10-8 宣戦布告(1)
マクシミリアンの逃亡劇は、皇宮の空気を一気に塗り替えるだけの大事件となった。
さすがにどうやって逃げ出したのかは禁事棟内での出来事とあって噂にはならずに済んだが、何やら妙にザクセオンがざわつき緊張が走っていることは伝わり、そのザクセオン離宮に第二公子がやって来たらしいという噂と相俟って、姿の見えない第一公子の行方に関する憶測も一気に広まったのだ。おそらく年末年始の件と、リディアーヌの薬指に増えている装飾品の存在もその話題に関する噂を増幅させたのではないかと思う。
極めつけに、選帝侯議会棟でペトロネッラ様がヴァレンティンの政務室に突撃した事実と、急ぎ駆けつけたザクセオン大公がしばらくヴァレンティン大公と何やら個室に籠って話し込んでいたなんて情報も、これに拍車をかけた。何しろ真っ向から対立するベルテセーヌ派とクロイツェン派という二大派閥が、周囲から人を遠ざけじっくり話し込んでいたのである。何事だろうかと騒ぎになるのは当然だった。
だが当の本人ときたら、排他的な空間であるべき皇宮のヴァレンティン離宮で「居心地がいい」だなんて顔をほころばせてすっかり我が家のように寛いでいるのだから、呆れた顔になるのも仕方がなかった。
まあそこが彼のいい所なのだけれど。
「ただ噂に振り回されている一部の間で、公子殿下の死亡説や大怪我説、はたまたヴァレンティンによる拉致監禁説まで囁かれています。これはどうにかすべきかと」
「無論、このまま二票を手に転がり込んで終わりなどというつもりはありません」
本人を余所に話し込んでいるフィリックとライナルト卿に、目下『姫様はそこでその人の面倒を見ておいてください』と追いやられ中のリディアーヌは一つ吐息をこぼしながら横目に彼らを見やった。
主に対する扱いが雑であるが、フィリックのその言葉はおそらくヴァレンティンに移籍を希望しているライナルト卿がどれほど文官として使えるのかを測りたいという意図なのだろうから、口を挟みたいのを我慢して傍観に徹している。同じく口を挟まずに寛ぎきっているマクシミリアンさんの意図は……よく分からないけれど。
「こちらが一番不本意とするのはヴァレンティンに迷惑をかける事です。噂の払拭と、同時に公子様が健全であることを噂という形で周知させるのは如何でしょうか」
「噂で、ですか? 公式的な公表にはしないと」
「計画の変更を余儀なくされ、大公閣下からの了承を得られませんでした。そこを無視してしまっては、ヴァレンティン大公閣下に多大な迷惑をかけることになります」
「なるほど」
すでにフィリックの中にはこうと思っている動きの目安があるだろうに、素知らぬふりで言葉を引き出させているのだから、何やら誘導尋問みたいでキリキリする。もっと分かりやすく素直に話し合えばいいものを、どうしてフィリックは何かと人を試すような物言いをするのだろうか。大変申し訳ない。
「姫様は明後日からはすでに予定が詰まっております。使えるのは明日一日だけ。どのように対処するのが良いと考えますか?」
「明日、一日……?」
あのう、フィリックさん。姫様はそもそも明後日からの予定とやらを何も聞いていないんですが、何のお話しでしょうか……なんて呆気に取られていたら、マクスがそっと一枚の紙を差し入れてくれた。
見たところ清書もされていないメモ書きに近いもののようだが、一枚の紙にマクスの弖で予定候補の羅列と、そこにびっしりとフィリックの弖による赤が入っていた。どうやらフィリックの中ではすでに主の予定候補が出来上がっているようである。
色々と突っ込みたいが、突っ込む間がない。
「明日一日、公女殿下のご予定を頂けるのでしたら、公子様と連れ立って良好であることを内外に知らせる目的にご協力いただけると有難いですね。ただ急遽明日といって人を招くのは難しいことです。可能なのはせいぜい公女殿下のお仕事に公子様を同行させ、人目に付かせることくらいでしょうか」
「悪くはありませんが、仕事に同行させるのであれば姫様ではなく大公様にである方が、ヴァレンティンが公認していることを知らしめるのには良いでしょう」
「え」
思わずのんびりと寛いでいたマクシミリアンが顔を跳ね上げた。どうやら主に無断で主の予定を決めるのはこちらも一緒だったようで、よもやヴァレンティン大公に連れまわされ扱き使われるという未来は想定していなかったようである。
