10-7 公子様、逃走す(2)
「つまりミリム、貴方は今現在、帰る家がないということね?」
「うん。だから泊めて、リディ」
いや、まぁ。うん。仕方がないけれど。でも皇帝戦の真っただ中、一応は対立的な立場柄、こうも平然と他所の選帝侯家に『泊めて』だなんて軽々しくお願いできるこの状況は何といったらいいのか。思わず言葉を失ったのは仕方のない事である。
「まぁ……その。ええ、分かったわ。マシェロン伯はどうなさるの?」
「さすがに私までヴァレンティン選帝侯家に転がり込むのは不味いでしょう。私は今後ともザクセオンに仕えて生きてゆくわけですから」
そりゃあそうだ。
「私は大丈夫です。公子様の逃亡の手引きのためここまで着いてきましたが、幸い私がこちら側とはまだバレておりませんし、早いところアルブレヒト公子殿下の元に転がり込んで匿っていただきます」
「それがいいわね。ただこの禁事棟付の連中は皆どこかしら息がかかっていたりして信用ならないわ。リオは……こちらで何とかするとして」
ビクリと脅えた顔をしたリオには悪いが、彼女はクロイツェン側と誼の深いオランジェル候に縁のある立場だ。生憎と放っておくわけにはいかない。
「ここから出るのには、禁事棟付騎士のフィンツ卿を頼ってちょうだい」
「確か、以前もここでお目にかかりましたね」
「うちと縁があって、一番融通を利かせてくれる可能性のある人物よ。禁事棟への出入りについても上手く改竄してくれるでしょう」
「公女殿下は大層な手駒を禁事棟内に飼っていらっしゃるのですね……」
「身内がいたのは偶然だけれど。でもそうね……もしかしたらそう差配したのは、とある閣下の娘婿として飼われているふりをしながら暗躍している身内のおかげかもしれないわね」
「彼か……」
マクシミリアンはすぐにルゼノール家出身のクロヴィスのことが思い当たったらしく、納得したようだった。同時に、そんな風にどこからか送り込まれた息のかかった者達がこの禁事棟には他にもゴロゴロしているということが察せられたのではないかと思う。
「やっぱり、もう少しタイミングは見計らいたかったな……」
「仕方がないわ。いえ、むしろよく無傷で逃げられたものだわと感心するわ」
そんな話をしている内にも、コンコンと静やかに扉を叩く音がした。どうやらレヴェイヨン候が無事に務めを果たし、パトリックを寄越してくれたらしい。
パトリックはこちらの議場でセトーナ派の選議卿達と昨今のリンテン問題に関する話し合いなどしていたはずだが、随分と早かった。あるいは仕事を中断させてしまったのではないかとも思ったが、入室してきたパトリックはすぐにも「ちょうどキリのついたところでした」と言ってくれた。
「しかしこれはまた……うちの大公様が暴れ出しそうなことになっていますね」
「だからいっそのこと、ザクセオン大公閣下を出し抜きました、みたいな顔をして堂々とうちに連れて帰るのはどうかしら」
「構いませんが、その場合はその場合で、うちの弟がチクチクとお小言を言いそうですね」
「……」
どっちがマシか……ぐうっ。
「やぁ、なんかごめんね、リディ」
「……まぁ、いいわ。遅かれ早かれ、お小言は貰っていたでしょうし。あれはもうお姑さんみたいなものだから」
いつぞやマドリックが言っていたその言葉が実にしっくりと来る。
「それで、パトリック。ここから上手く抜け出す方法は?」
「正々堂々、真正面から馬車で出て行くのが一番安全でしょう。我々は常日頃東棟か選帝侯議会棟との渡り通路から禁事棟に出入りしていますので、東棟の正面玄関から馬車で出入りすることはほとんどありません。外に監視の目があったとしても禁事棟の敷地内に入れるのは選議卿と禁事棟付の者だけなので、塀の内側で馬車に乗り込んでしまえば手出しもできません。ただし……」
「不味いのは禁事棟内を横断して東棟の正面玄関にたどり着くまでにラルカンジュ候に捕まることね」
「ところで姫様。レヴェイヨン候が何やらうちの個室に大変危なっかしい隠し扉があったと申していましたが」
「あー……」
いかにも……ございます。やっぱり養父とアセルマン家くらいには話しておいた方が良かっただろうか。
「ただ扉の先はこの先、四階の塔屋に出入りする階段の隠し扉なんだ。一階か二階の階段の隠し扉に通じている。そこから部屋を出られたとしても、どちらにせよ渡り廊下を経由しないと東棟には行けないな」
