1-30 神問の儀(3)
side アンジェリカ
「ふぅ……アンジェリカ嬢に会いに来ただけが……散々だわ、まったく」
「……」
クルリとこちらを向いたその人の眼差しにはもう険はなく、ただアンジェリカの怯えた顔に気が付いたのか、一つ深い吐息をこぼして「貴女に怒っているんじゃないわ」と言った。
一体どうして、そんなにも冷静でいられるのだろうか。
私だったら、もっと喚き散らして当たり散らして、そして泣き腫らしながら誰かにすがったことだろう。じゃないとこんな可哀想な自分、耐えられない。
「アンジェリカ嬢。貴女に聞きたいことはただ一つよ。本当はクロード殿下をどう思っているのかも聞きたかったのだえけれど、どうやらそれはもう聞く必要がなさそうだから」
「っ」
ぽっと頬に熱が籠る。その顔に、聖女様は少し呆れたような……少し、眩しいような。そんな様子で目を細めた。
「だからもう一つだけ。貴女は、ベルテセーヌを愛してくれる?」
「ベルテ、セーヌ……を?」
「ええ。先王クリストフ二世が愛し、王妃アンネマリーが慈しんだ国。亡きエドゥアール王子とリディアーヌ王女が生涯、懐かしみ、愛おしんだ故郷を」
「……聖女様は……帰るつもりが、無いんですね」
「今もベルテセーヌは私の愛しい故国よ。でもそこはもう、私の故郷じゃない。私を絶望に追い込み、あの国を捨てさせたのはシャルルよ」
「国王様……」
「どう? アンジェリカ。そこは決して楽しいばかりの場所ではなく、優しいだけの世界でもないわ。でもそこで、王室の一員として生きていく覚悟がある?」
覚悟? そんなもの、あるはずがない。
私は田舎で、騎士爵なんてつまらない物に縋り続けるみじめな元女官に育てられた、ただの村娘。どんなにか後から色々な権力を着せられようとも、私はそこにいるさほど年も変わらないはずの元王女のような威厳も気位も持ち合わせていないし、先ほどの大聖堂でだって、自分の言葉の一つすら伝えることもできなかった臆病者だ。
私が欲しいのはクロードという人の愛だけで、正直国になんてものにも興味がない。当然、ベルテセーヌ王国に愛着なんて持っていないし、そもそも国を愛するって何? 税が軽くて毎日おいしいものが食べられて綺麗な服を着られれば、そこが天国ってものじゃない。
だからそんなことを言われても、覚悟だなんて。
「ある、わ……」
あぁ、私。何を言っているの。
嘘つきで、見栄っ張りで、負けず嫌いで、考え無し。思ってもいないくせに、空気に流されて、こんなこと。
「ある。いえ、国がどうとかだなんて、正直分からないわよ。分かるはずないじゃない。でも、クロード様の傍にいられるなら……あの人の助けになれるなら、私、何だってできるわ」
「……アンジェリカ。貴女は少し、幼なすぎるわね」
「分かってる。自分が未熟なことも。多分、これ以上賢くなれないことも。でもだからって私を信じて待っている人を放り出して、貴女にすがって、助けて、私聖女じゃないの、怖いから私が逃げるのを手伝って、なんて言えるはずないじゃない。私は……」
そう。私は馬鹿でどうしようもない、ただの村育ちの女の子。
でもそんな私が、おそらく目の前のこの人よりたった一つだけ誇れるものがある。
きっと彼女から見れば、とても愚かで浅ましいもの。
「私は、クロード様を愛しているの」
何物にも代えがたい、ただ一つの、私の宿り木。失いたくない人――。
私は“ヴィオレット”とは違う。
彼がどんなに情けなくて頼りなくて、間違ったことを平気でしてしまうような人であったとしても、それも含めてアンジェリカにとっての“可愛い人”だ。間違えることに恐怖を抱きながらも懸命に生きるその人を眩しくと思うし、私が助けてあげたいと思う。たとえそれが困難な道で、進む道が暗いものであったとしても、目の前の人の心から目を背け、無慈悲に放り出し、一人楽な方へと逃げ出したりなんてしない。
そんな危うい欠点も含め、私は彼を愛しているのだから。
「貴女、いい子ね、アンジェリカ。クロード王子が靡くはずだわ」
「なっっ」
「誉めているのよ?」
ほ、本当かしら……嘘くさい。
「聖女と偽り続けるのは、貴女にとっても困難なことよ。教会はきっと貴女を疑い続けるでしょうし、何かしてこない保証だって無い」
「分かってるわ。大体今だって自分の力でどうにかできないのに、これからもどうにかできるとは思ってない」
「ひとまず“今”については心配いらないわ」
「……え?」
そういえば……この人。なんでこんなところに、いるんだっけ?