しかも鬼なうちの文官の提案に彼の文官もまた目を輝かせ、「それは願ってもない事です」などと主の切実な視線も無視して了承するものだから、マクシミリアンの顔がひくりと歪んだ。ご愁傷様である。
「ただうちの大公様の仕事は選帝侯議会棟の中だけ。大変遺憾ながら、出歩いても精々議会棟内の議場だけという大変な引きこもりでいらっしゃいます……内向きへの周知には十分ですが、外向きへのアピールには頼りなさしかありません」
「ではやはり早い段階で茶話会の類を設けるべきでしょうか」
「ええ、そうですね。幸いうちの姫様には声をかければ即時駆けつけてくれるような都合のいい……失礼。大変仲の良い女性方もいらっしゃいます。すぐに招待状を出しましょう」
「でしたら私はすぐに場所の確保を。邪魔されにくく、しかしそれなりに人目には付いた方がいいでしょうから……茶議棟本棟では如何でしょう」
「良いでしょう」
何やら予定は決まったようである。
深く頷いたフィリックの顔を見るに、ライナルト卿は合格したようだ。
「で?」
そろそろ口をはさんでもいいだろうかと短い言葉で伺ったら、すぐにフィリックがこちらを向いた。
「ということで、明日は午後より茶会を催していただくことになりました。姫様が今から声をかけて集まっていただけそうなリストと、即時招待状の準備をお願いします」
「言ってくれるわね、フィリック。そんな相手、アンジェリカとコランティーヌ夫人とアンナベル妃とナディアとルゼノール家くらいしか思い当たらないわよ」
「いや、多いんだけど」
思わずマクシミリアンに突っ込まれたところで、コホンとひとつ咳払いした。
王侯たるもの、招待状というのは数日前、少なくとも二日、三日前くらいまでには出しておくのが基本である。慌ただしい皇帝戦の最中であっても、さすがに国外の相応の身分の相手に対して『明日来てください』は失礼だ。
だがいざ口にしてみたところで、予定さえ合えば喜んで来てくれそうな顔がポンポンと浮かんでしまったのだ。自分でもちょっと驚いた。
「では姫様、今挙げたご面々に加えて、アルセール司教のお供にご学友の助祭殿にも招待状を出してください。女性ばかりでは公子殿下も居心地が悪いでしょうから」
「……フィリック、貴方まさか“ルゼノール家”の中にアルセール先生を入れているの?」
「何か問題でも?」
リディアーヌとしてはこちらに来ているであろうアレクサンドラ女伯か、その女伯が先だって会議の前にクロレンス小伯爵も来ると言っていたからもしクロレンスがいるならそちらをというつもりでルゼノール家とひとまとめにしたつもりだった。それが何故すでに家を出て聖職者枠に入っているアルセール先生になったのか。親戚だからって扱いが雑過ぎではあるまいか。
「何の集まりかよく分からない集まりになりそうね……」
「そういえばクロレンスは今日、皇宮に入ったそうですよ」
「……混沌とした集まりになりそうね」
「この数十分で、うちのライナーはまだ優しかったんだなと実感したよ」
「ご安心を、公子殿下。ヴァレンティンの教育方針は徹底しております。すぐに育てて見せますので」
「いや、やめてくれる?」
思わず即答したマクシミリアンに、ケーリックが遠い目をしながら憐みたっぷりに微笑んだ。早くもうちの子の洗礼が始まっているようである。
これはもしかしたら、昨日突然リディアーヌが何の相談もなくザクセオンの公子様を離宮に寄越したことへの反撃なのだろうか。何の前触れもなかった点については悪かったと思うが、致し方のない事だったのだから許してもらいたいものである。
結論。今年もうちの側近は平常運転で手厳しい。
◇◇◇
翌朝には、急な招きであったにもかかわらず、招待状に対する『喜んで』という返事が結構な数出揃った。さすがに皆、会期が始まってすぐの忙しい時期ともあって予定が詰まっているのではと思っていたのだが、『せめてもう一日早くご連絡を頂けましたら、噂の真偽を知るべく喜んで駆けつけましたのに』という恨みがましいナディアの返事を含め一つ二つの不出席の手紙があった他は、ほとんどが快諾だった。