冷静に知らんぷりをするマクシミリアンの言葉には、パトリックも今は隠し扉のことは置いておくことを認めたのか、一つため息をついてから「なるほど」と頷いた。
「でしたら公子殿下には意表をついて、緊急避難経路で東棟に入ってもらいましょう。多少危険ですが……大丈夫ですよね?」
「緊急」「避難」「経路?」
三者三様にキョトンとしていると、おもむろに立ち上がりツカツカと窓の方へ歩いて行くパトリックに、必然的に皆も席を立ってそれを追った。
この部屋は禁事棟本棟の中でも東向きで、ちょうど窓の外には東棟と、斜め下に東棟への渡り廊下が見下ろせる。渡り廊下は一階と二階にしかないので、ここから見えるのは二階廊下部分の屋根である。
「まぁ、そんなに急勾配な屋根でもありませんし、落ちはしないでしょう」
「……」
「……」
「……ちょっと待って、パトリック。貴方まさか、あの屋根の上をテクテク歩いて東棟に渡れと言っているの?」
「いえ、無事にあの屋根の上に着地さえできれば、渡り廊下の窓から中に入れます。一番手前と一番奥の窓が開いていることはここから確認できますし、窓への飛び込み方は……まぁ、桟が出ているので何とかなるかと。なので歩く必要はありません」
「あ、あな、あな……た」
だ、駄目だ。驚きすぎて言葉にならない。
「いやぁ……さすがに私も、屋根の上に乗ったことはないなぁ」
当たり前である。あったらあったでその方が驚く。
「ですが屋根の上になんて、どうやって行くんです?」
マシェロン伯が妙に冷静なのは何故だろう。もっと驚くべきだと思うのだが。
「貴方方しか知らない隠し扉があったように、このヴァレンティン個室からも奥の共用休憩室に通じている隠し扉があります。その休憩室の窓から飛び降りていただければ」
「何を言っているのッ?! パトリックっっ!」
あぁ、やっぱりこの人、アセルマン家の人だわ。それを今ものすごく実感した。
悩ましい顔でじっと窓の外の渡り廊下を見ながら、「飛び降りる……飛び降りるかぁ」と考え込んでいるマクシミリアンさんもどうかと思うが、いくら何でも飛び降りるって。無茶ぶりが過ぎやしまいか。
「問題があるようでしたらロープくらいは用意しますが」
「いや、このくらいの高さと勾配なら何とか……」
いけるんですかっ?!
「なら問題ありませんね」
「……」
うん。もう何も言うまい。放っておこう。それがいい。それしかない。
「屋根の上に着地したら、すぐ窓から渡り廊下の中に入って下さい。さすがに屋根の上でうろうろしていたら外を巡回する騎士に見つかるでしょうから」
「そっちの方が難易度高そうなんだけど……うん、まぁやってみるよ」
「その間、姫様はこの本棟に顔を出して、きっとそこらへんをうろうろしていらっしゃるであろうラルカンジュ候の足止めを。程よい所で声を掛けますので、その後速やかに本棟から選帝侯議会棟側へ出てください。馬車の方はレヴェイヨン候に出ていただいて、そのまま選帝侯議会棟で姫様を拾うよう指示してありますので、公子殿下は東棟に入ったらレヴェイヨン候と共に馬車にお願いします」
「……もう何でもいいわ。好きにして」
ついに投げやりになったところで、「最後までちゃんと聞いてください」と文句を言われた。はいはい。
「で。パトリックはどうするの?」
「私は今しばらくここで……後始末をしてまいります」
そうチラリとリオを向いたパトリックに、巻き込まれたメイドの顔がゾッと青褪めた。
あぁ……もう、なんだか言葉がない。
「馬車はすでに呼ばせてありますから……あぁ、すでに塀の外に見えますね。すぐに行動開始です。マシェロン伯はしばらくこちらにお残りください。程よいところでこちらと既知にしている騎士を隠し扉の先の出口に呼びますので、その後はそちらの指示通りに」
「了解した」
奔放とはいえ一応自国の大事な公子様であるマクシミリアンに「どうかご無事にたどり着けますよう」と肩に手をつき真摯に願ったマシェロン伯に、マクシミリアンも一つ苦笑し、ポンとその肩を叩いて「レヒトを頼む」と言いおき、パトリックの後を追った。
ところで、ヴァレンティンの個室のどこかから奥の休憩室に向かう扉だなんてリディアーヌは知らないのだが。この件については後ほど、養父によくよく聞いておくことにしよう。
そうして二人を見送った先で、マシェロン伯にしばらくリオの監視をお願いし、リディアーヌもぱっと身支度を整えて部屋を出た。
