもまったくよく考えもせずに、『面倒だから教会にでも押し込んでおけばいいや』などと適当に考えていたのだから、それを真正面から指摘されるのは何とも恥ずかしい。
使徒ヴィオレットをクロイツェンとの取引の一端として欲しているのは、あくまでも教皇派閥の一部の聖職者だ。今それに反する形で協力を仰いでいるリディアーヌが、すっかりさっぱり忘れた様子で、帝国の聖女制を受け入れないと言う傍ら、でも厄介者の使徒ヴィオレットは教会が引き取ってね、というスタンスでいることは、確かに矛盾である。
リディアーヌにとって都合のいい、とっても都合のいい矛盾である。
「……も、申し訳ありません」
だから思わず羞恥に顔を染めながら素直に謝罪を口にしたら、「もしかして今更気が付いたんですか?」とフィレンツィオにたっぷりと笑われてしまった。
仰る通りである。反論の一つも思いつかない。
「まぁ実際問題、それで教会がクロイツェン一国と強固な結びつきに成ることへの懸念もありますね。私は公女殿下が妃殿下の教会入りを支持していると聞いて、何か妙案でもあるのかと思っていましたが……まさか無策の、ただの厄介払いだったとは」
「もう言わないでください、アルセール先生……」
反省しました。とってもしましたから。
「わぁ……リディアーヌ様でもこんな風に失策なさることってあるんですね」
「お黙り、アンジェリカ」
でもなんか色々と悔しいのでアンジェリカの口だけは噤ませておく。
「その件も含め、公女殿下にはどうか、個人の方針とは関係のない教会自体に対する安寧へのお協力もお願いしたいのです。どうか、聞き届けていただきたい……“聖女殿下”」
エティエンヌ猊下の言葉に一つ深い吐息をこぼしたリディアーヌは、よく理解しましたとばかりに手を挙げ、深く頷いた。
どうやら今少し、自分はこの問題についても真剣に考えるべきであるようだ。