特に今回も忙しく社交にいそしんでいるはずのコランティーヌ夫人なんかはダメもとで出した手紙だったのだが、アンジェリカといい勝負で即時出席の返事があった。おそらく周囲も一日にして広まった噂の真偽を知りたく、特に目的も何も書いていない急なリディアーヌからの招きに情報収集の機会を察したのだろう。
少し遅れてアンナベル妃とヘルミーネ妃からも出席の連絡があり、かと思うと何故か今朝方、選帝侯議会棟に顔を出したところで「どうして私を誘ってくれないんだ!」と飛んできたダグナブリク公がご夫婦での出席を表明……というか、自己申告なさった。
これには開け放たれた扉の先にいた養父もリディアーヌも、ついでにマクシミリアンも皆そろってポカンとしてしまい、もれなくお養父様が奇声を発するに至ったのだが……そのお養父様のおかげでなんとか閣下ご本人にはご遠慮を願うことができた。
後ろから夫を追いかけてきて、この惨状に大変申し訳なさそうに頭を下げているパラメア妃が何とも憐れで、「宜しければお誘いさせてください」と申し出たのは必然であった。
おかげさまで、慌ただしく四半日でお茶会の準備をせねばならない侍女や侍従達が大わらわである。選帝侯閣下の出席は見送られたものの、リディアーヌの同格、あるいは格上にもなり得るパラメア妃の出席は想定外だった。
「もっと細々と催してか細い噂になるくらいを狙っていたはずなのですが……」
「皇宮で最も注目を集めている噂の真偽を探る機会ですからね。どこから噂が漏れたのでしょうが、今少し慎重になるべきでしたね」
そう教師のように苦笑して言い諭すのはアルセール先生であり、書架棟での仕事をしている最中、沢山の本を抱えて返却と、新しい貸し出しにいらっしゃったところに遭遇した。
先生いわく、皇宮に来る機会は中々ないので、こちらにいる間に気になっていた本をすべて読みつくすつもりらしい。余裕たっぷり過ぎである。
「しかし私はともかく、何故姉上を招きにいれたのですか?」
「……それはフィリックに聞いて下さい」
「あの子も学生時代はもう少し素直で可愛かったと思うのですが……一体どこで教育を間違えてしまったのか」
「フィリックをどうにかするには、まず鬼畜な彼の兄をどうにかしないといけません」
「それは確かに、私ではどうしようも致しかねますね」
アルセール先生にとってアセルマン家の末っ子フィリックは教え子だが、マドリックはカレッジ時代の先輩、パトリックは後輩という、二人の間の世代に当たる。特にマドリックはアルセールの兄クロヴィスの同級で、学生時代には色々と……それはもう色々とあったという噂を聞く。アルセールもさすがに“マドリック先輩”についてはどうしようもないようだ。
そんな世間話をしながら本の背表紙を辿っていたアルセールは、「あぁ、これだ」と本を一つ引き抜いた。
「たしかこの論集の中で、クロイツェン六世陛下時代の編年誤謬について触れられていたはずですよ。本題とは関係のない内容の一部の短い箇所ですが、参考出典に良いかと」
「助かります、司教様。今日はこの辺りの書架担当の者が不在で」
ついてきていた司書が、「司書顔負けですね」と恥ずかしそうに笑いながら本を受け取る。
何故司書よりこの書庫に詳しいのかが不思議でたまらないが、先生いわく、「教会で司書免許も取っていますし、この辺は教会の書庫にも写しがありますから」とのことだった。まったく……薬師資格に司書免許、それでいて司教という教会高位聖職者の資格も得ているのだから、何と多才なのか。他にも聞けばボロボロと出てきそうな先生である。
「それにしても、公女殿下が史書編纂の責任者をやっていらしたとは。確かに学生時代から、文章力や情報整理には人一倍抜きんでていらっしゃいましたからね。適任です」
「先生に言われると嬉しいですわね」
「実際に公女殿下のおかげで、大変良いスペースで編纂が進んでおりますよ」
マリジット卿がそう笑顔で付け足してくれるので、ちょっぴりと恥ずかしくて肩をすくめた。やはりアルセールは先生という感覚が強いので、仕事を評価されるのは気恥ずかしい。
「私も完成を楽しみにしております。ただフィリック卿は、公女殿下がお好きな仕事にばかり没頭して大公閣下のような社交嫌いにならないかと心配していましたよ」
「いつうちの子とそんな話をしたのか知りませんが、フィリックには是非とも、私が前半戦中にこなした社交の数を見直してもらいたいものですね」