パトリックはあまりにも簡単に足止めを命じてきたけれど、これはこれでなかなか大変な仕事なのではないかと思う。案の定、ヴァレンティンの個室の扉を開けたところですぐに階段の前で見張っていたらしいザクセオン付きの騎士に視線で追いかけられ、そのまま階段を二階に降りるとすかさずラルカンジュ候がバッと振り返った。上も下も、逃げ場もない布陣である。
「これは、ラルカンジュ候……こんなところで、どうかなさいましたか?」
「驚かせて申し訳ありません、公女殿下。実は……うちの公子様が行方不明になっておりまして」
じっと探るようにこちらを見据えてくる瞳に、少しばかり息をのむ。
「貴方達、この辺りでマクシミリアン公子を見たかしら?」
「いえ」
折よく巡回で三階から降りてきた騎士に声をかけてみたが、当然、マクシミリアンは隠し通路以外で三階に顔を出したわけではないのだから、騎士も当然とばかりに否定した。そのことは彼だけでなく、ザクセオンの個室の前に立っていた騎士も同じ意見なはずである。
「そういえばその公子様、先日からこの方ちっとも見かけませんけれど。どうなさったんですか?」
ラルカンジュ候には、三階の休憩室や二階の渡り廊下に意識を向けられると困る。そのどちらもに面していないこのホールに足止めすべく、世間話を装って質問を投げかける。
「どこで何をしていたのかと言われると、あるいは公女殿下の方がお詳しいのではありませんか?」
「もしかして年末年始のことを仰っていらっしゃいます? お言葉ですが、突然予定外の青札が国境を越えて驚いたのはこちらの方でしてよ。知っていれば吹雪の中を騎竜でフラフラいらっしゃっる公子殿下を竜車で拾うくらいはさせましたわ」
「……いや、それは。その」
そこは誤解してもらっては困る。
「それにこちらからはすぐに手厚く送り返させていただきました。すぐに帰国したはずですけれど、違うのですか?」
「……送り返した、ですか」
「ええ。飛竜を飛ばしてルインまで」
嘘は言っていない。少々時期的には誤魔化した物言いをしているが。
「生憎と公子様がザクセオンの土を踏んだとは聞いていませんね」
「よほどお国許のお姉様が怖いのかしら。今帰ったら何を言われるかと、随分脅えていたようだけれど」
「それは……はは。まぁ、私からは何とも申し上げられませんね」
ラルカンジュ候は日頃から落ち着いた雰囲気の紳士で、一見ペトロネッラ様に振り回されているのではと思われかねないところ、実際には上手くその手綱を取っており、ザクセオン大公にも婿であることとは関係なく重用されているやり手である。
今もまるで子供を相手にするような余裕のある態度を思わせていて、決して言葉を威圧的にすることも無い。それがかえってやりにくくもあり、しかし相手がそのつもりならリディアーヌも同じ温度で接するまでである。
それにこれは、あるいはいい機会かもしれない。たしかにペトロネッラ様は何が何でも実の弟を次期大公に据えたい派閥だろうが、実のところラルカンジュ候がどちらかなのかというとよく分からない。彼がマクシミリアンをどう思っているのかは聞いたことが無く、それを知るには今しかないように思う。
「ラルカンジュ候、いい機会ですから少し、お伺いしたいのですけれど」
「一体何を聞かれるのか。公女殿下は他人を話しに丸め込むのがお得意と聞いていますから、怖いのですがね」
一体誰がそんなことを言ったのやら。
「マクシミリアン公子ではなく、私の友人であるミリムについてお伺いしますわ。貴殿はペトロネッラ様と同様に、ミリムを次期大公に思っているということで良いのでしょうか?」
「困りましたね。いかに友人を名乗られたとしても、これはザクセオン国内の問題です。それを公女殿下にお話しするのは如何かと」
「まぁそうでしょうね。では言い方を変えます。貴方はミリムの、お姉様に抱く感情についてを一度でも聞いたことがありますか?」
スンと表情を消して静かに黙りこくったラルカンジュ候に、リディアーヌもじっとそれを見つめる。表情からは何かを読ませてくれる様子はない。
「参りましたね。そういう聞かれ方をすると……何とも」
「聞いたことはないけれど知っている、といったところでしょうか」
「ご容赦願えませんか。これでも私は妻には誠実でありたいと願っているのです」
「ペトロネッラ様はとても怖い方ですものね」
「可愛い人です」
お、おう。即座に否定された。あのペトロネッラ様を可愛い人と言えるこの人もすごいのだが、こうなると余計な話題は薮を突くだけだろうか。