「アンジェリカ。貴女がそうと決めたのならば、貴女が聖女となれるよう、私が手を貸すわ。でも勘違いしないで。私が貴女に手を貸すのは、この一度きり。二度目は貴女が、貴女自身が、貴女とクロードを守りなさい。私にそこまで手をかしてあげる義理はないわ」
「っ……どう、して。どうして貴女が、そんなこと。私が聖女でいないと、自分が連れ帰られるから? 神様達への意趣返し?!」
「随分と発想の大胆な子ね……その辺は噂通りだわ」
ちょっと呆れた顔をして見せた聖女は、カチャカチャと何やら上着の下に着こんでいたベルトから小瓶と筒のようなものを取りはずし、開いたままの聖典の上に並べ始めた。完全にただの机扱いだ……聖典も黙りこくってしまっているではないか。
「質問に答えてあげると、その通り、“あなたが聖女にならないと私が困るから”よ」
「どうして……?」
「後ほどとくとシャルルとクロードにも語っていただきたいのだけれど。貴方達、馬鹿にも程があるわよ。ブランディーヌ夫人の面倒臭さを知らないわけじゃないでしょう? なのに娘を公衆の面前で婚約破棄しておいて国外追放だなんて、逆恨みして謀叛を起こしてくださいと言っているようなものじゃないの。自覚はあるのかしら?」
「クロード様は……何とかなさる、と」
「何とかなっていたら今こんな苦労をしていないわよ」
キュポンと小瓶を開いて、筒から取り出した細い筆のようなものでネリネリと練る聖女が、「もう時間も押しているから作業をしながら話しましょう」と、筆をこちらに向けた。
一体何をされるのかと引き下がろうとしたら、「聖痕を聖水で光るように細工するわ」と言われた。
な、なにそれ……ズルっこじゃんっ!
「ひゃっっ」
「冷たいでしょうけど我慢してちょうだい。ていうか、暗いわね……ちょっとこの聖典の傍にしゃがんでもらえるかしら? ええ、そう。これで見えるわ」
神託の光を蝋燭代わりに用いる聖女……この人に勝てる気、全然しないわ……。
「神様の云々はこの際おいておくとして、ベルテセーヌが聖女という言葉に過敏になっているのは先ほども言った通り、即位式のためよ。貴女が国許でどんな風に歴史を習っているのか知らないけれど、私が知る真実で言えば、オリオール候は先王崩御後、真っ先にシャルルに尻尾を振った裏切り者で、国王シャルルは私のお兄様の王太子位を一方的に簒奪した卑劣な王よ。シャルルに邪魔者として殺される可能性があったから、私とお兄様は母方の叔父であるヴァレンティン大公にひそかにベルテセーヌから助け出され、亡命したの」
「え……あ、あの……」
「どうせ国ではシャルルを正統化して教えてるのでしょうけれど、これは大人なら皆が知っている事実よ」
私は、現王は幼い王子が成人するまでの中継ぎだったけれど、王子の方が両親の死に怯えて勝手にヴァレンティンに行ってそのまま帰ってこなかったため、仕方なく現王が王位に就いたのだと習った。どっちが正しいかなんて……いや。これは聞くだけ無駄なこと。本当は、薄々分かっていた。ベルテセーヌの貴族社会において、先王の王子女の話はタブーとされているのだから。
「両親の死後すぐに私達はヴァレンティンに引き取られたから、現王の即位式に私は参列していない。どういうことか分かるかしら?」
「……現国王陛下は、聖女の即位式を行っていない」
「ええ。当時は私は六歳だったから、別に私が意図したわけじゃないわよ。でも教会にしてみれば、聖女が認めなかった王だと、王を叩く格好の理由になっているのよ。教会は元々エドゥアール王子派……私のお兄様を王にしたがっていたから」
「教会と王様の仲が悪いのは聞いていました……」
「それを打破するために、シャルルは私を自分の息子の妃に迎えて聖女を国に取り戻そうとしたのだけれど、結局それも不意になって、私は今度こそあの国を見限ってリディアーヌ王女を書類の上で“殺した”わ。皇帝陛下と教皇聖下が承認したことだから、これにはベルテセーヌ教会も表立って反論は出来ない」
もうすでに頭のキャパを越えそうなのだけれど、そうと分かっているのか、少し口を噤んだ聖女はアンジェリカに頭の中を整理する時間をくれた。
それからコクリと頷いて、話の続きを求める。
「そして今一番大事なのは、これが皇帝陛下が承認したこと、という点よ。現皇帝クロイツェン七世は、先の皇帝戦の折に私の父クリストフ二世と皇帝位を争った人物よ。暗殺事件さえなければ、帝位に就いていたのはクリストフ二世だったでしょうね」