「ふふっ、なるほど。それは頼もしい事です」
「それにそういうご指摘は私よりクロレンス姉様にしてくださいませ」
「いえ、その役目は義兄上が婿入って下さった時点で喜んで手放しました」
「……先生」
まぁすでに家を出ている先生にその必要性は無いのだが、何やら聖職者スマイルの向こうにその本心を窺った気がした。
私はせめて、この先生に見限られない程度には頑張ろうと思う。
***
そうこうして本を選んで去っていった先生を見送り、しばらく書架棟での仕事に没頭すると、今日は早めに切り上げ簡単な昼食と身支度を済ませ、急ぎマーサ達に任せてある茶議棟に向かった。
想定外に人数は増えたが、幸いライナルト卿が茶議棟本棟の最も広い庭に面した大広間を確保してきてくれたおかげで、沢山のイスとテーブルが並んだところで狭苦しさはちっともない。
今朝のあれこれで席次にも変更があったので、マクスやクラウス卿とともに客人を招く席の最終確認もしていった。
机は大きな丸テーブルを選んだ。一つに八人まで腰かけられる。主催はリディアーヌとマクシミリアンの二人。同じ席には身分の高い者から選んで招くのが一般的なので、選帝侯妃のパラメア妃と、元王女で現王子妃であるヘルミーネ妃は外せない。それにアンナベルが夫婦での参加を希望したので、ウィクトル公子を含むヘイツブルグ公子夫妻。残り二枠には影響力を考慮したコランティーヌ夫人と、男性友人枠ということでフィレンツィオを選んだ。
アンジェリカは元王子の夫人であり比較的高い立場に置き得るのだが、身内枠ということで別の机をお任せした。どうせいっぱいの紅茶が空になる頃には皆親しくしている方のいる席へと思い思いに移動するだろうから、あくまでも予定としての座席である。
「にしても、ルゼノール家の出席が多すぎない?」
「ミリム、気のせいよ。ルゼノールの姓を冠しているのはこの中でクロレンス姉様だけよ」
「うん……まぁそうなんだけど」
マクシミリアンの言う通り、婿に行ったクロヴィス卿や聖職者になったアルセール先生含め、ルゼノール家からは三姉弟がそろい踏みである。というかクロヴィス卿にまで声をかけたつもりは無かったのだが、ちゃっかり噂を聞きつけ、姉クロレンスのエスコートという名目で参加を表明してきたのだから、これはまず間違いなく噂の真偽を知りたいエッフェル候の意図が介在している。
道理で、このささやかだったはずのお茶会の規模が膨れ上がったわけである。噂の根源はこの辺の姉弟な気がする。
そんな面倒臭いルゼノール姉弟は全員ひっくるめて一つのテーブルに配置した。高位聖職者であり上座に招かれるべきアルセール先生を身内枠に入れ別の机に配置したのは、中々顔を合わせられない姉弟に配慮をしてあげただけなのであって、決して姉兄の面倒を見てもらうべく厄介払いをしたわけではない。断じてない。
「あとはヴァレンティンやベルテセーヌの身内がほとんどよ。このダリエル卿はアンジェリカの異母兄ね」
「ユリウス陛下の文官だよね?」
「ええ。こっちのレアンドロ卿もリュシアンの侍従だけれど、ベルテセーヌ王室の分家筋で、うちのマドリックの義理の兄に当たるわ。私とも縁戚ね」
「そう言えばマドリック卿の夫人はベルテセーヌ王室出身だと紹介を受けたね。なるほど……ここでも繋がっているのか」
座席表を見ながらこれはこういう人、と説明をして、一通り覚えてもらう。
ヴァレンティンに入るとなると、ベルテセーヌとの関係は必須だ。この場はそういうベルテセーヌの重要人物の顔をマクシミリアンに覚えてもらう意図も孕んでいるようで、フィリックがラインナップした招待名簿は実によくそれを表していた。
大事にしないよう国王陛下ご本人に声をかけるようなことはしなかったが、一方でリディアーヌの元には、招かれていないことに関するチクチクとした嫌味が書き綴られたアルトゥールからの分厚い手紙が届いていた。『どうせミリムはそこにいるんだろう』という類の恨み言もたっぷり書かれていたので、どうやら宛名が間違っていたらしいと判断しマクシミリアン宛ての手紙の山に押し込んで置いたのだが、あれは一体どうなったのだろう。
そんなことを考えている内にも鐘が鳴り、段々と客人が入り始めた。