「ミリムはペトロネッラ様最愛の弟君でしょう? 嫉妬なんてなさいませんの?」
「ははっ。とんでもない。公子殿下は妻の大切な弟ですよ。私もそう思っております」
「奥様の可愛い、お人形だと?」
「……」
うむ、この挑発は割ときいたか。
その言葉が気に障るということは、少なからずそう思うことはあったのだろう。もしもそうだとしたら……それでもなお妻のためにマクシミリアンを人形扱いするこの人は、リディアーヌにとっての明確な敵である。
思わず冷え冷えとした胸の内が表情にも表れたところで、一瞬、タジッとラルカンジュ候が顔を歪めたのを見た。少しくらいは罪悪感を感じているのだろうか。
「ミリムは自由な人ですわ。それこそ学生時代から、品行方正という言葉と同じほどに奔放で、私に色々な遊びを教えてくれた人です。昔はどうしてそんなにも自由でいられるものかと不思議でしたけれど、今となっては、きっと抑圧からの反動で磨いたものなのだろうと思うばかりです」
「……」
「ラルカンジュ候、今貴方は逃走中のミリムを追いかけ、取っ捕まえようとなさっているようですけれど……その前に今一度、胸に手を当ててよく考えてみてはいかがですか? 何故彼がお姉様の思い通りにならず、身内であるはずの貴方達から逃げ回っているのか。どうして貴方達を頼ることをしないのか。貴方達は一度でも、彼から何かを頼られたことがあって?」
「……なんとも……手厳しいお言葉ですね、公女殿下」
「もしもミリムが貴方達ではなく私に助けを求めてくることがあったなら、私は迷いなくその手を取るわ。彼は私を薄暗い悲しみの底から引きあげてくれた……同じ痛みを知る、大切な人だもの」
もしもその意味が分からないのだとしたら、彼はマクシミリアンの義兄を名乗る資格はない。彼の姉は、姉である資格はないのだと思う。
姉弟? 肉親? それがどうした。そんなもの、忘れてもいいと思えるほどに私が愛してあげればいいだけだ。養父がそうしてくれたように、私が家族になってあげたらいい。彼が教えてくれたように、同じだけこの手に包み込んで守ってあげたらいいだけだ。
「どうぞペトロネッラ様にお伝えください。どうして貴女の弟が貴女から逃げ回るのか。どうしてヴァレンティンを愛おしむのか。それを少しでも考えたことがありますか? と。それでも納得がいかないのであれば、どうぞ、いつでもいらしてくださいませ。受けて立ちますわ。まぁ、負ける気は微塵もいたしませんけれど」
「……彼女にとっては、命よりも大切な……大切な、大切な、弟君ですよ」
「自分の言うがままにならないのならば、花瓶を投げつけ、縛り付けて閉じ込めてしまえばいいなどと思うのが“大切”の意味ならば、可哀想に……ミリムはよほど窮屈な思いをして生きてこねばならなかったのでしょうね」
「……」
ラルカンジュ候が黙りこくったところで、どこかでヒヒンと馬の戦慄きが聞こえた。
ちょうど階段の上からパトリックが顔を出し、「まだこんなところにいらしたんですか? 姫様」などと退席のタイミングをくれた。どうやらマクシミリアンは無事に落下することなく渡り廊下を乗り越え、馬車に飛び込めたようである。
たださすがに人目に付いたのか、階下から慌てて駆け込んできた騎士がラルカンジュ候に目をやり、かつこの状況に口を噤んでゴモゴモとたじろぎながら耳打ちをした。
「ミリムの選択が、貴方の耳にも届いたようですね、ラルカンジュ候」
「……一体、何をどうしたのか。やってくれましたね、公女殿下」
「言いがかりはおやめくださいませ。私はずっと部屋に。その後は貴殿と一緒でしたわ」
「……ええ、そうですね」
「姫様」
「分かっているわ、パトリック。お養父様がお待ちなのよね」
そんな予定はないが養父の威を借りる形でラルカンジュ候の言葉を噤ませ、「それでは私は失礼いたします」とその隣を通り過ぎた。
呼び止める声は無い。
無いことは幸いだったけれど……同時に、その程度の本気なのかと、胸が痛む思いでもあった。
彼はいつもカラカラと笑って平気な顔をしていたけれど、これまで長い間、一体どれほどの痛みを抱え、諦め、落胆してきたのだろうか。
あぁ、彼に会いたい。会って、抱きしめて、かつて彼がそうしてくれたのと同じほどにたっぷりと甘やかして、「貴方の好きなようにしていいのよ」と言ってあげたい。
私はそうやって、亡き王女に課せられていた枷から救ってもらったのだから。