「え……先王ってそんなにすごい人だったんですか?」
「すごい人? ふふっ。まぁすごい人かどうかと皇帝に選ばれるかどうかはまたちょっと違うけれど」
うん? よく分らない。まぁ、私には聞いても分からない話だ。
「このベザ帝国はベザリウス教を国教としていて、皇帝選定には教会も大きくかかわっているわ。そして帝位は、教皇聖下によって授けられる。だからこれまでも皇帝戦において、“聖女を有している国”というのは、教会派の選帝侯家が理由なく推戴する理由になり得ていて、ベルテセーヌの王にとって大きなアドバンテージだったの。そして当時のクリストフ二世にもまた、聖女リディアーヌという娘がいた。逆に言うなら、クロイツェン七世にとって私ほど邪魔な存在はいなかったことになるわ」
「なんとなく……分かりました」
「だから私が二度目にベルテセーヌを離れ、王女としての自分を抹消して欲しいと願うことは、次世代も自分の身内から皇帝を輩出したい今の皇帝にとって願ってもない申し出だった」
「そんなことで、王女の死を偽装したってことですか?」
「“そんなこと”が、私達王侯にはこの上なく大事なことなのよ」
「あ……ご、ごめんなさい」
素直に謝ったところで、まぁいいわ、という聖女が最後の一筆を入れて、よし、と手を離した。見た目は特に変わりがないから、何がどうなったのかもよく分らない。
ほら、と差し出されたハンカチに、その真っ白なハンカチにインクが付かないだろうかと戸惑いながら、恐る恐るインクの上を抑えてみる。あぁ、大丈夫だ。インクはあっという間に乾いたようだ。
「つまり、今更私がベルテセーヌに戻って聖女を名乗ったら、私は間違いなく皇帝陛下に“殺される”わ。もう暗殺にはうんざりよ」
「ッ……」
な、なんてことっ。人を油断させておいて、最後の最後でこの人ッ……。
だってそれって……それってつまりッ、“ベルテセーヌの聖女”になったら、内部だけじゃなく外部からも命を狙われるってこと?!
「とういうわけだから、いいわね? 神様。貴方達は貴方達の愛し子である私が死の脅威にさらされぬよう、この偽の聖女を大事にベルテセーヌで祀らせなさい。心配せずとも、ベザの王の即位式が途絶えぬよう、今後のことは私も考えておくわ。ただ簒奪者であるシャルルをそれにするつもりはない。しばらくの王の不在は許してちょうだい」
『理解した』
『愛し子に祝福を』
「り、理解しないで!」
「まぁ、頑張りなさい、アンジェリカ。私は私の為に、貴女が末永く元気で頑張ってくれることを願っているわ」
「貴女、聖女だなんて嘘っぱちねッ。こ、こんなことっ」
「聖女? 誤解しないでちょうだい」
カコンと瓶の蓋をした聖女……公女は、ちっとも優しくなんてない、しかし引き込まれそうなほどに魅力的な瞳で、クスリと妖艶に笑った。
「私は、ヴァレンティン大公家の公女。愛するヴァレンティンのためなら命だって惜しまない。私はただ、私を絶望させたベルテセーヌに命を懸けることをやめただけよ」
「ッ……」
あぁ……そうだ。まったく間違っていない。
この人は自分の中にちゃんと一つの芯を持っていて、そのためならば、どんなに非道なことであっても目を瞑れる人なんだ。
いつぞやの偽善ぶった侯爵令嬢なんかとは全然違う。この人が私を助けてくれるのは自分のため。そしてヴァレンティンのため。その助けにおごらずベルテセーヌで生きていくのは……それは、私の切り開くべきこと。
「貴女と話せて……良かった。リディアーヌ公女」
「貴女、まだ王太子妃じゃなくて、ただの王太子の許嫁でしょう? 公の場では敬語を。それから私のことは公女殿下と敬称を付けて呼びなさい。今後は容赦なく指摘させてもらうわよ」
「……」
やっぱりこの人……ちょっと、嫌いかもしれない。
ピロリンッ――。
『これまでのシナリオがリセットされました』
『偽わりの聖女<第一章>
正聖女リディアーヌに従って、聖女であることの証を立てましょう。このシナリオを選択しますか?
①はい ②いいえ』
この人には敵わない。
敵わない以上、このダイアログのシナリオとやらは、もしかしたら破滅へのシナリオなのかもしれない。
これはこの人がくれた、少しばかりの延命措置だ。
でもそれでも、もう少し……もう少しだけ、あの人と一緒にいられるならば――。
ピロロンッ!
『<はい>を選択しました――どうぞ頑張ってください』